どれほどの間、僕は呆けていたのだろうか。
気がつけばアイの遺したビデオレターはとっくに再生時間を終えていて、僕がもたれかかっていた壁には真っ暗な画面だけが映っていた。
先ほどまで焼けるような胸の痛み……僕の抱えている
後に残ったのは、虚無感と寂寥感だけ。
感情の全てを焼き尽くして空っぽになってしまった僕は、自分の身体を無理矢理動かしてふらふらとした足取りで部屋を出ようとする。
「どこへ行くんだ?」
「……アイのために、自分なりに出来る事をしにいく」
アクアの問いかけに僕はそう返事をしていた。
部屋の外で僕達の様子を伺っていたルビーを無視して、僕は歩を進める。
苦しい。
寒い。
寂しい。
このまま海に身を投げて死んでしまいたい気分だ。
だけど僕にはまだやらないといけないことが残っている。
僕の命はアイのために使う。
無駄死には許されない。
――星野アイの物語を終わらせるまでは、僕はまだ死ねない。
「……カミキさん!何を言ってるんです!今更警察に行って何が許されるというんですか!?」
アイのビデオレターをアクアに見せられたその日の夜、僕はニノに電話をかけていた。
「君もあの映画の先行試写会に参加していたんだろう?年貢の納め時さ。もう僕達に逃げ場はないんだよ」
「そんな……!」
ニノの悲痛な叫びが電話越しに響く。
もし僕が
だが、ニノは我が身可愛さだけで激情しているわけではない。
「君もそろそろ認めるべきだ。星野アイの時代はもう終わってしまったことを」
「………っ!」
ニノの興奮が収まるのを待たず、僕は彼女の急所を突く。
自分の激情を言語化出来ず絶句しているニノの唸り声がスマホの向こう側から聞こえてきた。
ニノはアイによって全てを失った。
栄光も。
矜持も。
そして恋人も。
それをニノは、「自分が失ったものは全てアイのために捧げたのだ」と思い込むことでかろうじて精神の安定を保っていた。
自分はアイの引き立て役B。
星野アイの物語を飾り立てる装飾品であり、アイに手向けられる餞の花。
それがニノのアイデンティティであり、アイの価値を貶めるものは何人たりとも許すことが出来ないのが彼女であった。
自分の全てを奪ったアイへの憎しみと崇拝。
その矛盾した相反する感情こそが、彼女の本質だ。
「……二代目B小町は、今年のクリスマスに国立競技場でライブを行う」
僕はまだ興奮の治まらないニノを諭すように、静かに語り掛ける。
「東京ドームの収容人数は5万人、国立競技場の収容人数は8万人。かつて君達が夢見たドームライブの先の舞台に彼女は立とうとしている。
ルビーはとっくにアイを超えて、その先に向かって進んでいるんだ」
……あの名無しの少女は僕たちの物語を『推しの子』、つまり「星野アイの子供たちの物語」と言った。
主人公はアクアとルビー。アイの役割は彼らの物語にカタルシスを与えるための悲劇のヒロインであり、超えるべき壁であった。
そして成長した子供たちは親を超えて、遥か彼方へと飛び立とうとしている。
それをニノは認められない。
認めるわけにはいかない。
「アイはこの世界の主人公ではなかった」と認めてしまえば、自分の人生は無価値だったと認めることに繋がるから。
たとえルビーを殺してでも、彼女は己の信念を曲げないだろう。
「……わかったわ。もう貴方には頼らない」
先ほどまで癇癪を起こした子供のように喚き散らしていたニノの声のトーンがスッと下がり、覚悟を決めた声色へと変わった。
「後は私がやるから、ルビーの住んでいる建物の住所だけ教えなさい。貴方のことだから、ちゃんと調べているんでしょう?でないと私、裁判で『全部貴方に命令されてやった』って証言するから」
「……わかった。だけどルビーは来週からB小町の全国ツアーが始まるから自宅には戻らないはずだ。本当にやるつもりなら、ルビーたちが東京に戻ってくるツアー最終日を狙ったほうがいいと思うよ」
ニノに脅されて口を割った体を装いながら、僕は言葉巧みにニノの行動を誘導する。
結果的にリョースケがアイを殺したときと同じような状況になってしまったが、これもまた運命なのだろう。
