本日は時間を分けて三話連続更新します。
このお話は三話更新の二話目です。
「第二章『零崎軋識』 3」をお読みで無い方は、そちらからお読みくださいませ。
◆ ◆
零崎軋識はスクーターを飛ばしていた。アクセルは全開。明らかなスピード違反だが、田舎道故に、それを咎めるものもいない。周囲の景色も大して変わらないまま、真っ直ぐに続く道をひたすらに進み続けて——ふと。
軋識は妙なものを目に留めた。
それは——人間だ。
道の脇に、人間が立っている。
至って普通のTシャツにハーフパンツ。足元は運動靴という、スポーティーな服装。髪の毛は短く、一見して男のようにも見えたけれど、顔立ちや体型を見るに、女らしい。
その女が、道の脇で、腕を伸ばしている。
拳を握り、親指を立てたハンドサイン。
「へーい、そこのお兄さん、乗せてって〜」
間抜けな呼びかけ。
どうやら、ヒッチハイカーのつもりらしい。
それを目に留めた軋識は——
全力でアクセルを蒸し、その女を轢きにかかった。
「うぉわぁああああああっ!?」
その前輪が人体を挽肉に変える寸前、女は必死になって地面を転がり、スクーターの突撃を避ける。それを見て、軋識はブレーキをかけ、スクーターから飛び降りた。
その勢いのまま背から
「ちょ、ちょちょちょ、急展開すぎデスって!」
振るわれた釘バットを、女は飛び退ってかわす。バク宙のような動き。軽やかな身のこなしは——明らかに、一般人のそれではない。
軋識は女に向けて問う。
「何者だっちゃ、お前」
「普通それ攻撃する前に聞くデスよね!?」
問われた女——菩薩峠銀螺子は叫んだ。なんてことをしてくれるんだこの男は。自分がもしも一般人だったら余裕で死んでいたぞ。
「死んでくれたならそれでよかったんだっちゃよ。無関係の一般人だった、御愁傷様、で終わりだっちゃ。だが、俺の攻撃を二回も避けて生き残るってことは——そりゃあお前がただの一般人じゃなく、どこぞから派遣されてきた刺客だってことを示すっちゃ」
「魔女狩りみてーな判別法デスね……」
ドン引き、とばかりに呟きながら、銀螺子は背筋を粟立たせる。ああそうだ、この人、殺人鬼なんだった。一般人とか、全然殺す対象じゃん。
「んで、お前はどこの誰なんだっちゃ? あいにくと、俺は今急いでるところでな。敵じゃねぇってんなら、大人しく死んでくれると助かるっちゃが」
「そこはせめて大人しく通してくれると助かる、とかいうべきところデスよね!? 何敵じゃない相手に死を要求してるんデスか!?」
突っ込みつつ、銀螺子は大きく距離をとる。だめだこの男、あまりにも危険人物すぎる。
だがそれでも——問われたからには、名乗らねばなるまい。
「わ、私の名前は菩薩峠銀螺子——『
啖呵を切って、銀螺子は拳を構える。徒手空拳のバトルスタイル——では、ない。
その両拳には、あるものが装着されていた。
片手に三本ずつ、合計六本の、湾曲した刃。手の甲から伸びるそれは——
「鉤爪使いっちゃか」
——鉤爪。
菩薩峠銀螺子の武器はそれだった。
握りのついた手甲に、三本の刃を取り付けた異形の武器。鉤爪といえば、本来はどちらかといえば暗器に属する部類の武器であり、その刃も隠密性を重視して比較的短く作られるものが多いのだが、眼前の菩薩峠銀螺子が装備するそれは、長大な刃を備え、真正面からの戦闘を想定していることがわかる。
「がお!」
吠えながら、銀螺子は疾走する。姿勢を極端に低くした、地面を這うような移動。あるいはそのための鉤爪か、アスファルトにそれを突き立てつつの四足走行。獣じみた身のこなしに意表を突かれつつも、しかし軋識は冷静に対処する。
「——シィッ」
鋭く息を吐きながら、軋識は
「甘いんデスよ、『
跳躍。大地を蹴って、菩薩峠銀螺子は飛び上がる。それはさながら翼を広げた鷲のように。
瞬く間に攻守は入れ替わる。一度全力で
「なっ——」
軋識は——
そして、飛び込んでくる銀螺子を抱き止めるように、軋識は深く、彼女の首元に顔を寄せ——握り込んだ拳で、彼女の腹部を思い切り撃ち抜いた。
「こ、は——」
