トレーナー君が欲しいシンボリルドルフ VS サブトレ時代のトレーナー君の相棒スピードシンボリ VS ダークライ 作:St. One is Stoned
史実において、シンボリルドルフの菊花賞・JCあたりや、シリウスシンボリ全般はどうにも諸説あるようで(時代が時代なので当然なのですが)、いつも以上に「これが史実だ」と判断なさらないようにお願いします。
シリウスの気性が荒いとも、どっしり構える大物とも書かれてるくらいですから。
5月29日
「おまえ、こういうところに一人で入ったことはあるか?」
ある男が、割り箸を割りながら聞いた。微妙に割り損ねて、利久箸の上端が不揃いである。
「いいや。──こういうところに一人で入るのは、勇気というか、年季がいる」
もう一人の男が返した。両手を眼前の丼に合わせながら、苦笑しつつ話す。
二人の男はどちらも二十後半から三十といった風体である。とはいえ、きちんと締められたネクタイや、乱れていないスーツ、切り揃えられた髪など、だらしなさは感じられない。第一こんなところに仕事でも上司の奢りでもなく来られるのだから、うだつの上がらない中年などでは断じてない。
片方の男が、こう言った。
「では、あれは何なんだろうな?」
あれというには語弊があるが、相方にも片割れの言わんとすることはよく分かる。
それは女性、もっと詳しく言うならウマ娘の少女であった。黒鹿毛の長髪で、額には小判のような流星がある。身長は155cmほどとやや小柄で、体つきも相応に平坦。純粋に容姿だけを見れば、中学生のようである。雰囲気はかなり大人びているが、モデルか何かと考えれば充分納得できる。もしかしたら西洋の血でも入っているのかもしれない。二人もよりによってここで見なければ、そう納得していたに違いない。
しかし、よりによって、ここで? ここはうなぎ屋である。うなぎ屋で、少女が一名で、カウンター席に座って、上品に料理を待っている。
カメラはない。主人が応対している様子もない。バラエティ番組の撮影とも、タイアップ企画の撮影とも思えない。第一、取材ならうな重を頼むはずだ。
一体、あれは何なのだろうか。将来の天才モデル? 有名人のお忍び(ひょっとしたら、流星は染めているとか)? あやかしや物の怪の類?
一つ言えるのは、二人ともさっぱり分からないということだけである。二人はお互いに顔を見合わせ、一つの結論に至った。
『女将さん、注文を』
折角のぜいたくである。わけの分からぬ物事にうつつを抜かして、下が濁ったら目も当てられない。二人は、このことを忘れることに決めた。
よって、彼らはこの後暫くしてあったことを知らない。
「君は、もう少し自分が有名人だということを自覚したらどうだい」
暫くして、うなぎ屋にもう一名ウマ娘がやって来た。帽子と眼鏡をかけた鹿毛のウマ娘である。身長およそ165センチ。流星はないが、やけに前髪がボリューミーなのが目を引いた。表情は若干の呆れと疲れを匂わせている。
「小腹が空きまして。こう、ふらりと」
眼下の黒鹿毛がそう返した。うなぎ屋におやつ感覚で入れる財力は流石である。鹿毛も相当な家という自負があったが、家柄においてはやはり黒鹿毛に軍配が上がる。何より食事回りの所作や教養は鹿毛の到底及ばないところに居る。
付け加えて、彼女は極めて探究心旺盛であった。しかし名家の束縛の反動かというとそうではない。寧ろ格式ある家は積極的に世界を見るべしという一種のノブレス・オブリージュによるものだから、尚の事たちが悪い。具体的には、ある意味正論だから跳ね除け辛い。
「第一、これから何処へ行くと思っている。そこでも食事はできる」
「少し早く着いてしまったもので。少々口寂しかったのです。……テイクアウトもできますよ」
「……それなら、骨せんべいを頂こう」
鹿毛の非難は暖簾に腕押しであった。鹿毛は嘆息し、財布からカードを出した。この場は唯々諾々と従っていたほうが、よっぽど此奴を早く連れ出せると悟ったのだ。伝統感あるうなぎ屋で、キャッシュレス決済というのが、どうにも違和感がある。
