死に行く世界:1999年6月17日(旧題 異常性癖:“理解・捕食”)   作:廃棄された提言

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導入:無人あるいは吸血鬼の城

 その肉塊に名前は無い。容姿は無い。家族は無い。性別も無い。記憶は無く、思考は無く、皮は無く、本来あるべき肉や骨の大半も無くなっていた。

 

「う……あ…」

 

 時折、呻き声のようなものを肉塊は上げるが意味はない。既にそれに人格は存在しないし、感覚もそのあらゆるが奪われて久しい。それは肉塊に残された僅かな機能による反射でしかなかった。

 

 ―――そう、肉塊は奪われていた。奪われた結果が肉塊だった。

 

 だが、奪われたという事実すら失っていた。

 

 当然のことだが、剥奪はその表層から始まった。より正確には、“接触”が全ての鍵だったがあまり意味は変わらない。見えやすいもの、取れやすいものから奪われていく。それはやがて深い部分に到達し、重要な物の幾つかを既に永遠に取り戻すことの出来ない場所に持ち去っていた。

 

 苦しみを感じることが最早出来ないというのは幸福なのだろうか? 屈辱すら感じられないというのはやはり不幸なのだろうか?

 

 

 唯一、たった一人、肉塊の傍には人の姿をした者がいる。それは寄り添い、肉塊を見つめ、聞いて、そして解体し暴いていた。

 

 元凶。

 

 その過程で流れるべき血は何処かへ―――少なくとも石畳の城の床に広がり染み込んでいくことはない。それらのいる静かな城のどこにも、最早何の痕跡も残っていない。

 

 死体はない。

 

 過去も未来も奪われた肉塊に残されているのは僅かな“今”だけ。――無論、それはこの今において風前の灯火よりも頼りなく、今にも掻き消えようとしている。

 

 外側も中身も、その大半が奪われ尽くした肉塊には、未だにその種族の残骸だけが名残として貼り付きそれを生かしている。

 

 肉塊がまだ多くを失っていなかった頃、それは強大な存在だった。今や見る影もないが、その残り火を辛うじて生命と呼べるものにしている。

 

 だが疑う余地もなく、いずれそれすら奪われることになるだろう。

 

 

 ―――人の姿をした何かが、肉塊を解いてその中身を暴こうとしている。

 

 その何かにとって知覚は握り締めることであり、解明は捕食に等しかった。時間を掛ければそれは全てをこの世から消し去ってしまう可能性を秘めていた。

 

 

 生きながらに死んでいる今の状況と、遠からず訪れる本当の終わり。肉塊にとっての幸福な未来は、当然そのどちらでもない。ただ、肉塊にはもう自分の幸福を選択する権利が無い。

 

 一番初めに、それを失った。

 

 肉塊はいつからか、落下の中にある。落ちているその穴は詐欺のような代物だった。初めは引き込まれている感覚すら無かった。緩やかな傾斜、登ろうと考えずとも向きを変えるだけで抜け出せるもの、そう思わせて近づく全てをその穴は引き摺り込んだ。

 

 落下は“穴”を知覚したその時から始まっていた。その僅かな傾斜を感じた時には既に引き返せなくなっていた。

 

 “穴”は人間の姿をしていた。

 

 気付いたところで、落ちて行くしかなく。落ち続けて、気付いたことすら忘れて、全てを失って、引き返せるわけもなく、

 

 ―――そうして肉塊は肉塊になった。

 

 

――――

――――――――

――――――――――――

 

 男だった。

 

 肉塊に性別があった頃、それは男だった。

 

 男は人では無かった。

 

 彼は吸血鬼と呼ばれていた。

 

 そしてそれは、比喩ではなく真実だった。

 

 中央暦1500~1600年代における中央大陸西部のある地域を表向きは領主として治め、その影で人を食らい、その血を啜る人外―――それが男の正体、本来在るべき失われた過去だった。

 

 男は自ら興した血族を率いる原初の吸血鬼の一体、真祖だった。

 

 人間たちの統治者として振る舞ったのはあくまで隠れ蓑だったが、ただ“血”のみに貪欲さを見せその他に対する欲望の希薄な領主は税を貪るような圧政も敷くことなく、あまり姿を見せることの無いながらも民から好まれていた。

 

 当時は平均年齢が30代にも達しなかった時代である。そして現代ほど情報網も発達していない。

 

 領主と城に住むその血族たちはかなりの広範囲に散らばって“食糧”集めをしていたから、よくいる行方不明者の一部となって取り立ててその所業が表沙汰になり騒がれるようなことも無かった。

 いなくなった者は獣に喰われたか、野党に襲われたか、川に流されたか。

 

 まさか領主たちが食っていたなどと思う者は誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 状況が変化したのは、1600年代初頭のことだ。その夜、血族たちが夜に紛れて城を抜け出し、人間たちに見つからぬよう血液狩りに勤しもうとした際に問題は起きた。

 

『真祖様…どうやら、森に閉じ込められたようです』

 

 最初にその報告を聞いた時は、流石に意図するところを掴み損ねた。だが実際に男は自分自身でそれを体験したことでその意味を理解した。

 

『これは……』

 

 男の城は付近には小規模の村があるのみで、その周囲全体を深い森に囲まれている。それは夜間、男と男から派生した血族たちの行動のしやすさを鑑みた立地であり、実際にこれまでに多くの“秘密”がその森の中では守られ、埋葬されてきた。

 

 だが今や、吸血鬼たちの秘密を守り続けた森は彼らを捕らえる牢獄となり果てていた。

 

 進めど進めど、森が終わらない。深く広い森林地帯であるとは言え、吸血鬼の速力を以てすれば飛び越えることさえ可能だった森が永遠に続き、景色が繰り返している。

 

 不思議なことに、森の外に出ようとすれば永遠にどこにも辿り着けないが、引き返せばすぐ森の内側―――城と村のある場所に戻ることが出来た。

 

 それが明確な壁として存在していたなら力付くで破壊するなど対処も用意だった。しかし、その牢獄は掴み所のない空間だった。

 

 明らかに異常なこの状況、そういった知識に明るい血族の力も頼ったが結果は空振りだった。

 

