死に行く世界:1999年6月17日(旧題 異常性癖:“理解・捕食”) 作:廃棄された提言
異能者とは読んで字の如く、現実への異常な影響力を発揮する人間のことである。
退魔師管理局の重要な戦力でもある彼らは外部から必要な要素を自身に追加するまでもなく、彼ら自身の存在として超常に対抗可能であるか超常そのものの性質を獲得している。
つまるところ彼ら彼女らは人間でありながら異常を使役することが可能で、あるいは異常そのものだ。
―――
――――
――――――――
――――――――――――
爆心地を調査した遠征部隊からの報告は芳しいものではなかった。先日、よりにもよって6月17日に第6保全区域第三教育棟で発生した事変は結果として同区域の消滅を招いた。これによりアズマ各地に散在する14の保全区域の内一つが永久に失われたことになる。
そこに存在した資産・人命の安否は言うまでもない。
「………」
女は1人、照明を落とした真っ暗な部屋の中で青白く光る携帯端末の画面を見つめて思考に耽っていた。暗闇は“そこに何かが潜んでいる”という疑心を掻き立ててくれる。彼女は考えに耽る時、些細な違和感を見落とさないようにするため暗所に籠る癖がある。
身体の随所に夥しい数の古傷を露わにしながら、彼女は凛とした印象を損なっていない。年齢は20代の後半に差し掛かった辺りだろう。
“全滅”という単語そのものは、退魔師管理局内において使用される機会のそこまで珍しいものではない。予期せぬ、未知の、現場の対応能力を凌駕する異常に遭遇した部隊は、管理局の新人が想定する最悪の想像を超えて呆気なく全滅する。
保全区域の内部で問題が発生することも珍しく無かった。どれだけ完璧に全ての穴を塞いだように思っても、未だ人類が理解し切れずにいる“超常”という世界の狂気はその防壁の気付かれなかった隙間をすり抜けていくか、あるいは強引に突破することによって人々の日常を侵食しようとする。
今回の事件において実行されていたように区域の一部を丸ごと見捨てる羽目になることは流石に頻繁ではないが、しっかりと前例のあることではあった。リカバリーの用意もあった。
―――しかし事態は最悪の一途を辿り、人類は貴重な保全区域の全域を失った。
管理局本部に第6支部から緊急伝送された資料・記録の多くは破損しているか元から不完全なものだった。それは明らかな妨害、もしくはシステムに異常を来すほどの致命的な破綻が支部で発生していたことを暗示する。
比較的軽傷で送信された、第6保全区域に蔓延した生物性異常微粒子について記された資料の内容が事実に即した正確なものであったなら、どれだけ最悪なシナリオを辿っても都市が全滅するような事態には陥らなかった。どれほど愚かな選択をしようが半壊……否、3分の1を切り捨てれば事は収束していた。
「……未知の性質が後から露見した?」
…有り得ることだ。そもそも、今の世界は前時代における“有り得ないこと”で溢れ返っている。狂気に侵された世界で可能性というものは無限大化され、一つの概念は幾つもの意味と正体を併用するようになった。
有り得ない、なんて言葉は使うだけ意味が無い。
「―――だが」
そうではない、と自分のデスクで資料と睨めっこする女は己の勘に従って結論付ける。
女は第6支部の責任者であった澤樹トウコという女性のことをよく知っていた。その常に改善と正確さを求める性格も、無駄の無い苛烈な一面も。
トウコに限らず、女は
―――気分の良い話ではないが、澤樹トウコは徹底した“検証”を既に毒に侵された病巣の犠牲者を用いて行った筈だ。
第6支部責任者は躊躇いなく命を消費するが、一度として支払った犠牲を無駄にしたことは無かった。何らかの秘匿されていた致命的な異常微粒子の性質が都市を回復困難なほどに蹂躙したとして、彼女はその事実を報告に記して送り出しただろう。
つまり、異常微粒子の未知の性質によって第6支部は壊滅したわけではない。
原因は別だ。
「―――
世界はフィクションのように地獄めいた何かになりつつあるが、運命は多くの人々に親しまれるような上手い脚本を描くようになったわけではない。ボス戦は1体ずつなんてゲームでは当然のセオリーは現実には無い。
人間が必死になって何かに対処しようが、世界はお構いなしに別の狂気を横合いから殴りつけてマルチタスクを強要する。
実際、女の過去にもそんな経験があった。
彼女の推測を裏付けるように、支部施設内で起きた不可解な戦闘の痕跡が破損の激しい情報の中に散見された。相手が本当にウイルスや胞子の類なら、銃弾を消費する仕事は発声しない。また、そのあまりに不正確な記録様式は女の知る澤樹トウコの性質からかけ離れており、この時点で第6支部責任者という“玉”は落ちていたのだと彼女は気が付く。
異常微粒子はあくまで物理的にジワジワと拡大していくものだ。一方で、支部施設内で戦闘を起こした何かは脈絡なく跳ね回る災害のような何かだった。
直接接触したという記録は一切なく、あくまで後方に控えていた誰かが前方の味方が蹴散らされたことを必死に書き記したような気配があった。
「なら、それはどこから現れた?」
整然としていた記録がどこから乱れ、ノイズが暴れ出したのかという被害の輪郭を辿れば思いの外簡単にそれは見つかった。
―――第三教育棟、
奇しくも、それは異常微粒子の発生場所と―――
「奇しくも…?」
それは本当に奇妙な偶然か? 有り得ないことはないだろう。けれど、理不尽と不可解に満ちたこの世界でも、そこに道理を見出すことは可能だ。
―――あるいは、未だ人類の理解力がそこまで及んでいないだけで、本当は全てに共通した理というものが存在するのかもしれない。
「…これは必然だ」
自分の考えの正しさを確認するように女はそれを口に出す。
当時、第6保全区域第三教育棟にいたのは異常微粒子の他は学校関係者のみ。
