8月のある日のこと。
僕は、僕の娘と初めて会話を交わした。
「よかったら一緒にどうですか?」
通り雨に出くわして、神社の軒先を借りて雨宿りしているルビーに僕は傘を差し出す。
傘を貸すことを理由にルビーと会話がしたいという僕の下心まみれのお節介を、ルビーは疑うことなく受け入れた。
「……答えが欲しかったんです」
僕と一つの傘で雨の降る境内を歩きながら、神社で熱心に祈りを捧げていた理由をルビーが語る。
「私にはずっと憎んでいる人がいて。その人を許すのか許さないのか、私はこれから選ばなきゃいけないんです」
その「憎んでいる人」というのは、僕のことだろう。
当然だ。僕は彼女の母親の仇だ。
彼女には僕を恨む正当な理由がある。
「でもこの世界に生まれついての純粋な悪人なんていなくて、たまたま運と巡り合わせが悪くてこうなっただけなのかもしれない。
誰も悪くない。そう思うことで私自身も救われるって気づいて。
――でも、だとしても絶対に許せない人もいて。
理屈抜きに許せないって感情は十年後も消える気がしなくて。
憎しみを全部ぶつける事で初めて前に進める気もしてて。
自分自身、何が正しいのか分からないんです」
ルビーが自身の中に渦巻く感情を僕に吐露する。
どうやら「15年の噓」の映画を撮影しているうちに、役に引っ張られて感情が混乱しているようだ。
母親の仇に同情心を抱くとは、「15年の噓」の脚本は随分と僕に甘い内容らしい。
「それで神様にどうすればいいのか教えて欲しくて、気づいたらここに来ていました。
……すみません、べらべらと意味わからない事言っちゃって……
私も自分の考え纏まってなくて……」
「いや、存分に悩んだらいい。神様は答えを教えてくれないからね。それは君にしか出せない答えなんだ」
答えが見つからずに神頼みをしているルビーに対して、僕は優しく助言した。
この世界の神様は他人の不幸を見て喜ぶろくでなしだ。あんなのに頼るほうが間違っている。
……それでも。
「そうやって悩んで出した答えならそれを受け入れなきゃいけない」
自分の意思で選んだ道のりなら。
自分の意思で始めた物語なら。
劇が終わるまで、途中で舞台を降りることは絶対に許されない。
「誰しもが」
僕は、「星野アイの物語」の悪役であることを自分で選んだ。
全部僕の役割だ。
他の誰かに譲る気も押し付ける気もない。
たとえ最後に自らの破滅が待ち受けていようとも。
――むしろそれこそが、僕の末路に相応しい。
夕立は更に激しさを増して、僕達を打ち据えるように降り注いでいた。
「……私はママを越えるアイドルになる。
ママより推して貰える存在になる。過去を見てる余裕がないぐらいに。それだけが皆まとめて救われる方法だと思うから」
境内を抜けた先の帰り道でルビーが自分の夢を語る。
数分前まで激しく降っていた雨がいつしか止んで、雲の隙間から太陽が輝いていた。
不要になった傘を閉じると、空から差し込む日の光がまるでスポットライトのようにルビーを照らす。
その光景を、僕は素直に美しいと思った。
「……素晴らしいね。今、この世界で君より輝いてる存在はないんじゃないかな」
誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、僕は一番星の輝きを瞳に宿す少女に手を伸ばす。
「もしかしたら本当に君の母親よりも――」
「ルビーちゃん!」
ルビーの背後から彼女を呼びかける女性の声を聞いて、僕は思わず手を引っ込めた。
声が聞こえた方向に視線を向けると、そこには黒川あかねが立っていた。
「お参りかな?」
「あかねちゃん」
「そちらの方は?」
黒川あかねがこちらに視線を向けてくる。
表情はにこやかだが目は笑っていない。完全に不審者を見つめる目だった。
「上で雨降ってきちゃってさー、傘入れてもらったんだ」
「ありがとうございます。ここからは私が連れていきますので」
「ええ、よろしくお願いします」
黒川あかねは僕に丁寧に会釈をした後、ルビーを連れて足早に去っていく。
そして別れ際にルビーに気づかれないように僕に向かって軽蔑の瞳を寄越して来た。