注文を受けた店員が調理して、それを包みに動き出す。
「遅れましたが、おめでとうございます」
その間に黒鹿毛がこう言った。所作は綺麗で、腰が低い。もとから小柄な体格がますます小さく見える。しかし、これで重バ場を得意とするパワー型なのだから意外である。
「ああ、ありがとう。だがそれを言うなら、君もおめでとうを言われるべきだ」
「あら、既に言って頂きましたわ」
「メールではね。口で言うのは、君と同じように初めてだ。……おめでとう、トウカイローマン」
丁度そのとき、骨せんべいが出来上がったようで、二人は店を出た。
トウカイローマンは、名前の通りトウカイ家のウマ娘である。同時に、先日のオークスを9番人気で勝った、オークスウマ娘でもある。
トウカイ家とは、メジロ家やシンボリ家に並ぶ──というか血筋ならそれらをぶっちぎるくらい由緒正しい旧家である。どれくらいかというと、旧華族である。宮内庁がまだ宮内省のころに、アメリカ式のウマ娘の技術を導入したとして華族に列せられたのが初代である。
とはいえ、トウカイ家という名前はさして有名ではない。トウカイの名を冠するウマ娘こそ多くいるが、メジロ家やシンボリ家のように歴史に名を刻む名ウマ娘には、余り縁が無い。
確かに、血筋や伝統という面では抜きん出ている。しかし、それを一般人がどれほど知っているだろうか? 人間だって、旧華族の某家がどうとかなど、芸能人のスキャンダルより遠いお話である。専ら走るウマ娘なら、言うまでもない。
そのせいかは知らないが、トウカイローマンは割と自由奔放である。これは彼女が異端児なのではなく、トウカイ家そのものの気風であることは、姪*3を見れば自明であろう。
そして今、トウカイローマンの隣を歩く鹿毛は、まさにその奔放さに手を焼いているところである。傍らの骨せんべいは別に重くないはずだが、鹿毛は肩を落としている。
「まだ5月というのに、今日は暑いですね」
「……全くだ」
「近頃はクールビズが流行りというのに、こういう格好をするのではありませんでした」
「…………全く以て、その通り」
「どうしました? 元気がないですよ。……そのカツラを脱げば、幾分涼しくなりましょう」
「誰のせいだとっ」
対象的に、肩で風を切って歩くトウカイローマンに対し、鹿毛は食い気味に反論した。しかし言っても無駄だと察したのか、それとも暑さにバテたのか、勢いはすぐに失われ、代わりにがっくり項垂れた。
鹿毛は他者を操ることにおいて、それなりに自信を持っていたのだが、ことトウカイローマンにはこれが全く通用しない。
「……真面目な話、さっさと目的地に行こうじゃないか」
鹿毛にできることは、とにかく此奴を急かすこと、それだけだった。
その努力が報われたかは議論の余地を残すが、ともかくそれから暫く歩き、二名は府中市のとあるとんかつ屋に居た。ここの予約がしてあったからこそ、鹿毛はうなぎ屋に入ったトウカイローマンを非難したのである。
とはいえトウカイローマンもそれはきちんと承知していて、うな重とかそういう重いものは食っていない。決してトウカイローマンは浅慮ではない。それがある意味腹立たしくもあるのだが、鹿毛がなんだかんだ付き合いを持っているのも、致命的なことをしでかすタイプではないというのが大きい。
さて、話を戻すと、ここのとんかつ屋は少しばかり独特である。というのも、ここは全席個室なのだ。あとクリームチーズのラー油和えが絶品だったりもする。
そして、数ある店の中からここを選んだ最たる理由は、この個室にある。鹿毛は個室に入ると徐ろにウィッグを取った。個室だから、変装の必要がない。
ウィッグの下から出てきた髪は、同じように鹿毛であった。ただし額のあたりに三日月の流星があった。
「とんかつ定食、二つ。飲み物は、緑茶と麦茶を一つずつ」
その間にトウカイローマンは注文を済ませていた。勿論この内容はシンボリルドルフに予め聞いたものである。
料理を待つ間に、シンボリルドルフが問う。
「チームの調子はどうだい?」
「やはり、かなり良いチームだと思いますよ」
