アイが僕の前からいなくなってから1か月半が過ぎた。
あの日の別れ話から数日後、僕はアイに連絡を取ろうとしたが「おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになって…」というメッセージが流れるばかりでアイに電話が繋がることはなかった。
あの後すぐにアイは自分の携帯電話を解約していたようだ。着信拒否のメッセージじゃなかったことに少しだけ安堵してしまったのは、我ながら女々しい考えだと思う。
それでも諦めきれずに僕はアイの住んでいたマンションまで足を運んだが、すでにアイの住んでいた部屋には誰もいなかった。マンションの管理人さんに無理を言ってアイの部屋を見せてもらったが、本当に何もかもがなくなっていた。僕はもぬけの殻となったアイの部屋を見て呆然と立ち尽くしていた。
あの日から、たった数日で僕はアイへの連絡手段を全て失ってしまった。
ツィッターには、アイが体調不良でアイドル活動を休止するという情報がトレンドに乗っている。僕は数か月前まで僕の傍に寄り添ってくれたアイが、まるでこの世界から消えてしまったかのような絶望感に囚われていた。
演劇の練習にも身が入らない。
セリフを忘れるどころか、自分の出番が来たことすらも気づかないというケアレスミスが大幅に増えた。すべてをアイのせいにしたくはないのだが、非常にまずい状態だ。
「こら、ヒカル。たるんでるぞ」
「…すみません」
見かねた金田一さんが、僕を注意しにきた。
「どうした、落ち込んだ顔をして。女の子にでも振られたのか」
「………」
「参ったな、図星か」
頭をぼりぼりと掻きながら「厄介な状況だな」と言いたげな表情で金田一さんが言う。
「相手はワークショップに通っていた子か?確か現役のアイドルだったな。彼女が青春を犠牲にしてでもアイドルをやりたいと選んだんだから、お前はそれを理解して応援してやらないと駄目なんじゃないか?」
僕を諭すように金田一さんが言う。アイドルをやっている女の子が男をとっかえひっかえ乗り換えしてるような状況は考えにくいので、彼は僕がアイの仕事の問題で捨てられたのだろうという予測の上で僕に話をしてきた。
しかし、僕がアイを孕ませてしまったということまでは流石に想像出来ないだろう。
「…愛梨さんと同じことを言うんですね」
僕は不満を隠さず、恨めし気な目で金田一さんを見つめながらそう答える。かつての僕なら「そうするのが正しいから」と自分に言い聞かせて全てを諦めていた。
しかし僕は、アイを知ってしまった。
…愛を、知ってしまったんだ。
もう、かつての僕には戻れない。
「まあ、一般論だしな。結局、縁がなかったということだ」
所詮は他人事、と言わんばかりの突き放した言葉を金田一さんが投げかけてくる。僕達の恋愛事情に口を挟めるようなポジションに立っていないのは分かるが、それにしても薄情な言い分だ。
「彼女のことを忘れろとは言えんが、気持ちを切り替えろ。それが出来ないから行動しろ。うだうだしてても解決しないぞ」
箸にも棒にもかからない僕の有様に金田一さんが苦言とも苦情とも取れる言葉をかけてくる。
「行動しようにも相手が雲隠れしてしまったんだ」という言い訳が喉まで出かかっていたが、恥の上塗りにしかならないのでその泣き言は辛うじて呑み込んだ。
そんな様子で順調に腐っていた僕だったが、ある日僕の携帯に
『おい、ちょっとツラ貸せや』
リョースケからのメッセージは、そんな血気溢れる内容だった。
「――アイがアイドル活動休止って、どういうことだよ!?」
開口一番、僕はリョースケに会った途端に襟を掴まれ壁に押し付けられる。
乱暴な壁ドンもあったものだ。あと顔が近い。可愛い女の子にされるならまだしも、僕はホモじゃないのでリョースケにそんなことをされても嬉しくない。
「なんか知ってんだろ!ええ!?」
「アイとは…しばらく会ってない。もう、会えないんだ」
言い訳する気も、誤魔化す気も起こらない。
…全部、僕が悪いんだ。
「知ってること、全部話せ」
「アイが妊娠した」
目の前に火花が散った。
口の中に血の味がする。どうやら僕は良介に殴られたようだ。…殴られた箇所よりも、反動で壁に打ち付けた後頭部のほうが痛い。
「手前!ふざけんな!お前はアイの未来を壊したんだぞ!?お前のせいで!!」
激昂したリョースケが、僕の耳もとで怒鳴る。
五月蠅い。
煩わしい。
鬱陶しい。
何も事情を知らないくせに外からぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるリョースケに、僕はふつふつと怒りと苛立ちが込み上がってくるのを感じた。
「…五月蠅い!」
「がっ!?」
相変わらず顔の近いリョースケに対して、僕は頭突きをかます。
鼻や顎を狙う喧嘩頭突きではなく額と額をぶつけるプロレス頭突きだったが、痛みに対する備えが出来ていなかった良介にとっては手痛い反撃だ。至近距離から僕の頭突きを食らったリョースケはたたらを踏んで、そのまま地面に尻もちをついた。
お互いの硬い部分をぶつけるプロレス頭突きなので、当然ながら僕も痛い。しかし理不尽な理由で殴られた怒りで分泌されたアドレナリンが痛みを無視して僕を駆り立てる。
「…どうして僕にばかり!罪を押し付けようとするんだ!!」
自分勝手な正義を押し付けて僕を断罪しようとするリョースケに対して、僕はあらん限りの声を張り上げて叫ぶ。
演劇で鍛えた僕の声は、自分が思っていた以上によく通った。
――結局、縁がなかったということだ
――お前はアイの未来を壊したんだぞ!?お前のせいで!!
