平和な世界の魔王は勇者と戦いたい 作:臨時定休日
嘗て人類と魔族の間で、大きな戦争が起きた。
永遠に続くかに思われた戦いは、聖剣の担い手である勇者と魔を統べる魔王の決戦が、相打ちに終わったことで幕を閉じた。
互いの種族の最強の存在を喪い、疲弊した民衆と荒廃した世界を前に、残された者たちは争いの無意味さを思い知り、人間の王と魔族の王子は互いに和解を申し出て、共存の道を選んだ。
勇者と魔王の戦いは、吟遊詩人の歌う英雄譚や書物に記された過去の出来事となり、争いが起きた理由もどちらが先に戦を始めたのかも忘れ去られていった。
人類同士の争いや、様々な種族が小競り合いを起こすことはあったが、世界を巻き込む戦争は起きることなく、比較的平和な時代が続いていた。
――が、夜の帳が降りた魔族領の主都にある王城、すなわち魔王城で平和を脅かす良からぬ企みがあった。
玉座の間は闇に沈み、静寂に包まれている。
長い沈黙を破り、玉座の人物が口を開いた。
「我、魔王クラウディオ・アズナレスは勇者と戦い、打ち破ることをここに宣言する!」
魔王が力強く言い放つと雷鳴が轟き、空を閃く雷光が玉座の前に跪く三つの影を浮かび上がらせた。
「ええと……言いたい事は色々ありますけど、取り敢えず暗いから明かり点けますね」
暫しの沈黙の後に一人が立ち上がり、呆れた声を上げて指を鳴らすと燭台に明かりが灯され、広間にいる者たちを明々と照らし出した。
「おい、何すんだよ! せっかく雰囲気出してんのに!」
「そんなことで、わざわざ雷まで落とさないでくださいよ陛下。城下町の人たち、びっくりしますよ」
魔王が不服を申し立てるが、明かりを点けた張本人――褐色の肌と背中まで伸びた銀色の髪と長い耳を持つ女性――が眼鏡の奥に輝くややタレ目気味の紫色の瞳で、玉座に向かって呆れ顔を向けていた。
魔王の補佐役である、カミラという名のダークエルフだ。
「はーやれやれ、また変な遊びを考えてからに。爺やは腰も膝も悪いんですから、この体勢は辛いんですぞ」
禿げ上がった頭と目元が完全に隠れるほどに伸びた眉毛、そして胸元まで垂れる長い髭を蓄えた老人が、杖を両手で握り締めて踏ん張りながら立ち上がった。
魔王にとっては魔術の師であり、幼い頃からの教育係でもある、宰相を務めるバルザークもカミラと同じく非難じみた呆れ顔を玉座に向けた。
「鎧まで着て来いって言うから、何事かと思えば……そんなしょーーーもない事で、我々を呼び出したんですか? 殿下? 早く家に帰りたいんですけど」
バルザークに続いて短髪で初老の男、魔王軍を取り仕切る将軍ライオネルも不平を言いながら立ち上がり、冷ややかな視線を玉座に向けて送った。
刺すような視線を一身に受ける玉座の人物は、金銀糸で装飾された黒い衣服と黒いクロークを羽織った装いで、闇色の髪と瞳を持つ、人間で言えば10歳程度の少年だった。
「妻としては、そんな危ない事は見過ごせないんですけど。何でそんな変なこと思い付いたんですか」
「いやほら……なんかカッコいいじゃん。と言うか、お前を娶った覚えはないんだが?」
「そもそも、どうやって戦うつもりなんですか。正統な理由も無く決闘なんぞすれば、勝っても負けても人類との戦争は避けられませんぞ? そんな下らん理由で民草を争いに巻き込むつもりですか!? 爺やは情けないですぞ!」
バルザークの怒りの一喝を受け、幼稚な理由で戦いを決意した魔王がびくりと肩を震わせた。
「人類と戦争なんて始めたら、巨人たちも隙を突いてきますよ? 今のところ大人しくはしてますが、族長は高齢で病に伏せっていますし、代替わりもそう遠くないでしょう。そうなると、また反乱を起こす恐れがあります。そこら辺ちゃんと考えてますか? 殿下?」