『…駄目です。魔術や呪術、教会の連中が使う神聖術の痕跡も探りましたが、少なくとも私たちの側には魔力の片鱗一つありません。

 この異常な森は、その実態において正常であることを装って問題の根源を見せていません。原因は探し続けますが、それが分からないことには一切の解決が見込めないでしょう。申し訳ありません、真祖様』

 

『…そうか。分かった。村の人間たちはまだこの事に気付いていないな?』

 

『その筈ですが、それが…?』

 

『森を出ることが出来なくなった以上、我々に残された人血は城下の村の住人のみだ。恐らくこの牢獄を作り出した者は、我々を飢え死にさせようと言うのだろう』

 

『……ッ! 解析を急ぎます!!』

 

『あぁ、急いでくれ。だが焦るな。私は最悪の状況に備える』

 

 果たして最悪の状況は訪れた。3日後、憔悴した血族が『何も分からなかった』旨を真祖たる男に伝えた時、血族を苛む飢えは看過出来るギリギリのラインを保っていた。

 

 故に、男は決断した。

 

 

 

 

 

『――なぁ、何か聞いてるか?』

 

『分からん。領主様が急に村人全員を広場に集めろって……』

 

 子供から老人(とは言ってもこの時代の最高齢はせいぜい40歳)まで、一人の例外もなく村で暮らしていた者たちが城の者による命令で広場に集まっていた。

 

 危険な野獣が出たとかで村人全員は周辺の森への接近を禁じられていた。森と城とを行き交う領主たちの様子から、相当厄介な事が起きているのだとは察していたが、それについて進展があったのだろうか?

 

『まさか戦争…?』

 

『それこそまさかだろ。攻め込まれるってなったら俺たち…にかく…す…い~みぃ……がぁ………??』

 

『おいおいどうし……た…………んあ…?』

 

 口々に話し合っていた村人たちの間にどこからか甘い香りが漂い始め、その意識が曖昧になって呂律が回らなくなっていく。

 

 やがて村の広場には虚ろな目をした住人たちが直立したまま沈黙する奇妙な光景が広がった。

 

 やって来た城の住人は村人を選別して老人と子供を残し、他の若い男女をどこかへと連れ出していく。彼らの向かう先には急ピッチで建設された木造の広い建物があった―――否、もうここまで来たら“畜舎”と呼んだ方が早いだろう。

 

 意志の無い廃人を作り出す強烈な麻薬に等しい“魅了”の魔術を掛けられた村の若者たちは命令通りに服を脱ぎ捨て、畜舎の中に入っていく。

 裸のまま足裏や膝を傷つけないよう配慮され敷かれた藁の上で列になって女性は両手両膝をついて腰を上げ、男性はその背後に陣取った。

 

 意志を失くしても、身体は反応する。人間の数は不足している。

 

 そして裸の男女を用意して行う作業など、これ以上は言わなくても分かるだろう。

 

 これまでは周辺に露見するリスクが有り、派手な行動を取ることは無かった吸血鬼たちだが、この状況では最早隠さなければならない対象はいなかった。

 

 

 

 

 

 

『………』

 

 長期的な食糧供給の目途を立てた真祖だったが、その表情は晴れていない。短期的には状況は一切改善していないからだ。

 “血の取引”を行うことで簡単に同族を増やせる吸血鬼と違って、人間が増えるにはどう頑張っても時間がかかる。

 

 そして吸血鬼の飢えは、そう易々と耐え凌げるものではない。

 

 本質的に吸血鬼は常に血の渇きを覚えている。それが満たされることは無く、その腹は常に空き続ける。

 

 一方で吸血鬼は不死だ。例え食事を抜いても生命に支障はない。生命にだけ(・・)は支障が出ない。

 

 吸血鬼は人間より遥かに死ににくい。彼らはアンデッド、死すべき運命からの逃避者だ。自然な手段により滅ぼすことは不可能であり、教会の信徒が有する幾つかの手段によってのみ討滅することが可能だ。

 

 だからこそ、彼らは遠ざけた死やそれに類する絶望の接近を只人よりも遥かに恐れる。普段は賭ける命を持ち合わせていないから、いざ自分の命が天秤に載せられた時にはそれはもう取り乱す。

 

 今、彼ら吸血鬼を襲っている飢餓の本質はその恐怖だった。忍び寄る絶望の足音を飢えとして感じ、それを恐れている。

 

 繰り返すが、吸血鬼は血を飲まなくても実は死なない。では、彼らが血を吸うのは単なる趣味趣向の類でしかないのかというと、それも違う。

 

 

 ―――長く血を吸えなかった吸血鬼には感覚だけでなく肉体が渇き、枯れ木のようにミイラと化した身体に魂を永劫縛り付けられる生き地獄が待っている。

 

 

 それこそが、吸血鬼における本来は有り得ない自然死。死なない終わり。恐怖の根源。

 

 人間の“量産”がその成果を見せるまで、血族たちは耐えられるか? 真祖は否だと断定する。いずれその恐怖に耐え切れず、村や畜舎に残る貴重な食糧を食い荒らしてしまう者が現れる。

 

 だからこそ彼は、二つ目の偉大な決断をした。

 

『おやめ……おやめください!!』

 

『そんな…どうか、どうか……ッ!!』

 

 血族たちを集め、彼らの見守る前で真祖はグラスに注いだ赤い液体を揺らし、口元に近づける。

 

 それは血だ。だが、彼らが好み常食する人のそれではない。

 

 時に人間は、仮に家畜の飼料を自分たちが食べることが可能だったとして、それを実行するだろうか? 余程切羽詰まった状況でなければ家畜の餌になど手を付けないだろう。

 

 吸血鬼も同じだ。食えるから、飲めるからと彼らは何でも手を付けたりしない。血なら何でも良い訳ではない。

 

 それなのに、それなのに―――

 

『そんな……汚い“ブタ”の血を貴方様が口にするなんてッ!!!』

 

 吸血鬼にとって、人血以外の血は所謂“ゲテモノ”に分類される。特に人間が食べる家畜の血など文字通り“家畜の餌”でしかない。それはもう忌避されるべくしてされる食事だ。

