本日は時間を分けて三話連続更新します。
このお話は三話更新の一話目です。
◆ ◆
切り裂かれたのは麦わら帽子だけだった。
銀閃。音のない稲妻が迸り、煌めく刃が逃げ遅れた帽子だけを真っ二つにした。
「——っ、ちゃ——」
風に吹かれてどこぞへと転がっていく麦わら帽子の残骸には一瞥もくれず、軋識は
——強い。
幾合打ちあって、軋識の抱いた確信だった。
眼前の敵——三十三間堂一振。未だ若年の、しかも本人が語るところによればつい最近まで一般人だったような素人とはとてもではないが思えない、圧倒的な技量。
(いや、技量、ではないか)
思考を修正する。一振の刀の扱いは、決して上手いものとは言えないだろう。刀の構えだって、洗練されているとは言い難い。刀よりバットを持つ方が、よほど様になるだろう。だがしかし、それでも。
ほんの一瞬、閃いた刃と、そこに乗せられた殺意の鋭さ。
それは熟練の剣士を遥かに凌ぐ、軋識の命に届きかねない一撃だった。
——天性のセンス。
そう言う他にない。経験によって磨いた技量ではなく、生まれ持ったセンスによって、この男は軋識が肝を冷やすほどの致死の一撃を、初陣も同然でありながら繰り出したのだ。
「……なかなか、やるようだっちゃね」
釘バットの柄を握り直しながら、軋識は言う。彼の信仰の象徴、総鉛製の釘バット——
総鉛製の釘バット。空芯構造というわけでもない、重鈍な金属の塊。振るい切れば、その重みは遠心力の助けとなって速度と破壊力を増させるけれど——しかしその振るい始め。釘バットを振るう、その動きだしは——どう足掻いても遅くなる。
純粋に、物理学的に。それだけの重さのものを動かそうとするのならば、その最初の力の加わりは、どうしたって遅くなってしまう。
だからこそ、軋識のバトルスタイルは、どちらかと言えばカウンター狙い——相手の攻撃を耐え、強烈な一撃で反撃する。そのような形に寄りがちだ。
しかし——
(この速度の刀相手に、そりゃあ無茶な話だ)
先手を譲れば、そのまま切られて終わるだろう。
それがわかるからこそ——迂闊には踏み込めない。
帽子を失い、遮るものがなくなって、燦々と照る日差しが、軋識の肌を焼いていく。たらりと、額に汗が、伝った。
「どうした。動きが止まっているぞ」
刀を構えたまま、一振はそう言って顎をしゃくる。軋識はあえて笑みを浮かべた。
「ばーか、止めてやってんだっちゃ。おめーの剣速じゃ、どうやら俺の帽子を斬るくらいが精一杯みたいだから——」
な、と。
言い切るよりも前に——軋識は全力で首を引く。直後——通り過ぎる、音を断つ旋風。
喉元に、一条。赤い線が、引かれる。
「——おや、動きを止めてくれているんじゃなかったのか?」
一振は小首を傾げて言う。軋識は今度こそ、口を噤むしかなかった。
切られたのは、薄皮一枚。薄皮一枚ではあるが——あと一歩遅ければ、それは
「……っちゃ」
首にかけたタオルが、半ばから裂かれていた。煩わしくて、軋識はそれを首から外し、乱暴に投げ捨てた。そして、代わりのように、
強い。
わかっていたことだ。わかっていたことだが、再確認する。
刃を操るセンス。それも十分に脅威だが、真の脅威は——躊躇いのなさ。
機を見るに敏。隙とあらば、即座に切り込む、その判断の迅速さ。ともすれば、あるいは、それは戦闘者と言うよりも、競技者として磨かれた観察眼の賜物なのかもしれない。バッターとして、迫り来るボールが
体を、武器を、自在に操る天性のセンスに加え、隙を見切る観察眼。スポーツを通して鍛え上げられたフィジカルと、何より若さも考えれば、プロのプレイヤーの中でも上澄みと言える実力だろう。
「まったく、たまらないっちゃね——」
軋識は息を吐いた。
立てられる作戦は一つだけだ。
肉を切らせて——骨を断つ。
犠牲なしに、この局面は突破できない。
あるいはもっと時間をかけていいならば、別の手段もありはするのだろうけれど——
(気になるのは)
自分がこうして戦っているのは、
『狙撃手』の一件から続く、連続しているのかいないのかさえもわからない奇妙な戦争。これがもし、その一環であるのだとしたら。一環と言えてしまうのだとしたら——果たして。
刺客が訪れているのは、自分のところにだけなのか?