――私は君を愛せない――
「愛してるって伝えることが!そんなに悪いことなのか!好きになったらいけない人を好きになるのが!そんなに悪いことなのかよ!!?」
愛梨さんも、金田一さんも、リョースケも、アイですらも。
みんなが、僕を責める。
みんなに愛されるように正しく生きても、みんな僕から奪うばかりで誰も愛してくれなかった。
正しさに背を向けて個に捧げる愛に殉じても、今度は裏切者扱いで糾弾される。
――いつだって、僕はみんなの
「正しく生きても…誰も僕を助けてくれやしない……」
良介に殴られた顔が痛い。リョースケに頭突きを食らわせた額が痛い。
――それ以上に、心が痛い。
愛されたいと思うことが。愛したいと思うことが。そんなに罪なことなのだろうか?
この想いは、そんなに
ずっと誰かに愛されたいと思って耐えてきたのに。
ずっと誰かを愛したいと思って頑張ってきたのに。
僕に残されたのは、痛みと苦しみだけだ。
「誰か僕を…愛してよ……」
悲しさと悔しさと情けなさで感情が抑えきれず、僕はぼろぼろと泣いた。
「…お前、本当にアイのことが好きだったんだな」
地面に座り込んだままの体勢で僕の様子を伺っていたリョースケが立ち上がり、ズボンについていた埃をぽんぽんと払う。
「全部聞かせろよ、お前の失恋話。胸の中にため込んだもの、全部吐き出せば少しは楽になるんじゃねぇか?」
リョースケの顔には、さっきまでの怒り狂っていた怖い表情はすっかり消えていて普段僕たちと遊んでるときに見せている人懐っこい笑顔が戻ってきていた。
勝手に憤慨して、勝手に納得して。本当にリョースケは無責任な奴だ。
それでも、僕は彼のことを嫌いになれない。
同じ女の子に魅せられてしまった仲間として、僕達はシンパシーを感じているのかもしれない。
「…恋敵の失恋話を聞きたいとか、良介くんにはNTRの趣味でもあるのかな?」
僕は涙を拭って、リョースケに対して軽口を叩きながら強がる。
リョースケに僕の境遇を同情してもらいたいなんて思っていない。男同士の友情なんて、このぐらいの雑な関係で十分だ。
「うっせぇ!お前こそ俺たちのアイを傷物にしやがって!これからきっちりイジめてやるから覚悟しろよ!!」
「ちょっ!ヘッドロックやめて!!頭ミシミシいってる!?みなさーん!ここにホモがいまーす!僕、ホモに襲われていまーす!!!」
「ホモじゃねぇよ!!」
さっきまで泣いてた僕が、今は友達とじゃれ合って笑っている。全く、現金なものだ。
これから先もリョースケが僕の友達でいてくれるかはわからないし、逆に僕が彼に愛想を尽かす未来もあるだろう。実際、さっきリョースケに殴られたところがじんじんと痛いしこの件についてはまだ彼を許したわけじゃない。
それでも今はただ、同じ女性を好きになってしまった者同士で失恋話に花を咲かせることにしよう。
男同士が女の子を巡って殴り合い、そして和解する。そんな漫画みたいな青春の一ページを繰り広げて、僕はほんの少しだけ心の蟠りが軽くなったのを感じた。
「ニノに推し変していたことがバレた」
「何やってるんですか」
数日後、リョースケが青い顔をしながら僕に会いに来たと思ったらいきなりそんなことを打ち明けてきた。