 

『あぁあああッ!!!!』

 

 だが真祖である男は、それを率先して行った。

 

 男が飲み干すと同時に、眷属が悲鳴を上げる。

 

 男は周囲に強制などしていない。眷属たちはただ責任を感じていた。真祖である彼がそうせざるを得ない状況に置かれていたのに、男が直接示すまで人血だの家畜の餌だのと選り好み出来ない状況であることを自覚出来ていなかった。

 

 ―――自分たちのせいで真祖にそんな真似をさせてしまった。せめて真祖だけは穢れのない血を受けるべきであったのに。

 

 血族たちは自分たちの主人の前に用意されていた獣血入りのグラスを誰からと言わず、率先して手に取り即座に飲み干した。

 

 真祖に穢れを強いながら、自分たちのみ清いままでいようなどと、そんな厚顔無恥な真似は決して出来なかったから。

 

 

 

 

 

 

 約400年、それが閉じた世界で吸血鬼たちが過ごすことになった年月だった。

 

 ―――人間の繁殖過程の短縮、血液量を増加させた個体への改良、人工的な血液の合成………。

 

 様々な試みと苦労の果てに、彼らは息の詰まりそうなこの牢獄の中での日々を懸命に生き抜いた。

 

『ハァッ…ハァッ…ハァッ…』

 

 そしてこの日、遂にその時が訪れた。

 

『申し上げます!!!!』

 

 怒鳴るほどの勢いで真祖の前に転がり込み、人間より遥かに身体能力(スペック)の高い吸血鬼でも息を切らす勢いで駆け込んだその血族に皆の注目が集まる。

 

 視線を集めた彼は、次の台詞を吐き出す為に万感の思いの熱を込めた。

 

『“森の封印”が解かれました!! 外界への障壁が無くなりました!!』

 

 沈黙。その言葉を聞いた者達はまず自分が夢を見ているのではないかと、これは都合の良い現実を自身の脳内で作り上げてしまった幻覚と幻聴ではないかと疑う。

 

『……え?』

 

 ―――やがて、そうではないと気付いて。

 

『―――今、この瞬間ばかりはお前たちの無礼を許そう』

 

 この400年を厳格に全てを管理し、責任を持って皆を導いた偉大な真祖である彼の言葉を皮切りに、血族たちの心の底からの歓喜の叫びが礼節や身分に関係なく城中で立ち上った。

 

 

 

 中央暦1999年6月17日、それが400年の時を超えて吸血鬼が現世へ帰還した日付である。

 

 

――――

――――――――

――――――――――――

 

 吸血鬼たちは好きなだけ血を吸いたい欲求を抑えて400年で変化しているだろう外界の状況を把握することにまず努めた。

 軽い偵察で現代の人間の服装を把握し、その後は目立たないようにそれに似せて作った物を身に付けて外の人々の中に溶け込み情報を集める。

 

『これは……』

 

 真祖自らも足を運んだ外の世界は、予想以上に400年前のそれから変化していた。

 

 馬の代わりに車輪と金属の構造物が人間の移動を助け、自らの城より遥かに巨大な建築物が街には幾つも聳えていた。火でも魔術でもない明かりが夜であろうと永遠に暗闇を照らし続け、その光明は夜空に瞬くべき星々の光を掻き消すほどのものである。

 

『おぉ……』

 

 400年、400年だ。その年月は、吸血鬼にとっても相当に長い。だが、たかだか数十年で世代を終える短命の人間がここまでの発展を見せていたことに真祖は感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。

 

 彼は思い出していた。男が真祖となった当時、吸血鬼はまだその名すら満足に知られていない黎明の種族であった。

 人間を遥かに上回る力を振るい、一方的に人間を狩り殺すことの出来た初期の彼らは隠れ潜むこともせず大々的に暴れ悪名を轟かせた。

 だが、そこからたった10年ほどで教会で信仰される唯一神の力を借りながら人間は吸血鬼への対抗策を編み出し、かつての絶望的な被捕食者の地位を返上してみせた。

 

 表立って暴れていた、隠れることもしなかった愚か者たちの根城に人間たちは押しかけ、遂にはその大半を滅ぼしてしまった。真祖である彼が自らの血族を守るため、より一層人間たちの中に溶け込んで潜みながら活動していくことを選択したのもその騒動が原因だった。

 

 人間は確かに弱い。だが、彼らには下馬評を覆す何かがある。

 

 そう理解はしていた。理解はしていたが、これほどまでとは―――。

 

《―――17日夜にアズマの首都アマハラに甚大な被害を及ぼしたその原因については現在までアズマ政府による正式発表が行われておらず、その安否が不明なことから情報が錯綜しており…》

 

『む…?』

 

 その時、彼方の景色を画面に映し出す不思議な箱の中で人間が気になる言葉を口にする。

 現代でも変わらず残っていた酒場という文化、人間に溶け込みその風情を知るには変わらずその場所が最適であると判断した真祖は箱に映し出された液晶の画面へ視線を向ける。

 

 気付けば、店内の他の人間の視線も大半がそれに向かっていた。

 

《これは未だ事実であると確定した情報ではありませんが、一部の生存者からは『怪物に襲われた』という証言も得られています。本テレビ局ではその“怪物”を映したと思しき映像の入手にも成功しました。重ねて警告しますが、これは未だ事実とは確定していません。その点にご留意頂いた上で、次の映像をご覧ください》

 

『……これは』

 

 バーに備え付けられたテレビの画面が切り替わり、乱れた映像が映し出される。撮影者は何かから逃れるように必死に走っており、映像内では周囲に他にも大勢の人間の足音や悲鳴が鳴り響いているのが分かる。

 

 不意に撮影者が何かに気付いたようにその足を止めて振り向いた直後、炎の尾を引いた金属の矢が首都に聳える摩天楼を無造作に崩壊させていく巨大な黒い影に衝突し、爆炎となってその姿を呑み込む光景が映像に捉えられていた。

 

