トレーナー君が欲しいシンボリルドルフ VS サブトレ時代のトレーナー君の相棒スピードシンボリ VS ダークライ   作:St. One is Stoned

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投稿が遅れて申し訳ありません。
親戚周りとか、自身の入院とか、親族の骨折とか諸々ありまして。


おかげで文字数が膨れ上がってすんません。


不幸は土砂降りでやって来る

 控室にて、シンボリルドルフは溜め息を吐いた。もう今日何度目かは分からない。

 これからパドックに出る。その後はゲートに入り、そうしたらもうレースである。このタイミングでメンタルに課題を抱えるのは宜しくない。そしてそんなことを彼のシンボリルドルフがするというのもらしくない。

 無論それには理由がある。

 シンボリルドルフのS、ビゼンニシキのB。二名の有力ウマ娘の頭文字を取って、今年の日本ダービーはSBダービーと呼ばれていた。一番人気で皐月賞を獲ったシンボリルドルフは言うまでもなく一番人気だが、前哨戦NHK杯を快勝したビゼンニシキも評価は高く二番人気。皐月賞と同じように、彼女ら二人が単枠である。

 しかし今年のダービーは、明確に皐月賞と違うところがある。それは「出走回避」である。シンボリルドルフの圧倒的な強さを前に、今年のダービーは出走回避者が続出し、戦後最少となる21名立て*1と相成った。

 ダービーは「最も運のあるウマ娘が勝つ」との格言がある。それは元来、ダービーは三十名そこらのウマ娘が一同に会す大レースだから、不幸にも実力を発揮せずバ群に沈むというのがままあったからだ。そういう意味では、()()()()()()()()()()()()、今年のダービーは実力と言える。

 しかし、他の者にとってもそうとは限らない。

「今年は折からの寒波と多雪で、ここ東京レース場の芝は極端に劣悪な状態だ。URAはこれを受け、コースに大量の砂を入れている」

「どうした急に」

「良バ場とはなっているが、砂が大量に入ったターフでは時計が出にくい。瞬間のスピードが発揮できず、逃げ・先行の前残りが有利になる。先行型のシンボリルドルフなら、中盤までに好位に付ければ得意戦術を使うだけで勝ちきれる」

「確かに。逆に後方から瞬発力で差し切るタイプのビゼンニシキには苦しい展開になりそうだ」

 今年の冬は記録的な寒波*2であった。なにせ三月下旬の宇都宮で10センチ超の積雪である。五月に入っても北海道の一部地域では40センチを超える降雪があった。故に芝の状態がとにかく悪い。(どっかで見覚えのある)観客の見解は真っ当であった。

 もともとビゼンニシキは2000mまでという見解が強く、2400mの日本ダービーは不利というのが大勢である。そこに来てこの大寒波であるから、ビゼンニシキにとっては泣きっ面に蜂というしかない。

 ──どうせなら、万全の状態のビゼンニシキに勝ちたかった。シンボリルドルフは独り言ちた。

 それは自身の努力とか才覚ではどうにもならぬ、いわば天命のようなものだが、皐月賞でのあの接触は、シンボリルドルフにとっても不本意だった。あんな勝ち方では、納得ができない。確信した勝利の誇りに傷がついたのだ。この再戦(リベンジマッチ)では、対等な勝負をしたかった。傲慢だろうが、それが本心だった。

「しゃんとしてください」

 徐ろにマリキータが声を発した。その声音には力があった。だがどうにも他人行儀であった。

右脚にギブスを巻いて、松葉杖をついている。上背のない黒鹿毛で、もとから充分小柄だったが、近頃は痩せぎすで幅も薄くなったように見える。

 4月に復帰したマリキータであったが、弱り目に祟り目。次戦のカーネーションカップにて、今度は右膝を骨折。またもや長期休養に入っていた。

 筋肉は、肉体に掛かる衝撃をサスペンションのように吸収する効果がある。しかし無闇矢鱈に筋肉を付けると、デッド・ウェイトとなって速度が落ちる。もとよりマリキータは、しなやかに絞った身軽さを活かした、抜群のバネが持ち味である。しかしこれはクッション性が低いことを意味するから、怪我のリスクが上がる。

