このシーンを書くためにこの物語を始めました。
ここまでこれたのは読者の皆様の応援のおかげだと思っています。
彼の苦難に満ちた物語を見守ってくれた読者の皆様に、深い感謝の意を込めてお礼申し上げます。
血に濡れたナイフ。
腹部を刃物で抉られて、よろよろと後退りしてぺたりと尻もちをつくアイ。
「リョースケぇええええええ!!!」
僕はフードの男に駆け寄って、その顔に鉄拳を叩きこんだ。
「僕はこんなこと頼んでいなかった!お前が余計なことをしなければ!!僕とアイがやり直す未来だってあったかもしれないのに!!」
顔面に拳を叩き込まれて文字通り玄関から叩き出された男に向かって僕は大声で叫ぶ。
頬骨を殴りつけた拳が痛い。でもそれ以上に心が痛い。
そしてそんなことがどうでもよくなるぐらい僕の中で怒りの感情が渦巻いている。
ずっと思っていた。
ずっと黙っていた。
「僕は何も悪くない」って、心の中でずっと叫び続けていた。
僕は誰も殺してない。みんな僕の周りにいた人が勝手にやったことじゃないか。
それなのに、みんなお前のせいだと僕ばかり責めて罪を押し付けてくる。
僕はただ、誰かに愛されたかっただけなのに。
許せない。
許さない。
お前のせいだ。
アイを殺したお前を許さない。
アイの命を僕に背負わせたお前を絶対に許さない。
「僕の
今までずっと押し殺していた想いを叫びながら、僕はアイを刺した男に追い打ちをかけるために更に一歩踏み出す。
だけど、僕はそれ以上その男に近寄ることは出来なかった。
「………えっ?」
僕に殴り飛ばされて廊下に転がっていた男はフードが外れてその顔が露わになっていた。
しかしフードの下から出て来た顔はリョースケではなく、まだ高校生ぐらいの金髪の少年。
アイを刺した男は、若き日の僕自身だった。
顔を見られたもうひとりの僕は、赤く腫れあがった顔を押さえながら一目散に走り去っていく。
何が起こっているのか理解出来ず混乱していた僕は、その逃げていく僕自身の背中を呆然としながら見送ることしか出来なかった。
嘘だ。
そんなことがあってたまるものか。
理解出来ない。
理解したくない。
「……ぼくが、アイを、殺したのか?」
なんで。
どうして。
何をどうしたらこんなことになるんだよ。
アイを殺したのが僕だったなら、僕は一体誰を恨めばいいんだ?
「……けほっ」
「アイ!」
余りにも残酷で醜悪な「ありえた
僕は慌てて苦しそうな顔をしながら腹部を押さえているアイの近くに駆け寄る。
「いやぁ油断したね。こういう時のためにドアチェーンってあるんだ。施設では教えてくれなかったなぁ」
青ざめた顔で無理やり笑顔を作りながらアイが言う。
お腹を押さえるアイの手の隙間から、どくどくとアイの命が溢れ落ちていく。
その姿を見て僕は泣きそうになったが、同時にアイが自分を刺した犯人の顔をよく見ていなかったことに気づいて心の奥底で安堵していた。
そんな悍ましい自分の性根が気持ち悪くて、壁に自分の頭を叩き付けたくなる衝動を必死に我慢する。
「あー…、これもう無理かも。失敗したなぁ。まだまだやりたいこといっぱいあったのに」
「アイ!もう喋らなくていいから!?」
「ルビーが成長していく姿を見たかった。小学校の入学式も見たいし、授業参観にも出てみたかった。
それでルビーが大人になって、いつか私を超えるアイドルになるところを見届けて。あぁ、親子共演とかもやってみたいかも。
……あはっ、私って結構欲張りだったんだね」
どこか遠くを見つめながら、アイが言う。
幸せな未来という名の泡沫の夢がアイの口から語られて、次々に生まれては弾けて消えていく。
「それから……ヒカルと本当の家族に、なりたかった」
「……どうして」
どうして君は、手遅れになってからそんなことをいうんだ。
君の妊娠が発覚したあの日にその言葉を言ってくれれば、もっと違う未来があったはずなのに。
「こんなことになるんだったら…ルビーが大人になるまで待つんじゃなくて、もっと早く縒りを戻しておけばよかったかもね……」
「アイ……」
いつも失敗を誤魔化すときに浮かべていた笑顔を見せながらアイが言う。
そんなアイに僕は何も言うことが出来ず、ただ歯を食いしばって悲しみと絶望に震えながら縋り付くようにアイの手を握り続けていた。
「ヒカル」
そんな情けない僕を、アイが真っ直ぐに見つめてくる。
今にも消えてしまいそうな声で、僕の名を呼んで。
それでいて、燃えるような情熱を瞳に宿して。
「愛してる」
命を燃やし尽くすような熱情を、その一言に籠めて。
――僕がずっとずっと欲しくて欲しくて仕方なかった言葉を、アイが言った。
なのに、ちっとも嬉しくない。
「……今度は嘘じゃないよ」