 怪物の姿は黒煙の中に掻き消え、それを見た映像内の人々から歓声が上がる。怪物のいた頭上を矢を射ったと思しき鋼鉄の巨鳥が凄まじいスピードで駆け抜け―――それを遥かに上回る速度で煙の中から飛び出した黒い触手のような怪物の腕が人間の乗り物と思われる巨鳥に絡みつき、一息に握り潰して爆発させる。

 

 火のついた残骸が地面へ虚しく散乱して落下する光景を見て、映像内の人々の歓声は一瞬で悲鳴へと回帰してしまった。

 

 直後、撮影者も含めて逃げ惑う人々の足元に巨大な影が差し込み―――暗転。映像はそこで終わっていた。

 

《――この映像は災害現場であるアマハラで発見されたビデオカメラのメモリーデータから復元されたものです。映像の真偽は専門家の間で審議中ですが……》

 

『……』

 

 先の映像が捏造無き事実であると、真祖は密かに確信を覚えながらバーを出た。その根拠は他ならぬ彼ら自身の存在である。

 

 現代において、吸血鬼の存在は周知こそされていたがフィクションの存在として扱われていた。だが、それは今や彼と血族そのものとして現代に確固たる事実として蘇っている。

 

 ―――で、あれば、一見して性質の悪い悪夢のような真に迫ったあの映像に映る怪物の存在を、どうして(フィクション)だと一蹴できようか。

 

 6月17日―――名前も知らなかった彼方の地で起きたその異変と同日に、自分たちが解放されたこともまた真祖は無関係だとは考えていなかった。

 

 その予想が正しいのならば、事態はこれだけで終わることは無いだろうとも。

 

 

 

 

 

 

 真祖の予想通り、混乱は徐々に世界中に広がり始めていた。

 

 連日テレビに流れる真面目なニュース番組からはSFかホラー作品でしかお目にかかれないような内容が垂れ流されるようになった。しかしそれは冗談でも欺瞞でもない、厳然たる事実だった。

 

 真祖たちが情報収集に使っていた街も急速に荒廃が進んでいた。吸血鬼が解放されて一年と経たず彼らが再びそこを訪れた時、ビル群の居並ぶ都会だったそこにかつて見た輝きは無くなっていた。

 

[低い唸り声]

 

『お下がりください、真祖様……シィッ!!』

 

 皮膚の無い、爬虫類と犬の中間のような生物が襲い掛かって来たのを護衛の血族が素手で突き殺す。腐敗と火薬の匂いが充満する廃墟の街の中で生きている人間の姿はなく、そのよく分からない異様な生物の巣窟にされていた。

 

『……人間たちは悪魔召喚にでも失敗したのでしょうか』

 

 手に付いた血を払い落としながら、仕留めた敵の死骸を見下ろして血族は呟く。獣の血を啜ることに抵抗を覚えなくなった彼らだが、それでも得体の知れないこの生物を捕食対象として捉えるのは無理があった。

 

 どこから現れたか分からないこの生物や自分たち吸血鬼のような存在を、人間たちが“異常”と呼ぶようになっていたことを真祖は思い出す。ここより北の海において人類と異常の大規模な戦闘が行われ、人類側が大敗したという話も聞いた。

 

『……いずれにせよ、人類が滅びて困るのは我々も同じだ。“畜舎”の規模拡大と領地周辺の防衛策も検討しなくてはならなくなってきたな』

 

 まさか森から解放されてすぐの頃はこんなことを考えなくてはならなくなるなど真祖は思っていなかった。やり方を変えても、人間たちの影に潜み活動していくかつてのセオリーで何とかなるだろうと楽観していたことを彼は内心で告白する。

 

 流石にこうなっては、人間を主体にした世界が終わりを告げようとしていることを真祖は察する他無かった。

 

 世界の終わり、聖書に語られる黙示録の類―――いつかは来るだろうと思っていたが、こうも早くに見えるとは。

 

 ―――ただ、

 

『尤も、どうにもこの程度で人間たちが滅びるとは何故か思えないのだ』

 

 現状、人間たちは負けている。後手に回り、劣勢に置かれている。

 

 その状況は神話や御伽噺の中だけの存在だと彼らが思っていた怪物たちとの遭遇による衝撃と混乱、彼らがそれらに対して無知であるからこそ引き起こされていた。

 

 現代人は人間同士で争うことには熟達していたが、化け物との戦いにはまだ慣れていない。

 

 ―――そう、かつての人間と吸血鬼のファーストコンタクトも似た状況だった。

 

 400年前の人間は吸血鬼と戦う術を身に付けるのに10年を費やした。自分たちを日の当たらぬ世界に押し返すほどの力を獲得した人間たちも、初期は為す術無く虐げられる者達だった。

 

 人間たちはまだ何かを魅せてくれる。

 

 真祖はこの動乱が単なる虐殺では終わらないことを予見していた。

 

 

 

 

 

 

 果たして10年で状況は膠着した。教会が奇跡を取り戻し、他にも異能を手にした人間も多数現れたと聞く。人類は不条理を振りまく異常存在に対抗するように力を獲得した。

 

 依然として滅びの足音は鳴り響いているが、すぐに残された人類の痕跡全てが地上から洗い流されるという状況ではなくなった。

 

 ―――かつて鎬を削り合った教会が信仰を取り戻しその勢力を徐々に拡大しているという話は、吸血鬼としては面白いだけでは済まない話だったが。

 

 聞けば、自分たちと同じように復活し暴れていた吸血鬼の別勢力が神の奇跡を振るう教会の信徒によって滅ぼされたのだとか。

 

『恐ろしいものだ。敵に回したくはない』

 

『…皆に危機管理を徹底させておきます』

 

 冗談めかして言う真祖の言葉を付き人の眷属は真面目に受け取った。

 

 かく言う真祖が率いる血族の者達も、周辺地域で活動する教会の信徒と何度かニアミスしている。かつてのように疑念を抱かれた瞬間に異端認定し、神の意志の下族滅を代行に掛かるほどの過激さは現代に受け継がれていなかったからそこだけは幸いだった。

 

 決定的に敵対行動を取らなければ、現状教会との衝突は起こらない。

 