異常微粒子の発生から封鎖、鎮圧が行われるその過程において新たな“異常”は発生している……。
「……」
女はディスプレイに指を滑らせリストを探る。画面に表示された項目をタップし、第三教育棟における教職員と生徒の名簿が現れた。彼女はそれを流し見る。
身体能力、保有魔力量、戦闘技術、人格、対人関係……そういった細かなプロフィールが記述されている資料に添付された顔写真の上には、目立つ赤色で“死亡済み”の印章が押されている。
生存者はいない。それは、外部から派遣された遠征部隊による現地調査で分かり切っていることだ。
―――一方でこの世界が現在、どれだけ過去の常識の通じない魔境となってしまっているのかということを女はよく理解していた。
「……死の淵から蘇ったか、あるいは」
様々な想像を巡らせながらページを捲っていく。当時その場にいた人々全員の大まかな概要を頭に叩き込んで彼女は自身の情報端末を机に置いた。
木下アザミという平凡な記録しか残っていない少女のことも、押し並べて平均的な重要度の情報の一部としてだが、この時確かに女の脳に記憶された。
《――“局長”、お時間です》
「分かった。こちらも丁度目途が付いた」
執務室の机に備え付けられた連絡機器のスピーカーから、予定に従い彼女を呼び出す部下の声が鳴る。それに応じて彼女はさっき机に置いた端末だけ回収し席を立った。
女は――退魔師管理局本部責任者、玖斑ムツキには第6保全区域における同僚の死と2万人に及ぶ人口の喪失を悲しんで立ち止まる余裕などない。
もし明日世界が本当の意味で滅ぼうが、彼女にとってその事実は今日の仕事をしない理由にはならないだろう。
――――
――――――――
――――――――――――
退魔師管理局本部もまた、保全区域内にその施設を置いている。他の保全区域がそうであるように、正常な建築技術と異常な技術もしくは手段を用いて築かれた要塞都市は一見して崩壊する未来など想像も出来ない堅牢なものだ。
玖斑ムツキは予定に従い第五研究棟に向かう傍ら、その都市の概観を一目で捉えることの出来る場所を偶々通りがかった。
―――脆い…。
彼女が率いる人々の士気を大きく下げるだろう正直なその感想を直接口には出すことをムツキはしない。だがその建設を主導した彼女にとって、鋼鉄の防壁も幾重もの迎撃設備も区画ごとに設置された結界起動の儀式装置も何もかも気休めでしかなかった。
彼女の認識する位において、それは水中のダイバーにとっての酸素ボンベのようなものだ。本来、人が活動出来ない領域において最低限の生存を維持するための設備。だが仮に
この要塞都市には、確かに実現できるだけの“最高”が結集されており、日々更新と改善も行われている。
それでもムツキは、今日この都市が瓦礫の山になっていない理由は単なる幸運がその大半を占めていることを知っていた。
―――保全区域外殻から実に半径16km、多くの場合は地平線を超えて含む領域を管理局は“緩衝地域”として設定している。この領域に侵入した明らかな異常は可及的速やかに除かれなければならず、その中心に存在する保全区域の存在を外部に知られることが無いようにしなくてはならない。定期的にこの領域では戦略兵器による浄化が繰り返され、草の根一つ無い荒野を維持し続けている。
保全区域を真に存続させている防衛機構は“隠蔽”だ。可能な限り、郊外に蔓延る怪物どもの視界に映ることが無いようにすることこそが最も重要な生存策であると言える。
……隠れ潜み、巣穴が見つからないように警戒し、近づくモノを何とか撃退する。
捕食者に怯える小動物そのものな状況に人類は置かれていたが、それも仕方のないことだ。現在、一般的な人類はこの星における生態系ピラミッドの下層に位置している。一部においては植物より下ということもある。
だが、本当の脅威は巣穴に近づく捕食者ではない。
かつての小動物たちが人間活動や自然災害に何ら抵抗能力を持たなかったように、“どうしようもない”が発生するリスクは常に付き纏う。気付かれようが気付かれまいが、それの進行ルート上に保全区域が存在すれば踏み潰される他ない。
玖斑ムツキは退魔師管理局のトップであるという立場から、そういった“災害級”に該当する異常な脅威に幾らでも心当たりがあった。
―――都市の改造は続けられる。人類の研鑽は続けられる。脅威の監視は続けられる。
だがそれは、聳える高峰に対抗して砂粒を積み上げていくようなものである。砂の城が高峰に匹敵する規模になるよりも早く、それが崩壊する確率の方が遥かに大きかった。
第五研究棟―――世界に溢れた狂気である“異常”の解明に努める人類の英知が集うと
超常科学は、従来の自然科学では説明できない超常に由来する新たな現象群を理解する為に立てられた研究分野であり、それに従事する者たちを超常科学者と呼ぶ。
第五研究棟内に設置された超常科学者たちのラボは、一般的な科学や化学のそれとは違って画一化されたものではない。
―――施設内には無数に仕掛けられたマイクと監視カメラ、異様なまでに頑丈で固く閉ざされた
ラボの様相は多様であり、一方では壁や床一面に延々と文字を連ね、一方では不明な動力で動く機械を解体しては組み直し、一方では歌声が響き、一方では何だか血飛沫が舞っている。
過去には
それらを主導する頭脳の持ち主は、無論正気ではない。
かつて、全ての自然現象にはそれらが必ず従う基本法則というものがあった。概ね、それは誰が聞いても理解が可能で、最終的にはどんな奇妙に思える現象に対しても納得を得ることが出来た。
しかし世界が狂気に包まれてからは、正常な法則は正常な世界において発揮していたその絶対性を失った。端的に言えば、新しく現れたモノ達は属している
時にファンタジーであり、時にホラーであり、時にミステリーである。時に全く別の物であり、時にそれらの複合体である。