トウカイ家は専属のチームを持っていない。とはいえ彼女の所属しているチームは上の中くらいの名チームである。トレーナーの腕も折り紙付き。トウカイローマン自身はこれを身に余る幸運と捉えているようだが、シンボリルドルフはそう思っていない。実力に対する正当な対価と捉えている。運だけで勝てるほど、トレーナーだけで勝てるほど、オークスは甘くない。
「貴方こそ、相当調子が良さそうでしょう。……テイオーが貴方を見て大はしゃぎしていたわよ」
「テイオー……君の姪か」
「ええ、他にも憧れた子達と、ルドルフさんに並ぶ無敗の三冠ウマ娘になってやる! って……」
「それは、また……」
別にまだ無敗どころか普通の三冠も取っていないのだが。憧れてくれるのは嬉しい反面、こそばゆくもある。それに、居た堪れなくもある。
「それどころか、そもそも菊花賞に出るかも、怪しいものでしょう?」
「……何を言っているんだ?」
「カマかけではありませんよ。URAの海外事業部門には、トウカイ家も一枚噛んでいますもの」
シンボリルドルフは丁度、史上初の無敗の三冠に
「……7月の、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス*4に出るという案がある」
「お戯れを。日本を盤石にする前に、一足飛びに行く筈がないでしょう」
シンボリルドルフは嘆息した。幾らなんでも、トウカイ家がここまで掴めるはずがない。よってこれはトウカイローマン自身の推論である。そしてそれは概ね正解でもある。
シンボリルドルフは降参して素直に話した。
「6月末の高松宮杯*5でシニア級相手に実力を試した後、ミスターD.ステークス*6で海外に慣れて、最後に凱旋門賞──今、シンボリ家ではこういうプランを立てている」
「それはまた。剛毅というか、唯我独尊というか」
「分かっていると思うが、余り口外はしないで欲しい。今マスコミへ発表するタイミングを見計らっているところだ。機を誤れば、菊花賞を回避したことへの不満が噴出しかねない」
「それは勿論。とはいえ、私としては早く発表して頂きたいものですけれど。菊花賞で貴方を破らんと息巻いている者は案外多いのですよ。サクラトウコウ*7さんやロングハヤブサ*8さんも、菊花賞には間に合うという話ですし」
「それは……」
シンボリルドルフとしては、傲慢ながら申し訳無さを感じずにはいられなかった。
結局のところ、この後暫くにシンボリルドルフが筋肉炎を発症したため、今年の海外遠征はお流れとなった。果たして万全の状態ならばどれほど活躍できたのかは分からない。またシンボリルドルフの居ない菊花賞がどのようなものになり、その後の歴史に何を齎したのかも分からない。
ただ、当時の彼女らにとっては、それは預かり知らぬ話である。
『料理をお持ちいたしました」
この重苦しい雰囲気において、店員の済まし声は干天の慈雨である。旨い飯を食っている間は、人間もウマ娘も気まずさを感じなくて済む。食事中は喋らなくていいのだから。
しかしシンボリルドルフは箸を途中で置いた。それはそれだけその話が重要だからでもあるが、食事という逃げ道を残して置かなければならなかったという切実な事情がある。それにこの話は、余り見ず知らずの他人にも、逆に親しい知己にも、余り知られたくない話でもある。そしてそれが今日の本題でもある。
それは、マリキータについてであった。
「君から見て……最近のマリキータは、どうだ?」
「……貴方が察している通りだと思うわ」
マリキータの怪我は大変重い。そしてその後のリハビリもまた大変長引くことであろう。
クラシックを前にして故障、というのは割合多い。それに悲劇の名ウマ娘としてセンセーショナルに報じられるから、尚更印象に残る。よって言い方は悪いが、自分を慰めることはそこまで難しくない。
しかし、クラシック級をまるまる棒に振ったとなると話は変わる。付け加えて、マリキータは晩春に一度復活している。そしてそこで凡走している。
こうなると最早「終わった」という思いが、自他ともに過ってしまう。
当然メディアもそう思う。無論ファンもそう思う。