 歴史に名を残す名ウマ娘という奴は、この二律背反の解決策をフォームに求める。洗練されたフォームは、肉体に余計な負荷をかけない。しかしそこに来てマリキータは、先の骨膜炎のせいでフォームが乱れている。これでは故障は避けられぬ。ざっとこういう理屈である。

 よってマリキータは、骨折を直した後、今度はフォームの矯正をせねばならない。言うは易く行うは、これがとにかく厄介で、一度染み付いた悪癖を取り除くのは並大抵の苦労ではない。人間もウマ娘も、ほんとうに体に良いことより、長い目で見れば毒なものに快楽を感じるものなのだ。猫背とかポテチの食い過ぎとか。

 要するにトリプルティアラの断念どころか、選手生命の断念もかくやという飛びきりの不幸を患ったマリキータである。選抜レースでバク転をかました姿は見る影もない。それでもダービーの本命たるシンボリルドルフに声を掛けられるのは、マリキータが強いだけではあるまい。

「レースに絶対はないよ。マリキータ」

 私は言い訳じみたことを言った。らしくないとは思うが、そうせずにはいられなかった。

「だからこそです。貴方が必ず勝つとも、ビゼンニシキが負けるとも、決まっていない()()()()()() レースに絶対がないのなら」

 「だからだ、マリキータ」

 私は幾らかの反感を持って答えた。

「私が勝っても、彼女や他の誰が勝っても、文句のつけようのない勝ち方がしたい」

 もっと言えば、彼女には何のしこりもない決着を付けたかったのだ。挑まれたからには全力で応えることは私のプライドである。そこに偶然とか天運とかと言われる傷を残したくはない。

「貴方は勝ったのです。誰が何と言おうと、勝ったのです。ですから、それを誇ってください」

「しかしだ、マリキータ。納得がいかないんだよ」

 理屈では分かっているが、感情が付いていかない。それはビゼンニシキに限らず、眼前のマリキータの遠慮や意志薄弱さにも求められる。

「それでもです、シンボリルドルフ。レースに絶対はありません。それでも結果は一回きりなのです」

 マリキータの論理は明快で、その理屈には一切の淀みがない。一見冷淡だがどこまでも正当な発言であった。その思想にはシンボリルドルフも両手を上げて賛成した。そしてマリキータから信念を感じれば迷いなく受け入れる度量もあった。

 シンボリルドルフは他者の顔を覚えるのが得意である。それは他者を能く記憶することができるという意味である。微かな変容でさえ、彼女は逃さず捉えることができる。

 マリキータに何かがあったということも、その何かが()()()()()()も大体察しはついている。だからこそどうにもならないということが良く分かる。立場の問題とか、嘘はよくないとか、そういう問題ではない。勝っても負けてもマリキータのコンプレックスを刺激するという意味である。

 この自身の実力による雁字搦めから彼女を解放したのは、彼女の生まれであった。

『時間です。宜しいでしょうか』

「構いません、ありがとうございます。今出ます」

 英才教育によって叩き込まれた帝王学には、メンタル管理も含まれている。要するにどうにもならないこと──しかも放って置いても設定した目標に差し障りがないもの──は思考から追い出すという手段である。

「ありがとう、マリキータ」そう言ってシンボリルドルフは控室を出た。既に表情に悔い憂いはなく、自信と誇りに満ちた笑みを浮かべている。

 レースに絶対はない。仮にそんなものがあるとしたら、それはあらゆる可能性を見据えた慎始敬終の果てである。傲岸不遜では勝てるものも勝てない。そしてマリキータはレースに真剣たれと言った。

 よってシンボリルドルフの行動は正しいといえる。

 控室のマリキータはしばらく動けないでいた。

 

 

「それで、結局君達はどういう作戦を立てたんだい?」

 徐ろにスピードシンボリが問うた。

 勿論、本田のできる回答は一つである。

「どうもこうも、いつも通りだ」

 実際、シンボリルドルフを勝たせようと思ったら、好位に付けての先行策が最も安全で確実なのである。奇策の類もないことはないが、多分使わないほうが強い。

「でも、今回はビゼンニシキが怖いだろう? あの逃げは中々強烈だった」

「分かりきったことを。レースは一対一ではない」

 ビゼンニシキは勿論警戒すべきだ、それは本田の心からの思いである。確かに、スプリングステークスで放ったあの逃げは見事に意表を突いた。あれはハマればかなり強い。しかし、なら積極的にビゼンニシキ封じをやるべきかというと、そうではない。