あるいは、軋識が向かおうとする先——零崎常識のセーフハウスにも、それが訪れてないと言えるだろうか。
言い切ることが、できるだろうか——
(——仮にもし、これがなんらかの作為によるものだったとしても、だ……リルに限って、下手を打つということはないだろうが)
しかし——それでも。
万が一はある。
あるいは自分がかつて、その心臓に打ち込まれた拳のように——
だからこそ。
「早いこと、片付けちまわねーとな——っちゃ」
それでも、蒼には程遠い。
「——
雄叫びをあげ、進撃する。釘バット、
「やぶれかぶれの突撃か。愚か!」
断じ、刀を振おうとして、けれど一振は目を見開く。
白——眼前に広がったのはそれだった。
それは先ほど、軋識が投げ捨てたタオルだった。地面に転がっていたそれを、軋識は器用にも足で掬い、跳ね上げることで即席の目眩しとしたのだ。
「だが——甘い!」
視界を潰されようとも、攻撃の軌道は予測できる。
たとえ残虐に釘が打たれていようとも、
「零崎軋識、討ち取ったり!」
確信し、一振は刀を振るって——
「ご」
がん——と。
凄まじい衝撃が、顔面に突き抜ける。
「な——あ?」
バキバキと、骨の砕ける音が、頭の内側から聞こえてくる。鼻がへし折れたどころではない。前歯や頬骨。あるいはそれらを支えるような重要な骨が、まとめて砕かれた。それを、感じる。
けれど——
「あり得ん」
間違いなく、軋識があの釘バットを振るうよりも前に、自分は刀を振るったはずだ。なのになぜ、自分の方が先に攻撃を受けている——攻撃を?
そこでようやく、一振はそれを認識した。自分の顔面を
一振の顔面、その中心に突き刺さったのは——拳だった。
鉄拳。愚直な右拳。それが——一振の顔を打ち砕いて。
釘バットは——空に放られている。
そう、軋識は——
「馬鹿な——」
砕けた歯の向こうで、一振は呟く。
「ふざけるな——
「ここにいるっちゃよ」
言って——二撃目。強烈な左ストレートが、一振の胸の中央やや左に着弾する。
「ご、は——」
その拳は一振の肋骨を粉々に砕き、その向こう側に守られた心臓を直接抉り抜いていた。
がん——と。
遠くで、放られた
「ご、あ、は——」
ビシャビシャと、ドス黒く粘ついた血液を吐き散らかしながら、一振はその場に崩れ落ちる。
「ふざけるな……そのバットは……貴様の信仰なんだろう……」
息も絶え絶えに、地面に崩れながらも必死になって軋識を睨みつけて問う一振に、軋識は肩をすくめる。
「そうだっちゃな。俺にとって、
だが——
「家族を助けるためならば、信仰の一つや二つ、いくらでも手放してやるっちゃよ」
零崎軋識、殺人鬼。
二つの顔を持ち——迷い揺れ動く心の持ち主。
竹取山にて心臓を撃ち抜かれて以降、その揺れはより一層大きくなったけれど——だからこそ。
あの何者より赤き請負人から受け取った言葉が、彼の芯を、強くした。
どれほど揺れ動こうとも、折れず曲がらず——押された力をそのままに、強烈な反力を生む、釘バットのように。
彼の信仰は、もはや具象に頼らない。
「か、家族——」
「そうだっちゃ。お前にも、報いたい家族がいたように、俺にだって、救いたい家族がいる」
それだけの話だ——言いながら、彼は放り捨てた
「じゃあな、三十三間堂一振。お前との殺し合いは、なかなか楽しかったっちゃよ」
そんなお世辞を最後の言葉に。
軋識は釘バットを高く掲げ——振り下ろす。
青ざめた空に、残酷の音色が響き。
三十三間堂一振は、二人の兄と同じ場所へ、旅立った。
◆ ◆
「——やっばー。先輩先輩、一振くんやられちゃったデスよ」
