僕とアイとの別れ話は、アイが「アイドルと青春を両立させる」という趣旨の宣言をしたことで解決した。
よくよく考えてみれば、そもそも僕とアイは付き合ってなどいない。一緒に遊んで、一緒にご飯を食べて、一緒にお芝居の稽古をするだけの「友人以上、恋人未満」の関係だ。後になって考えてみれば、どうしてマスコミやパパラッチの影に怯えて自分の交友関係を自粛しないといけないのかとだんだんと腹が立ってきた。歪んだ正義と常識を振りかざして事実や歴史を捏造しようとする汚い大人たち全員に天罰が下ればいいのに。
結局僕は、愛梨さんの言いつけを無視することにした。
愛梨さんの言うことにも一理あるし、今までの僕の根幹となっていた「正しさ」に背を向けることにはかなりのストレスを感じる。しかし、その「正しさ」すらも信じて縋るには頼りないものだと気づいてしまった。
僕の正しさとは、他人から愛されること…つまり「個の感情を捨てて、他人の価値観に合わせて媚びいること」だ。
善悪とはまた別の概念であり、人から愛されるための模範行動こそが僕の正義だった。
それは人が「信仰」と呼ぶものに近い。
しかし、その信仰はアイによって粉々に破壊されてしまった。
スキャンダルのリスクを受け入れた上で、僕を見捨てないとアイは言った。そんな危ない橋をわざわざ渡ろうとするアイに、僕はどうしようもなく焦がれてしまった。
アイが僕を愛してくれるのならそれでいい。アイだけいればそれでいい。
信仰の対象が変わっただけの話なのかもしれないが、それで構わない。今では僕の
こうして、どうしようもなくアイに魅せられてしまった
「あなたが、姫川愛梨?」
アイが、愛梨さんに会いに来たのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…こんなところに呼び出して、何のつもりかしら?」
アイの呼び出しによってせっかくのオフを邪魔された姫川愛梨が、鬱陶しそうに言い放った。
「こないだ、ヒカルが『もうアイには会えない』って言いに来たの。あなたが、そう言わせたんだよね?」
「そうよ。それがどうしたの?」
全く悪びれることなく、愛梨が言う。
「私はうちのヒカルが、貴方に迷惑をかけないように忠告してあげたの。良かれと思って教えてあげたのに、それで苦情を言われるなんて心外だわ」
「ヒカル、泣いてたよ」
愛梨の行いを糾弾するように、アイが言った。
まるで「自分こそがヒカルの味方だ」と言わんばかりの態度に愛梨の苛立ちが更に募っていく。
「ヒカルは言ってた。『そうするのが正しいから』って。喧嘩とかしたわけじゃないのに友達と絶交するのが正しいことなんてありえない」
「貴方、アイドルなんでしょ?ビジネスを
アイの何もわかっていない、甘っちょろい言い分を聞いて愛梨は鼻で嗤う。
「アイドルは自分自身が商品、つまり貴方たちの身体は売り物なの。まだ下積みの時代に自宅に男を招き入れて自分の商品価値を下げるなんて、プロ意識が足りないとしか言いようがないわ」
「アイドルは身体を売らないよ?」
「芸能界の常識」を語る愛梨に対して、アイはややピントのズレた返事をした。
愛梨は目の前の小娘が自分に皮肉を言っているのかと一瞬考えたが、アイの「何言ってんだコイツ?」という表情を見て本当に自分の言っていることの本質を理解していないのだと気づいた。
泥に塗れたことも、
…見ているだけで、腹立たしい。
苛立ちで無意識に奥歯に力が入るのを、愛梨は感じていた。
「ところでさ、あなたはヒカルを『愛している』の?」
場の空気が険悪になってきたところで、突然アイが話題を変えた。
「そうよ。私達は『愛し合って』いるわ。それが何か?」
「ふぅん」
「本当なのかな?」と言いたげな瞳でアイは愛梨を見つめる。
「何が言いたいの?」
「ヒカルの愛と、あなたの愛、なんかズレてるなぁって思っただけ」
アイの瞳には、愛梨への敵意は微塵もなかった。勿論、敬意も。
無関心。
芸能界で大成した先輩を、アイはまるで石ころを見つめるような目で見つめていた。
「私は――あなたの愛に、憧れを感じない」