ライオネルが魔族領の最大の問題点を挙げた。
巨人族は傲慢かつ粗暴な者が多く、族長の代替わりの度に反乱を起こしてきた、魔族領の悩みの種だ。
「ぐぅ……それより、若様とか殿下って呼ぶの止めろよ! 俺が即位してもう50年は経ってるし、年だって120だぞ! 人間ならジジイになってとっくに死んでる年なんだぞ!」
「じゃあ、それなりに思慮深くなったらどうですか。魔王と勇者の戦いなんて、今じゃ御伽話でしょうに。それと、外で勇者と戦いたいなんて言ったら駄目ですぞ? 変な噂が広まったら、下手をすれば外交問題ですからな」
「陛下、それって私の事もババアって言ってます?」
「本の中の物語に憧れる年頃なのは分かりますけど、立場を考えましょうよ。それに、年齢の事を言われましても……殿下はまだ私らの半分も行ってないじゃないですか」
齢700を超えるバルザークと齢400を超えるライオネルの反論に、魔王は何も言い返せなかった。
魔王の父である先代魔王が「息子も十分に育ったから冒険の旅に出る」と言い残して出奔して以来、先代から仕えているこの二人には大いに助けられているため、魔王の座に就いた今でも頭が上がらないのだ。
「強者と戦いたいなら、また竜王様と手合わせでもすればいいじゃないですか。あの御方も退屈してるそうですし」
「ダメダメダメ! それは絶対駄目です! 後処理が大変だったんですよ!」
ライオネルの提案に、カミラが慌てて待ったをかけた。
魔王が即位して間もない頃、竜族の長である竜王から、魔族を統べるに相応しいか力を示せと迫られ、一戦交えたことがあった。
魔王と竜王の激突は苛烈さを極め、三日三晩戦い続けた結果、山は砕け大地は抉れ、大河の流れも変わる天変地異の様な惨事となった。
そして獲物の獲れなくなった猟師、作物の生育が悪化した農民、街道が破壊されて仕入れが滞った商人、物価が高騰して生活が苦しくなった国民にその他色々と、様々なところから苦情が殺到したのだった。
多大な補償金に加え、バルザークとカミラを始めとした大勢の文官の連日の徹夜によって、どうにか事態は収まったが、二度と起こしてはならない出来事なのだ。
魔王にとっても二人から泣くほど説教され、実際に泣いて謝った苦い思い出がある。
「オークの族長から再戦希望の手紙も来てますし、そっちと戦ったらどうですか? それなら災害みたいな被害も出ませんし」
「オークじゃ相手にならんし、俺は勇者と戦いたいの! 勇者って確か三人いるんだろ? 一人ぐらい、いいじゃんかよ!」
「ですが、勇者と戦って死んじゃったらどうするんですか。私はそんなの嫌ですよ、まだ式も挙げてないんですから」
「そこはまあ……いい感じに引き分けたり、お互い死なないように気を付けたり、事前に打ち合わせをしてだな……っつうか、お前と結婚した覚えは無いって言ってるだろ!」
「ただの八百長じゃないですか。そこまでして戦う意味なんて無いでしょうが。爺やは本当に情けないですぞ、何でこんな、おバカなことを言うようになったのやら」
カミラの折衷案を一蹴して駄々をこねる魔王に、バルザークが服の袖で目頭を押さえた。
「あーほら、余りの情け無さに泣いてしまったじゃないですか。ほら殿下、ちゃんとごめんなさいしないと」
「嘘泣きってバレバレだぞ、爺や。そんな手に何回も引っ掛かる訳ないだろ」
「チッ、余計なことばかり知恵をつけてからに」
「まったく、背が伸びないからって、頭の中まで子供のままでなくてもいいでしょう」
