トレーナー君が欲しいシンボリルドルフ VS サブトレ時代のトレーナー君の相棒スピードシンボリ VS ダークライ 作:St. One is Stoned
「こりゃ処分が来るな」
シンボリルドルフが皐月賞を獲ったあと、本田は独りごちた。
始末書か、減俸か。それなら都合が良いのだが、前例から鑑みて恐らくは謹慎(懲戒処分のほう)が来る。その間、シンボリルドルフはチーフに委ねることになる。とはいえどうせレース後だから休養に充てる。こっそり自主練でもしてやしないか目を光らせて貰うだけでいい。
しかしそれとは全くの別件で、本田にとって謹慎が面倒な理由があった。謹慎の法的拘束力は薄く、無視してパチンコやキャバクラに行ったところで、別に法的な罰はない。とはいえ周囲からの不信や非難はある。そしてそれを無視できるほど本田は厚顔無恥でもない。
本田は要するに行っておきたいところがあったのである。例え謹慎中に行ったところで誰も怒ることができなくとも、恥知らずではある。となると、明確な処分が下る前に済ませてしまうのが上策である。ありがたいことに、その行きたい場所に門限や営業時間はない。
取材の申込みをあしらったり返事を先送りにしたりして(学園に確認せねばならないので今は受けようがないのであるが)、シンボリルドルフと今後の予定を確認して──そして仕事のなくなった本田はタクシーを呼んだ。
メディア対応が長引いてもう遅いので、渋滞はしていない。タクシーは案外早く来た。ありがたいのだが、同時にもっと遅く来てくれればいいのにという思いもある。車自体あまり好きではないのもある。タクシーのシートの匂いも好きではない。夜遅くの高速道路はどうしようもなく苦手である。だが、今回のこれはそういうものではなかった。
いや、今回のというと語弊がある。去年の1月から、タクシーに乗れば毎回だ。それは1月にタクシーに乗る新しい理由ができたせいである。その理由が憂鬱だった。そして1月某日から今日この日まで、タクシーに乗る理由はそれ一つしかなかったのだ。夜の東関東自動車道水戸線を駆けるタクシーに揺られながら、本田は溜め息を吐いた。
とはいっても、車が進む以上は目的地は近づく。左車線に居たタクシーは、成田ICを経由して国道295号を成田空港方面へ向かう。
高速を降りれば、あとは7キロ弱。20分もせずに着く。
嫌なことは長々と続き、嬉しいことは一瞬で終わる。かのアインシュタインも似たようなことを言っていた。しかしながら、例え嫌な気分でも、面倒事や〆切が来て欲しくないと願う気分のときは、妙に早く感じるものだ。今回もご多分に漏れず、この法則の反例は見つからなかった。要するに本田にとって憂鬱な時間が大口を開けて待っていた。
そこは成田にあるシンボリ家の屋敷である。ここで
この目的が産まれたのは去年の1月なので、もう一年以上は定期的に来ていることになる。それくらいになると、お手伝いさんとも顔なじみになってしまう。とはいってもそこは流石シンボリ家。親しき仲にも礼儀ありという通り、馴れ馴れしくしたり手を抜いたりすることはない。聞いたところによると、この屋敷では家事代行サービス会社などを使っておらず、全て専属で雇っているらしい。費用がどれくらいなのかは聞きたくもない。
ともかく、門をくぐって庭を過ぎ、これまた威圧感あふれる玄関に入る。見た目通りというか、玄関に靴脱場はない。そこら中カーペットで埋め尽くされていて、人もウマ娘もその上を土足で歩く。何でも西洋かぶれの先々代当主が建てたものらしく、どにかくどこもかしこも欧米風である。他者の家の造りに文句を言うつもりはないが、本田はここに住みたくなかった。
曲がりなりにも今の本田はゲストだから、勝手に動いては向こうの迷惑になる。気は乗らないが大人しく案内に従っていると、前からスピードシンボリがやって来た。
「久しぶりだね、祐二」
「六日前と昨日に会っただろう」
事実である。スピードシンボリといえど、常に海外にいるわけではない。むしろジャパンカップの運営とか、内密の話だがシンボリルドルフの海外遠征*1とかで、近頃は日本にいる方が多いのだ。つい昨日も、皐月賞を明日に控えたシンボリルドルフを激励するため会った筈なのである。
白々しいにも程がある。本田は白い目を向けた。
「つれないね」
スピードシンボリは左手を腰に当てて躱す。いちいちキザだがサマになるのは流石である。しかし白状すれば嬉しがったスピードシンボリがとても面倒くさくなるので、本田は絶対に言わない。
「毎度やるから今更だ。……彼女の調子は?」
「よくないね……知っての通り別に荒れては居ない。それはもう、私とは真逆の良い子だよ」
「でも、ポッキリと折れたままか」
スピードシンボリの言い方は、気遣いを含んで少しばかり奥歯に衣を着せていた。どうせこの軽口も、