 塞いで逃げを封じるにせよ、俄仕込みの逃げを突いて自滅を誘うにせよ、ビゼンニシキを咎めるには、我々のペースを乱さなくてはならない。そこを突いて、ビゼンニシキでもシンボリルドルフでもない第三者が漁夫の利を得る可能性の方が高い。

「それにそもそも、ビゼンニシキが逃げをやって来る可能性は低いと見る」

 彼女の逃げは悪い意味で強烈である。ストップウォッチのような体内時計や、神憑ったレースコントロールによる封殺型の逃げではない。とにかく身体能力を武器に先手必勝をかけるタイプのものだ。ダイナミックで心を打つが、警戒されやすい。

 よって恐らく、出走するウマ娘の過半数がビゼンニシキの対策を用意してあるだろう。内容と対策の割れている奇襲は特攻とすら呼べぬ。

 そして、それを分からないビゼンニシキでも、それでも博打を打たないといけないほど追い詰められたビゼンニシキでもあるまい。差しか、先行か。恐らく、ビゼンニシキはまず逃げをしない。

 それに加えて、もう一つ。

「その()()がシンボリルドルフに来る方が、よっぽどまずい。考えておくべきなのはそっちだ」

「ああ、そうか。今回ばかりはそうか。器用さのせいで忘れていたよ」

 シンボリルドルフを脅威と捉えたウマ娘達が、暗黙の連携を取り合ってシンボリルドルフを封じにかかる。充分あり得る話である。

 普通なら、好位に付けられずとも差しを狙う万能性が彼女にはある。しかし、今回ばかりはそれは怪しい。バ場の問題もあるが、それ以上にシンボリルドルフが一強過ぎるのがいけない。

 皐月賞での勝ちっぷりと、大胆不敵なポーズ。称える者あり、批判するあれど、総じて現在のクラシックはシンボリルドルフを中心に回っている。「シンボリルドルフ頑張れ」にせよ「シンボリルドルフを打ち破れ」にせよ、シンボリルドルフが強いというのは最早共通認識であった。

 なまじビゼンニシキの脅威度が下がったばかりに、シンボリルドルフ封じを優先する陣営が居ないとも、その隙を突いてビゼンニシキが抜け出さないとも限らないのだ。

 よって今回の作戦はこうである。シンボリルドルフは好位に付けることを最優先とし、ビゼンニシキ封じに積極的に関わらない。しかし他陣営が封じ込めるのを妨害したりはしない。双方が封じ込めを躱した場合は、地力の差でビゼンニシキをすり潰す。双方が封じ込められた場合は、シンボリルドルフのレース勘に委ねることになるが、早目に好位に付けてビゼンニシキの息切れを誘うことになるだろう。

「結局、いつも通りが一番か。何だか……去年とは正反対だね」

 去年で、一瞬言い淀んだ。その意味が分からぬほど、 本田は無神経ではない。

「……レースに絶対はないぞ」

「その割には、君の拳は力んでいないじゃないか」

 彼女は目敏かった。本田が咄嗟に放った、皮相の反論は封殺された。本田は、シンボリルドルフのような機転も風格も持ち合わせていなかった。こういうことは、育った環境がものを言う。

 とはいえ、本田に分かることもある。それはとても分かりやすいからだ。恐らく、スピードシンボリはシンボリルドルフに対し羨望の念を抱いている。

 海外向けの、前に出るレース。それを切り拓いたのは間違いなく眼前の彼女である。そしてシンボリルドルフは、彼女が得たノウハウを幼少期から叩き込まれてきた。結果は見ての通りである。

 確かに、シンボリルドルフのレースはミスターシービーと正反対だ。だが、スピードシンボリだってどちらかというと後方から競り合うタイプである。それは走り方を早期から矯正されなかったせいでもある。それは当時ノウハウが無かったせいである。