血混じりの胃液を吐き散らしながら、銀螺子は吹き飛ぶ。飛びかかったその時以上の速度で叩き返され、何度もバウンドしながらアスファルトの上を転がった。
「鉤爪の弱点は、細かな取り回しが効かないことだ」
銀螺子を殴り飛ばした軋識は、言いながら砕けた道路にめり込んだ
「ナイフなんかの刃物と違って、手甲と一体化し、拳の上に刃物を装着する都合上、その可動域は大きく制限される。普通の刃物のように手の中で向きを変えることはできず、せいぜいが手首の捻りで角度を変える程度。手首の動きに依存する以上、
懐に入っちまえば、鉤爪はその内側を傷つけられないんだっちゃよ——と、軋識は呟く。
あの時、軋識が前に踏み込んだのはそれが理由だった。腕の内側に入られてしまえば、鉤爪は相手を傷つけられない。あるいはそれが、指の先に生える本物の獣の鉤爪であったのならまた別の話であったのだろうけれど——いずれにせよ。
ここにいたのは獣ならざる人間と——そして一匹の鬼だった。
「じゃあな、菩薩峠銀螺子」
冷たく言って、軋識は
徹底的な残酷と破壊の象徴が、照りつける陽の光を反射して、鈍く黒光りする。
大上段。構えたそれを、軋識は足元で悶え苦しむ銀螺子に向けて、全身全霊の力を込めて振り下ろし——
が、と。
途中で、その動きが——止まる。
「ああ?」
軋識は咄嗟に、中空で
「は?」
——
人間が一人——乗っていた。
一本歯の高下駄。長く伸びた木製の歯が、一本。首バットの先端の、乱雑に生えた釘の隙間を踏みつけていて——それを履くのは。
和装。黒紫の紋付袴を身に纏う、中背の男。長い髪を後頭部で髷のように纏め、額には鉢金を被り。眉目は秀麗。口元には——喜悦の笑み。
「根性——で、候」
見れば。男の両手からは、細い何かが伸びている。両手から、それぞれ一本ずつ。握り込まれた拳から、路上左右のガードレールへ向けて。陽光を反射して白く輝くそれは、目を凝らせば、細い鎖だった。糸のように、とまではいかないけれど、しかし紐のように、細く、長いそれはギシギシと張り詰め——振り上げられた
「何者だっちゃ、お前——!」
軋識は叫びながら、
いや——収められたのは鎖ではない。
着地した時、男の両手の中にあったのは——円形。
分厚く、丸く、側面の中心には戯画化された蜘蛛の紋様が描かれた——
金属製の、重量を感じさせる鈍色のそれ。おもちゃとして遊ぶようなそれではないと断言できる——血の香の染みついた、凶器としてのヨーヨー。それを両手に握りながら、男は言った。
「拙者の名は——黒後家初道。人呼んで曰くにし、『
男は——黒後家初道は、ギシリと歯を食いしばって笑う。
「我が弟子が世話になったな、『
言いながら、初道はチラリと背後に庇った銀螺子を見る。
「いい加減、起きるで候よ、銀螺子。寝込むほどのダメージではないで候?」
「ぅう、先輩、助けに来るの遅すぎるデスよ……」
言いながら、銀螺子はヨタヨタと立ち上がる。ダメージは残っているようだが、戦闘不能というわけではないらしい。視線鋭く、鉤爪を構え直す。
「『
額に浮かんだ汗を腕で拭いながら軋識は問う。
背後の女——菩薩峠銀螺子の方はともかく、男——黒後家初道の方は、厄介だ。気配なく、今まさに振るうという瞬間の
その気配が——粘ついている。
強者としての気配、以上に——何か。
気色の悪い、得体の知れない気配を、感じるようで——
「——素晴らしいで候」
ぽそり、と。言葉がこぼされる。その言葉を、敵の一挙手一投足に警戒を敷いていた軋識は聞き漏らさない。
「あ? 何がだっちゃ」
問えば、初道はゆるゆると首を振った。
「いや何、純粋な感想で候よ。『
「はあ?」
どういう意味だ、そりゃ——なんて、思わず片眉を上げた軋識が問うよりも先に、初道はペラペラと言葉を続けた。
「まず、目を引くのは上腕二頭筋で候。善く鍛わっている。一切の無駄なく、必要な分量だけがついておる。ノースリーブを着ているあたり、お主自身、自信があるので候? 実に見応えのある筋肉で候」
突然の褒め言葉に、軋識はたじろぐ。なんだこいつ。突然何を言い出すんだ?