ライオネルが溜息を吐きながら言うと、魔王は目に涙を浮かべてを顔を真っ赤にして、握り締めた拳はぷるぷると震えていた。
身長の低さは、魔王が一番気にしている事だった。
「う、うっさいうっさい! バーカバーカ! お前らみんな鼻毛が床に着くぐらい伸びちまえ!」
逆切れした魔王は玉座から立ち上がり、捨て台詞を叫んで広間から飛び出していった。
「あらら、拗ねちゃいましたね」
「いつまで経っても子供ですなあ。しかし、なんなんですかね、鼻毛が伸びろって」
「まあ、明日になればすっかり忘れてケロっとしとるじゃろ。いつもの事じゃわい」
広間から出てすぐの所で通りかかった侍女にぶつかり、詫びながら助け起こして、三人の生暖かい視線に気付いた魔王は「バーカバーカ!」と再び叫んで走り去っていった。
―――
城下町の酒場の喧騒の中、気軽に挨拶の声を掛けてくる飲み客に手を上げて返事をし、ジョッキに満たされた牛乳を一息に飲み干して不機嫌そうにカウンターに置くと、即座に牛乳が注がれた。
「難しい顔して、どうしたんですか魔王様。何かお悩みですかい?」
豊富な人生経験を感じさせる深い皴が刻まれた、柔和な顔の酒場の店主が魔王に尋ねた。
王都ともなれば他の種族の領地から訪れる者も多く、酒場には様々な情報が集まる。
城内ではまず耳にすることの無い話を聞けるため、魔王も酒場を訪れる事が多かった。
尤も、店主に愚痴を聞いて貰う事が大半だったが。
「んー……ちょっとな……。なあ店主、もし、もしもだぞ? 万に一つも有り得んことだが、俺が勇者と戦うなんてことになったらどう思う?」
5杯目の牛乳を飲み干すと、他の客に聞こえないように酒場の主に尋ねた。
店主は待ち受けていたかのように、ジョッキに牛乳を注いで魔王の質問に答えた。
「ええ? そりゃ間違いなく人間と戦争でしょうねえ。と言いますか、そんな状況になるのは間違いなく戦争が激しくなってからでしょうね。戦争は困りますねえ、私の娘も人間に嫁いで向こうの国で暮らしてますし、孫の顔が見れなくなってしまいますよ。魔王様がうんうん唸ってるのも、何か戦争になりそうな問題でも起きたんですかい?」
「あーいやいや、もしも、もしもの話だ。最近、人間の国から色んな本を取り寄せててな。冒険譚とか騎士物語の最後の方で、大抵が勇者と魔王の戦いになるんだよ。それで、実際にそんな戦いが起こったらどう思うかなって気になってな。あははは」
「ははあ、なるほど。人間の間じゃそういう話が人気ですからねえ。娘からの手紙に書いてたんですが、私の孫も友達と勇者と魔王ごっこなんて遊びをやってて、誰が勇者と魔王をやるかで毎回揉めるそうですよ。勇者の仲間とか魔王の部下の役ってのはハズレ扱いだそうで」
笑って誤魔化しながら牛乳を飲み干すと、店主は頬を緩ませながらジョッキに牛乳を注いだ。
「魔王様ぁ、そんな焦らなくても背なんてその内嫌でも伸びるんだし、牛乳ばっか飲んでないでたまには一緒に酒飲みましょうよぉ」
魔王が酒場を訪れると必ず居る、元冒険者のオークと虎の耳と尾を持つ獣人の常連二人組から誘いがかかったが「また今度な」と断った。
この二人組の男とは何度か酒の席を共にして、日々の出来事を語り合い、過去の冒険の話を聞き、話の流れで種族特有の体格の良さを羨んだりもしたが「今ぐらいの方が可愛いし、むしろ一生そのままでいてくれた方が捗る」と怪しい目付きで言われ、背の低さに触れられた怒りよりも、異様な危機感を覚えてからは余り関わらないようにしている。
「おいおい、牛乳なんか飲んでんのかよ。なんでこんな酒も飲めないガキが酒場にいんだぁ?」
