トレーナー君が欲しいシンボリルドルフ VS サブトレ時代のトレーナー君の相棒スピードシンボリ VS ダークライ 作:St. One is Stoned
結局のところ、原因は十数年前に遡る。本田がこういうことをやることは、言ってしまえば彼が二十歳の頃から決まっていたことだった。
二十歳のころ、彼はトレセン学園に実習に行っていた。そこで当時十七歳だったスピードシンボリと出会った。そして二人は意気投合した。
あるいは、もっと前から話そう。
本田祐二は、決して小さくはないが、大きくもない家に産まれた。祖父の代から中央のトレーナーをやっているのが唯一の誇りの家だった。中央と言っても、安定して重賞に出られるかも怪しいもので、この時代には寧ろ地方の腕利きの方が格上だったと言ってもいい。
周りに勧められるままに、本田もトレーナーの道を選んだ。別に嫌ではなかったが、別に熱中するようなものでもなかった。ただ資格さえ取ってしまえば、そう食いっぱぐれることはないだろう──そんななんとも気怠げな意気込みだった。
そのせいである。養成学校の成績はそこそこだった。要領が良かったから落第することは無かったけれども、目を輝かせた同級生が大股で飛び越していくところを、あくびをしながらのそのそ歩んでいく塩梅だった。夏に入って、同級生が名門チームに実習に行く傍らも、彼が向かったのはそこそこの中堅チームであった。
そのチームで、彼はスピードシンボリと出会った。チーム名は「アリオト」という。
ここで説明が必要だろう。「アリオト」と言えば、名門中の名門、シンボリ家御用達のチームではないか、さては作者はろくな下調べもせずでっち上げたに違いない──と非難するのも当然である。
驚くべきことに、今でこそ名門の一角と名高いシンボリ家も、当時の評価は芳しくなかった。その筈である。シンボリ家を一躍有名にしたのはスピードシンボリで、そのスピードシンボリは当時まだ、現在で言うクラシック級だったのである。しかも彼女は皐月賞、日本ダービーと惨敗しており、挙げ句ストレスにやられ、レース毎に身体がやせ細っていく有り様であった。
本来ならばこんな状況で外部の者を招くべきではないのだが、最早当家も諦めていたのだろう。或いは、近い年代と話せばもしかして、と思ったのかもしれない。何れにせよ、当時の彼女は正攻法では再起できない状態だったのは間違いない。
そんなわけだから、当時の本田とスピードシンボリの関係は悪いの一言であった。といっても、喧嘩をするわけではない。スピードシンボリは塞ぎ込んでいるし、本田はどう話したものか決めあぐねて、ただ気まずい空気のなか時間だけが過ぎていく……という具合である。先達に教えを請い、ウマ娘にからかわれ、スピードシンボリと気まずい時間を過ごすのが当時の彼の日常であった。
しかし転機は訪れる。
ある日のことである。その日は他所との都合で練習が後ろにずれ込んでいた。終わったのは当初の予定の二時間後であり、その影響を最も受けるのは一番下っ端の本田である。下っ端が雑用というのはまったく伝統である。本田はグラウンドに並べられた器具の片付けに四苦八苦していた。
その日はおろしたての革靴を履いていた。こういう商売に関わると、靴は勝手にすり減っていく。だから新しくおろした靴だ。本田はファッションにこだわりはなかったが、それでも新品というのはいい気分だった。それなのに、水を差された。思えば今週は星座占いで1位で、ラッキーカラーは黒だった。年がら年中ワイシャツに黒のネクタイをしているから、間違いなく幸運がやってくる。一昨日は頂き物の緑茶を注いだら茶柱が立った。昨日は買う直前の惣菜に半額シールを貼られた。そして今日は、落とした財布を肌の白いブロンドのウマ娘に拾われた。今週は絶対にツイている筈だというのに。それともこれは揺り戻しというのか。俺のラッキーウィークは4日も持たないのか。