となると、彼女のようなケースは余り報じられない。別に彼女がこの世で最も不幸とかそういうわけではない。しかし目の届く範囲ではかなり下の方になってしまう。自分が神に嫌われているとか、最早どうしようもなしとか、そういう暗い思いが頭を完全に埋め尽くしてしまう。
「私は……同じティアラということもあるし、貴方ほど成績を残せていたわけでもないし、幾分心を開いてくれてはいたけれど……」
過去形である。文字通り、それは過去の話なのだ。
「誰か、どうにかできそうな者は居るか?」
「私の知る限りでは。……それに隣の芝生は青いと言うわ。どん底に落ちたときは、どうしても他者の恵まれた点ばかり見つけて嫉妬し過ぎるものよ」
最早、どうしようもなしか。二名の空気はさっきとは別の意味で重くなる。
さっくりとしたとんかつの衣の音が心地よい。どんよりしたお互いの息遣いが居心地悪い。
トウカイローマンは付け合せのクリームチーズのラー油和えに箸を伸ばした。舌で溶けるクリームチーズはくどく、ラー油の辛味はやけにまどろっこしかった。清涼感が欲しくて、トウカイローマンは麦茶を一気に呷った。
「私の走りは、何か他者の心に響くものだろうか」
シンボリルドルフが陰りのある声で言った。
「それは響くわよ。現に、テイオーは貴方に憧れている」
「しかし、マリキータに響くとは、思えない」
「得てして、近すぎる相手より見ず知らずの他者の方が、思いは伝えやすいものよ。知りすぎていれば己を投影できないもの」
トウカイローマンの声は無慈悲で正鵠を射るものである。シンボリルドルフも良く承知していることであった。
「ならば、全くの他者──いっそのこと、トウィンクル・シリーズではないものを見せれば、どうだ?」
「貴方や私が遮二無二走るよりは」
それと比べられている時点で、察するべきである。
気を紛らわすために摘み続けていたせいで、食事は食べ終わっている。そして話はおおよそ纏まった。どうしようもないという見解が一致したという意味で。
「私も、気を配ってはおきます。彼女はしなやかです、曲がりきっても折れることはないと思いますから……」
「ああ、私もそうするよ。……それしか、できない」
長々と居座るのは迷惑である。第一予約では終了時間まで決まっている。二名は店を出た。
若々しいお互いの胃は、やけにもたれていた。
9月16日〜28日
そのウマ娘は、当然ながらデビュー前からチームに所属していた(管轄はチーフ)。それどころか、しばしばシンボリルドルフの並走相手になってくれていたので、本田は感謝と尊敬の念を抱くと同時に、強く期待もしていた。
彼女の名前はシリウスシンボリ。アリオトに所属しており、今日、中山レース場にてデビューするウマ娘である。大抵のことでは動揺しない図太さと、シンボリルドルフすら凌ぐ可能性のあるフィジカルを持つ。切れのある脚というより、長続きする脚で勝つ、スピードよりパワーのタイプ。敢えて欠点を挙げるとすれば、足回りがどことなくすとんとしすぎていて、脚部不安がついて回りかねないといったところか。逆に言うと、それ以外は申し分なし。シンボリルドルフに並走していた以上、半ばシンボリルドルフにしごかれていたようなものだから当然である。
当日、彼女はタカノミノブに次ぐ二番人気。コースは芝、距離は1600m。バ場は稍重で、シリウスシンボリの得意な状態。
ここで、彼女は一つミスを犯した。というのも、出遅れてしまったのだ。
初っ端からやらかしたわけであるが、仮にもシンボリルドルフに並走できるガッツがある以上、デビュー戦では図抜けている。明確に出遅れながら、しかし、彼女は後方から追い上げるレースで、1番人気のタカノミノブを躱して一着になった。
その勢いのままに、シリウスシンボリはOP戦である
ここでシリウスシンボリは、前走の快勝の甲斐あって、十名中一番人気に据えられた。
そして、彼女はまたもやミスを犯す。
3枠からスタートした彼女は、申し分ない実力によってゴール板を1位通過。