 何もかも、昔とは違う。それはどうにもならないことで、十年も経てば現在すら過去になるのだから、きっと公平なことでもある。

 ただ、それは時代の流れを外から見たときの話である。半生を捧げて長い目で見られる、トレーナーの視点である。実際に走る彼女らとは、違うことを思っている。

 そして、お互いに違う視点を本当に見ることは叶わない。本田は、スピードシンボリにかける言葉を持たなかった。

『さあ、いよいよウマ娘達が、パドックに入ってきました』

 目を合わし難い沈黙の中、無神経に調子の良い実況の声が鳴り響く。ほぼ同時に、シンボリルドルフが入場して来た。

『一番人気、シンボリルドルフの姿も見えます。気合充分、これは期待ができそうです』

 実況の腕は流石なもので、声音は楽しげで、節回しは面白い。そして彼の眼は精確である。

 シンボリルドルフの様子には懸念がない。いつも通り走って、いつも通り前に出て、いつも通り勝つ。それができる者がどれだけいることか。少なくとも、隣の彼女にはできなかったことだ。

「流石だね。君は責任を果たしている」

 スピードシンボリが含みのある声音で言った。そこに潜んでいるものくらい本田にも分かったが、返す言葉は見つからなかった。

「君に恥をかかせる訳にはいかないからな」

 勿論これは的外れな返答である。本田は怖くてスピードシンボリのほうを向けなかった。必然、眼が向かうのはシンボリルドルフのほうである。

 そこにいるシンボリルドルフは、見事だった。あの強さを助けられたのなら、嬉しくはある。

 好位に付けて、勝つ。本田は検討を重ねたこの作戦に自信を持っているし、プライドも持っている。現場の判断による多少を変更はあるだろうが、概ねこうやって勝つだろう。本田は楽観していた。

 パドックのウマ娘の姿を観て、本田は確信した。

 

 

 弥生賞とも、皐月賞とも、違う。

 弥生賞では、私は防衛者だった。一番人気は私で、シンボリルドルフは挑戦者だった。

 皐月賞では、私は好敵手だった。一番人気は譲ったが、私も喰らいつけていた。

 だが、今は違う。

 このダービーにおいて、私は()()()()()()()()()に過ぎない。SBダービーと呼ばれるくらいには、挑戦者の筆頭格として扱われている。だがそれだけだ。対等ではない。あくまでも格上は彼女である。きっと、シンボリルドルフが2着を獲ったら誰も褒めてくれないが、他のウマ娘は2着でも称えられるだろう。

 奇襲を必要とするのは、いつだって追い詰められた者である。私のトレーナーは、ダービーでの逃げを提言した。同時に、スプリングステークスで逃げを放っていなければ、勝てる見込みは今より大きかっただろうとも、暗黙の内に伝えてきた。

 しかし私は、別段逃げを見せたことは後悔していない。あれは無茶だったが、結果的には良い方に転んだ──そうビゼンニシキは考えている。

 トレーナーはそう思っていなかった。私の逃げはダービーでかける奇襲に充分足りうると考えていた。でも私はそう思わない。

「私の逃げは、所詮鬼殺し*3だ。藤井システム*4みたいな代物ではない」

 最初は有利に立てるだろう。地力のない相手ならば、私の奇襲に慄いて手番を渡してくれるような相手ならば、きっとだいぶ気持ちよく走れる。

 私の逃げは確かに強い。曲がりなりにも奇襲として成立している。単なる拙速の攻め──相手が何も対応せずともかけた側が先に息切れする攻め──ではなくて、対応を誤れば一瞬で喉元に食いつく鋭さをを持っている。同期の、他の誰であっても、逃げで勝つことは可能だろう。十回やって数回だろうが、最初の一回は確実に余程うまく決まる筈だ。

 しかし奴には、シンボリルドルフには届かない。十回やって十回負ける。それは確信を持って言えてしまう。

「私が逃げの素振りを見せたら、多分他のウマ娘に動揺が走る。何名かは競り合うか塞ぐかしてくる筈だ。シンボリルドルフはそこを突いて、好位から万全にやって来るに違いない」

 トレーナーにはこういうことを言って説得した。不誠実なことである。付け焼き刃とはいえ、そこまでの作戦負けをするほど、私の逃げは甘くない。単純にシンボリルドルフと競り合って勝てないというだけだが、生憎トレーナーはそれを認めまい。