正常世界をノンフィクションと表現するなら、異常世界はそういう言葉で表現することが可能だった。異常や超常と一口に言っても、その中には全く別個に無関係なジャンルがひしめいている。
超常科学者はある専門的なジャンルに立ち、それに纏わる異常を看破するスペシャリストだ。
彼らは各々が独自の視点から世界を読み解く能力を持ち、仮に複数の超常科学者に同一の課題を与えたならば誰1人として同じ答えは出さない。全員が誤解した真実を述べ、偶然にも事実を述べ、曲解した虚構を述べる。
その在り方は科学者というより小説家や宗教家や夢想家に近いが、彼らは自身の志す分野については誰よりも深く主観的に正確な認識を有しているのもまた確かだった。
―――玖斑ムツキは第五研究棟のエントランスに入ってすぐのロビーのソファで猫のように丸まって寝ているその女性を探していた。
「仕上がっているか、ガラク?」
彼女が声を掛けると女性はパチリと目を開いて起き上がり、予定されていた来訪者を見た。
超常科学者は狂気を理解する者たちであり、前時代的な常識に準えれば彼らもまた狂っている。その全員が極まったマッドサイエンティストだ。
第五研究棟は集められた研究者に思索を深める材料を投入しその智慧を育てる一方で、その狂人を閉じ込めておくための檻でもある。
その狂気の内から正常な者に伝わるように意味を掬い上げることもまた生半可なことではない。
「はい、完成しています。貴方のお口に合えば良いのですが」
夏目ガラクは施設に収容された狂人どもを観察し、連中の吐き出す妄言を編纂し管理する“
この部門からは度々発狂者や信者が現れ、監視者の地位を手放して患者や収監者へ堕ちる者が多い。故に、誰よりも長くこの部門に務めながら平然としているガラクは、ある意味で最も狂っていると言えるかもしれなかった。
「幻想終末論者とパンデミック
「あぁ、聞こう」
ガラクは23歳とムツキより4歳年下だが、肌艶に乏しくやつれた印象を与えるその容貌は2人を並べてみると年齢関係が逆転しているように見えた。実際、ガラクは運動不足と栄養失調の気配を度々医者から咎められつつ無視している問題児である。
だが他の者では理解できないか、のめり込み過ぎて堕落してしまう超常科学者の論説を自身のアイデンティティを塗り潰されることなく受け止め、情報を整理する能力において彼女の右に出る者はいない。
今回、ムツキは第五研究棟に対して先んじて第6保全区域で起きた事変に関する全ての資料と記録を渡していた。超常科学者たちはそれを各々が好き勝手に読み漁り、それぞれの視点からの結論や意見、疑問など反応を示す。その様子を第三者目線で観察し、大半が無価値の妄言の中から有用な意味を拾い上げることが司書の仕事であり、今回ガラクに与えられた任務だった。
彼女と対面する位置のソファにムツキは腰かける。これから語られるのは所謂極秘情報なのだが、第五研究棟はそれ自体が隔離施設であるためロビーでいきなり話し出すことに問題は無かった。
「“やはり人類は愚かにして賢明”であり“冒涜的な感染爆発”であり“引かれた糸は隠れているが、その存在を誇示している”…以上です」
「………つまり、これは何者かを黒幕とした陰謀であり、異常微粒子の感染被害そのものに目的は存在せず単なる手段であり、その黒幕は自らの正体は隠しているが『黒幕が存在する』という事実自体は全く隠していない―――?」
「“やはり人類は愚かにして賢明”を取り入れなさることを躊躇しましたね。私も、そこをどう解釈するか迷いました。
それは使い古されたピースです。数多くの意味を孕み、そのためどれが正体であるのか人を惑わせる」
事前に自分でも推測を立てていたこともあって、ムツキはガラクの唱えたキーワードの意味をすんなりと受け止める。
第6支部の崩壊は、異常微粒子以上の何かの関与がほとんど確定的である。その“乱入異常”は発生現場に存在した学校関係者に起因するものである可能性があった。
異常が引き金となり別の異常を呼び起こすという事態は前列がある。だがそれが保全区域内発生し、都市を滅ぼす事態を引き起こしたのは今回が初だ。そも、保全区域は可能な限りそういったリスクを排除し、正常を維持出来た空間に建設される。イレギュラーが発生する要素は事前に取り除かれている筈だった。
あまりにも不都合過ぎる出来事だとは思っていたが、“世界文学考証派”に言わせれば黒幕の存在は明らかだったらしい。彼らはこの世界そのものが何者かの筋書きにより動く
“パンデミック信奉者”は病毒の蔓延を崇高なものと捉える異常者だ。その一方で彼らは生物兵器を忌避し、人類が全く関与しない空気感染を“最高神”として崇めている。彼らが“冒涜的”と嘯く時、対象となった感染症には必ず人の意志が関与している。
合わせて、黒幕の正体が人間であることが伺える。
………そこまでは容易く読めた。
だが、幻想終末論者の言は掴み損ねた。理解不能というより、解釈の幅が広すぎて現状では意図するところを明確には出来ない。
“幻想終末論者”はあらゆる事象を世界の終焉と結び付ける。何故それが起こるのかという過程には
だが、ガラクは今回それを“重要な情報”としてピックアップした。
「……世界が終わると?」
ムツキの問いに、不健康故の儚さを纏う女は頷く。
現状、世界はとっくに終末に突入しているように思えるがギリギリで踏み止まりはしている。
退魔師管理局ひいては人類は、世界を直接的に崩壊させることを可能とする“終焉級”の異常を幾らか発見もしくは予知していた。たった今世界が滅んでいないことから察せられるだろうが、現状それらは全て休眠状態にあるか何らかの形で現実への影響が緩和されている。逆に言えばその鎮静が破綻し現実に影響が到達したが最後、どう足掻いても人類は滅亡する。
保全区域を単体で容易く壊滅させることが可能だと見積もられる“