服装からして冒険者であろう、酒場に入ってきた三人組の人間が、魔王の隣に来て悪態をついた。
人類圏から移住してきた人間は少ないながらも、城下町に住んでいて魔王の顔を知らない者は一人としていない。
他の客と違って身なりのいい魔王を見て、金を巻き上げようと考えたのか、それとも魔族だらけの地で舐められないように虚勢を張っているのか。
「おい、俺達の大事な魔王様に無礼を働くのは許さんぞ。」
「はあ? このチビが魔王だあ? しょうもねえホラ吹いてんじゃねえぞ」
魔王が反応するより早く、オークと獣人が人間たちに食ってかかり、人間も応戦を始めたせいで酒場はしんと静まり返った。
余計な枕詞が付いていた気もするが、いきり立つ常連の二人を見て冷静になった。
じきに他の客が煽り始め、殴り合いが始まるのも時間の問題だろう。
目の前で乱闘騒ぎが起こるのも好ましくないし、低レベルな喧嘩など見ていても面白くもない。
何よりも喧嘩は自分でするのが一番楽しいので、場を収めるべく仲裁に入ったが、人間たちも口論で頭に血が上っているようだ。
「うるせえぞクソガキ! お前からぶちのめしてやろうか!?」
「落ち着けよ、お前らは喧嘩しに来たんじゃなくて、酒を飲みに来たんだろ? だったら、ここは平和的にお前ら三人と俺で、飲み比べで勝負でもしようじゃないか。負けた方が全額持つってことでな」
「へえ、いいじゃんか。今日の飲み代はこいつに払ってもらおうぜ」
三人組のリーダーらしき男は鼻で笑っていたが、一人が侮蔑の笑みを浮かべながら話に乗り、残りの一人も親に泣き付かせてやると乗り気になっていた。
「よし、じゃあ決まりだな。店主、一番高い酒から順に持って来てくれ!」
リーダー格の返答を待たずに酒の注文をして、ジョッキの牛乳を飲み干してカウンターに勢いよく置くと、すかさず次の牛乳が注がれた。
「牛乳はもういいっつうの! 酒だ! 酒持ってこい!」
「これは申し訳ない、つい条件反射で」
店主は謝りつつ酒を用意し、常連が座っていた席を空けて貰い、二人は魔王の背後に陣取った。
店内の他の客も面白い見世物が始まったと、大勢が席を取り囲んで野次を飛ばし始めた。
「そんじゃ、グラスの酒を同時に呑む、一杯ごとにお前らは次の奴と交代な。お前らも見てるだけじゃ退屈だろ? 俺が一杯奢るから好きな酒飲んでいいぞ!」
席を囲むギャラリーに声を掛けると、魔王を称賛する声で沸き上がった。
簡単な取り決めをした魔王とリーダー格は同時にグラスを空けて、人間は次の者と交代し、次々と酒瓶を空けていった。
空の酒瓶が20本を超えた頃には、人間たちは随分と酔いが回っているが、魔王は平然としていた。
「三人だけじゃ相手にならんな。おい、お前たちも加勢してやれ」
魔王の後ろで腕組みをしていた常連二人に声を掛けると、オークは渋っていたが、獣人の方が魔王と酒を飲むチャンスだと耳打ちして、急激にやる気を出した。
新しいグラスを店主から受け取り、魔王の対面にまずオークが座った。
「いやあ、魔王様と飲めるのも久々ですね。あ、グラス交換してもらっていいっすか」
有無を言う暇も無く魔王のグラスは奪い取られ、オークは瞬く間に酒を飲み干して、今まで飲んだ酒の中で一番美味いと感慨深く呟いた。
オークと交代した獣人もグラスの交換を申し出て、問答無用で魔王のグラスを奪い取った。
……やはりこの二人は何か変だ。
警戒心を抱きながらも飲み比べは続き、リーダー格とオーク以外の三人は酔い潰れてしまった。
「お前……中々強いな……」
「お前こそ……ウプッ、結構やるじゃねえか……」
