月謝は姫川愛梨さんが払ってくれることになり、僕は「劇団ララライ」で演劇の稽古を続けていけるようになった。
一度顔を合わせただけの他人からお金を工面してもらう問題は「施設への寄付」という形にすることで話がついた。同じ施設に住む子供から「依怙贔屓だ!」と難癖をつけられるかもと危惧していたが、他の子供たちの中にも地元のスポーツ少年団に参加している子供がいたので僕のパターンもクラブ活動の一つとして受け止められたようだ。
今の僕には演劇の知識は皆無だが、だからこそ必死に勉強した。愛梨さんの好意で月謝を立て替えしてもらっているのだから目に見える形で成果を出さないと彼女の面目を潰してしまう。なので「劇団ララライ」では僕なりに一生懸命に考えて行動していた。
劇団の先輩たちから印象が良くなるように精一杯愛嬌を振りまいて、媚びる。それが僕が最初に始めた「演技」だった。
今の僕は何も持っていない。お金だけではなく、守ってくれる家族も、大人を動かせる社会的な信用もない。あるのは自分の身体と、心だけだ。
何も持たない僕がこの世界を生きる手段として選んだのは、自分を偽り、他者からの信頼を得ること――つまり「人を騙す」ということだった。
それが僕の…僕たちの長い物語の始まりだった。
「ふふ、貴方の演技力も大分上達してきたわね」
「あはは…全部愛梨さんのおかげです」
数か月後、僕の演技力はかなり
「大人の庇護欲をくすぐるような、なんにも分かっていない少年」の演技。
生意気と思われないように、かといって卑屈になり過ぎないように。ちょうどいいバランスで、大人たちに媚びる。幸いにも肥満になりにくい体質だったため、ほかの子供たちと比べてルックスに多少のアドバンテージがあった。
幼くて、美しくて、可愛い、綺麗な子。
何も持っていない僕が、誰かに愛されるためにそんな姿を演じる。
姫川愛梨さんのご機嫌な様子を見て、僕の演技の方向性は間違っていないのだと思っていた。
――そのときは、まだ。
それが致命的に間違っていたと気づいたのは、何十年も先のことだった。
「今日は私の家に寄って行きなさい。前に来たときと違って清十郎さんがいないから二人っきりだけどね」
激しい雨が降っていたある日のこと。僕は愛梨さんの自宅に招待されて、夕食をご馳走になった。
劇団ララライが稽古場として使っていた建物にタクシーを呼んで、愛梨さんと一緒に帰宅する。愛梨さんの自宅に呼ばれるのは初めてではない。前回は愛梨さんの交際相手である清十郎さんと一緒にバーベキューをやった。清十郎さんも僕のことを気に入ってくれたみたいで、彼は僕のお皿にいっぱい肉を盛ってくれた。
僕に親愛の情を注いでくれる愛梨さんも、清十郎さんも僕は好きだ。
――だからこそ、必死に媚びた。
世の中に絶望した空っぽの少年が猫を被っているのがばれないように、全力で、それこそ命を懸けるつもりで愛らしい少年を演じ続ける。
嫌われたくなかったから。幻滅されたくなかったから。
…捨てられたくなかったから、僕は必死になった。
――この嘘は暴かせない。誰にも。
「ご馳走さまでした。おいしかったです」
「ふふ、お粗末様でした」
夕食を食べ終わっても雨は止まない。むしろ勢いは強くなっている。児童養護施設の門限が迫っていたので、僕はこの雨の中をどうやって帰ろうかと頭を悩ませていた。
愛梨さんにタクシー代を貰えなかったら絶対に門限に間に合わないだろう。僕は愛梨さんにお金の無心を言い出せず、そわそわした態度をとるばかりだった。
「今日はここに泊まって行きなさい」
僕が時計をチラチラ見て時間を気にする様子を見せていると、愛梨さんはそう言い出した。
「えっ…でも門限が……」
「連絡すれば大丈夫よ。私が話をつけてあげる。そもそもこんな雨の中じゃ帰れないでしょ?」
優し気で綺麗な笑顔を見せながら、愛梨さんが言う。彼女の一言で帰る手段と理由を失ってしまった僕は、何処かで何かを失敗したんじゃないかと急に不安になった。
「先にお風呂に入ってきなさい。その間に施設に連絡をしておくわ」
大人に媚を売ることでしか生きていけない僕には、愛梨さんの提案を拒絶することは出来なかった。
僕は愛梨さんに促されるまま浴室に移動し、そこで熱いシャワーを浴びながら胸の中の不安を無理やりに振り払おうとする。
僕の脳裏には、死んでしまった母親の顔が思い浮かんでいた。
「外泊の許可、取れたわよ」
お風呂から上がってきた僕に愛梨さんはそう言った。学校行事以外の外泊は基本的に禁止されていると聞いていたのに、愛梨さんはどんなやり方で施設の大人たちから許可を取ったのだろうか。
それを尋ねても愛梨さんは「内緒」というだけで僕には教えてくれなかった。
「それじゃあ、私もお風呂に入ってくるわね」