ニノはもう覚悟を決めてしまった。
アイに自分の人生の全てを捧げて、最後に残った信仰を守るために。
ニノの目論見が失敗しても成功しても、これが僕と彼女との最後の別れになるだろう。
「今までありがとう。さようなら」
縁切りの意思が込められた別れの言葉を残して、ニノは通話を切った。
……これでいい。
ニノが事件を起こせば、世間は否応なくアイの殺人事件と結び付けて大騒ぎになる。
そしてニノがルビーを殺せば母娘揃って同じ殺され方をしたことをマスコミは大々的に取り上げるだろう。
そしてその類似性を見せつけられた群衆は、ルビーの持つ輝きとアイの輝きを
そこに、
親を越えたルビーの輝きが、アイのものになる。
もう一度アイが、より輝きを増した姿で群衆の記憶の中に蘇る。
悲劇の中からの、再誕。
これこそがアイが再びこの世界の主人公として輝く唯一の方法だ。
「――まあ、そんなことはもうどうでもいいんだけどね」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして12月25日、クリスマス。
「B小町」ライブツアー最終日。
「アイ……全部貴方のせいなんだから。
貴方はずっと、これからもずっと永遠に最高のアイドルで居続けなきゃいけないの。
貴方以上のアイドルなんていてはいけないの」
よく晴れた冬の東京を、ニノが歩いていく。
コートの内側に、抜き身のナイフを忍ばせて。
「……そうじゃなきゃ、良介が無駄死にになっちゃうじゃない」
疲労が限界に達した登山客のようなゆらゆらとした足取りで、かつてリョースケが辿った道のりをニノは歩く。
「星野ルビー。あなたの人気はあなたの実力じゃない。それはアイから貰ったものよ。
……借りたものは、ちゃんと返さないと」
逆恨みに等しい恨み言を繰り返しながら。
心と身体の疲労が合わさって何倍もの距離にも感じる道のりを歩き続けて。
とうとうニノは、目的の場所にたどり着いた。
彼女はカミキヒカルから聞き出した住所に建つオートロックも導入されていない旧式のマンションに侵入し、ルビーの住む部屋の前に立つ。
そしてニノは、無言でインターホンを押した。
扉がガチャリと開いて部屋の中から女性が現れる。
女性は扉の前に立っていたニノを一目見てたじろぎ、顔を隠すような仕草で手を前に伸ばす。
手の隙間から、父親に似た淡い金色の長髪が見えた。
それを確認したニノは、懐に隠していたナイフをルビーの腹部に突き立てた。
「……ごめんねルビーちゃん。貴方はアイを超えちゃ駄目なの。
もしもルビーがアイの娘だとカミングアウトしなかったら。
もしもルビーが「15年の嘘」で星野アイ役で完璧な演技をこなさなかったら。
もしかしたらニノはこんな愚かな行為はしていなかったのかもしれない。
だがルビーはニノにとって越えてはいけないラインを越えてしまった。
「――アイはあなたの引き立て役Aなんかじゃない」
自分の親友を虚仮にされたリョースケがアイを殺したように。
自分にとっての
「だから、ここで死んでちょうだ……っ?」
そこでニノはルビーに突き刺したはずのナイフが服の上で止まっていることに気づく。
次の瞬間ルビーはナイフを握っているニノの手首を掴んで捻じり上げ、それと同時に隣の部屋に潜んでいた斉藤一護が背後からニノに襲い掛かった。
「同じ轍を何度も踏むわけねぇだろうが!!」
あっという間にニノは一護に組み伏せられて、御用となったのだった。
「………」
何が起こったのか全く理解していない様子でルビーと一護を交互に見つめるニノ。
ルビーは地面に押さえつけられて呆然としているニノを見下ろしながら、被っていたウィッグを外す。
ウィッグの下から瑞々しい黒髪が零れ落ちるのを、ニノは表情の抜け落ちた顔で見つめていた。
「防刃ベストです」
ルビーに変装していた黒川あかねが、自分が生きている理由の種明かしとばかりにニノに言い放った。
「ニノ!これがアイへの復讐か!?知ってたよ!お前が菅野良介と付き合ってた事ぐらいな!