「おいおい、二人で盛り上がるのはいいけど、勝負の相手は俺だぞ? でかい図体して、こんなチビに負けて恥ずかしくないのか?」
人間とオークが称え合うのを魔王が嘲笑すると、二人は共通の敵に対して闘志を漲らせて、絶対に魔王を酔い潰すと意気込んだ。
しかし酒で顔が赤くなっていた人間は、今では気分が悪いのか血の気が引いており、空の酒瓶が50を超えた頃に健闘虚しく酔い潰れた。
「ついに、二人きりになれましたね」
寒気のする台詞を吐きながら、目に怪しい光をたたえたオークはにっこりと笑った。
――こいつは一体何を言っているんだ。
この飲み比べに負けると、命以上に大事な物を失ってしまう。
身に迫る危険を本能的に感じ取った魔王は、決死の覚悟で酒を飲み、遂にオークも打ち負かした。
もしオークよりも先に酔い潰れていたら、一体どんな恐ろしい出来事が降りかかっていたのだろうか。
酔った勢いで
周囲を見回すと他の客は既に帰っており、酒場は酔い潰れた男のいびきの音だけが響いていた。
魔王は体が小さい割に異常に酒が強く、人間と常連合わせて五人分以上の量を飲んでも、軽い酩酊ほどにしか酔っていなかった。
「ふぅ、少しは気晴らしが出来たな。代金はここに置いとくぞ店主、釣りはいらんぞ」
「あ、ちょっと、魔王様! これじゃ足りませんよ!」
テーブルに数十枚の金貨を置いて立ち上がり、羽織ったクロークを翻して颯爽と去ろうとすると、代金を検めた店主から引き留められた。
「えっ? そんなに飲んだっけ?」
魔王としては格好よく決めたつもりだったが、予想外の返答に素っ頓狂な声が出てしまった。
一番高価な酒から順に飲んだとはいえ、並みの労働者の一年分の収入並の金額を払って、まだ足りないなんて事があるのか。
店主に事情を詳しく聞くと、野次馬に酒を振舞った際に、途中で飽きて帰った者が飲み比べの件を外で話したらしい。
そのせいで、魔王の金で酒が飲めると聞きつけた近隣の住民が入れ替わり立ち替わりに訪れ、予想を遥かに超える代金に膨れ上がってしまったようだ。
「おかげで酒がもう殆ど残ってないから、明日は店が開けられませんや。仕入れで一日が潰れちまいまさあ」
それなら後から来た奴に酒を出すなよ、と店主を恨めしく思いつつ、床に膝を突いて自身の影に触れると、水の中に入れる様に手が沈み込んだ。
魔王は生来の能力で影を操ることが出来、影の中に物品を収納することも出来た。
影の中から金貨が詰まった袋を取り出し、今一つ釈然としないながらも残りの代金を払った。
魔王が店を出ようとすると、一番最後に酔い潰れたにも関わらずオークが最初に目を覚ましたので、酔い潰れた連中を宿まで運ぶように言い付けて金貨を数枚渡した。
「今日はこいつらでいいか」
酒場の扉を閉める寸前、酔い潰れた人間を抱き上げながら、オークがよく分からない事を言っていた。
「さ、帰って風呂入って寝よ」
何だか人間たちに物凄く気の毒な事をしてしまった様な気がしたが、きっと思い違いだろうと聞き流して、少々覚束ない足取りで帰路についた。
門番を労いながら城門を抜けて真っ直ぐに浴場へと向かい、乱雑に衣服を脱ぎ捨てて浴槽に飛び込んだ。
ちょっとした泉ほどの広さのある浴槽の水面に仰向けに浮かんで、対流に任せてゆらゆらと揺蕩った。
浴場に立ち込める湯気は天井が見えない程で、そのまま目を閉じて勇者との戦いについて思考を巡らせた。
「わっ、どうしたんですか? 陛下?」
ライオネルや酒場の店主が言っていた様に、勇者と戦うなら戦争は避けられないのかもしれない。
もしもこちらから仕掛けた場合、魔族領で魔王に付く者はどれだけいるだろうか。