 真祖とその血族は必ず獲物と定めた人間を他の誰にも悟られず自分たちのテリトリーである城へと持ち帰り、そこでしか食事をしないことを400年前から自分たちの秘密を守るために定めていた。

 

 その決定的な“犯行現場”さえ押さえられなければ、今の世界では寧ろ吸血鬼の特性について“異能”だと誤魔化しが利く。

 

 だからこそ、真祖と血族たちは森とその内部に存在する自分たちの城と村のことを徹底して隠蔽した。外界とそこを行き来する際には必ず全ての足取りを拭い去った。森へ近づく者はそれとなく惑わせ違和感を抱かれないよう追い出した。

 

 真祖の城の周囲を囲む森は元々“隠す”為に存在している。やっと元々の役割に立ち返ることが出来たと言えるだろう。

 

『………とはいえ』

 

 現状は安泰とは呼べないと真祖は感じていた。人間以外にも、自分たち以外に解放された総数不明の異常の脅威がある。何より、400年に渡って自分たちを封じた牢獄の正体は結局分からず終いだった。人間たちの側に何か記録が残っていないか探したが、そもそも彼とその血族は隠蔽に長けていたため人間側にその存在が露見していなかった。

 

 人間が犯人ではない。恐らく、一斉に彼らのような異常を解放したのも同じく人の意志ではないだろう。

 

『………分からんな、敵が何であるのか』

 

 人間からすれば真祖は敵なのかもしれない。その命を脅かす存在なのだから、そう認識されて当然だが、真祖は徹底して人間と敵対することの無いようにこれまで振る舞ってきた。襲撃と消費の当事者の悲鳴を外部に漏らさないことを努めた。

 

 封じられていた400年、解放されてからの10年、その全てに関与しているだろう“何か”。それは確実に敵だった。それこそが真祖を脅かす敵だった。

 

 それが何らかの神なのか、悪魔なのか、単なる摂理なのか、まさか人間なのかは分からない。

 

 あの森を閉ざした牢獄のように掴みどころのない敵の姿をなるべく早く真祖は捉えなくてはならないと考えていた。そうして敵の正体を捕捉したなら二度と同じことを起こされぬよう、対策することが叶う。一度は遅れを取った身、そう肝に銘じるのは当然のことだった。

 

 

 

 もしかしたら彼は、誰よりもその真相に近づいたのかもしれない。

 

 

――――

――――――――

――――――――――――

 

 全ての切っ掛け、終わりの始まりは人間の姿をして彼らの潜む森へと近づいて来た。気付いた血族の放った幻惑の霧も意味を為していないかのように、その人間は真っ直ぐに森の中心にある城と村を目指して進んだ。

 

 近隣で死者あるいは行方不明者が出ることによって、人間による本格的な調査の手が周辺に入れば森の奥に潜む吸血鬼たちの存在が暴かれる可能性がある。

 

 人間の捕縛を命じた真祖だったが、それは苦渋の決断でもあった。

 

 ……だが、そんなことがどうでも良くなるほどの違和感がすぐに彼らを覆うことになった。

 

「……」

 

『―――なんだ、この人間は…?』

 

 吸血鬼の扱う魔術は人間のそれよりも卓越した魔力量と出力によって、人間の魔術師とは比にならない結果を齎す。精々が他者の意識を集中させる程度である“魅了”が意志を奪った廃人と化すほどにその影響を昇華させるほどに。

 

 記憶を捏造し、不自然でない形へ森の外へ誘導することの可能な“幻惑”を打ち破った人間にしては、あまりにも捕える際に手応えが無かった。無抵抗だ。驚愕の一つ、苦悶の声一つ上げない。一瞬で人形か何かと入れ替わったのではないかと拘束した血族が思ってしまうほどに。

 

 成し得た結果と、こうして直接触れたことで把握できる対象の能力の辻褄が合わない。ちぐはぐだ。

 

 何かを隠しているという確信を持って警戒しながら血族は人間を城に運び込んだ。

 

『ここまで来れば気付いているだろう。我々は人間ではない』

 

「……」

 

 尋問を請け負った血族が赤く光る眼と鋭く尖った歯を見せても、無反応。焦点の合わない瞳は無言のまま虚空を捉え続けている。

 

 その人間の姿に何らかの魔術的な誘導を受けた操り人形である可能性も疑ったが、結果は白。

 

『我々が何かお前に聞きたいことがあって、お前を殺さないでいてくれると思ってるなら残念だが間違いだ。こうしてお前に口を開く機会をやったのは単なる気紛れで、いつだってお前を殺して良いって俺は言われてる。こんな風にな――』

 

「……」

 

 相手の反応を引き出す為に言葉による尋問が暴力を伴う拷問に格上げされる。

 

 伸ばした爪を相手の頭に食い込ませるようにして、直接その頭蓋骨を引っ掻く。だが、血族がどう脅しを掛けても頭から血を流す人間は反応しなかった。垂れた血の染み込む眼を閉じることもなく、ただ虚空を見つめ続ける。

 

『……ッ!?』

 

「……」

 

 遂にはその眼の片方を指で抉り取るように潰してしまっても、一切の反応を示さない人間の姿に傷を負わせた側が恐怖を感じるようになっていくという光景が出来上がった。

 

「……」

 

 人間は何の反応もしなかった。文字通り、死ぬまで。

 

『うぅっ……』

 

 拷問が人間の死と共に終了した時、担当した血族は既に死んでいる筈の人間の残骸が何かとても恐ろしいものであると感じているかのように、顔を青くして足早にその場から撤退した。吐き気を堪えているかのようにさえ見えた。人間を食糧とする吸血鬼にとって、死体など見慣れたものだったろうに。

 

 残った死体はその血族の強い嘆願の下、魔術すら使って興した火で灰も残さず消し去ることが決まった。間違ってもそこに広がった人間の血を飲みたいと思う者は現れなかった。

 

 

 ―――猛り狂う業火の中で、使われた部屋ごと死体が虚無へと消えて行く。

 

 

 だがその様子を見ても尋問を担当した血族の表情は晴れず、依然として不安に駆られたままだった。その場に立ち会った真祖も、表情にこそ出さないが恐らくは同じものを感じていただろう。