愛した男がアイに殺意を抱くほどのめり込んでいくのを傍で見てるのはそりゃしんどかっただろうよ!?だけどよぉ!」
「違いますよ、社長」
外側だけを見て自分たちの事情を理解した気分になって叫ぶ一護がなんだか可笑しくて、ニノは笑顔を浮かべながら返事をする。
その笑顔は、今日一日で10年以上も老けたような疲れ切った笑顔であった。
「アイは世界一のアイドルで、好きにならない方がおかしいんだから」
……止まれるところはいくらでもあった。
B小町の初期メンバーにアイがいじめられているとき、彼女の味方をしていれば。
妊娠したアイのスキャンダルを求めて高千穂にまでいかなければ。
アイの担当医を殺してしまったリョースケを見捨てていなかったら。
きっとアイもリョースケも死なずに済んだ「IF」の未来がどこかにあったはずだ。
「それに良介くんは、私が『もう死んでよ』って言ったら素直に死んでくれたし。復讐とかそんなんじゃないです」
結局身を弁えずにアイに嫉妬したせいで、全部自分で壊してしまっただけの話だ。
それをリョースケのせいにするのは単なる現実逃避であり、恥の上塗りにしかならない。
間違った選択肢を選び続けてきた結果、こうなってしまっただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
余りにも自分のやっていることが情けなくて。みっともなくて。
ニノは嗤いが止まらなかった。
「私の心はアイに全部奪われて。良介くんの魂すらアイに持っていかれた。
私の大切なものは全部アイに捧げたんです。
……そんなアイが、もし何者でもないただの女の子になったらすごく惨めじゃないですか。
私はただ、アイに特別であって欲しいだけなんです」
推理ドラマのラストシーンで自白する犯人のように自分の心情を淡々と語るニノ。
この期に及んでもニノはまだ自分の信仰の正体が単なるサンクコスト効果であることに気づいていなかった。
どちらにせよ、彼女の物語はここで終わりだ。
「妄言だ!同情なんてしねぇからな!?」
「社長だって本当は思ってるでしょ?『どうかアイは永遠に、完璧で究極のアイドルのままでいてほしい』って……」
「……アイは貴方を普通の友達になりたかった。そうルビーちゃんは言ってましたよ」
ニノと言い争う一護の会話に、あかねが口を挟む。
その言葉を聞いて、ニノは泣き笑いの表情を作った。
「……私もそう思ってたよ」
アイと和解して、共にB小町を盛り上げていく「IF」。
それはかつて何度も考えた幻想。
叶うことのなかったハッピーエンド。
「――そんな
時計の針は戻らない。
後悔だけが胸を満たして。
ニノは涙が止まらなかった。
「……話してくれませんか。いったい『誰』が、貴方と菅野良介をそうさせたんですか」
「…………」
ああ。
この期に及んでこの子は。
まだ『カミキヒカルが全部悪かった』という悪意に満ちたストーリーを信じたいのか。
……ふざけるな。
私達の紡いだ星野アイの物語に、そんな安っぽくてつまらないオチをつけようとするんじゃない!
「カミキさんは……『何もしてない』よ」
ニノは「星野アイの引き立て役B」という己の配役に誇りを抱きながら、目の前の星の輝きを
お前は所詮その程度しか、私たちを理解していないのだと見下しながら。