僕と入れ替わりで、愛梨さんが入浴をするためにリビングから出ていった。サイズの合ってないバスローブの着心地に違和感を感じながらも、手持ち無沙汰を解消するために演劇の本を読む。
一時間ほど時間が経ったところで、愛梨さんが浴室から戻ってきた。
「あ、おかえりなさい…んむっ!?」
愛梨さんが、突然僕の口をキスで塞いできた。
愛梨さんの身体が密着し、女性特有の柔らかい感触が僕を包み込む。
「あ…愛梨さん?」
「貴方、この業界で本気で食べていく気はある?」
文字通り目と鼻の先の至近距離から、愛梨さんが僕の目を見つめてくる。
彼女のまなざしは、真剣そのものだ。
「この業界は、多少演技力が優れているぐらいじゃあ生きていけない。そんな役者はごまんといる。
職業劇団員の給料なんて、せいぜい月収10万ぐらいがいいところ。副業と掛け持ちしないと生活すらままならない。…だったら、どうすればいいと思う?」
怒りと絶望を孕んだ昏い表情で、愛梨さんは僕を真っ直ぐに見据えてくる。
「このルッキズムの極致たる芸能界で、性と美を売り物にするこの世界で、汚辱に塗れてでものし上がる覚悟が貴方にはある?」
僕は愛梨さんの気迫に気圧されて、その問いかけに答えることが出来なかった。
「ついてきなさい。貴方が何をすればいいのか、その答えを今から私が教えてあげる」
僕は愛梨さんに手を引かれて、彼女の寝室に連れ込まれた。部屋にあるのはクローゼットとドレッサー、そして柔らかそうなベッド。
そしてベッドの上には、枕が二つ。
片方の枕は清十郎さんの分だろうか、と僕はぼんやりと考えていた。
ベッドに腰をかけた愛梨さんが、服を脱いだ。
大人の女性の裸身が露わになる。
「来なさい」
愛梨さんが手招きして、僕を誘った。
…僕にだって性欲はある。
膨らんだ女性の乳房を見ればドキッとするし、精通だって始まっている。
――なのに、愛梨さんの裸を見ていると、軽蔑していた母に凌辱されているような生理的な嫌悪感を覚えてしまう。
「はい」
そんな気持ち悪さを押し隠して、僕は愛梨さんの傍に寄った。
…愛理さんと母は別人だ。
そして普通の感性を持っている男性なら、愛梨さんのような綺麗な女性の寝室に誘われれば喜ぶのが当然の反応だろう。
――だから、僕が今ここで愛梨さんに嫌悪感を覚えるのは、きっと
なんにも分かっていない、純粋な少年の反応じゃない。
僕は自分の感情に蓋をして、愛梨さんに抱かれた。
きっとそれが、正しいことだから。
そのときの僕は、なんの疑問も持たずにそう信じ込んでいた。
…愛梨さんに初めて抱かれた夜の出来事は、よく覚えていない。
覚えているのは、性行為を始めた瞬間に感じた生皮を剥がれるような鋭い痛みと、涙を流しながら引き攣った「作り笑い」を見せる僕を見た愛梨さんがすごく嬉しそうな表情を浮かべていたことだった。
後になって知ったことだが、愛梨さんも僕と同じように子供の頃に大人の男性に性行為のやり方を教え込まれたらしい。僕の隣で添い寝しながら「相手が下手糞で、痛かった」と毒を吐いていた。
僕も痛かったです、と答えると愛梨さんは「貴方が痛がってる姿を見たら、なんだか積年の恨みが晴れたようだった」と笑いながら言った。僕に八つ当たりして鬱憤を晴らすのは出来ればやめて欲しい。
きっと愛梨さんは、僕がかつての自分と同じ反応を示したことで僕に深い愛情と執着を抱いたのだろう。
それからも、僕は愛梨さんに密かに呼び出されるようになった。
行為を重ねるたびに、愛梨さんの要求は少しずつエスカレートしていく。
アブノーマルプレイと呼ばれる行為。かつての愛梨さんが薄汚い大人たちに教えられた内容。
縄で縛られた状態で全身を舐め回されたり、逆に舐めさせられたり、女装させられた上で肛門に男性器を模した道具を突っ込まれたりした。
ただひたすらに、気持ち悪い。
あまりにも僕の理解の及ばない行為だったせいで、却って「これは芝居の練習だ」と割り切れたのは不幸中の幸いなのかもしれない。
ある日、愛梨さんが結婚すると聞いた。
相手は清十郎さんだった。どうやら彼との間に子供が出来たらしい。
それを僕に伝えた愛梨さんの表情からは、理由は美味く説明出来ないけど何か怪しい雰囲気を感じた。
これで僕は愛梨さんから解放されるのかと思っていたら、施設の大人から「愛梨さんが僕の里親になりたい」と打診されていることを伝えられた。
いつも何故こんな簡単に愛梨さんとの外泊の許可が下りるのかずっと不思議に思っていたけど、今になってようやく僕はその理由に気付かされることになった。
すでに話はかなり進んでいて、後は僕の意志一つで愛梨さんが僕の里親になれるという状況だった。
僕はその話を受け入れた。
――僕は、愛梨さんの「
「ふふ、これからはずっと一緒よ」
見えない縄が僕を拘束し、首輪に繋がれた透明な鎖が僕を束縛しているような言いようのない悪寒を、僕は感じていた。