──すると、ふと。耳馴染みの音が聞こえてきた。ターフを蹄鉄で蹴る音である。結構なハイペースだが、調子っ外れなところがある。素人か落ちこぼれがトレーナーに隠れて自主練しているに違いない。
「仕事を増やしやがるのは、どこのどいつだ」
そう言って本田は、手元の器具を引っ掴んで、大股でコースに歩いていった。怒鳴り散らしても罰は当たるまいと思った。むしゃくしゃしていた。長々と待たされたと思ったら、ひたすらに体を酷使する。しかもこの間、集中力を切らせるものではない。見習いとは言え、教員の端くれとして、生徒を預かる矜持と責任くらいはある。だからこそ、勝手をするんじゃない。やっと容貌が見えるところまで近付いた。器具を振り上げて、目一杯息を吸い込んで、肚を力んで口を大きく開けて──
そして、見た。
スピードシンボリだった。休養中の筈のスピードシンボリだった。無理をして走っていた。フォームはバラバラで、それでも走っていた。でもその顔は悲痛に歪んでいた。滝のような汗に混じって、幾筋かの涙が見える。靴はボロボロだ。蹄鉄もきっとそうだろう。彼女は肩で息をしており、喉を通り過ぎる息の音が人間の耳にも聞こえてきた。火照に火照った体は、柵の外側まで熱れを運んできた。
走って、止まって、水分を呷って、目一杯息を吸って──また走る。
彼は呆然と見ていた。いつの間にか腕はだらんと下がっていた。肺が苦しくなって、ほうと息を押し出した。口はかすかに開いていた。目は釘付けになっていた。彼女は走りたいのだろうか? それにしてはあの表情は余りにも悲惨だ。彼女は走るのが嫌なのだろうか? ならば隠れて灼けるように走っている説明がつかない。その走りはちっとも美しいものではなかったが、その血の滲んだ不格好な走りに彼はとても心打たれていた。
ふと、膝に手をついていたスピードシンボリが顔を上げた。
二人は目があった。お互い、ほんとうに不意打ちだった。二人とも、呆然とお互いを見ていた。見開いた二人の目にはじわりとした重さがあった。
長い一瞬のあと、彼はこう聞いた。
「走るの……好きなのか?」
ただの好奇心からだった。それは明らかに神経を逆なでするものだったが、彼はそう思っていなかった。本心から疑問と呆れで言わずにはいられなかった。彼女には間違いなく才能がある。ズタズタでも魅せる天性の脚と、どこまでも喰らいついていく粘り強さがある。真面目にやれば、どうとでもなる。それを何故ドブに捨てるのだろうか──ざっとこんなことを思っていた。
彼女はかっと目を見開いて、口を開こうとして……躊躇った。歯ぎしりして、爪が立つほど拳を握りしめた。掌には血が滲んでいた。顔には怒りが浮かんでいたが、それが誰に向けたものなのかは分からない。
それでも、溢れるようにこう言った。
「好きさ」
「なら、何故、辛そうに走る?」
「……煩いよ」
「ああやっても、ちっとも君の体は良くならないというのは、君も何遍も聞いているはずだ。僕だって何遍も聞いた」
「……煩い」
「チーフは巧い。それに君を想っている。君のそれは、彼を裏切る行為だ」
「煩い」
「走りたいのか? そうじゃないのか? 君はどっちつかずなんだ。逃げているだけだ!」
「煩い、煩いと言っている! ああ言ってやる。走るのは好きだ。大好きだ。褒められて鼻も高かった。だがどうだ、見ろよこのザマを! やれ期待外れだ恥さらしだと、勝手なことを抜かしやがる。ああ、その通りだ。情けないヤツの思い上がりだったんだよ。そんな私を勝手に持ち上げて、勝手に捨てた! そんなヤツが、今度は逃げるなだと? いい加減にしろよ、してくれよ……」
──頼むから。
本田は呆然としていた。彼女は走るのが好きだ。それは間違いない。彼女は狂おしいほどに執着していた。何が何でも負けじと喰らいつこうとしていた。それに周囲の期待に応えたいという責任感もあった。しかし全てを一人で背負うには余りにも彼女は幼すぎた。
本田は、己を恥じた。しかし、だからこそだ。
「破れかぶれはいけない。何度でも言う。それじゃだめだ。ガムシャラなだけじゃだめだ」