 とはいえ、トレーナーが必ずしも間違っているとも思えない。このまままともにやって、果たして勝てるだろうか。余りにも劣悪なバ場だ。シンボリルドルフと競う前に、そもそも他多数のウマ娘にすら競り負ける恐れもある。そこに来て逃げを選べば、取り敢えずシンボリルドルフ以外なら充分に決まる。肝心のシンボリルドルフ対策は諦めるしかないが、勝つことを諦めることはない。動揺し、私の逃げの潜在能力を見誤ったウマ娘が、何れ自滅すると勘違いして、私を無視して対シンボリルドルフの布陣を敷く可能性はある。要するに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、勝ちの目はある。

 ただ結局、それは風を待っているだけだ。吹けば勝ち、吹かねば負ける。吹かなければ、座して待とうが喘いで祈ろうがが変わりない。

 差しか、先行か。二十一名立てのダービーは紛れが多い。展開如何で大きく対応は変わるから、やってみるまで確定はしない。

 差しは私の得意戦法だ。私の脚、肉、骨。全てがこれに合っている。例年のダービーなら、間違いなくこれにした。

 先行は作戦勝ちを狙える戦法だ。今年のダービーに多分最も向いているのはこれである。スタミナに劣る私とは相性が悪いが、パワーのある私に重バ場は向いているとも言える。

 トレーナーは先行を勧めた。私は差しを信じていた。

 果たして、どちらが正しいのか? 結論は出なかった。高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対応する。決まったことはこれだった。

『時間です。宜しいでしょうか』

「ええ。……行って来い、ビゼンニシキ」

 やり残したことはないか。苦渋と後悔に満ちた表情で、二人は別れた。

 後悔はある。いくらでもある。でも、願わくば本当に風が吹いたときに、シンボリルドルフを倒すのは私でありたかった。

 

 

 日本ダービー。正式には東京優駿。第3回に施工場が変更されて以来、一度たりとも代替開催などで場所が変わったことがない。

 タケシバオーがタニノハローモアの後塵を拝した某年は、大規模改修が行われていながらも、開催時期をずらすことで対応した。

 花の七夕組*5がクラシックを競った某年は、インフルエンザの流行がありながらも、やはり開催時期をずらして対応した。*6

「ダービーは東京で」これはURAの意地であり、誇りである。それほどまでに思いの込められた、一世一代のレース。クラシックのなかでも別格であるのも頷ける。

 そんなレースに出られるのだ。それだけで、一生の名誉である。

 ただ、レースということは勝者がいる。勝者が他にいるのに、ただ出たことを誇るなど、滑稽ここに極まれり。

 どうせなら、勝つ。

 このレースは、やはり、シンボリルドルフを中心に回るだろう。抜群の実力、ずば抜けた人気。本当に彼女は強い。でも完全無欠かと言うとそうではない。まず間違いなく彼女はマークされる。序盤から中盤での不利を終盤で巻き返さねばならない。終盤、彼女が動き出しても間に合わないほどのリードがあれば、勝てる。

 実力だけで勝ったとは到底言えない、ダービーウマ娘の面汚しのような勝ち方だ。だが、それでいい。シンボリルドルフの面も、ビゼンニシキの面も、実況や観客どもの面も、全部呆気に取らせてやる。()()()()()の妨害者として、幾らでも誹られてやる。それがいい。それでこそいい。

 呆然と、落胆と、敵意の中、不敵に笑ってやろう。心の底から笑ってやろう。

 私はここにいる。アイツじゃない。私がここにいる。毅い(つよい)のは、倔い(つよい)のは、この中で一番強いのは、私だ。

「私の名前はスズマッハ。ゼッケン番号19番。今日の人気は21名中20番。髪は鹿毛で、体格はやや大型。荒っぽいが、芯があり、ここ一番には自信がある。それに、見たいものを追い求める探究心」

 それだけは、誰にも負けない。

 眼前には敵。背後には敗者。八方味方はおらず、瞳には敵愾心のみ。

 見たい。その景色が見たい。それはきっと、私が生涯見られる景色で、一番美しいものだ。そしてこの機を逃せば、絶対に見ることは叶わないものだ。そのためなら、()()()()()()()()()()()()()()()ぶっちぎるなど造作もない。そうだ、その景色のためなら、走れる。その景色のために──

「突っ走る!」

 拳を掌に叩きつけて、私は控室を出た。

 

 

 ある者は自分のために、

 ある者は誇りのために、

 ある者は野望のために、

 

 

 総てを賭けたレースが──今。

 

『スタートしました』

 

 