 

 拷問終了後に改めて死体を検査した時、それは確かに死んでいた。何らかの異常が人間に化けていた可能性も当然疑われたが、それは確かにただの人間だった。

 

 殺して、その死体すら焼いてしまったのだから、人間であるならこれ以上に何かが起こせる筈がない。

 

 合理的な理由を並べてみても、どうやっても説明のつかない異様なあの無反応が脳裏にチラつく。瞬き一つしないあからさまな不可解が違和感を齎す。

 

 絶対に何かを隠していた人間はその秘密と共に消えた。初めから無かったことになった。だからこれでもう、問題が生じることはない筈だ。

 

 

 ……どれだけそう言い聞かせても、抱いた不安が消えることは無かった。

 

 

 

 

 

 

『……は?』

 

 翌日、前日に尋問を担当していた血族が城の書庫を訪れたのは偶然だ。何かに誘導されたとかではなく、以前に持ち出した文書の返却に訪れただけ。

 

「……」

 

 だから書庫の扉を開けた時、そこにいた先客が昨日確実に殺した筈の人間であるという絶対に有り得ない現実を理解するのに十数秒を要した。

 

 そして理解した途端、脳から発せられた恐怖の信号が彼の背筋を伝って足先まで全身を巡り支配した。

 

『うわぁあああああっ!!!!??』

 

 背後へ転げるようにして腰を抜かして後退る。騒ぎを聞きつけた他の血族たちが更にその騒ぎを大きくするのは間も無くだった。

 

 

 

 再び拘束された、それ以前に死んでいる筈の人間に対して改めて魔術を用いた精神誘導も加えて尋問が実施された。暴力を振るうことの無意味さを分かり過ぎるほどに分かっていたから拷問は行われなかった。

 

 結果は“無”。初回の尋問と同じく無反応。森へ侵入した際に幻惑が意味を為さなかったことから予想はされていた、精神抵抗力が異様に高いのではないかという推測だけが立てられた。現代で入手した薬学の知識から合成した自白剤も試したが意味を為さなかった。

 

『……どうされますか?』

 

『――アレの能力を死者蘇生だとしよう。しかし、それはあまりにも法外な力だ。何の制約も無くその力を発揮できるとは思えない…思いたくないというのが正確か。

 今回は殺した死体を棺に詰め、蓋を溶接する。仮に回数制限などがなく、蘇りを起こしたとしても閉じ込めることが可能なら問題は起きない』

 

 果たして真祖の案は実行に移され、人間の心臓には杭が打ち込まれた。

 

「……」

 

 その死を無抵抗に受け入れる姿から真祖は今回も蘇生が発生することを既に予見したが、棺に閉じ込めることが可能ならそれで終わりだ。

 

 これで終わって欲しいと考えるのは、楽観に含まれていただろうか?

 

 

 

 

 

 

『………』

 

 不思議と驚きは無かった。

 

「……」

 

 書庫の中で悠然と本を手に取り(ページ)を捲る人間の姿を発見したのは、何かを予感して待ち構えていた真祖自身だ。

 

 真祖は扉の開かれる音も聞いていない。一晩中を書庫の中で過ごした真祖は、それが忽然と書庫の中に現れる瞬間を見ていた。

 

 人間は真祖の視線を一顧だにせず、ただ一冊の本を棚から取り出し頁を捲り始めた。

 

 

 

 棺に異常は無かった、その中身(・・)も含めて。

 

『―――うっぷ……申し訳ありません、真祖…様』

 

『良い。この場から離れることを許可する』

 

『恐れ…入ります……うっ…』

 

 最早吐き気を隠すこともなく、あの日に人間の尋問を担当した血族がその場を走り去る。残った血族と真祖の前、確認の為に破壊された棺の中には死体があった。

 

 間違いなく、今この瞬間も書庫で本を読んでいるあの人間の死体だ。一晩が経過したことで、僅かな傷みが死体には確認出来る。

 

 同じ人間が、二人。

 

『……単純な蘇生であるという線は、これで無くなったな』

 

 余計に分からなくなったとも言う。魔術的に孤立していることは初日の尋問で判明している。どこかから新たな同一人物が送られてくるにせよ、現状吸血鬼たちが持つ知識と常識の範疇ではその根源を探り当てることすら出来ない。

 

 そもそも蘇生に魔術が関わっているかどうかさえ、大抵の人類より長く研鑽を積んだ魔術師でもある吸血鬼たちには一切判然としていなかった。

 

『次は生かしたまま捕え続ける。地下室に繋ぎ、アレが拒んでも食事を与え続けろ』

 

 まだ諦めない。まだ対処不能であると判断するには早い。

 

 あの本を読むだけの人間に今のところ実害が無くとも、野放しにしてはならないという確信が真祖にはあった。

 

 

 

 

 

 

 吸血鬼たちは人間を地下牢で鎖に縛り、食事を強制的に与えてそれを生かし続ける方法を取ることで3日の平穏を得ることに成功した。

 

 だが4日後、地下牢にやって来た給餌係が中に繋がれた人間が死んでいることに気付いた。生きている人間は、やはり書庫で見つかった。死んでいる同一人物に外傷は無く、死に繋がる痕跡は一切残っていなかった。

 

 それはただ死んで、別の場所に現れた。

 

『……どのように致しましょうか、真祖様』

 

『……』

 

 自殺…なのだろう。状況から類推するに。

 

 だが、真祖も血族たちもその人間がどのように死んで書庫に現れたのかまるで見当が付かなかった。

 

 だから再び捕えた人間を牢に繋ぎ、交代で見張りを立ててその状態の推移を見極めようと試みたのは単なる悪足掻きだった。

 

 何故か、今度は猶予が5日に伸びた。5日後に人間はあまりにも不自然な“自然死”を起こし、そして書庫に生きている人間が現れた。

 

 人間の命がどのように絶たれたのか、その原理が分からない以上それを防ぐことは出来ない。

 

 そして吸血鬼たちはその過程の全てを目撃しながら、結局何も見出すことが出来なかった。死亡までの猶予が5日に伸びた理由すら不明だった。

 

 

 

 