「だが、見どころはそこだけではないで候。前からだと分かりづらいで候が、背中の筋肉も素晴らしいで候。僧帽筋、広背筋、脊柱起立筋……特に広背筋の発達は目を見張るものがあるで候な。前からでも、その膨らみがよく見えるで候。先ほど銀螺子が喰らっておった、善く根性の入りそうなパンチも、そのビッグな広背筋あってのもので候なぁ」
思わず、軋識は脇を締める。舐め回すような視線が、薄気味悪かった。
「そして一番の注目は——大臀筋で候! ズボンのサイズがダボついているせいで分かりづらいで候が、しかし拙者には見えるで候! 釘バットの力強く、根性の入ったスイング! それを支える大臀筋の、根性の入った躍動が! さぞや根性の入るトレーニングをしているんで候なぁ……よければ直接見せて欲しいで候」
「気色の悪いことを言うなっちゃ」
何一つとして良くない。軋識は顔を青くして首を振った。なんだこいつ。変態か?
「それは残念で候……しかしまあ、構わんで候よ。もとより拙者は、筋肉は見るより
「は?」
なんだ、筋肉を喰らうって。どういう意味だそれは。
訳のわからないことを言われ、困惑する軋識だったけれど——しかし困惑は、その直後にこそ頂点に達する。
「さあ、『
そう言って、初道は両手を広げる。
目を閉じて——僅かに頬を染めて。
「さあ!」
「いや「さあ!」じゃないっちゃよ」
ツッコミを入れた。流石に。入れざるを得なかった。
なんだこいつは。ふざけているのか?
軋識は眉を顰める。
かつてにも——同じように、軋識に対し、一撃、打ち込んで来いと宣った拳士がいた。結論から言えば、その拳士は軋識の渾身の一撃を耐えきり、それどころか、軋識はその拳士に言い訳のしようもないほどの完全な敗北を喫したのだけれど——
あの時とは、あまりにも状況が違いすぎる。
鉄の仮面で頭部を守り、竹林というフィールドで横方向のスイングを制限し、己を罠に嵌めてみせたあの拳士とは、まるで違う。
比べるべくもない。
こんなものは策でもなんでもなく、ただの自殺だ。
ただの自殺としか——思えない。
軋識は後ろ頭をバリバリと掻きむしる。
「さっきから一体、なんなんだっちゃお前は。自殺志願ならもう間に合ってるっちゃよ。死にたいなら一人で勝手に死んで欲しいっちゃ」
「自殺志願などではないで候。拙者はただちょっと、良質な根性を入れて欲しいだけで候。さあ、ズドンと一発! 遠慮せず!」
「根性を入れるってなんだっちゃ……」
「諦めた方がいいデスよ、『
ドン引きする軋識を見かねてか、背後に控えていた銀螺子が肩をすくめながら言った。「ちゃちゃっとやっちゃってください」なんて、ため息混じりに。
いいのか? ちゃちゃっとやってしまって?
「いいんデスよ。どうせ——師匠のことを傷付けられる人なんて、いないんですから」
そこまで言われて——軋識もまた、いい加減、堪忍袋の緒が切れそうだった。
傷付けられる人なんていない? この
「……まあ、どうでもいいっちゃよ。ふざけてるのかイカれてるのか、どちらにせよ、俺がやることは変わらねーっちゃ」
言って、彼は
「後悔するんじゃねーっちゃよ」
「無論で候。さあ、早くしてくれ。もう、もう辛抱たまらんで候っ!」
はぁはぁと、初道は荒い呼吸を繰り返している。気持ちが悪い。どうにも、調子が崩されるが——しかし。軋識は苦虫を噛み潰したような表情になりつつも、それでも覚悟を決める。
一撃で——殺す。
「——死ね」
眼光鋭く。呟きながら、一歩。大きく踏み込み、釘バット——
「——根性ォッ!」
が——と。
釘バットの動きが——停止する。
「あ——?」
異常な手応え。鉛を打ったような、でさえもない。まるで、そう。釘バットに込められていた運動エネルギーの全てが、突如として消失したような、そんな異常な感覚。
見れば。
黒後家初道のその頭蓋骨は、砕かれてなどいはせず。
それどころか——
僅か、一滴。
「ああ〜〜——……根性入ったで候」
側頭部。釘バットを受け止めたこめかみから、僅か一滴、破れた皮膚の隙間から血を流しながら、にたりと微笑んでいる。
「——、っ!」
一撃目を
「——根性」
その行動が実を結ぶかは、また、別の話。
引き戻した
額の皮を一枚割って、血を流させるが限界で。
黒後家初道は、心地良さそうに微笑んでいる。
「——何者なんだっちゃ、お前は」
飛びすさり、額に汗を浮かべながら——軋識は問う。
完全な無傷ではない、というのが、逆に不可解だった。血を流させることはできている。できているが、そこまで。薄皮一枚を破るが限界で、頭蓋を砕くことも、その内側の脳髄を吹き飛ばすことも、できてはいない。それどころか衝撃を与えることすらもできておらず、あるいはもはや——痛痒をさえ、通用させられず。
攻撃の一切を、耐え切られている。
(しかし一体、どうやって?)