「うまくないね」

 スピードシンボリが呟いた。その眼は既に灯でギラついている。──流石だな。本田は内心舌を巻いた。ああも自虐的な振る舞いを一瞬で切り替えるのは、見事としか言いようがない。

『先頭争いですが、内からスズパレード。中を突きまして、フジノフウウンなど出てきますが、或いはラッシュアンドゴー、ニシノライデン、ややスローか。外を回りましてスズマッハも加わりました。第一コーナーに入ります』

 結論を言えば、出だしは六十点といったところであろう。スピードシンボリの分析は的を射ていると言える。

 先頭争いは、内側からスズパレード。真ん中あたりからフジノフウウン、ラッシュアンドゴー。外側からスズマッハ。若干遅れてニシノライデン。以上五名が入り交じってハナを争っている。ビゼンニシキは絡んでいない。

 では彼女はどこか。件のビゼンニシキは外目の7番手につけている。差しか先行か、とにかく逃げではない。スタートダッシュの様子からして「逃げを狙ったがあえなく失敗した」という落ちではない。最初から差しか先行である。ガン逃げしないのは、我々にとって都合が良い。

 と、ここまではさして悪くなく、寧ろビゼンニシキの位置を思えば悪くない出来である。では四十点の大幅減点に至った要因は何か。

 単純に、シンボリルドルフの位置が悪い。具体的にはビゼンニシキの更に後ろ、8番手あたり。少なくともとても先行とは言えない位置である。いつものレースならいざ知らず、今回ばかりはちとまずい。

 その間にも前方組は進出する。先頭に立ったのはスズマッハで、着実にリードを稼いでいる。

「潰しに来られたね」

 ビゼンニシキを伸び伸びと走らせてでも、そう簡単にシンボリルドルフの独壇場にはさせぬ。中盤あたりのウマ娘はそういう作戦を採ったのだろう。なるほど道理である。明快な道理ゆえに厄介である。

 観客席の一部に動揺が走る。ビゼンニシキの後ろというのがまずい。後方策のビゼンニシキは不利、よってそれより後ろのシンボリルドルフはそれ以上に不利。合理である。

「これは、まずくないかい?」

「抜かせ」

 とはいえ、やりようはある。スピードシンボリの表情にも余裕がある。寧ろシンボリルドルフと本田の真価を推し量るように、微笑の奥には鋭い眼光がある。

 観客席の多数派も、未だシンボリルドルフを支持していた。これまでの勝ちっぷりが彼らに夢を見せた。実際やや不利だがどうとなる展開である。

 とある観客が持論を述べた。

「確かに出だしで不利を食らったが、なまじ後方組が怖くないから、紛れも大きい。後方が怖くないなら、前の連中の意識は自然と同じ前方グループに向く。差しや追い込みに備えてリードを稼ぐ必要がないとすれば、抑え気味で後半にスタミナを残すという選択肢もある。そこを突いて、中盤から前に出れば、4コーナー前で先行の位置に付ける」

 それは本田の考えと概ね一致していた。

 この考えに基づけば、別にシンボリルドルフは負けていない。このバ場でそのやり方は消耗が大きく、ちょいとばかし不利ではある。しかしシンボリルドルフの基礎体力はそれを十二分に賄える。観客も本田も同じ考えをしていた。

 とはいえ、勝つために積極的に動き出すのは時期尚早である。勝負は第2コーナーを回って、向こう正面。ここで少しペースを上げて、好位に付けて、そのまま勝つ。

 向こう正面は観客席の正反対で、観客はウマ娘そのままの姿は見られない。代わりに電光掲示板が設置されており、ウマ娘の様子は良く見える。

 件の第2コーナーに入る頃には、混雑していた先頭争いにも一定の秩序が確立した。具体的にはスズマッハが先頭になった。スズパレード、フジノフウウン、ラッシュアンドゴーなど、他のハナを争ったウマ娘は、先頭を競わず好位につけている。

 そして勝負の向こう正面。観客席の丁度反対、電光掲示板にでかでかとウマ娘の姿が映る。いよいよ、来る。観客席の興奮が上がっていく。いよいよ、あの走りが見られる。ぬるっと勝っているシンボリルドルフの強さを長々と見られるのは、案外珍しい体験である。