だが幻想終末論者は別に人類が滅ぼうとその後
「……正常も異常も関係無く、本当の意味で全てが終わる恐れがあると……?」
「考慮に値する、味わい深い論説でしたよ」
「……ぞっとしないな」
「人間は彼らの口にする終末の主役に近い場所にあれるそうです。“その時”が来れば答えも得られるでしょう。………クソみたいな展望ですが、それはこれまでもあまり変わりませんでした。なので今回も健闘をお祈りします」
――――
――――――――
――――――――――――
超常科学者と異能者の区別を付けない、その性質の違いを見誤っている者は退魔師管理局内においても多い。特に新人は余程頭の切れる者でなければその見極めに失敗するのが普通だ。
両者はいずれも常人からは“おかしな現実に属した別世界の住人”のように思えるだろう。
普段は研究棟に縛られ頭脳労働を求められている超常科学者たちだが、彼らの中には専門とするジャンルに即した特異な技術や能力―――所謂“魔法”に目覚めている者もいる。そういった特殊技能者は時折前線に駆り出される時があり、そこで“異能”としか思えない力を実演してみせることで周囲の誤解を更に加速させる。
だが、超常科学者と異能者はその在り方からして根本的に異なる存在だ。現に、退魔師管理局は異能者に超常科学者のような頭脳労働を指示することは例外を除きほぼない。
超常科学者はまがりなりにも世界の解明者たちであり、彼らが“真理”と認識した異常法則の支配する世界観に従属し信奉した結果、その世界観が許容する魔法の行使を可能としている。
一方で、異能者たちは世界に対して一切の理解を示さない。彼らはただ周囲の現実を揺るがし自らの存在を刻み込む、人類における純粋な異常暴力装置だ。
その在り方は最早“異常”そのものであり、だからこそ正常な人間とは違いその身一つで異常への対抗が可能な戦力として管理局では古くから運用されている。
―――鬱蒼とした森林地帯の奥、少し開けた場所には湖があり、周辺で異形の草食獣が草を食んでいた。
「ハハハハハッ!!」
“郊外”、保全区域以外の全てにして、緩衝地帯の外側。異常が何の制御も監視もなく独自の生態系を積み上げるその場所に、本来なら人間の居場所などない。
しかし人のそれである哄笑が鳴り響いた。
絶望に際して気でも触れたのだろうか? 嗚呼、それはつまらない。何せ、よくあることだから。
だがどうやら、今回は違うようだ。
[甲高い獣の鳴き声]
水辺を溜まり場にしていた無害そうな、身体に青々とした葉を毛のように纏わせた草食獣の群れが、声に反応して一斉に水に飛び込んで水面を泳ぎ岸から離れて行く。その外観は鹿やカモシカに近い。黒一色で感情の読めない獣の瞳は声の聞こえた草陰を注視している。
「さぁーて…」
揺らいだ草陰から現れたのは人間の女だ。襤褸切れ同然の外套を羽織って、2本の剣を携えて笑っている。水面で脚を掻く獣たちは湖の中心へ集まった。警戒するように女を見る。
気のせいだろうか。水面に浮かぶ獣の頭数が地上で見た時より減っているように見える。何頭か逃げ出してしまったのだろうか?
「……」
女は岸に立つ。湖の中心に溜まる鹿のような草食獣の群れを狩人の眼光が射抜いていた。
湖水は濁っていて底の深みは掴めない。試しに足を差し込むと、思ったよりも簡単に底に足が着いた。
ちゃぷり。岸から一歩、女は水の中へ。二歩、三歩、四歩……足はそこまで沈まず、湖の中心へと進み続けることが出来る。このままなら難なく湖の中心に辿り着けるだろう。
浅い水の障害は乗り越えようとせずとも乗り越えられるものだ。どうして獣たちがそこを逃げ場としたか、理解が出来ないほどに。
―――捕食者の目が輝く。
「うわっ」
女が岸と群れとの間にある距離の半ばまで辿り着いた途端、踏みしめていた浅い湖底が急に沈み込む。否、それは湖底ではない。
湖底と草食獣の
この鹿に似た異常生物は、植物食を装っているが彼らが噛み締めた草木が栄養に還元されることはない。これらの異常生物は体内に取り込んだ植物を何らかの形で根付かせ、体表における繁茂を可能にしていると考えられている。
彼らの本性は肉食獣であり、偽りの植生に油断した捕食者を集団で罠に嵌めるか単純にその姿を迷彩として活用し狩りを行う。
今回のケースはその複合である。群れの全てが湖の中心に避難したと見せかけ、何頭かが水中に身を潜めて集団で偽の湖底を作り出し、狩人を湖の中へ誘う。
湖に溜まった落ち葉の上としか思えない感触の異常生物の背の正体に気が付くことの出来ない狩人を深みへと誘い込み、後は水底へ押し込んでしまえば非常に優位に狩りを遂行することが可能だったことだろう。
「―――なーんて」
鹿に似たこの異常生物たちは、自身の性質を利用し集団で連携もするなど明らかに知能も高い。このグループは、これまでもこの手法で単独では格上とされる異常生物すら屠って来た。
だから、誘い込んだ獲物が明らかな動揺と混乱を示し、水中における行動能力に乏しいことを判断してから襲い掛かった。
そうするように、
騙していたのは獣だけではなく、そもそも彼らは狩人を騙せてはいなかった。
「狩人以上に狩りやすい生き物はいないよね。ボクだってそう思う。揺らがない勝利状態、成功を錯覚に落とす。―――ほら、考えていることはキミたちと同じだった」
―――女は
そしてこれまた改めて指摘するまでもないが、この異常生物は知能が高い。もし狩りが失敗し、群れに犠牲が生じたとなれば“次回”は確実に改善してくる。
その次回が狩人への復讐であれ、回避であれ、情報の拡散であれ、狩人にとって良い結果は訪れない。
だから、狩人は“次回”を許す訳にはいかない。雌も子供も関係ない。嗚呼、彼女の手の内を知ってしまったばかりに、この異常生物のグループは“今回”でお終いなのだ。