シンボリフレンド。シンボリルドルフの4つ上の姉である。生真面目な性格だが、デビュー直後のささいな出来事でレースに苦手意識を持ってしまった。それでも生来の生真面目さでレースに望んできたが、やはりストレスがあったのだろう。少しずつ気性が悪くなっていった。いつもは真面目で冷静だが、閾値を超えると爆発するかのように凶暴性が現れた。彼女自身はそんな性格を嫌っていたようである。怒りが嵐のように消え去ってからは自己嫌悪に陥り、それもストレスになっていた。
その不安定さは綱渡りのような有り様だったが、彼女には才能があった。そのうえ、血筋も抜群である。そして彼女自身にはその期待と責任に応える真面目さがあった。デビューから5年目の、今年の1月までは。
1月のとあるレースで、彼女は骨折した。その骨折は致命的で、現役復帰は絶望的だった。具体的には、半月板が何割か吹っ飛んだのである。半月板は大腿骨と脛骨の間にある軟骨様の組織で、関節の位置を安定させ、関節にかかる負荷を分散させる役割を持つ。
半月板を損傷しても、程度にもよるが歩くことは可能だ。スポーツに復帰した事例もある*2。しかしそれは人間の話で、人間より遥かに大きなパワーも持ち、遥かに負荷の大きいウマ娘では不可能だった。長期療養が必要で全盛期を捨てるとか、トゥインクル・シリーズのスケジュールでは無理があるとか、そういうレベルの話ではなかった。アイドル的な興行要素が強く、スケジュールに余裕のあるドリームトロフィーリーグならやっていけるという次元ではなかった。
それ以来というもの、彼女はポッキリと折れていた。シンボリ家で過ごしてるのだって、療養ということになっているが、実質的には現役引退を意味している。まだ寮から籍を消しておらず、部屋には自分の荷物があって、その部屋に誰かが入ることはない、というだけの話である。そしてそれもそのうち引き払われる予定である。引き払っていないのは、酷な言い方をすれば、シンボリフレンドが無事な頃のような責任感や行動力を失っているからに過ぎない。しかしそれを責めるのは酷である。
これは本田の勝手な想像に過ぎないが、シンボリフレンドの脚の怪我は悪い意味で絶妙だった。もう少し軽ければ一縷の望みに賭けてひたすらリハビリをしていただろうし、もう少し重ければ完全に絶望してすっぱり諦めることもできただろう。奇跡が起こらなければどうしようもない。しかし奇跡さえ起これば、もう一度くらい全力で走れるかも知れない。なんともまあ悪趣味に絶妙な塩梅だ。
「ハンマーシュタイン=エクヴォルト*3曰く、うまくいかない時は勤勉より怠惰な方が良いそうだよ」
徐ろにスピードシンボリが分かりにくいことを言ってきた。
「それは軍人の、他者を使う立場の話であって……」
そこでふと、頭の中で点と点がつながった。要するに「思い詰めた時は下手に行動して状況を更に悪くするより、何もせずじっとしていた方がよい」ということである。暗に「破れかぶれで無茶をやった私よりよっぽど良い子だよ」と言いたいのだろう。もの凄く回りくどいが、つまりシンボリフレンドのフォローである。
口で言うより、自分で考えさせる方が良い。ヒトは(無論、ウマ娘も)自分で考え出した結論に強い愛着を持つ生き物である。確かに、相手が気付いてさえくれれば効果はありそうだ。一杯食わされたのは気に入らないが、口を噤むよりほか無かった。それはそんな時間を与えられなかったからである。
「私はやめておくよ。多分、相性が悪い」
既に彼らはシンボリフレンドの部屋の前に居た。スピードシンボリの計算である。一杯食わせた直後にシンボリフレンドと対面させて、フォローの理論の矛盾とか瑕疵とかに気付く隙を与えないつもりである。家族思いなことである。
ちなみに件のスピードシンボリはさっさと退散していて、居るのは本田とルクーというお手伝いだけである。相性が悪いというのはきっとその通りだから何も言えないが、どうにも掌の上で癪に障る。
とはいえ愚痴を言ってもしかたないし、ルクーの時間を浪費するのも気分が悪いので、結局本田はドアをノックする。するとガサゴソという音がして、20秒くらい経ってから「どうぞ」と返ってくる。これがいつも通りである。
シンボリフレンドはいつもベッドに座っている。同じ鹿毛に同じ三日月の流星をしているから、妹と雰囲気はよく似ている。ただし流星は母親に揃えるために染めたものなので、染める前はどんな印象なのかは分からない。シンボリルドルフより数センチだけ背が高いが、全体的に痩せぎすである。礼儀作法がきちんとしていて、その風貌は美麗である。しかしその眼はマネキンのように活力がない。