『──ここだ』

 本田は拳を握った。スピードシンボリは瞼を下げた。口角が上がり、犬歯が覗く。

 しかし、それは困惑に変わる。

「馬鹿なッ!?」

 あるものが驚声を上げた。俄にスタンドには動揺が走る。観客はどよめき、うねりとなって広がっていく。反射神経の良い幾人かの絶叫すら聞こえてくる。

 シンボリルドルフが、動かない。

 巨大な電光掲示板にフル・スクリーンで浮かび上がる、シンボリルドルフの姿。その様態は悠々と余裕綽々。顔には笑みを浮かべており、焦りの色も、後悔の色も、欠片も浮かんでいない。さながら油断しきって玉座に胡座をかいた愚王という格好である。

 ここで、ビゼンニシキが仕掛け出す。じりじりと順位を上げて中盤で好位につけようとする。最終直線での差し切りは捨て、早いうちから前目に出ておくタイプの走り。自分の脚質と芝の状態に見事に折り合いを付けている。

 翻って、シンボリルドルフは変わらず7、8番手。未だ、動かない。

「走れッシンボリルドルフ! 走るんだァ──ッ!!」

 本田は人目も憚らず絶叫した。 拳はきつく握りしめられ、表情は困惑と羞恥と後悔が綯い交ぜになって一杯だった。何を見損なった? 何を為損なった? 皐月賞の勝ちにかまけて、俺は一体何を間違えたというのだ? 

 最早隣のスピードシンボリのことは頭から抜け落ちていた。情けない姿を見下しているのか、嗤っているのか、悪いのはシンボリルドルフだと慰めようとしているのか。そんなことはどうでもよかった。何を間違えたかがただ一つの問題だった。今更どうにもならないことだが、それしかなかった。

 第3コーナーに到る頃には、スズマッハは後続に3バ身のリードを確保していた。しかもまだ余力がある。垂れてきていない。外側からフジノフウウン、内側からスズパレード、その奥にダイゴウリュウ、その奥には──

 ほれ見ろ。誰かがそう言った。

 そこにはビゼンニシキが居た。7番手から既に上がってきていた。既に4番、いや3番手。ぐんぐん上がっている。向こう正面でギアを一つ上げて、好位に付けてきやがった。

 作戦通りだ! 但しシンボリルドルフがやる筈だった!

 ビゼンニシキはスタミナを使い果たしているが、少なくとも、シンボリルドルフよりは望みがある。ビゼンニシキのスタミナでもここまで来れたのだ。シンボリルドルフのスタミナなら、充分に、確実に届いた筈だ。

『あと、シンボリルドルフは、その後4バ身差の、前から7、8番手。今、ようやくエンジンがかかります』

「馬鹿野郎ォォォ───!!」

 脇目も振らない絶叫だった。最早それが自分のものか、他人のものかも分からない。声質は違ったように感じるが、喉に馴染むような絶叫だった。少なくとも、本田も同じことを思っている。今更、遅い。

『600を通過、第4コーナーをカーブ。スズマッハ逃げています。スズマッハ直線を向きました』

『あと、フジノフウウンが二番手から先頭に向きました』

『更に内からスズパレード。三頭並んでいます』

 三名のウマ娘が、激走する。クラシックの頂点、日本ダービーの最終直線。しかも、自分たちにとって有利なバ場。彼女らは三人とも逃げ・先行の前方タイプ。一世一代のレースで、後生一生の幸運に恵まれた。最高の名誉である。最高の追い風である。生涯一度きりの、否、何度輪廻を繰り返しても、二度と恵まれやもしれぬ、最高最大のチャンスである。誰も、譲るわけにはいかなかった。

『そのまま……外を回りまして……』

 スズパレードが先頭に立つ。頑丈な体がだけが取り柄だ。安定していても、爆発力が足りない。そんな私が、初めてここまで来れたのだ。なけなしの取り柄をここで使い果たす。後続の、フジノフウウンとは2バ身差。

『……が、ようやく突っ込んできた。……』

 フジノフウウンが懸命に粘る。産まれは三名の中で最も遅い。成績も伸び悩んでいて、今日ダービーがG1初出場。そして今後、ここまで来られる保証はない。だから、ありったけを。先頭の、スズパレードと1バ身差。