そもそも、この異常生物は単体での戦闘能力がそこまで卓越しているわけではない。
水面に全ての死体が浮かび、そこが溢れた血で染まるのに時間は掛からなかった。
郊外という世界は、ある意味で機会と可能性に満ちていると言える。保全区域には確かに衣食住の保障という何にも代え難い商品が揃ってはいるが、あらゆる権利と存在を管理局に支配され、いざという時には容赦なく切り捨てられる。
先日の出来事により集団の崩壊が即座に個人の死滅を招くことが証明されたように、保全区域というのは徹底して“集団”なのだ。優先されるは常に集団の利益であり、個人は時として犠牲になる。保全区域という一個体ですら複数ある内の1つに過ぎず、他全体を守る為に切り捨てられるケースがある。
だから今のアズマの地において、自己の権利を完全に自己の物とするには管理局の庇護下を離れるしかない。そして、それを実現できる場所は幾らでもある。
郊外―――保全区域の外、半径16kmの緩衝地帯より更に外側その全て。何よりも広大なその領域は、死亡率99.999%という事実を度外視すれば自己実現には持ってこいだ。
現在、郊外に存在する人類の内0.001%は狂人・変人・自殺志願者のどれかである。残りは先に述べたように死者だ。
意外かもしれないが、郊外では戦闘能力はあまり重要では無かったりする。ただ、腕っぷしだけでそこを生き抜きたいなら都市を容易く滅ぼす“災害級”や文字通りに世界を終わらせる“終焉級”にも勝らなければ一切の安心を得られない。そして、そんなもんは不可能である。
郊外での生活で最も重要なのは“生存能力”だ。ここでは一切が個人の裁量に委ねられる代わりに一切の庇護がない。致命傷を負っても治療を受けることは出来ず、強敵を倒しても報酬が獲得できるとは限らない。だからこそ、不要かつ無益な戦闘は可能な限り避けなくてはならない。
『逃げる』『隠れる』『見極める』
この3つが郊外での生存に成功する“放浪者”たちの心情であり教訓だ。あらゆるリスクを回避する能力があって初めて、郊外で生き抜くことが可能になると言って過言ではない。
休息・睡眠・食事、そんな必須の作業を行うだけで、ただ生きているだけで逼迫した生命危機が人々の身に纏わりつく。
だからそんな場所で生きることを選択するのは狂人か変人だけで、常人は必要悪として唐突に犠牲を強いられるリスクを知りながらも平時においては安全な保全区域に入るしかなかった。
「~♪」
ハミング。機嫌が良い証拠だ。
石と可燃木材を敷き詰め、手際よく焚火を作っていく。深い森の奥、巨木の根の隙間の小さな窪地は周囲から上手く隠れている。だが、彼女は明日の未明にはここを離れるだろう。一所に留まらないことは、彼女が生きる中で見つけた智慧の一つだ。
千切った緑の葉が地面には敷き詰められており、その上では一頭の異常鹿が既に解体されている。異常鹿がその体表に繁茂させる植物は個体の絶命と共に急激に枯死するという事実を彼女はついさっき見つけた。
毒はないか、爆発はしないか、それは見た通りの存在なのか、エトセトラ、エトセトラ。
旧来の理から逸脱した存在である“異常”に対しては、どれだけ警戒をしてもキリがない。鹿だけではない。こうして此処に集めた石ころや渇いた木々、葉っぱに至ってすらその本性は油断した人間を即座に殺す化け物であるかもしれないと想定しなくてはならない。
常人はそれだけで何も出来なくなる。目に見える全て、大気もヒトも雲も雨も砂も太陽光も、郊外ではその全てが致命的な罠に思えてしまうし、実際そうであるケースがある。
だが彼女は、如月ノアという放浪者は全てのリスクを承知で肉に刃を通し、石を並べ、枝を拾い、葉を手折り、湖の水を汲んだ。
彼女には恐怖が無い。正確には、恐怖が行動に作用し判断を鈍らせることがない。彼女はただ想定し、躊躇うことなく実行し、仮に予期した好ましくない出来事が発生した場合にどう対応すればいいのかを理解している。
また、彼女は勘が良い。何かが彼女の勘に触れた時、彼女はそれまでに用意した全ての検証と対策を放棄して即座にそれに任せて身投げするように、自身の感覚に生命の全てを賭けて委ねることが出来る。
よく言えば刺激的で、悪く言えば命の危機を間近にする日々。だが、ノアは結構その毎日を楽しんでいる。
「ふんふ~ん♪」
焚火の中、竈のように積み上げた石の上に広く平べったいまな板のような石を置き、赤身が豊富な異常鹿の肉をその上に載せる。ジューッと小気味の良い音が鳴り続けて暫く、焼けた石に若干くっついた肉を剥がしてひっくり返して裏面を短く焼く。
―――頃合いだ。
切り取った肉片を口元へ運ぶ。
体組織を貫通する枯れた草木の根を除去するのは思いの外大変な作業だった。その苦労に見合う食材であると良いが。
「カプッ…モグ…モグ…んくっ、ん~♪」
どうやら満足の行く味であったようだ。
ちなみに、郊外で最も安全な食糧は人肉であるというジョークは真実だ。死肉から果実まで、どんな異常を秘めているか分からない郊外では、自殺志願者の成れ果てに存在する病気のリスクなど微々たるものとして扱われている。
問題なく食材として利用可能な異常生物はそれほどに貴重だ。
ノアがあの湖から持ち帰ったのはたった一頭の鹿の内、持ち運びがしやすい脚部と貴重な栄養素が補給できる一部の内臓のみ。残りは全て放置した。どれだけ美味かろうとも、取りに戻るつもりはない。
覚えているだろうか、ノアが狩りを始める前に哄笑を上げたことを。
あれは別に、狩猟対象の異常鹿に存在を気付かせる為にしたわけではない。付近に潜んでいるかもしれない他の異常を誘引し炙り出すための措置だ。結果、即座に反応したのは鹿のみだったがノアは遠方から接近する気配があったことに気付いている。
近づいたものが何であれ、それらは湖に浮かぶ死骸を見つけることになる。ノアの痕跡は残していない。そして大抵の存在は死骸という“答え”に満足してその後に続く彼女を追い掛けようとはしない。