部屋の中は殆ど整頓されていて、モデルハウスのようである。ただし、唯一シーツはクシャクシャになってベッドに軽い丘を作っている。完全に無機質でないのが、却って異様であった。
本田が「調子はどうだ?」聞く。するとシンボリフレンドは「大丈夫ですよ。どこも痛くありません」と返す。それはカスタマーセンターのアルバイトのようにパターン化されていて、本田がやって来るたび必ず行われる。それは本田が常にこの事柄を気にかけているからで、シンボリフレンドが常に踏み入らせないようにしているからである。
シンボリフレンドは、本田ではなくチーフが担当していた。才能と血筋が上等だったのが一つ、気性に難を抱えていたのが一つ、本田をシンボリルドルフに注力させるためがもう一つ。──果たして、俺が担当していればこうならなかったのだろうか。それとも、もっとひどくなったのだろうか。本田は度々自問した。
「ほれ、前に言ってた本だ。『フランツ・カフカ全集』。婚約者フェリーツェへの手紙が入った巻──の2巻目だ」
「ああ、ありがとうございます」
「ほんとうに筆まめだよな、カフカ」
果たしてこの本も役に立っているのやら。とりあえずゲーテよりカフカの方が薬になると思って選んだ本だが、本心は分からない。彼女の礼儀正しさが、内面を完璧に覆い隠してしまっている。しかし「走れメロス」より「人間失格」に励まされることがあるように、彼女には希望に溢れた本よりも、絶望と孤独の中に確かな優しさのある本こそが相応しいと本田は考えていた。
「それと、チーフからの言伝だ。『やりたいようにすればいい』。……その上で聞いてほしいんだが、学校曰く、そろそろ決断して欲しいそうだ。チーフは『直接相談できなくて申し訳ない』と言っていた」
事故以降、チーフとシンボリ家の仲が悪くなったかと言うと、そうでもない。チーフは高齢である。じき本田が後を継ぐという思いもあるだろう。でも本田は「本命はシンボリルドルフ」という思いを邪推しないではいられなかった。勿論、言ってしまえば原因は「不幸な事故」だ。直接的な骨折も、間接的な苦手意識も、どちらもトレーナーの腕とは関係のない「不幸な事故」──それで非難するのはおかしい、そういう理屈もある。そして、多分それが正しい。
「はい。寮についての催促は、私にも届きました。……やはり、きちんと退学するべきだと思います」
「いや、今すぐ決める必要はないそうだ」
これは嘘が混じっている。確かに、今すぐ絶対にやらなければならないわけではない。世知辛い話だが、中央を辞めるウマ娘は多いので、部屋不足の心配はない。しかしずるずるとここまで来ている以上、さっさとケツを引っ叩いて決断を促すべきではあった。
しかし、シンボリフレンドは他者に相談しない悪癖がある。今回の意思も、誰かに吐き出したり意見を貰ったりせずに決めたものだろう。続ける度胸も、諦める勇気も沸かず、楽な方にずるずると下り落ちた結果の産物に過ぎない。どの道を歩むにせよ「自分で選択した」という逃げようのない過去が彼女には必要だ。
かといって、口で相談しろと言って聞くものでもない。そもそも、相談できるような相手が居ない。今の彼女にとって、トゥインクル・シリーズやドリームトロフィーリーグに関われている者たちは、例外なく羨望の的である。かといって、レースに無関係な面々が理解できるか。できると、シンボリフレンドに思ってもらえるか。なまじ周囲に期待されまくったせいで、彼女は少しばかり自己を特別視しがちだ。
「しかし、どうしてもそうするべきだと……」
「ストップ。どうするべきという義務の話じゃなくて、どうしたいという願望の話をしたいんだ」
「……辞めるべきだと思います、ので、それが正しいと思うので、そうしたいです」
暖簾に腕押し。理屈がこうだから、感情がこう、とはならないものである。そんなことが叶うなら、心理学は不要である。しかし彼女の表情は、困惑と微かな苛立ちしか浮かんでいない。おおよそ「なんで正直な心情を話しているのに、怒られねばならないのだ」と思っているようだ。自分の本心に蓋をしているので、理屈で動かない感情というものが、自分でも上手く認識できていない。
結局のところ、彼女に必要なのは似た境遇の仲間なのだろう。とはいえ丸きり同じではいけない。全く同じ悩みの奴を連れてきても、いいとこ傷口を舐め合うだけだ。それでは解決に繋がらない。
「……そうか。たださっき言った通り、すぐ決める必要はないから、考えが変わったら教えてくれ」
必要なのは、似たように夢破れ挫折して、それでも尚、前を向いている者だ。
そして、そんな強い魂を持った者など、そういない。
時間も頃合いだし、本田は部屋を出て、もう一度タクシーを呼んだ。
タイミングがなくて挟めなかったシンボリフレンドのエピソード。
史実ではルドルフのデビューした年に予後不良で亡くなってるんですよね。