『或いは……並んで追い込んで来る……』

 スズマッハが喝を入れる。勝てるレースだ。偉そうに批評しやがった観客席の連中、私を弱いと、シンボリルドルフを最強だと宣った観客席の連中。そいつらに吠え面をかかせてやる。内から盛り返し二人に並ぶ。

 最早彼女らは三名だけの世界に入っていた。互いの足音と、服の擦れる音と、息遣いだけが聞こえてくる。隣の影と、目下どこまでも続く芝と、ほんの少し先にあるゴールだけが見える。芝の匂いと、互いの汗と、熱れだけが鼻腔をくすぐる。

 だから、盛り上がる観客も、盛り上げる実況も、信じがたいほど伸びゆく末恐ろしい足音も、感じなかった。

 誰も、信じなかった。

 観客すら、信じなかった。

 トレーナーも、誰も、最早信じていなかった。

 誰かが、こう呟いた。

「馬鹿な……」

『シンボリルドルフ追い込んできた。シンボリルドルフがどうやら先頭に並んで来た』

『シンボリルドルフ先頭です。シンボリルドルフ先頭で、二番手には内からフジノフウウン、中を突くスズパレード、或いは内盛り返すスズマッハ』

 あのシンボリルドルフが、機を逃し後方で燻っていた筈のシンボリルドルフが、既に三名の後ろに、否! 既に、とうに三名を一気に抜き去って先頭に! あの油断しきって滑稽を晒した筈のシンボリルドルフが、変わらぬ余裕綽々の表情で、単独先頭を突っ走っていた。

 レースに絶対はない。

 ある者は、練り上げた作戦で上位に躍り出ながらも沈んだ。

 ある者は、デッドヒートの末に先頭の景色を見ながらも、それをあっさりと第三者に奪われた。

 そしてある者は、誰もが見放すような状況の中で、一分の緩みもない勝ちを我々に見せた。

 ある者は呆然とした。

 ある者は歓喜の声を放った。

 ある者は悲痛な叫びを上げた。

『先頭はシンボリルドルフでゴールイン! シンボリルドルフ六連勝、無敗で二冠を制しました』

 

 

 皐月賞の一本指。彼女はそれに嘘をつかなかった。

 二冠、二本指。観客は絶大な歓声を放った。

 本田とスピードシンボリは、その圧倒的な強さとパフォーマンスに、完膚なきまでに打ちのめされていた。

「確かに、彼女のやったことは正しかった。ビゼンニシキのように、早すぎる仕掛けは最終直線でのスタミナ不足を招いたかもしれない」

 興奮冷めやらぬ様子で、本田は言った。

「勿論、ビゼンニシキとシンボリルドルフはスタミナが違う。ビゼンニシキは潰れたが、シンボリルドルフはそのまま勝ったかも知れない」

 その声音はらしくないほどに速く、彼の心情をどんな言葉より雄弁に語っていた。

「ただ、俺達の練った作戦より、アイツのアドリブのほうが上手だった。自分の実力と、相手の実力と、レース場の様子を、アイツのほうが能く分析していたんだ」

 その声は隣の女性に向いているが、眼はずっとシンボリルドルフを向いていた。だから彼は、彼女の心境を全く以て知らなかった。

「ルドルフに、レースを教えられたな」

 その声は、どこまでも無邪気だった。

*1
当時としてはかなり少ない。

*2
史実では昭和59年豪雪などと言われる

*3
将棋の戦法の一種。奇襲戦法で、対策を知らないと一瞬で詰む。逆に対策を知っていると、掛けた側が不利。

*4
将棋の戦法。プロから天守閣美濃をほぼ絶滅させ、時代を席巻した居飛車穴熊すら叩き潰した。定石をガン無視した革新性と、一手レベルで切り詰めた完成度を誇る

*5
史実でいう花の47年組。平地も障害も強い馬鹿みたいな世代

*6
このとき7月9日開催になったゆえ、このダービーは七夕ダービーと呼ばれ、この世代は七夕組と呼ばれるに至る(作中設定)




ビゼンニシキ
 得意なこと:将棋
 苦手なこと:気まずい相手と取り繕って話すこと



84年のダービーは、スズパレード、フジノフウウン、スズマッハがほぼ横並びで、シンボリルドルフが居なかったらそれはそれで伝説のレースになってそうですね。

……3頭横並びを1馬身綺麗にブッ千切るシンボリルドルフがおかしいとも言う。
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