もっと隠れ潜んでやればいいじゃないかと思うかもしれないが、鹿を狩り殺し血の匂いを溢れさせた時点で周辺に潜むモノたちが異変に気付くのは確定している。だったら、事前に何が潜んでいるのか明るみにしていた方が安全だった。
そもそもノアが異常鹿の集まるあの湖の近くで哄笑を上げたのは今日が初めてではない。
もっと以前から鹿の性質を潜んで観察し、狩る算段を付けてからは定期的に哄笑や絶叫を上げて周辺全ての反応を調べていた。出す声のレパートリーの多さは周辺のモノたちの“慣れ”によって反応が鈍くなることを防ぐためである。
返って来る反応から視界外の森の状況を把握し、狩れないと判断すれば撤退する。これを繰り返す。今日はラッキーだった。
傷みやすい内臓と脚の1本を消費したノアは、他3本を吊るして乾燥させる。これで眠れば、後は目覚めた頃には持ち運んでも問題ない程度に肉が乾くだろう。
「……」
ただ、眠りに落ちることが出来ないという根本的な問題が先ほど発生し、ノアを悩ませていた。美味しいお肉を食べて稼いだご機嫌ポイントもこれで急降下、冬眠を邪魔されたヒグマ(絶滅済み)の如く目を細めて不機嫌を露わにする。
エンジンの回転音とブレードが大気を巻き取る音―――郊外ではそうそうお目に掛かれない航空機の接近を知らせる音が、彼女の潜む夜の森に木霊していた。
はっきり言って、どこの自殺志願者なのかと思いたくなる。あんなに音を立てれば、眠っているモノや鈍いモノですら気付くだろう。
だが、夜の空に現れたヘリコプターはサーチライトを消すことすらしていない。だから、ほら、嗚呼―――
[多種多様でとにかく不穏な環境音、多くは邪悪を孕んだ金切り声]
それは森全体が吼えているのではないかと思うほどだった。虎視眈々……などという段階はとっくに過ぎ、今にも宙に浮いているだけの脆弱な鉄塊を引き裂いて中の人間を引き摺り出してやろうという意志が感じられた。
一体どんな武装を積んでいればこんな無謀な真似が出来るのか。丁度地上から狼のような巨影が飛び上がったのを見て、ノアは睡眠を邪魔された仕返しにその末路を見物してやろうと、非常食用に取っておいた骨髄を齧りながら目を細める。
―――斬れた。
真っ二つに、それはもう清々しく、正中線から切り裂かれた巨獣が絶命して大地に撃墜される。
「……あー」
汚い花火が上がるのを期待していたノアは、一気に白けた表情になってしゃぶり尽くした骨を捨てた。ついでに誰がヘリに乗っているかも分かった。
先ほどの斬撃はヘリの
標的以外は素通りして当てない、それは飛ぶ斬撃の方が幾らか納得が出来る代物だった。
異常現象の観察と理解には一家言あるノアだが、彼女をして“インチキ”と扱き下ろすその斬術は使い手本人が幾ら理屈を説明してもさっぱり理解出来なかった。
その理屈を要約すれば、『斬れるなら斬れる。斬れたなら次はもっとよく斬れる』―――ちょっと何言ってるのか分からない。ノアは当時困惑した。
そう、ノアはヘリコプターに“武装”として積まれた相手を知っていた。それは暫く会っていないし、出来れば会いたくもない人物でもある。面倒臭いから。
だが関わらないでいることは無理だった。今のではっきりとノアが機内の人物の存在を認識してしまったことで、
意味が分からないが仕方ない。アレはそういう生物だとノアは理解することを諦めている。
[異常生物の悲鳴と木々が倒れる音]
なんて強引で確実な方法なのだろうか。暴力が嵐と吹き荒れている。馬鹿じゃないのか。
迫る人外の怪物たちを塵と払い、森の一角を強引に斬り払いながら着陸スペースを確保したヘリコプターがノアの目の前に降りてくる。着陸も可能なようにお膳立てされていたが、操縦士はすぐにでも飛び立てるよう地面スレスレの滞空飛行を選択した。風が強い。死にそうな顔をしているパイロットが「早く乗れ!!」と絶叫しているのがノアにも見えた。流石に同情する。
だが双剣と幾つかの道具を詰めた背嚢、干す途中の鹿肉は必需品であるためノアは今日の寝床になる筈だった場所へ取りに行った。
声にならない罵倒がヘリの操縦席で響いた。
所持品を持って戻ると、大の大人のパイロットが大泣き顔で「お願いだから乗ってください…!」と懇願してきた。そりゃそうだろう。斬撃の結界とでも言うべきものに守られているとは言え、異常生物その他が目前まで迫ってはギリギリで死体になる光景を見せ続けられては堪らない。たった一つのヒューマンエラーで、搭乗している“武装”は兎も角パイロットは確実に死ぬのだ。
ちなみに発狂したパイロットが機銃やミサイルを乱射するリスクを減らす為と航続距離確保の観点から、この機体からは予め操縦席で操作可能な全ての機械武装が撤去されその分が燃料に回されている。クソが。パイロットはこれが終わったら休暇を申請するつもりだった。
「……はぁ」
溜息が漏れる。
ノアが機体側面のスライド式の後部ハッチを開けば、果たしてそこには見知った顔があった。瞳を閉じた女が留まることなく剣を振るっている。
彼女は密閉された機内に在って機外の状況に通ずる為に敢えて視覚を封じ、流れるような剣舞を披露している。通常の剣舞との違いは、剣を振るう動作の度に周辺では実際に血飛沫も舞うことだ。また、剣士の装束は美麗な和服などではなく無機質な戦闘服である。
彼女の斬撃は刃渡りの限界を容易く超えた位置に於いて結果を齎すが、その道中に存在しているヘリの機体には一切干渉せずすり抜けていた。
間違った的を斬るヘマを女がするわけがないと知ってはいるが、それはそれとして目を閉じて刀をぶん回す滅茶苦茶危ない奴であることに変わりは無かった為、ノアは凡そ本刃が届くことのないだろう位置にある座席シートに腰掛ける。