オークや獣人、そして吸血鬼は居住地が人類圏に近く交流も活発なため、人間側に付く者が大半を占めそうだ。
竜族も竜王の一存で全てが決まるだろう。
その竜王も今では暇を持て余し、人間を始め様々な種族の冒険者に、試練と称して個人的な雑用や領土内の些細な問題を解決させて、財宝の一部を分け与えるという道楽に興じている。
竜王が溺愛している末の娘からは気に入られているが、魔王に付くかは五分五分かもしれない。
「ちょっと、陛下? もしもーし」
「魔王様全然聞いてないですよ、寝てるんですかねえ。溺れなきゃいいんですけど」
そして、巨人という一番の問題がある。
ただでさえ反乱を起こしがちで友好的ではない以上、人類と戦争になれば背後を突かれることは間違いない。
「巨人か……」
ぽつりと漏らし、胸の中に暗い感情が広がっていく。
魔王が生まれて間もない頃に巨人が反乱を起こし、その際に魔王の母は戦死していた。
顔も声も、その手に抱かれた感触も、記憶の欠片すら残っていない。
唯一残っているのは父の部屋に飾られた肖像画のみだが、それも母の生家から持って来た物なのか、描かれているのは魔王と同じぐらいの年の幼い少女だった。
復讐を考えたりもしたが、個人的な恨みで軍を動かすなど出来る筈も無く、100年以上経った今も消えない憎しみの火を心の奥底で燻ぶらせていた。
生前の母を知るバルザークとライオネルに人となりを尋ねた際には、強く優しい御方だったと両者口を揃えて語っていた。
そして、魔王は母の血を色濃く継いでいるんだろうとも付け加えていた。
優しい母に似てるとは、つまり甘いという事だろうか?
そしてその甘さのせいで、いつまで経っても子供扱いされているんだろうか。
歴史書で読んだ人間の国の過去の独裁者の様に、些細なことで処刑する暴君の舞いをすれば畏怖されるのかもしれないが、そんな事のために家臣を亡き者にする気にはなれないし、魔王が求めるものとは違う。
竜王と戦って実力は示したものの、所詮は身内のじゃれ合いと見做されているのかもしれない。
やはり魔王としての威厳を確たるものにするには、勇者に勝利するという偉業を成し遂げるしかないのだろう。
「飲み過ぎじゃないですか? すごく酒臭いですよ」
物思いに耽っていると頭を掴まれる感触を覚え、目を開くと真上からカミラが覗き込んでいた。
「ひょわぁっ! ゲホッ、うぇぇ、ちょっと飲んじゃった。ってか、なにしてんだお前! いつの間に入ってきやがったんだ!」
突如現れたカミラに仰天して、頭を掴む両手から逃れようとして溺れかけ、慌てて両手で前を隠して浴槽の中にしゃがみ込んだ。
「この時間は私ら女が使うことになってますし、後から来たの陛下じゃないですか。それに、何回か声かけましたけど、気付いてなかったんですか? どれだけ飲んできたんですか」
カミラに言われて周りを見ると、湯気でぼやけているものの、城内に私室を与えている女官や泊まり込みの侍女が何人かいた。
侍女たちは浴場に入ってきた魔王を咎めることもなく、狼狽ぶりを見てクスクスと笑っている。
すぐにでも外に出たかったが、逃げ出せば更に舐められてしまうのではないか? と考えた魔王はカミラに向き直った。
湯で濡れた肢体を水滴が伝い、明かりに照らされ艶めかしい輝きを発し、上気した顔で穏やかな笑みを浮かべるカミラに、魔王の胸がどきりと高鳴った。
「そ、そんな事より少しは隠せよ! 恥じらいとか無いのか!」
「夫婦なんだから、照れなくてもいいじゃないですか。俺が魔王になったら嫁にしてやる、って言ってたの陛下ですし」