「……頭を撫でてあげようとしただけなんだけどな」
そう独り言ちた後、男性が女性の頭を撫でるのは普通にセクハラ行為だと気づいて思わず自嘲の笑みがこぼれた。
「どうやらナンパに失敗したみたいだね」
去っていく2人の背中を見つめていると、いつの間にか僕の隣に銀髪の少女が立っていた。
「……なんで君がこんなところにいるんだ」
情けない姿を見られたのを誤魔化すように、僕は名無しの少女に悪態をつく。
そんな僕の姿をいつもの薄ら笑いを浮かべて見つめながら、少女はルビーが雨宿りしていた神社に向けて指を差した。
「あそこ、実家」
「……灯台下暗しとはこのことだね」
どうやらこの少女はこの神社に住んでいるようだった。
考えてみれば僕はこの子とそこそこ付き合いが長いが、この子のことをほとんど知らない。
知っていることと言えば、競馬が好きで、皮肉屋で、大人びて見えるときもあれば年相応の態度を取るときもあるというなんとも掴みどころのない手のかかるお子様だというぐらいか。
一緒にいて鬱陶しく感じるときもあれば、心安らぐときもある。年齢差を無視した上でその関係を客観的に表現するならば、きっと僕たちは悪友と呼ばれる間柄になるのだろう。
かつての僕と、リョースケの関係のように。
「それで、ルビーと会話して何か成果は得られたのかい?」
「まあね」
僕より二周りも年下の女の子にリョースケの役割を求めていた気恥ずかしさを少女に気取られないように、僕は軽い口調で少女に返事を返す。
「僕も年貢の納め時なのかもしれないね。
君も出演しているあの映画が公開されたら間違いなく犯人捜しが始まる。週刊誌やSNSも少年Aは誰なのかって。
きっとアクアたちは僕を映画ではなく、大衆の悪意によって殺す気なんだろうね」
「母親を殺された相手への復讐と言うには、随分と温いやり方だね」
僕なりに考えた「星野アイの物語」の結末を少女に語ったのだが、彼女は僕の推論を一笑した。
「……温い、だって?」
「もしそうなったところでせいぜい数カ月ほど君がSNSのおもちゃにされるだけだと思うよ。
君にとって星野アイは唯一無二でも、有象無象の群衆にとっては所詮娯楽の一つにしか過ぎない。星野アイの仇を取るためにわざわざ君を殺しに来る酔狂な人なんて存在しないさ」
僕の素性が割れた瞬間、僕を殺しにくる人がやってくるという僕の考えを少女は否定して嗤う。
「――誰もが菅野良介になれるわけじゃない」
まるで僕の心を見透かされているような言葉を投げかけられて、僕は少女に言葉を返せず沈黙してしまった。
「おっと訂正、苺プロの斉藤一護は君を殺しにくるかもしれないね。やっぱり今から命乞いの言葉を考えておいたほうがいいんじゃないかな?」
「別に良いさ。そうやってアイと同じ死に方をして朽ちていくなら本望だよ。それが僕が背負った数々の命に対する責任だ」
少女と語り合っているうちに、ルビーと黒川あかねの二人の姿は見えなくなっていた。
目的は果たした。そろそろ僕も帰るか。
「有意義な会話だったよ。君との会話も、ルビーとの会話も。おかげで僕の考えも纏まったよ」
「それは重畳。じゃあ私は【推しの子】の物語の最終章を特等席で見物させてもらうとするよ」
そう言って少女は踵を返して、僕達がやってきた神社に向かって歩き出す。
それを見て僕も少女と逆方向に歩き出した。
「……君も『星野アイの物語』を過去のものだと思っているんだね」
彼女は僕たちの物語を『推しの子』、つまり「星野アイの子供たちの物語」と言った。
違う。
この物語は「星野アイの物語」だ。
星野アイは、星野ルビーの引き立て役Aなんかじゃない。
それだけは、絶対に譲れない。
「アイを死なせただけじゃあ、僕を殺しに来る人は現れないか……」
少女の見立てだと苺プロの元社長が僕を殺しに来るかもしれないが、それも五分五分といった感じの言い方だった。
保身や事務所への悪影響を考えて僕への復讐を諦める可能性もある。
星野アイの物語を劇的な最後にするには、もうひと押しが必要だ。
――例えば星野ルビーが、母親と同じ形で非業の死を迎えるといった結末はどうかな?