しかし、彼女は斜行していた。URAの裁決は失格。真っ先にゴールに辿り着きながら、一気に彼女は転落した。一着が失格、というのは当時稀なので、幾らか話題にもなった。
ここで説明を加えると、当時、URAには降着制度が存在しなかった。そうなると残された判決は、失格或いはお咎めなしの両極端。それによって、皐月賞におけるシンボリルドルフなどは一着であったという事情がある。それもその筈、そもそもURAの降着制度自体、皐月賞での一件と、もう暫く後のとあるウマ娘のやらかし──それはもう度重なるやらかし──を受けて制定されたものだからである。
無論当時は
当然ながら、シリウスシンボリが斜行したのはシリウスシンボリ自身と、それを指導するトレーナーの責任である。敢えて言うなら、ツイていなかったというだけだ。
しかしながら、自分より明るい場所に居る者が、順風満帆であることは、それなりにフラストレーションが溜まるのである。
9月30日
先述の通り、シンボリルドルフの海外遠征は取り止めになった。それは彼女の体調不良に起因するものなので、シンボリルドルフは夏を丸ごと休養に充てていた。
その、無敗の二冠ウマ娘たる彼女の復帰戦が、今日である。
セントライト記念。初代三冠ウマ娘セントライトを記念して作られた、G3*9レースである。距離は芝2200で、今年は10名立て。
至極当然のことながら、一番人気はシンボリルドルフであった。そしてご多分に漏れず、一着はシンボリルドルフである。ちなみにレコード勝ち。
まさに順風満帆、向かうところ敵なしである。本レース2番人気で、実際にシンボリルドルフに次ぐ2着に入ったオンワードカメルンは、レース後のインタビューでこう語る。
「とても菊花賞へなんて行けません。偉大なウマ娘が一名居ますから。自分の力に合ったレースを、これから使っていきます」
ここで補足情報を挙げると、このオンワードカメルンは皐月賞では人気薄ながら3着と好走し、ダービーでは掲示板こそ逃したが21名中6着と、はっきり言って世代上位の実力者である。決して、セントライト記念はまぐれ勝ちではない。寧ろ極めて当然の結果である。シンボリルドルフに次ぐ実力者として、充分に名を挙げて良い。
菊花賞に行けなかったウマ娘は数多い。その中には、出られれば勝てたと信じたくなるような実力者だって居る。しかし、行けるのに端から勝てないと諦めるのは、そうない。もとよりウマ娘は負けん気が強いのに。
実際彼女はこれ以降、G1どころか重賞に一切出走せず、条件戦とOP戦に挑み続けることになる。彼女の選択が正しかったか間違っていたかは、判断のしようがない。ただ一つ言えることは、シンボリルドルフは強かった、ということである。
参考までに、本レースのシンボリルドルフとオンワードカメルンの着差を確認してみると、その差は3バ身であった。
10月1日
セントライト記念の快勝は、とある余波を産んだ。そのあまりの強さを見たファン達に、一つの期待が産まれたのだ。
「シンボリルドルフなら、ジャパンカップにも勝てるかも知れない」
ジャパンカップ。一昨年に創設された、日本初の国際招待競争であり、初の国際G1である。
第1回は北米、並びにアジアからの招待に限られたが、翌年からは欧豪にも拡大。さらに昨年からは、ローカルシリーズのウマ娘も招待候補に加えられた。その参加国の多さから「世界一の競走」「競馬のオリンピック」と評されることすらある。創設から格付けまで、極めて浅い歴史ながら八大競走と同格として扱われた、日本屈指の誉れあるレースである。
三冠か、世界か*10。
俄にファンで討論が巻き起こった。それはある場所ではシンボリルドルフはどちらに出走するのかという予測であり、ある場所ではどちらに出走するべきかという論争であった。
とはいえ、何処においても、彼らの意見はある一点で一致していた。
「もしシンボリルドルフが菊花賞に出れば、必ず勝つ」
他の出走者にしてみれば、余りな話である。
今日、本田がシンボリ家に来たのもそのためである。大事だから、隣にはチーフも居る。二人とも、シンボリフレンドの見舞い以外でここに来るのは久々であった。無論、打ち合わせが終われば顔を見せるつもりではあるが。