駄目だ。
もう限界だ。
「う……うわぁあああああああ!!!」
愛を手に入れた喜びと、愛を喪った悲しみに打ちひしがれて。
僕は大声を上げて、泣いた。
「……こほっ」
アイがまた咳き込んで、血を吐く。
せめて吐き出したその血を拭おうと僕がハンカチを取り出そうとすると、ポケットの中で指にカチリと硬いものが当たる感触があった。
ポケットの中からそれを取り出すと。
海の中で落としたはずの、婚約指輪がポケットの中に入っていた。
「……結婚しよう、アイ」
涙でぐちゃぐちゃになった顔に無理やり笑顔を浮かべて、僕は言う。
「もう一度やり直そう。まだ間に合うよ」
掌に乗せた婚約指輪を見せながら、僕はアイに言う。
僕もアイも、選択を間違えた。
でも生きているならまだやり直せる。
たとえ僕達に残された時間があと一秒しかなかったとしても、そんなことは関係ない。
この幻想は、きっと僕がこうするために与えられた時間なのだろうから。
「……うん」
あの日アイに「無理」と言われてすげなく断られた僕のプロポーズ。
それをアイは、今度は噓のない心からの笑顔と共に受け入れてくれた。
「ふつつかものですが…よろしくお願います……」
神父も列席者もいない、二人だけの結婚式。
もう一人の僕が持ってきた白い花束をブーケに見立てて、僕は結婚の誓いの言葉を読み上げる。
「病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も……
死がふたりを分かつ
死の先まで続く永遠の愛を誓いながら、僕はアイの薬指に指輪を嵌めた。
「……ごめん、指輪が一つしかないから指輪交換出来ないや」
結婚式のための指輪を準備出来なかったことを、僕はアイに謝る。
そんな甲斐性なしの僕をアイは優し気な笑顔を浮かべたまま、身動き一つせずに見守っていた。
「こんな
アイは何も言わず、ただ笑顔を浮かべて僕の提案に賛成する。
「愛してるよ、アイ」
アイはずっと笑顔を浮かべながら、僕の話を嬉しそうに聞いていた。
左手の薬指に指輪を輝かせて。
聖母のような笑顔を浮かべたまま。
アイは、幸せそうな表情で静かに眠っていた。
――「私は貴方を愛せない」という嘘から始まった、噓吐きな女の子と不器用な男の子の物語は。
長い旅路の果てに、ようやく終わりを迎えたのだった。
「……この世界の神様は、僕達に何をさせたかったんだろうね」
アイの亡骸を前に、僕は呟く。
「伝えたかったんだと思うよ。愛を」
その僕の独り言に後ろからずっと様子を見ていたフェレスが反応して答えた。
「愛?これが?この結末が?」
感情の抜けた声で、僕はフェレスに言い返す。
別に怒ってなどいない。そもそも怒るほどの気力が残ってない。
「愛とは他人の幸せを心の底から願う気持ちのこと。星野アイは死の直前にそれを悟って満足して逝った。この結末は本来君が辿るはずだった結末よりよっぽどマシな終わり方だと思うよ。私は」
「……結局、僕はアイを愛することが出来てなかったんだね」
僕はアイの幸せを願うことが出来なかった。
だからこんな結末になった。
この結末は自業自得で、本当ならもっと酷いことになっている可能性があったというフェレスの話を聞いて僕は更に暗い気持ちになった。
「でもアクアは『アイを喪ったことを後悔して苦しみながら生きろ』と君に言った」
絶望すら枯れ果てるほどの深い悲しみに包まれて呆けている僕に、フェレスは語り続けてくる。
「その苦しみこそが、君の心に愛が実在した証明だと信じて。
いま君がアイの死を悲しんで、苦しんで、後悔しているなら。それこそが君の心にも『愛』があったという確かな証拠だよ」
ああ、そうか。
この慣れ親しんだ苦しみこそ、僕の愛だったのか。
「愛はずっと…僕の中にあったんだね……」
最後に残ったこの感情こそが愛だと知って。
久しぶりに、嗤う以外の方法で笑うことが出来た。
……外から射す光が強くなってきた。
霧のように濃い光が世界を白く塗りつぶしていく。どうやら生と死の刹那の狭間で見たこの幻想もそろそろ終わりが近づいているようだ。
「君の物語もここで終幕。ならばせめて最期は愛する者のそばで終えるといい。
……それこそが俺の、【推しの子】の物語への復讐だ」
そう言い残して、フェレスが光の向こう側に去っていく。
残されたのは、僕とアイの二人だけ。
アイ。
僕のアイ。
僕はアイの身体をぎゅっと抱きしめる。
この幻想の世界が消える最後の瞬間まで、アイの存在を感じられるように。
「アイ……」
愛する者を幸せに出来なかった後悔で、胸を満たしながら。
「僕が、間違っていたよ……」
――私は幸せだったよ、ヒカル。
最終回まであと2話。