「クソ野郎」に近い意味合いの罵声を放ったパイロットは、ノアの着席を確認して漸く操縦桿を上げることが出来た。それは彼の人生で最も記憶に焼き付いた上昇だっただろう。
暗く騒がしく蠢いている森が徐々に離れていき、ヘリは不毛の大地の上空に出る。それと共にしつこく追跡していた機外の喧噪も少しずつ減って、やがて最後の一つが斬殺されるとパイロットは思わず歓声を上げた。
彼は操縦席で一人感極まっていた。今はそっとしておこうとノアは思った。
「それで、説明してくれるかな?」
「……」
カチリと刀が鞘に納まる。一振りの長刀に耐久性よりも運動機能を追求したストイックな戦闘服、多少の改善と更新こそあるが概ねそれはノアの記憶の中のそれと変わっていない。
「退魔師管理局本部局長、玖斑ムツキ様? ボクみたいな常時絶滅危惧種の
「端的に言えば世界の危機だ。お前も協力しろ、ノア」
ムツキは第五研究棟を離れてからその足でヘリポートに向かい、哀れな
彼女とな前回の邂逅とムツキの知る如月ノアという人物の性格から推測された行動パターンを元に、現在ノアが滞在している可能性がある場所を虱潰しに飛び回って探し回る。道中、ムツキはパイロットに比較的安全なルートを指示したが、それは
彼は長時間に渡ってヘリコプター唯一の“武装”を信じ、郊外の化物共が目の前まで迫ろうが予定された航路を一切の変更なく進み続けなくてはならなかった。
……確かにヘリの機体に一切の損傷はない。それでも理性と感情は別の物だ。
そんなパワハラ暴君、ムツキは再会したノアとの旧交を温める素振りもなく一方的に告げる。
それは要請などではなく、ほとんど命令だった。保全区域で仮初の安全を謳歌する住民とは違い、ノアはその言葉に応じる義務などない。
気に入らない。彼女は当然そう思う。ハッチを開けて今すぐ飛び降りてやろうかとロックに手を掛けたところで、カチリとムツキが刀を鳴らした。
僅かに鞘から抜け出した白刃を見せるムツキに、ノアも自身の得物である双剣をダラリと垂らし構え胡乱な気配を纏い始める。
……操縦席では天国の解放感から唐突に地獄に堕とされたパイロットが失禁していたが、彼の名誉の為にその他の詳細を述べることは避ける。
「キミたちの偽善に付き合うつもりはないってさぁ…随分と前に言い聞かせた筈なんだけどな、おばさん」
「無論、理解はしている。だが状況が変わった。お前も無関係ではいられない」
「へぇ……だけどどんな事情であれ、ボクに行動を強いることが何を意味するのかは解ってるよね…?」
まさに一触即発。いずれかが腹に据えた敵意を解放すれば、それは即座に殺し合いに化けるだろう。
…操縦席の彼が思い付いた限りの神の名を上げて祈りを捧げているが、残念なことに彼が知る権利を与えらていないだけでそれらの神の内幾柱かは実在していて、その多くが人類に敵対的だ。仮に祈りが通じても更なる災厄が降り注ぐ可能性が高い。
だが幸いなことに、彼の切実な祈りは神に届かなかったようだ。
「はぁー…やめやめ、割に合わないよこんなの」
「…同感だ」
張り詰めた空気が弛緩し、両雄が武器を収める。
ほぼ確実に勘違いだが、パイロットは神に感謝し夜闇の中に太陽の如き温かな光明を幻視した。
「資料を寄こして。それを見た上でボクは好きに動かせてもらう。構わないね?」
「あぁ、お前は元より組織の一員ではない。協力関係が築ければそれでいい」
ムツキから差し出された端末の画面をスクロールしたノアは表示された情報の読み込みを始め―――すぐに終えた。
彼女の理解力が高いのではなく、単に情報量がほとんどなかったのだ。
第6保全区域の顛末と、第五研究棟で発覚した事実により漠然と世界が滅ぶらしいと判明した―――それだけのことが矢鱈真面目に専門用語を付け加えて内容をかさ増ししたような文書が端末には表示されていた。
「…初期の初期じゃん」
「あぁ、まだ我々は何も分かっていないに等しい」
「……こーゆーの、ボクらの中で一番得意なのがいたでしょ。…呼べばいいのに」
「…アレは行方不明だ。それに―――」
「はいはい。キミにとっての理想の彼は死んじゃったもんね。―――じゃ、ボクは寝るから。到着したら勝手に起きるよ」
「……」
座席のシートに寝転がったノアは瞼を閉じた直後に寝息を立て始める。それは僅かに上下する胸を肉眼で視認していなければ、呼吸をしていることに気付けないほど静かなものだ。郊外で生きる上で必須の生態である。
そんな彼女のいる席の反対側に腰かけたムツキはパイロットは勿論、眠っているノアにも聞こえないほどの声量でか細く漏らした。
「……それは違う…私が…アイツを…███を……」
「殺したんだ」
――――
――――――――
――――――――――――
明け方、機体の動きが回避行動などを含めない明らかに単調なものになり、緩衝地帯に入ったことを察したノアは宣言通り自然に目覚める。
対面する位置ではムツキが仮眠を取っていた。静かな寝顔だ。一晩中、一睡もせず武装としての役割を果たしていたのだろうとノアは察する。
溶融した地盤によるガラスの大地と変質した大気、日常的に戦略兵器が投下される緩衝地帯の通過は郊外とは別の意味で操縦席のパイロットを緊張させていた。管制室とのやり取りを一言一句聞き逃さないように気を張り、許可された進入ルートを正確に辿っていく。
「……」
ノアは静かに窓の外を見た。殺伐とした荒野の中心に、隠された都市の姿が徐々に浮かび上がる。
それは周囲からの認識を徹底して阻害する手段が張り巡らされており、意識しなければ間近であってもその存在に気付くことは出来ない。その“透明性”を維持する為のドームの一部が開口し、ヘリは空中に穿たれた穴のようなそこへ進入していく。
