「1話目であれだけファンに喧嘩売ってたらそりゃ低評価食らうわ」とかでもいいので。
「ぜぇ…ぜぇ…はぁ…はぁ……」
ギコギコと、さび付いたチェーンがギアを回す音を鳴らしながら僕は自転車を漕いでいた。
目的地は、アイの住むマンション。僕はアイから呼び出されて彼女の家に向かっている途中だった。
僕ぐらいの年齢の男の子だったら、女の子の家に招かれたら嬉しくて小躍りするのが普通の反応だろう。しかし僕とアイは一週間ほど前に出会ったばかりの関係。呼び出された要件は「私の家まで演技教えに来て」というものだったので、そこに他意などなく言葉通りの要求なのは明白である。
可愛い顔をしているのに、中々性格が図太い。いやむしろ自分の可愛さを自覚しているからこその行動というべきか。
僕は彼女と仲良くなりたい…有り体にいうと「モテたい」という悲しき男の習性に逆らえず、アイのところに向かっているのであった。
「えっ、自転車で来たの?電車使えばいいのに」
「いやまあそうなんだけど…」
マンションの入り口で出迎えてくれたアイが、僕が自転車で来たと知って驚いていた。
僕の家からアイのマンションまでの距離は片道7kmぐらいで自転車だと30分ほどかかる微妙に遠い距離だが、自転車通学の僕は電車の定期なんて持っていないので仕方がない。
「お小遣い少ないの?」
「…皆が皆、お小遣い貰えるわけじゃないから」
施設にいた頃のお小遣いは月1500円だったし、母と生活していたときは買い物のお釣りをくすねるぐらいしかお金を得る手段はなかった。それを考えたら、中学生になって大人料金を取られるようになった電車賃をケチろうと考えるのは割と普通寄りの反応のはずだ。
「私と同じだね。アイドルやったら?多少は稼げるよ?」
「揶揄わないでよ」
「冗談のつもりはなかったんだけど?」
「……」
僕はそのアイの率直な言葉に上手く返事出来なかったので、はにかんで誤魔化した。
…僕のことを褒めてくれている、と解釈していいのだろうか。
僕はモヤモヤとした、しかし不快ではない気持ちを胸の中に感じながらアイと一緒にエレベーターに乗った。
「私の演技って違和感あるんだって。『もっと普通に出来ないの?』って言われるんだけど、どうしたらいいと思う?」
「いや、どーしょうもないでしょ」
「えぇっ!なんでよ!?」
アイの部屋で彼女が演技しているところを見せてもらった後、どこを直せばいいのかを聞かれた。
どこと言われても、全部としか言いようがない。僕は彼女への指導を早々に諦めた。
「だってアイってすこぶる変人なワケじゃん。変人が普通をやったらそりゃ変人になるでしょ」
「普通」を理解していないんだから「普通」の演技なんて出来るわけがない。犬や猫に芸を教えるのとどっちが楽なのかと問われたら返答に困るところだ。
「何それ!変人は君でしょ!?」
「いや絶対アイのほうが変だから!百歩譲って僕が変だとしてもアイの方が絶対変だから!!」
「私のどこが変だって言うの!?」
ムスっとした顔でアイが言う。えっ、本当に自分が変だという自覚ないの?
「普通の人は『私の家まで演技教えに来て』なんて言わない。普通教わる側が来るべきでしょ?」
「一理ある。でもツッコむべきところは別じゃない?」
ソファに座ってアイの演技を見ていた僕の隣に、アイが座った。
距離が、近い。
「ふつーだったら『男を家に簡単に招いちゃダメ』とか言うべきなんじゃない?」
「そうなの?」
「ほら、君のほうが変だよ」
そういうものだろうか。あいにく僕には女の子の家に招かれたことを冷やかしてくるような友人はいないので、そういう
でもそれを、よりにもよってアイに指摘されるのはちょっとムッとくる。
「納得いかない!アイなんて靴下左右違うし!しかも靴下に穴空いてるし!いつも靴の底べろんべろんだし!絶対にアイのほうが変だよ!!」
ムキになってアイのズボラなところを指摘しまくると、彼女はまるで子供のようにぷい、と顔を背けた。
アイドルをやってるんだから、もう少し私生活でもアイドルらしい振る舞いを心がけたほうがいいんじゃないかとこちらのほうが心配になってくる。
「もう少し身なりに気を使ったほうが…」
「やだよー」
僕の小言に対して、アイが舌を出して拒否してくる。
なんだろう。可愛いけど可愛くない。
それからも、僕がアイに呼び出されて彼女の部屋で演技の勉強をする関係は続いた。
アイに呼び出されるたび、彼女は少しずつ変化していった。
身だしなみに気を遣うようになった。人並にお洒落に興味を持つようになった。世の中の「普通の女の子」を知って、「普通の演技」が出来るようになった。
――僕に向けられるアイの笑顔が、少しだけ柔らかくなったような気がした。
「こんなご飯食べたの初めてだよ。美味しかったなー…」
「ヒカルは可愛いなぁ」
「子供扱いしないでよ」
その日僕は、アイに誘われてディナーデートを楽しんだ。
身の丈に合わないフランス料理店で一緒に食事をして、食べた後にお金が足りなくて二人して真っ青になるという黒歴史を作ってきたところだ。
「しちゃうよー。さっきだってさりげなくトマト私によこしてさ。嫌いな食べ物がトマトなんてさー、子供でしょー?」
そんな大失態をつい先ほど晒してきたばかりなのに、それをすっかり忘れた様子で嬉しそうにアイが言う。二人で30000円という大金を使ったデートがアイにとって不快な思い出にならなかったことに安心した僕は、心の中で安堵のため息を吐いた。
そんな上機嫌のアイの姿を見て、僕の胸の中に疑問と不安が生まれてくる。
「…アイは、僕とご飯食べて楽しかった?」
「うん」
即答だった。
嘘のない、満面の笑みを浮かべてアイが言った。
「…僕もだよ」
そう言って、僕達は別れた。
また今度、次も一緒にご飯を食べようと約束をして。
ぶんぶんと手を振って去っていくアイの姿が見えなくなるまで、僕はずっと彼女を見つめていた。
そんな、世の中の少年少女たちが羨むような青春の日々をアイと一緒に堪能した後、
僕は愛梨さんに抱かれた。
それが、僕にとっての「普通」だった。
本当は、トマトは好物。あの店にも愛梨さんと行ったことがあるし、お小遣いもちゃんと貰っている。
本当は、僕よりアイの方が変人だなんて全く思っていない。平和なこの国で小学生の頃から売春をしている子供なんて、数えるほどしかいないだろう。
年齢を重ねるたびに、大人に近づくたびに、
僕は軽蔑していた母と、同じ存在になっていく。
母子家庭。母親の死。馴染むことが出来ない施設暮らし。
そして、里親からの性的虐待。
生まれたときから、僕の周りの環境はずっと「異常」が付きまとっていた。
「異常」こそが、僕の「普通」だった。
とっくの昔に慣れたはずなのに、
とっくの昔に諦めたはずなのに、
アイとの出会いが、僕の「普通」を変えていく。
僕の「普通」が――「嘘」が、壊れていく。
――本当は、僕は愛梨さんとのこういう行為が気色悪くてたまらない。