 

 

 人間の行動は封じられることなく放置されるようになっていた。

 

 それは『封じることが出来ない』という吸血鬼たちの事実上の敗北宣言であり、『封じることが出来ないなら行動を観察し、その目的を看破する』という新たな試みでもあった。

 

「……」

 

 人間は城の書庫に籠り、飲まず食わずで眠りもせずに蔵書を漁り続ける。約3日で必然的に衰弱し昏倒、4日目に完全な死亡を果たし生きている個体が現れる。居合わせた吸血鬼が残った死体を処分する。ただ、その繰り返し。

 

 それは今日も書庫に籠って読書をしている。以前は気味悪がって監視役しか近寄らなくなっていた書庫だが、最近では半ばオブジェのようなものとしてその存在を受け入れて普通に利用する者が増えた。

 

 本日の利用者である真祖はちょうど周期的な死と蘇生を終えたそれが、床から自分の死体が落としてしまった本を拾い上げている瞬間に立ち会った。

 

 あれは―――確か古い薬草学の本だ。現代で入手した医学書の記述と照らし合わせて人間の変化を感じ取る材料としたこともあるし、“畜舎”を稼働させる中で人間に蔓延する病の解決等の為に頼った知識の源であるため覚えていた。

 

 監視役の血族と目が合う。

 

『どうだ、特に変わりはないか?』

 

『読み進めるペースが速いこと以外は特に何も…。相変わらず死んで読んで死んでを繰り返してます』

 

『読んでいる物に何か特徴はあるか?』

 

『最近になって外から新しく仕入れたものにはほとんど手を付けませんね。もっぱら我々の時代のものを読み漁ってます。現代のは既に持ってる知識だからってことですかね?』

 

『そうか…。分かった。引き続き―――』

 

『ただ一つだけ、気になるのですが』

 

『……どうした?』

 

書庫(ここ)の書棚、こんなに空白がありましたっけ?』

 

 

 

 

 

 

 何かがおかしい。

 

 現代で文書を仕入れたことで漸く活用の機会を得たそんなはずはない書庫の棚に空きがまだ多いのは何もおかしくないが、あれだけ厳重に監視を継続するよう指示していた血族が3ヶ月に渡ってその役目を放棄するとは思えない。

 

 何より、真祖(自分)がその状態を放置して見過ごしていたことがあり得ない。

 

 真祖は自身が完璧や全知全能とは程遠いことを理解している。

 

 過去を振り返れば失敗など幾らでも見つけられるし、もっと良い方法があったのではないかと思う事もある。だからこそ、改善は常に心掛けていた。

 

 だからこそ、こんなあからさまなミスを今更犯すことがどれだけ異常で起こり得ないことであるのかということもまた真祖はよく理解していた。

 

 形の無い不気味さを相手にしているような気分になる真祖の下に大勢の数少ない血族の内の一人が駆け込んで来た、明らかに普通ではない様相で。

 

『…どうした? 何が―――』

 

『アレは人間です!!』

 

 血族はとうの昔に分かり切っていたことを大声で叫ぶ。

 

違う合っています!! アレは人間ですそんなわけがない!! 人間で間違いありません違う違う違う!!』

 

 叫ぶ。

 

 本来なら誰かが落ち着かせるべきなのだろうが、付近の血族は一切反応しない。かく言う真祖も、大声で喚き散らす相手に対して感じるべき印象の強さが徐々に薄れていっていた。

 

 既に目の前の異常から目を離し、真祖は他の血族と他愛無い会話を始めている。

 

違う違う違う違う違う合っている合っている合っている合っている合っているアレは人間アレは人間人間人間人間人―――』

 

 声が途切れる。

 

 誰も反応しない。

 

 そこには初めから誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 使われていない馬鹿な空の書庫に人間が居着いてから4ヶ月が経過した。人間は変わらずそこにいて、今それが何をしているかは誰も知らない。

 

 残り元々数少ない城の住人は無意識にそこへ近づくことを避けていたし、近寄る理由も最早無かった。

 

 一方で、城の中では奇妙な出来事が起こり始めていた。

 

 知っている筈だ知らない声の様々な男女がどこかから助けを求めるのが聞こえるのだという。時折誰かの名前を叫んでいるのも聞こえ、その多くは城の吸血鬼たちの知らない助けて名だったが一部は真祖や血族の本名や愛称が混じっていた。

 

 実害は無かったがあまりに不気味なため城全体の捜索が行われたが、声の主は遂に見つからなかった。呪いや魔術の類でも無かったという。思い出して

 

 書庫の中には初めから本棚すら置いていない。

 

 ……それなのにどうして、“書庫”と名が付いている?

 

『………?』

 

 その微かな違和感は、真祖の中に一瞬だけ浮かんだがすぐに元通り深く沈み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 人間が現れてから5ヶ月、ただ一人の吸血鬼であり真祖である彼は何人かの知らない声が自分の名を呼んで泣き叫んでいるのを聞いた。……そんな錯覚を覚えた。

 

 たすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけてたすけてみつけて思い出せ

 

 やがてそれも感じなくなった。

 

 

 

 

 

 

 6ヶ月目、真祖はもうずっと訪れていない扉の前に立っている。彼が感じている違和感の原点は全てこの扉だった。本能の鳴らす警鐘に逆らって真祖は答えを求めて扉を開き、そして―――そこで“人間”を発見(・・)した。

 

 真祖はそこに“人間”がいたことを、今日初めて知った。それは今日までずっとヴェールに覆われていた秘密の一端だった。彼がこの城を手に入れてから、初めて知覚した同居人の姿だった。

 

 無数に積み上がり腐敗した自分自身の上に腰を下ろしていた“人間”は今や真っ直ぐに真祖だけを見つめ、真祖だけを聞いている。

 

「やぁ、███」

 

 知らない声が、知らない名前を呼んだ。

 

 

 

 真祖はもう自分が何日も部屋を出ていない事実を時折忘れそうになっていた。出口に向かっても気付けば元の――“人間”と対面する――位置に戻されており、血の渇きから“人間”を吸い殺しても部屋を出ることは出来なかった。

 

 干からびた死体が一つ増え、生きている“人間”が一つ送られる。

 

 助けを求める誰かの声は最早聞こえなかった

 

 “人間”は真祖のことをただ見つめ、聞いている。

 

 

 

 そして真祖がもう自分が何日この部屋に閉じ込められているか分からなくなった頃、気付けば“人間”は立ち上がって真祖の方へ向けて歩き出していた。

 

 真祖は走り出した。難なく扉は開いた。扉の外の廊下は無数の“人間”の死骸で埋まっている。真祖はこの“追いかけっこ”が初めてではないことを、最早覚えていなかった

 

 助けを求めなくては―――誰に?