本田としては、菊花賞に行くべきであると考えた。ファンはやはり三冠派が主流だし、これまで戦ってきたライバルや、レースを運営してきたURA、クラシックという誉れを産んだ伝統を思うと、三冠を獲っておくのが筋であると考えたのだ。
会議でも、そう主張した。
「専属トレーナーとしては、菊花賞への出走を提言します」
会議で先手を取ったのは本田である。チーフは声こそ発していないが、頷きや睨みで暗に同意を示す。本田はここでイニシアチブを取っておきたかった。
「現状、シンボリルドルフの──いえ、トゥインクル・シリーズのファンの大多数は、菊花賞を希望しているのが現状です。三冠達成にせよ、シンボリルドルフ討伐にせよ、菊花賞ではっきりさせておきたいと」
何故本田がこうも短兵急に行動したかというと、ことは単純、シンボリ家ではジャパンカップ派が根強いのである。革新的で、欧米の先進的な面を積極的に取り入れてくれるのは、本田も感謝している。しかしながら、今回ばかりはその欧米主義が憎らしい。当代の当主が心情的には味方なのは救いである*11が、同時に彼は極めて民意を大事にする名君なので、いざというときに頼りになるかは怪しかった。
実際、シンボリ家の反応は悪かった。
「しかしね、君……わたしたちとしては、海外進出によって国内レースの振興を促す立場にいるのだから……」
よく喋りそうな男が反論した。その鷹揚なきき方こそ、社内の海千山千のやりとりに、なれすぎた大人の言葉遣いで、それを聞いた者が苛立ちを抑えたのは、ひとえに慣れか教育によるものだった。
「弱国たる日本が海外に挑むのならば、完膚なきまでに最強たるものが挑むのが礼儀というものではなかろうか」
チーフが割って反論を抑えた。よく喋る奴が論点を変えようとするのなら、こちらも変え返すのが手っ取り早い。その役は常にチーフが務めると打ち合わせておいた。シンボリルドルフの担当である本田は、常に論理的で、冷静な議論を行わなければならないのである。さもなくば心証が悪くなる。
「シンボリルドルフ、彼女は強いよ。それに既に二冠を獲っている。無敗の二冠ウマ娘が、国際レースで前年度の三冠ウマ娘を打ち倒す。シンボリルドルフの格というものは、これで充分では?」
「URAに確認を取ったところ、『三冠のほうがコラボ商品やキャンペーンがやりやすい』という回答を頂きました。ここはURAの顔を立てるべきでは。あの組織が割と金に困っているのは知っての通りです。恩を売れます」
チーフは再度反論を行った男の方を向かず、金回りを担当する男達の方を向いて言った。
「それはあの組織の旧態依然さに求められよう。ここいらでメスを入れたほうが、結局は彼らのためだ」
チーフがあちこちに話題を散らして牽制している間に、本田は体勢を整える。
「シンボリルドルフは未だ成長途上にあります。このタイミングでのジャパンカップは、正直なところ保証できかねます」
用意できたのは詭弁であった。しかしウマ娘の様子に最も詳しい者が言うのだから、事実を疑ってかかれるものは居ないので、これで良い。その筈であった。
しかし、シンボリ家の者はやはり上手だった。
「本田殿の慎重さは美徳だが、今回ばかりはそれが足を引っ張っているように思える。貴殿はルドルフ君を信用していないのではないか。それは人間として弱い考えだ」
精神論であり、まともではない。哲学の皮を被っているが、事実を曲解して難癖を付けているに過ぎない。しかし付けられた場所がまずい。詭弁に過ぎず、説得力はないのだが、一見正しそうに見えるせいで瞞着力はある。しかも、容易に反論できない位置への攻撃ゆえ、即座に否定できない。無理に否定しようと感情論になる。これまで実利と合理で論述して来た本田がそれをやると、発言全体の信頼性を疑われてしまう。
無論、話題を逸らして逃げることはできる。しかしボディーブローを一発貰った以上、スタミナでは向こうが上だ。幾ら躱しても、いずれジリ貧になる。
──これは、まずい。
本田は焦った。幾ら当主が菊花賞派とはいえ、