決着の地からは遠く、道の果て。街路樹と呼ぶには育ちすぎた巨木の、ふとましい枝の上に——蠢く影が二つ。そのうちの小柄な影が、もう一つへと声をかける。その手には双眼鏡を持ち、見つめる先は、零崎軋識。三十三間堂一振を完膚なきまでに打ち砕き、浴びた血潮を拭う姿を、まじまじと見つめる。
「うひゃあ、肩の筋肉すっごいデスね〜。惚れちゃいそーデス」
言いながら、影は隣へと顔を向け、双眼鏡を押し付けようとする。
「先輩も見た方がいいデスよ。ほらほら、肩の筋肉まじパないデス。首もバキバキデス。見えないけど多分ケツもバキバキデスよあれは絶対」
「——うるさいぞ、
押し付けられた側の影はと言えば、しかしそれを拒絶する。
見れば——その影は。手に何かを握っている。
ぼやりと光を灯す先端。煙が立ち上るそれは、煙草だった。何ら特別なそれではない、至って普通の紙巻き煙草。それを、しかし影は吸うではなく、まるでペンでも持つかのように握ったまま——
「く、ぅううううう〜〜〜〜————!」
じゅう、と。自らの手首へ、その先端を押しつけた。当然、火のついた煙草を押し当てたのだ。肌は焼けこげ、痛みが迸るはずである。
しかし——その影は、どこか恍惚とした、悦楽に満ちた声をあげて——
「ああ〜〜——……根性入ったで候……」
と、満足そうに甘いため息を吐く。
「先輩……いつものことデスけど、それ変態みたいデスから人前でやらない方がいいデスよ」
「それは貴様の目が澱んでいるからそう見えるので候。拙者はただ根性を入れているだけで候。如何わしいことなどしておらん」
言って、影は火がついたままの煙草をそのまま手首にぐりぐりと押しつけて火を消し、残骸を携帯灰皿に放り込んだ。
「それで——一振が負けたんで候? まあ、そうで候な。なかなか見どころのある若者ではあったが、さすがに
言って、影は今更になって双眼鏡を奪い取った。
「おー、よく見えるで候。これ倍率何倍で候?」
「知らないデスよ。それより、じゃあ、敵わないってわかってて一人で行かせたんですか?」
「当たり前で候」
「うわー、ひど」
ドン引き、とばかりに、銀螺子と呼ばれた影は声を上げるが、しかし、もう一人の影は双眼鏡を投げ返し、首を振る。
「わかってないで候なぁ。男には、敵わぬとわかっていても挑まねばならぬ時というものがあるで候。仇討ちなどそのもっともたるもの。邪魔立てするは無粋で候。根性が足りてないで候よ」
言いながら、男は二本目の煙草に火を付け、またもその先端を自分の体に押し付ける。
「ああ〜〜……たまらんで候……」
「やっぱそれ根性とかじゃなくて快楽目的でやってるデスよね先輩」
「快楽など感じておらぬ。これは押し当てたところから根性がいっぱい入ってきてちょっと声が出ちゃうだけで候」
ブンブンと首を振る影に、銀螺子は白い目を向けるが——
「ま、一振の仇は、拙者たちが討てば良いで候よ」
言って、その影は立ち上がる。
その影の正体が、ぼやりと。
木陰の中に、浮かび上がる。
和装。黒紫の着物に袴。一本歯の高下駄。長い黒髪を髷のように後頭部で括り、額には鉢金を巻いている。
端正な顔立ちは、しかし喜悦に歪み狂って——
「来るがいいで候、
呟かれる言葉が、死を予言する。
三十三間堂一振を退けた軋識の前に、待ち受けるは二人の刺客。
『
『
目指す目的地まではまだ遠く。
軋識の先行きには——暗雲が立ち込めていた。
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