母が死んだ。
癌だった。母は30歳半ばの年齢だったので、あっという間に癌が進行して、癌が発覚したときにはとっくに手遅れになっていた。
美しかった母は、たったの1か月で骨と皮だけの痩せ細った姿になって、死んだ。
僕は父の顔を知らない。母が家に連れてくる大人の男性は数年ごとに変わっていた。美人だけど、男を見る目のない愚かな女性であった。
母は僕にあまり興味を示さなかった。生活のために男に媚を売るのに必死で僕に構っている暇などなかったのだろう。
そんな母に対して、僕は嫌悪感を抱いていた。
そんな美しくも醜かった母も、死ねば全てが無に還る。
僕の父は、母の葬儀に姿を現さなかった。そもそも顔も知らない血のつながった父は、母が死んだことすら知らないのだろう。
僕は天涯孤独の身となった。
…この世界に、神はいない。
火葬場で癌が骨にまで転移してボロボロになった母の遺骨を拾いながら、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
母が死に、父に見捨てられた僕は児童養護施設に預けられることになった。
児童養護施設での暮らしは、学校と似たような感じだった。僕と似たような境遇の子と一緒に過ごして、勉強して、出された食事を食べて、寝る。そんな感じだ。
喧嘩っ早い子供もいるし、すぐ泣き叫ぶ子供もいる。落ち着きのない子供たちとルームシェアをするのは結構しんどい。これで
大人たちは優しいが、しばらく一緒に暮らしていると僕達との間に「見えない壁」があるのがなんとなくわかってしまった。預かっている子供たちの先生にはなっても、親にはならない。それがこの施設の方針なのだろうと理解した僕は、その不満と寂しさを外に吐き出せずに悶々とした思いを胸の中に抱えながら施設で過ごしていた。
僕は親と一緒に、帰るべき家も失ってしまった。母との生活はあまり幸せといえるものではなかったし、鍵を忘れて登校したせいで家から閉め出されたこともあったけど、それでも自分の帰るべき場所だと思える家であった。
施設での生活は、喪失感だけが僕の胸の中で際限なく広がっていく辛い日々だった。
そんなやるせない気持ちを抱えながらとぼとぼと学校の帰り道を歩いていると、ふと足元にチラシが落ちているのに気づいた。
モノクロのA4コピー用紙に印刷されたチラシで、要件を簡潔にまとめたシンプルな内容だった。
僕はそのチラシを拾う。
「演劇…」
僕はそのチラシから目が離せなかった。
変えたかった。
変わりたかった。
何も持たない、みじめな自分を辞めたかった。
役になりきったところで自分以外の誰かになれるわけじゃない。ただの現実逃避なのかもしれない。それでも、僕はそのチラシを捨てることは出来なかった。
「自己否定を根底とした変身願望なんて、心の自殺と変わらない」といった小説家がいたらしいが、それこそ望むところだ。変わりたいと思うことが自殺と同じならば、こんな情けない自分なんて今すぐ殺して別人に生まれ変わりたいというのが僕の偽らざる本音だ。
後ろ向きな理由から生まれた情熱が、絶望で冷え切った心に小さな火を灯す。
気づいたら僕は、劇団ララライの門戸を叩いていた。
劇団ララライの体験入団の内容は、ストレッチ・呼吸・発声・滑舌・
それでも施設の生活にいまいち馴染めなかった僕にとって、久しぶりに「楽しい」と感じられる時間だった。
「君は、役者になりたいのかい?」
「いえ、なんというか…『自分以外の誰かになりたい』みたいな…変身願望?」
今まで役者になりたいと思ったことなんて一度もなかった。演劇なんて、小学校での学芸会の出し物で揚げパンマンの役が当たったときにやったぐらいだ。その役すらも「揚げパンマンの役がやりたい!やらせてくれなきゃ学芸会を休む!!」と泣いて駄々をこねたクラスメイトに困り果てた先生が配役変更を頼み込んできたので、僕はその子に役を譲ってしまった。
結局僕が学芸会ので演じた役は、劇中でパンたちを食べようとするオオカミ役。
最後にパンたちに負ける、悪役だった。
…僕は、本当は
学芸会が終わった後、僕はクラスメイトに主役を譲ったことを後悔した。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく。
ふと時計を見上げるといつの間にか1時間が経過していて、体験入団の終わりの時間に差し掛かっていた。
「君は凄く楽しそうに稽古に参加していたね。どうだい、本格的にウチで演ってみないか?」
「いえ…僕は施設の子で、月謝が払えないから……」
本当は凄く続けたい。でも無理だ。里親もいない僕に月7000円もの月謝を施設から出してもらうのは流石に厳しいだろう。
「あら、子供がお金の心配をするなんて生意気ね」
金銭面の理由を言い訳にして入団を断ろうとしたら、僕の後ろから女性が口を挟んできた。
「こういうのは『やりたい』か『やりたくない』かで返事するものなの。お金なんて後でどうとでもなるものよ」
振り向くと、母に似た美しい女性が僕の後ろに立っていた。
――これが、僕と姫川愛梨との最初の出会いだった。