彼女にはこんなところで燻っていてほしくなかった。彼女は心から走りたいと願っている。それを支えるのが教育者の本分というものではないか。それに間違った道に進もうとしている者を放って置きたいなら、ここにいる必要も必然もない筈だ。
「君には才能がある。チーフも言っているし、俺も正しいと思う。でもそれだけじゃだめだ。その先は崖だ。何もない。どこまでも転がり落ちていくだけだ」
「だったら……どうすればいい!」
「受け容れろ。信じろとは言わない。今の君に信じろと言ったところで、目を瞑って妄想の中の自分しか信じない」
「できるわけがないッ!」
「できる! 君にはその才能がある!」
「信じられないッ!」
「信じろ! ……俺は、信じているぞ」
──ああ、そうだ。
ふと、俺はこの言葉を言うためにここに居るのではないかと。ふと、そう思った。
怒鳴り合っていた声はよく通っていた。トレーナーにもウマ娘にも聞こえたようで、チーフやチームメイトが寄ってきた。
「何を、している」
チーフが問うてきた。その眼には八割の困惑と2割の怒りが浮かんでいた。誤魔化しを許さない追求の眼だった。
「俺は──」
「私です。私が隠れて走っていて、彼はそれを止めに来ました。そしたら、私が逆上しました」
本田が場を収める前に、スピードシンボリが先んじた。真っ直ぐと、チーフの方を見据えた。
「……本当か?」
「本当です。シューズも蹄鉄も擦り切れています」
「……何故、そうも素直だ? 隠れて走っていたような奴が」
「私が悪いからです」
彼女の言葉は淡々としていた。どうにもそれがチーフの癇に触れたようだ。開き直ったか、口裏を合わせたか、庇い立てしているかと疑われたのかもしれない。
「何故……いや、後だな。フラッグ*1、スピードを保健室に運べ。ラペール*2、他の奴を連れて行け。俺は本田と片付けをやる」
チーフの統率力は流石のもので、ウマ娘はあっさりと退いていった。
「ほれ、さっさとやれ。話は後で聞く」
後がつかえている。言外にそう言われた。慌てて本田も手を動かすが、明らかにチーフの方が早い。
「くっちゃべってたにしては息が上がってんな。情けねえ。体力が足りてねえ」
「……すいません」
察しているのか、いないのか。落ち着いてみれば越権行為以外の何物でもない。汗の中に冷たいものが混じった。
「しっかしよ、アイツがあそこまで思い詰めてるとは思わなんだ、恥ずかしいことをしたなあ」
「はあ……」
「手を止めんな、ほら……よし。だが全く勝手をしおってからに、お陰でやることが多い多い。そう思わんか?」
「……そうですね、その通りかと」
「ただまあ、あそこで見つけたのはよくやった。あのまま続けてたら、それこそ誰にとっても取り返しのつかんほど大変なことになってただろうよ」
「ありがとう、ございます……」
「それに見たか、あの顔。何でだか知らんが、やけに吹っ切れた顔をしとった。ああ、何故じゃろうな。嬉しいことだが、なあ」
間違いなく気付いている。目敏いジジイが、クソッタレ。本田は内心毒づいた。
「ほれ、もっと顔に出んようにせい」
「……ウッス」
この爺さんには、敵わない。
続きます。
ところで、一話ってどれくらいが読みやすいんですかね。
一話に丁度いい文字数は……
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5000字未満
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5000〜1万字
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1万〜5万字
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5万字より多く
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どうでもいい