つまり、これでは──
「少々宜しいでしょうか」
その時である。シンボリルドルフが、いきなり発言した。
「
──ちょっと、待て。
にわかに内容を察した一部が色めき立った。当然である。
咄嗟に本田はシンボリルドルフを制した。
「お話中失礼します。……シンボリルドルフ、君は──」
「委細承知いているとも」
シンボリルドルフは涼しい顔で言った。彼女の顔は平然としているが、本田の顔は驚愕と呆然が混じり合って形容しがたい程であった。
それは、余りにも無茶苦茶だ。
「お集まりの皆様方、私は優劣を付けません。──菊花賞とジャパンカップ、双方に出走致します」
それは、余りにも非常識だった。
■
結局、シンボリルドルフの意見が通った。シンボリ家の面々の思考の根っこには「シンボリルドルフは強い」という固定観念がある。シンボリルドルフはそこをうまくくすぐった。しかし本田やチーフにしてみれば、初めからジャパンカップ路線で同意していた方が余程良かったという結論だった。
万全のコンディションで出走できないとか、そういうレベルの話ではないのだ。人間とは比較にならない負荷の掛かるウマ娘において、体調不良は即ち故障のリスクに繋がる。
「姉上を知らぬわけがあるまいに……」
いつの間にか本田はそう零していた。チーフは咎めたが、それは姉を当て擦る内容だからであって、一言も彼女への皮肉に対する叱責は存在しなかった。
何時ものようにウマ娘の使いに案内されて、本田とチーフは彼女の部屋の前に立った。当然ながら、シンボリルドルフは居ない。スピードシンボリらとジャパンカップの相談をやっている。
二人がかりだが、扉は重い。彼女とは、幾らか疎遠になっている。
既に、彼女はトゥインクル・シリーズに所属していない。そしてお察しの通り、ドリームトロフィーリーグにも居ない。勿論、トレセン学園にも居ない。
シンボリルドルフはダービーで快勝した。それも、トレーナーの作戦を超えて。それはとても素晴らしいことだが、それが毒になることもなる。
そして毒はある意味では薬にもなり得る。
シンボリルドルフのダービーは、単なるきっかけである。彼女は既に折れていた。しかし彼女の走りが最後に背中を押したのもまた事実である。
「入るぞ」
チーフがそう言った。
あいも変わらず嫌に整頓された部屋である。いや、寧ろレースのテープ(古いレースはテープタイプも多い)が処分されたことで、さらにすっきりと気色悪い部屋になっている。そんな筈はないのに、本田は消毒液の匂いを幻覚した。
「会議は終わったのですか」
「ああ」
「その様子だと、嬉しくない内容になったようですが」
「……ああ」
シンボリルドルフにその気があったかは別として、議決はかなりシンボリフレンドを当て擦るものだから、できれば正直に言いたくなかった。しかしシンボリフレンドは賢明である。チーフと本田の努力をあっさりと打ち破った。
「菊花賞とジャパンカップ……両方出るそうだ」
シンボリフレンドは目を見開き、そして歯ぎしりした。礼儀の正しさが本心を包み隠す彼女には珍しいことである。
当然である。彼女は脚部不安で引退した。それまでの間、ついぞ彼女は満足行く結果を残せなかった。それとは対象的に、順風満帆に突き進む、ただでさえ気に入らない妹が、負担の大きいことをやるのだから、彼女の心情は察するに余りある。
皮肉か、当て擦りか、無関心か、傲慢か。
本田に言わせれば、シンボリルドルフはどれでもない。彼女はシンボリフレンドを家族として尊重しているし、大事にしている。同時に自分の野望と、周囲の期待と、家のしがらみを全て解決する方法を、極めて論理的に考えられる才能もある。付け加えて、思考から感情を排する技術もある。
要するにシンボリフレンドの疑惑は不当で、シンボリルドルフは極めて正当なのだが、だからといってシンボリフレンドを責める気にはなれない。あれは神とか、皇帝とか、法律とか、極めて上位で厳格なもの特有の、傲慢さに溢れる正当である。少なくとも、眼前の彼女には何の助けも齎さないものである。