「カミラさん、あれ本気にしてたんですか? あの頃の魔王様って、城中の女に同じこと言ってましたよ? 庭師さんや厩舎のあんちゃん達にも、直属の騎士団作って騎士に取り立ててやるって言ってましたっけ」
カミラの隣に腰掛けていた、人間で言えば年の頃は十代後半ぐらいの、鴉の翼と狼の尾を持つ灰色の髪の少女が割って入った。
カミラの部下の一人で、オフィーリアという名だ。
自分が次期魔王だとアピールするために、城内の者たちといい加減な口約束を交わした、幼き日の忘れたい思い出を掘り返されて言葉に詰まった。
「んー、でも陛下と結婚すれば王妃ですからねえ。一躍権力者ですし、何回も言えば陛下も折れると思ったんですけど。だから、浴場に入って来た時は夜の相手でも探しに来たのかと思って、気が気じゃなかったですよ。王妃の座を脅かすライバルなんて困りますからねえ」
「いやあ、それは無いでしょ。魔王様ってば、キスするだけで子供が出来ると思ってるぐらい純情ですし」
「えっ? 違うのか?」
キョトンとした顔の魔王の返答に、カミラとオフィーリアは顔を見合わせた。
「おおう……適当に言っただけだったんですけど、まさか的中するとは。バルザーク様もそういう事は教えてなかったんですねえ。それじゃあ、私が手ほどきしましょうか? プロポーションは負けてますけど、カミラさんと違って経験豊富だから、色々教えて差し上げますよ?」
「やめなさいって、怒りますよ」
カミラが声を低くして制止するが、オフィーリアは意に介さずに、ざぶざぶと音を立てながら魔王に近付いていった。
「こ、こっち来んな! つうか、何でお前ら揃いも揃って、男が風呂に入って来て平気なんだよ!?」
「ぷっ、あっはっはっは! いや、男って、魔王様ぐらいの子に見られて恥ずかしがる年でもないですからねえ。もしかして怖気づいちゃいました? それとも、やっぱりカミラさんの方がいいですか?」
魔王は顔を真っ赤にしながら後退り、反応を愉しむ様にニヤニヤと笑いながら、オフィーリアはじりじりと距離を詰める。
「ちょっと、いい加減に……」
「どっちもいらねーよバカ!」
カミラが強引に止めようとオフィーリアの肩を掴んだ時、魔王が水面に手を叩き付け、天井まで届く水柱が立ち昇った。
二人が怯んだ隙に浴場から飛び出し、脱ぎ捨てていた衣服を引っ掴んで、這う這うの体で逃げ出した。
「うわっ、素っ裸で何やってんですか魔王様」
「何でもない、気にすんな!」
見回り中の兵士に何度か呼び止められながら城内を疾走して自室に飛び込み、扉の鍵を掛けて更に結界まで施して、疲れ果てた様に大きく息を吐いた。
魔法で右掌の上に火球を出して左手で風を起こして体を乾かし、寝間着を身に着けてベッドの上に大の字に転がった。
「はぁぁ……過去に戻って無かったことにしたい……」
魔王の物心がつき始めた頃、召し抱えられて間もないカミラに出会い一目で恋に落ちたが、それも過去の事だ。
未だに子供の頃の求婚を揶揄い続けられていると思いきや、王妃の座という権力欲しさだったと、余計に質の悪い物だと知って大きな溜息が出た。
以前、余りにしつこく擦られ続けることに辟易した魔王は、正式に結婚しようかと申し出そうになったが、次はそれをネタに揶揄われることを危惧して思い留まったのだった。
今にして思えば、自棄を起こさなくて正解だった。
「カミラが一番大きかったな……」
中々寝付くことが出来ずにぼんやりと天井を眺めていると、今日の出来事が頭に過ぎった。
外見も頭の中も子供とは言え、魔王も一応は男である。
嘗ての想い人の浴場での姿が目に焼き付いて離れず、虚脱感と悩ましい気持ちを抱えたまま、ベッドの上でのたうちながら眠れぬ夜を過ごしたのだった。