 

『私は眷属を持ったことが無い…』

 

 確認するかのように唯一の真祖は口に出す。では、何故助けを求めようなどと考えた?

 

 ずっと孤高に生きて来た存在に、どうしてそんな発想が生じる?

 

 自分は何か重要なことをを忘れている?

 

「君はその生涯において伴侶とすると決めた第一眷属を作らなかった」

 

『……!!』

 

 初めてではないはっきりと耳にしたその声は、真祖の足を止めるのに十分だった。

 

 自分自身の死体で埋め尽くされた城の中を“人間”は歩いて真祖の下へ向かう。

 

 その声はどこかで聞いたことがあるようにも、全く聞いた覚えが無いようにも思えた。

 

「君は打ち倒した騎士に情けを掛け、それを新たな眷属とすることをしなかった」

 

 再び走り出す。近づいて来るものから遠ざかる為に。

 

「この城で君以外の声が鳴ったことはない」

 

 床に転がっていた誰かの剣を拾いそれは奇妙なほどに彼の手に馴染んだ、背後に投擲する。吸血鬼の膂力で加速された剣は過たず脆弱な“人間”の身体を両断し、絶命に至らせる。

 

 即座に“次”が送られる。真祖は逃げ続ける。

 

「500年、君は一人この城にいた」

 

『……ッ!?』

 

 追い詰められた彼が辿り着いたのは玉座の間だった。そこも死体で満たされている。

 

 ただ、違うのは、そこに溢れた死体は“人間”ではない見知らぬ吸血鬼たちのものであり、それらは全て空白の玉座に縋りつくように手を伸ばして事切れていたということ。

 

 豪奢な服を身に纏う姫も、空の鞘を腰に帯びた騎士も、給仕服の少女も、執事服の青年も―――誰も彼もが、真祖の記憶には無かった。

 

 思い出せ!!!

 

 そこが彼にとっての引き返すことの出来ない終点だった。

 

『知らない…違う…分からない……そもそも、此処は何処なんだ……?』

 

「では、君は誰だ?」

 

 そのタイミングで、“人間”は追いついた。空虚な鈍色の瞳には何も映っていない。濁り、あるいは透き通った底なしの泥沼は何も反射せず、全てを呑み込んでいる。

 

 だが、真祖はそこに、その底なしの中に落下していく彼自身の姿を確かに見た。

 

 真祖は彼の視界に消えない靄が掛かり、思考も徐々に狭まっていることを明瞭に感じ始めていた。

 

「君に名前など無い」

 

 意識が途切れる前、彼はそんな台詞を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 真祖には分からない。自分がいつどのようにして手足を失ったのか、吸血鬼としての再生能力を失ったのか、いつから全てを忘れてしまったのか。

 

 分からないということすら、直に分からなくなった。

 

 進む未来も引き返す過去も喪った真祖は、ただ消え行く“現在”に永遠に囚われ続ける。

 

 彼は少しずつ狭まる足場の上で縮こまることしか出来ず、やがて足を滑らせて墜落した。……真実はそれすら錯覚で、彼はずっと留まることなく落ちていたのかもしれないが。

 

 ……有るかも分からない穴底へ、他の物と共に落ち行く最中にはもう、それは“肉塊”になって定まった形というものを失っていた。

 

 

――――

――――――――

――――――――――――

 

 その村は奇妙な風習の中に在った。年頃の男女は正式な夫婦を作らず、その全員が互いに互いを共有して子作りに励む。

 

 村の子供の成長は速く、本来の年齢とは懸け離れた時間で“成人”する。そして親と同じことを繰り返す。

 

 年老いた村人は生きている内に手首と足首を切り裂き、大きな瓶の上に吊るされる。まだ生きている身体から流れ出たその血は、誰もいない城へ繋がる水路へ意味も無く垂れ流される。

 

 けれど親を殺すことになる子も、子に殺されることになる親もその行為に疑問を抱くことはない。

 

 やがて血が抜け切り、渇いた老人の死骸が出来上がる。それを砕いて家畜の肉と発酵させた牧草に混ぜたものが村の伝統料理だった。

 

 ……それらを行う彼らですら、何の為に、どういう経緯でこの因習が生まれたのか最早知らなかった。

 

 森と城に近付くことは絶対の“禁忌”だった。

 

 森と城と村の存在は400年に渡って外部から忘れられ、現実に帰還したのはほんの13年前のことだった。その間、森の秘密を守り続けていた管理者は確かに居た筈だったが、村人の誰もその事を思い出せなかった。

 

 村の外れに存在する城は、彼らの覚えている歴史の中では恐らく500年に渡って本当に無人だったのではないかと思う。

 

 やがて森の向こうから現れた皮膚の無い蜥蜴のような犬の群れが村人に襲い掛かった時も、殺し喰われることに対して極度に忌避感を覚えることのない村人たちは子供から老人まで無抵抗に食い散らされた。

 

 異形の犬の群れは城に近づくことはしなかった。彼らは本能と嗅覚でその城が単なるハリボテであり、一度も人間やその他の類がそこに干渉したことが無いという事実に気付いていた。

 

 城は無人で有り続けた。

 

 破壊され、食い尽くされた村からはやがて犬すら居なくなる。

 

 

 

 そうして全ては忘れ去られ、そもそも誰にも知られることが無かった。





肉塊:
 存在しない。家族がいたことも無ければ、そもそも生きていた事実もない。架空の存在。


“人間”:
 元凶。しかし事件の被害者は存在しないため無罪にして無実。
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