軋識は背筋に汗を浮かべながら、思う。
攻撃を耐え切られた。それはいい。百歩譲って、いいとしよう。しかしそれは、
どれだけ体を鍛えようとも、ライフル弾の直撃を無防備に受ければ死に絶える。その程度が、人体の頑丈さというものだ。
だというのにも関わらず、現実には。
対面する変態は、かすり傷を負うばかりで——健在。
その理由は、一体——
「不可解だ、という表情で候なぁ、『
くつくつと笑いながら、初道は軋識に挑発的な視線を向ける。
「なぜ己の攻撃が通じないのか——その理由を、必死になって考えているので候?」
「は、だとしたらなんなんだっちゃ。素直に答えを教えてくれるっちゃか?」
図星を突かれた痛みを隠すがために、軋識はそんな軽口を叩いてみせる。それはあくまでも、相手の挑発を躱す目的での言葉だったのだけれど——しかし。
「ああ、
なんて言って、初道はその舌を回す。
ペラペラと、軽やかに。軽々しく。
「——あ?」
「ん? どうした? 気になるので候?」
そりゃあ、気になるとも。気になるが、しかし。それを素直に敵に教える馬鹿がどこにいる?
「ここに、で候よ。はは、とはいえ、拙者がそれを喋れるのは、喋ったところで打ち破れるようなカラクリではないからで候が」
言いながら、初道は両手のヨーヨーを放つ。軋識に向けてではなく、あくまで地面へ。普通に玩具としてのそれを遊ぶかのように、「しゃー」と音を立てて。伸び切った鎖が地面ギリギリで静止し、先端の円盤が静止する。いわゆる、犬の散歩だ。
「気功——という理をご存知かな?」
初道は語り始める。気功——詳しいというわけではないが、しかし流石に言葉は知っている。中医学や太極拳なんかで扱われるような思想だ。
気血栄衛——中医学における人体の構成要素のうちの「気」——呼吸を通して体内を循環するエネルギーに着目した思想。
気を整え、その流れを操ることにより、健康を維持したり、あるいは——
だが、それは——
「眉唾だっちゃろ」
科学的には、一切証明されていない理論だ。特に身体能力の強化に関していえば、本家中医学でもトンデモ理論扱いでしかなく、学術的なエビデンスはないに等しいとされている——
「と、いうわけでもないんで候なぁ」
なぜなら、
初道はカラカラと笑って言う。
「拙者の肉体は、普通の肉体ではないで候。常日頃より肉体に根性を入れ続け、
いわゆる、硬気功というやつで候な——なんて言いながら、初道は回転するヨーヨーを器用に操り、手の中でくるくると鎖を絡める。ストリングプレイススパイダーベイビー。絡まる鎖の中、中空に浮かぶヨーヨーが空転を続ける。
「先ほど、お主も実をもって知ったで候? 拙者の肉体を。その硬さを。その頑丈さを。その溢れんばかりの根性を! あれがこそ、我が気功の証明にて候!」
「証明、ね。なら、それがいつまで続くか試すだけっちゃ——!」
言って、軋識はかけだす。気功なんてものが、真実存在するかどうかはどうでもいい。いずれにせよ、相手は頑丈さに自信があって、こちらには破壊に自信がある。ならばあとは——根比べだ。
「鋼の肉体っていうんなら、良いっちゃよ。その鋼が砕け散るまで、殴って殴って殴り続ける、それだけだっちゃ——」
「素晴らしい根性で候——ならば拙者もまた、全力で応えるのみ! よく見ておくがいいぞ、銀螺子! これが本当の、男の戦いというもので候!」
叫び、初道もまた迫り来る軋識を迎え撃つ。
かくして、二人は激突するそれが本当の、男の戦いと呼べるかどうかは甚だ疑問ではあったけれど——しかしそれが正真正銘の殺し合いであることには、この世の誰も、疑問を挟む余地すら、なかっただろう。
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