「あなた、もうあのアイドルの子と会うのはやめなさい」
ある日、僕は愛梨さんからそんなことを言われた。
「…そんな」
「『そんな』、じゃないでしょう。あなた、アイドルにとってどれだけ危険なことをしているのか理解しているの?」
諭すときの優しい声色ではなく、叱るときの重たい声色が部屋に響く。
僕がワークショップの講師を辞めたときの話とは違って、今回は本気の苦言であった。
「アイドルの自宅に入り込んで演技の稽古をするなんて。まだ知名度の低い地下アイドルだからいいものの、もしもメジャーデビューして人気が爆発したら致命的なスキャンダルになるわよ」
僕がワークショップに顔を出さなくなった後、アイも劇団ララライに来なくなってしまった。しかし僕達はまだアイの自宅で稽古を続けている。
アイと演技の稽古するだけではなく、普通に遊んだり、一緒にご飯を食べたりしている。愛梨さんに指摘されるまでもなく、それこそニノやリョースケたちのような第三者から見れば僕達が付き合っていると思われても不思議ではない。
疑惑を嘘と誇張と脚色でデコレーションして娯楽小説に変えるのが飯のタネであるマスコミが相手なら猶更だ。
「彼女の将来を考えているなら、彼女がこれからアイドルとして大成すると信じているなら今のうちに別れたほうが良い。こんな
まただ。また愛梨さんは僕とアイの関係を「つまらないこと」と言った。
僕とアイの関係は些事でもつまらないことでもない。今の僕にとって、アイは僕の全てだ。それを愛梨さんは分かってくれない。分かろうとしてくれない。
…僕はこの時、僕の中で愛梨さんへの信頼が少しずつ薄れていくのを感じていた。
「もう、ここには来れないんだ」
数日後、僕は愛梨さんに言われたことをアイに話した。
「アイはきっと、この先もっともっと有名になっていずれ最高のアイドルになる。だから、僕はここに来てはいけないんだ」
「なんで?」
「
結局、僕は愛梨さんに言われた通りに行動している。
本当は分かっていたんだ。愛梨さんのいうことは、すべて正論だということを。
そうするのが正しいから、僕はそうする。
――でないと、僕は愛を失ってしまう。
「僕がアイの家に入り浸っていると世間に知られたらスキャンダルになる。それはアイドルとして致命的だ」
ニノとリョースケみたいな関係になれればそれが一番いいのだろうけど、僕には無理だ。
愛梨さんに「駄目だ」と言われたことで、僕のアイへの想いが更に膨れ上がってしまった。どうやら抑圧すれば密度が高くなる現象は物理法則だけではなく、精神にも適用されるらしい。
だから、僕はこの想いに蓋をする。
アイのために。
大丈夫。僕は嘘が得意だ。
「どうして?」
しかしアイは僕の想いを理解しようとせず、のらりくらりと結論を出すのを避けようとする。
許されざる恋の苦しみを耐える僕を嬲るようなアイの態度に、僕は苛立ちを募らせていく。
「…アイドルに男が出来たら、ファンは普通キレるんだよ!」
とうとう我慢が出来なくなって、僕は声を荒らげた。
「週刊誌に撮られたら!誰かにネットリークされたらどうするんだ!?
もしアイに男がいると思われて、悪質なファンが君に危害を加えるようなことが起こったら…僕はもう、生きていけない。僕は君の足枷になりたくない。…だから、分かって欲しい」
「ねぇヒカル」
無様な醜態を晒しながら
「なんで、さっきからずっと泣いてるの?」
――僕の顔は、とっくの昔に涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
嘘の仮面なんて、最初から纏えていなかった。
「可愛い顔が台無し。そんな顔じゃ誰も騙せないよ?噓吐きさん」
タオルで優しく僕の顔を拭きながら、アイが語り掛けてくる。
駄目だな、僕は。…肝心なところで演技が出来ない。役者として失格だ。情けない。
「ヒカルは、私のこと嫌いになったの?」
「そんなことはない。アイのことは好きだ。
アイの言葉に思わず本音が出た。言ってしまった後に「しまった」と思ったがもう遅い。なので、このまま若気の至りに身を任せて突き進む。
「噓吐きな君が好きだ。常識が抜け落ちてる君が好きだ。僕を推してくれる君が好きだ。僕のそばにいてくれる君が好きだ。 君の全てを――愛してる」
元々実るはずの無い恋だったんだ。毒を食らわば皿まで。我慢し過ぎて決壊してしまった想いの全てを、アイに打ち明ける。アイドルに恋愛はご法度?そんなこと、知ったことか。僕はもうこの想いを止めることは出来ない。
たとえ行き着く先が地獄であったとしても…僕は後悔しない。
「よしよし」
僕はアイの胸に顔を
…嫌だ。僕はこの温もりを、
「大丈夫だよ。私にいい考えがある」
そうやって僕を宥めていたアイだったが、突然そんなことを言い出した。
なんだろう、すごく嫌な予感がする。
「アイドルは続ける。ヒカルとも一緒に居続ける。…つまり、最後まで隠し通す!両方やらなくっちゃあならないってのが『アイドル』のつらいところだね!」
「いやその理屈は色々とおかしい!?」
名案を思い付いたとばかりに胸を張るアイ。その道はアイドルとして邪道もいいところだって!?
「ヒカル、もしかして知らなかった?私ってすごく噓吐きなんだよ?」
「知ってるよ!!!」
あっけらかんと言い放つアイ。まるでその程度は
…思い悩んでいた僕のほうが、バカみたいだ。
「アイドルは偶像だよ、ヒカル。それは嘘という魔法で輝く生き物。
――嘘は、とびきりの愛なんだよ?」
満面の笑顔を浮かべるアイ。
他者から与えられた「正しさ」に従う僕と、自分の信じる「正しさ」を突き進むアイ。そんな僕がアイに勝てるわけがなかった。
「全く、君って娘は…」
…僕は、アイと一緒にいてもいい。
何よりも、アイがそれを望んでくれた。それが、僕にとってすごく嬉しかった。
僕は、アイが語るその幸せな嘘に身を委ねることにした。
この先も、この幸福が続くことを夢見て。
――ずっと彼女の『嘘』を信じ続けていれば、あんな結末にならなかったのに。
すべては泡沫の夢。真っ暗な海の底に、沈んで消えていく――