ただ、環境が似通えば、やはり性格は似てしまうようである。
「それが、正しいと思います」
既にシンボリフレンドは取り繕いきっていて、もう感情を読み取ることはできなかった。
無論推し量ることはできる。しかしそれを表出させない以上、本田達には手段がなかった。
「これからどうするんだ? 進路とか……。お前は、永遠にじっとしていられる奴ではないだろう」
仕方なしにチーフは話題を変えた。
「分かりません。やっているところを妄想できることはありますが、やりたいとは思えません」
夢はある。しかしそれを夢と定義して、もう一度歩き出すことは出来ない。失敗するのが、怖い。
「それでえい。例え何も出来んとも、何が良いかが分かれば、何が嫌かも分かる。そうすりゃ、終わった後に後悔することだけはなかろうて」
チーフは優しい声で言った。優しくあろうとするとき、彼は訛りが出る。勿論、故郷の方言ではない。長年全国から人が集まる仕事をやって来たもの特有の、煮凝りのような訛りである。
「はい、ありがとうございます」
それがどれほど届いたのかは分からない。とはいえ、何もしないよりは幾分ましだと本田は思った。
それが、全てが終わったとき、やれることはやったと言い張るための、言い訳でないとは断言できなかった。
10月21日
京都レース場・11R。京都新聞杯。菊花賞トライアルレースで*12、距離は芝2200m。
当然だけれども、そこにシンボリルドルフは居ない。なぜなら、居る必要がないからだ。
だが、代わりに、己の走りを試すには充分な相手が居た。
一名はサクラトウコウ。ヴィクトリー倶楽部出身のウマ娘で、ジュニア級では活躍した。脚部不安による休養を終えて、この京都新聞杯で復帰した。
もう一名はロングハヤブサ。私達の世代の最優秀ジュニアウマ娘の冠を頂いた存在。彼女もまた、長期休養明けの復帰戦に、この京都新聞杯を選んでいる。サクラトウコウは三番人気。ロングハヤブサは八番人気。流石に時間が立ちすぎているから、人気は低めだ。ちなみに、一番人気はスズマッハ*13。私はそれに次ぐ二番人気。
私は、デビューが遅かった。クラシック級に上がってから、初めてデビューしたほどだ。それでも、皐月賞からクラシックに絡めたことには、間違いなく運が絡んでいる。ダービーにて、ギリギリ掲示板に滑り込めたのも、あのバ場のおかげだから、運によるものだ。
だが、菊花賞だけは、実力で戦って、勝ってやる。
そのためには、菊花賞で待ち構えているシンボリルドルフを打ち破るためには、ここで勝たなくてはならない。敗者には挑戦権すら無い。サクラトウコウとロングハヤブサ、彼女らが居るのは都合が良い。強敵を打ち破ってこそ、己の力を信頼できる。
真っ向勝負で、三冠を阻む。
挑むだけならば、ここで勝てばいい。そうすれば菊花賞に出られる。けれども、三冠を阻むなら、それだけでは足りない。サクラトウコウも、ロングハヤブサも、全て置き去りにしてみせる。シンボリルドルフに挑むのは、彼女たちでは断じてない。
この、ニシノライデンだ。
鏡の前で、前髪を掻き分ける。墨をつけた筆のとうな流星が消され、鹿毛の奥から額が現れる。G1の勝負服ほど、自由な装飾は出来ないから、こういう工夫するしかない。私は、前を向いて走るのが苦手だから。
やれることは、すべてやる。才能ではない。鍛錬でもない。環境でもない。単なる努力。単なる実力。それで、勝ってやる。
レースが始まり、そして終わった、
思いが通じたとは思わない。これは、私の力だ。
サクラトウコウも、ロングハヤブサも、スズマッハも、フジノフウウン*14も全て後方に追いやって、私は一着で走り抜けた。
インタビューで、記者が今後の予定を聞いてくる。そんなもの、決まっている。
「三冠を阻みに行く」
菊花賞とジャパンカップを両取りするとかいう、舐め腐った奴の鼻を、明かしに行く。
そして──時は来る。
11月11日 ―菊花賞―
トウカイローマン
得意なこと:5,6カ国語くらい喋れる(日本語、英語含む)
苦手なこと:注射
史実では武豊氏初の重賞馬だったりもする、歴史的記録に富むお馬さん。