そのトンネルを抜ければ、そこには広大な都市空間が広がっていた。日々を混沌の内に置くノアからすれば、理路整然と片付けられたその景色は居心地の悪いものを感じる。都市の外周は防壁と迎撃施設が幾重にも連なっていて、中心に向かうほど如何にも重要そうな建造物が立ち並んでいる。だが、その中に崩れた残骸のまま放置され“保存”が為された異質な区画が存在していた。
―――退魔師管理局本部管轄、“零号保全区域”
この都市は他の保全区域と異なり、民間人の生存を目的として作られてはいない。それはかつて、今では形骸化したアズマという国家の首都が存在した座標を含めた広大な空間に建設されている。
1999年6月17日にアズマ首都アマハラで発生した世界初の超常災害、“零号事変”は超常に対応した観測機材が皆無だったこともあって、その全容は現在でも未解明だ。零号保全区域はそれにちなんだ命名であり、内部では都市の残骸を丸ごと保管する形で日夜その謎を解明する作業が行われている。
零号事変の謎を解き明かすことは、退魔師管理局ひいては玖斑ムツキの悲願だ。世界が斯くも激変した原因、引き金が零号事変にあったという見方は古くから存在する。現在でも支持されている仮説で、掲げる大義としては十分な代物だ。
だが、ムツキはその目的に個人的感情も含めていることをここに告白する。
玖斑ムツキは“あの日”、アマハラに住む14歳の少女だった。そして一夜にして全てを失い、退魔師管理局を設立するまでの多くの時間を崩れ去った故郷で過ごした。
彼女は自身が抱く疑問に対して答えをずっと求めていた。
一方で、如月ノアが零号保全区域に抱く印象は違う。
全体的で小綺麗で、巨大で、アマハラの残骸をその腹にすっぽり収めている。それだけだ。
ノアにとって、アマハラは特に思い入れのある場所ではない。
そこは単に、
如月ノアは、その肉体年齢は18歳だ。しかし精神年齢は13歳である。
彼女はあの日、あの都市で生まれた。崩壊する前のアマハラで過ごしていた5年分の誰かの記憶を失い、既に超常の波に呑まれた都市の姿が彼女の人生のスタートラインだった。
ノアは異常の申し子だ。一切の正常を知らず、保全区域の中の子供のように仮初の平穏を与えられることもなく、親からの庇護すら無かった。当時の彼女は自身が人間と言う種族の一員である自覚すら無かった。
普通の14歳だったムツキや人類とほとんど別存在だったノアが現在に至る過程には、当然転機というものがあった。
それは2人の共通項でもある。
「……起きていたか」
「とっくにね。じゃあ、何から始める?」
ヘリが着陸し、長く苦しい一夜を終えたパイロットはヘリポートに飛び降りるとコンクリートの床に熱いキスをした。
その一方で機内ではムツキが仮眠から目覚め、既にハッチの前で立って待っていたノアと目が合う。再会直後はあれほど火花を散らしていたが、一度割り切ればこれ以上は望めないほど2人は噛み合う。―――昔からそうだ。
「お前には既に仮の権限が付与されている。この都市を滅ぼすこと以外なら何をしても、何を知っても構わない」
「ひゅー、太っ腹だね。なら、早速動かせてもらおうかな」
ノアは地面に頬擦りし愛を囁く珍妙な生き物になったパイロットの下に近づく。―――そして告げた。
「―――第6保全区域跡地に連れて行ってくれない?」
チラつかされる疑似最上位権限、組織という構造故に逆らえない恐怖、絶望、更なる失禁は脱糞の域に踏み込み、それすらどうでも良くなるほどの激情が彼の身体を駆け抜けて目から涙が溢れ出る。
確かなのは、パイロットが二度と神を信じなくなったということであり、彼の嫌いな物に“仕事”以外の2つが――正確には2人の人間が追加されたことだ(後日、このリストに新たにパイロット仲間の同僚が追加されることを彼はまだ知らない)。
機体が整備を終え、外されていた武装が手早く再装備され、燃料が補給される僅かな時間が彼に許された自由だった。
彼は心の中で罵詈雑言を吐き散らしながら決して口に出すことはなく、ただどこか霞んだ背中を丸めてトボトボと着替えを取りに向かうのだった。
――――
――――――――
――――――――――――
アズマより遥か北方、中央大陸の北に位置する極致の海――“北海”。一年を通して凍て付く風の吹きすさぶ極寒の海だけが広がる世界。
その海面を覆う分厚い流氷を突き破り、巨大な鯨がその体表に取り付いた何かを振り払おうと水面から飛び出した巨体を流氷に向けて叩きつけた。
「―――ッ!!!」
だが煌々と赤く獰猛な光を瞳に宿した小さな人影は、鯨の分厚く頑丈な皮膚に爪を突き立てて剥がれない。逆に深く食い込ませた指で鯨の体表を切り裂いて徐々に肉の中へ進入していく。
「―――ハァッ…ハハッ…ガァッ!!!」
そうして傷口に露出させた血肉目掛け、彼女は尖った犬歯を突き立てて食いついた。
鯨は激しく暴れ続けた。だが、徐々にその動きからは力が抜けていき、最後にはピクリとも動かなくなって海面に浮かんだ。
腕毛虫:
修正の犠牲。お気に入りなのでいつか別の登場機会を与えようと思う。
玖斑ムツキ:
修正前から判明していた事実だけど、えげつない斬術使い。不要なパワハラはしないが必要なパワハラはする。
夏目ガラク:
司書。頭ん中に狂人の智慧を沢山飼ってるのに発狂してない。管理局のトップにして独裁者であるムツキと気安く話せる何気に凄い人。
長谷川マドカ・林藤ヤクモ:
腕毛虫と同じく。
如月ノア:
ムツキの知り合いの放浪者。郊外の生存年数人類最長記録保持者(要は世界が狂ってから13年間ずっと郊外暮らし)
パイロット:
気付いたらめちゃくちゃキャラが濃くなってたオッサン。モブの域に収まらないので次登場までに名前考えときます。パワハラの被害者。
鯨襲ってるヤベー奴:
白髪白肌の小さくて可愛くてヤバい生き物。目が赤い。修正前から現状一切変化していない。
吸血鬼:
今回の話にはほぼ関係ないが、郊外がヤバすぎる場所なため、その中でも人間的な生活を謳歌してた導入の彼らを再評価する流れは来ている。