「…黙って聞いていれば!貴方に私たちの何がわかるっていうのよ!!?」
自分より一回り以上年下の子供に見下されるような目を向けられて、ついに愛梨の怒りが爆発した。
愛梨は自分がヒカルにぶつけている特殊な性癖を見抜かれているような後ろめたさを感じて、それを誤魔化すように大声を上げる。
合意の上での関係だ。それのどこが悪い。そんな想いを乗せて、愛梨が叫ぶ。
「分かるわけないじゃん、そんなこと」
そんな
「でもヒカルが欲しがっている愛と、あなたがヒカルに与えてる愛は全然別のものってことは私でも分かるよ」
カミキヒカルは、他者から愛されるために病的なほどに自分の
そんな彼が望む形での愛で満たされているなら、あんなにも虚ろで悲しい笑顔にはならないだろう。
アイは人の機微には疎いが頭は悪くないし、直感はむしろ鋭い。自分と同類の、愛に飢えている者同士の事情なら猶更だ。
アイはカミキヒカルと姫川愛梨の関係を詳しくは知らなかったが、その微妙なチグハグさを一目で見抜いていた。
そんなカミキヒカルの様子を見たアイは――
ただ純粋に、ムカついた。
姫川愛梨に自分の母親の姿を重ねて、カミキヒカルに自分の姿を重ねて、そうしてアイは目の前の女性に怒りを感じた。
早い話が、八つ当たりである。
「何よ…なんで私だけ責められなきゃいけないのよ」
カミキヒカルが自分との関係を全てアイにバラしたのだと勘違いした愛梨は、「常識」を盾に自分を一方的に責めるアイを般若が乗り移ったような顔で睨み付ける。
「私だって似たような事されながら生きて来た!この芸能界で!綺麗も汚いも吞み込んで!それが正しい事なんだって言われ続けて!!私はそれを信じて今までやってきた!どうして私だけが男に搾取されなきゃいけないの!?」
愛梨は、自分が少女だった時代に汚い大人に性的搾取されたせいで大人の男性を愛せなくなってしまった。そして、彼女は児童性愛行為に走った。
綺麗なヒカル。幼くて美しくて可愛いヒカル。私の特別な、宝石。
自分が愛しているのはヒカルだけだ。自分が愛せるのはヒカルだけだ。
――だから、私からヒカルを奪わないで。
「私はちゃんとヒカルを愛して、優しくしていた。私のときより100倍マシじゃない……」
そう言いながらさめざめと泣く愛梨を、アイは何もいわずじっと眺めていた。
「…………」
アイは、実はカミキヒカルと姫川愛梨はお互いを愛し合っているだろうということ自体は特に疑っていなかった。
ただ、彼女も母親に捨てられたトラウマから「愛」というものが理解出来なくなっていた。
そのせいで、彼女はカミキヒカルと姫川愛梨の関係に感じた違和感――カミキヒカルは姫川愛梨に対して「母親としての愛情」を求めていて、姫川愛梨はカミキヒカルに対して「男性としての愛情」を求めていたというすれ違いを上手く説明出来なかった。
自分の導き出した答えが本当に正しいのか、自信が持てなかった。
だから、何も言えなかった。
それをこの場で姫川愛梨に伝えられていれば、もしかすれば姫川愛梨とカミキヒカルの関係は修復出来たのかもしれない。
しかしこの物語に
…あるいはまだ、生まれていないのかもしれない。
肝心なところで役に立たない
「言いたいことは言ったから、私帰るね」
泣くばかりで何も言い返してこなくなった愛梨に興味を無くしたアイは、彼女を残して去ろうとする。
そんなアイの背中に、愛梨が呪いの言葉を吐く。
「貴方は勝ったつもりなんでしょうけど、残念ね。もう勝負はついているのよ」
負け惜しみとも受け取れる言葉。しかし女優だけあって、姫川愛梨の姿には虚勢とは言い切れない迫力があった。
「大輝は私とヒカルの子供なの。私とヒカルの関係に、貴方の入る隙間なんて最初から無いのよ」
愛梨は昏い笑みを浮かべながら、去っていくアイの姿を恨めしそうに見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――アイと愛梨さんが話し合った日から数日後のこと。
「ねぇヒカル。セックスしようか」
突然、アイがそんなことを言ってきた。
原作のシーンはアクアの願望強すぎて「アイはそんなこと言わない」状態だったので大幅修正。