あるところにウマ娘がいました。彼女は生まれつき足が悪く、体が弱い事から、ウマ娘としての幸せは掴めない。そう決定づけられて生まれた不幸な子。常に車椅子で過ごしていました。休み時間、校庭で走る子たちを遠くから見ては歯痒い思いをしたはずです。しかし、それでも彼女は顔を下に俯かせることは一度もありませんでした。それはなぜか。それは幼い我が子に語った母親の言葉があったからです。
──他人より少なく生まれたあなたには、きっと困難が人より多く訪れるでしょう。だけど、けして顔を背けてはなりません。いいですか?人はあなたを不幸だと嘆くかもしれない。ですが、真に不幸なのは、そんな自分すら己が哀れむ時です。どんなに不幸でも、天を睨みなさい。こんなもの私の前では壁にもならない、と。
その言葉を胸に生きる彼女の目は、決して絶望には染まらない。そんな彼女は小学校の時、あるウマ娘に出会います。その子は、自分とは正反対。持つものを持って生まれた子。幼いながら、すでに一部の『上澄み』が持つ強者の片鱗を感じさせる子。上に立つべくして立つ。そんな子です。そんな彼女は誰に対しても優しかった。自分に対しても。
──大丈夫?
憐れんだ目を以てこちらの手をとるその子と彼女。見た目には、嫋やかな王女と、その手を取り傅く王子のようでした。今考えれば、それは幼さゆえの純粋な心配であり、きっとこちらを低く見るつもりなど一切無かったはず。しかし、彼女は激怒しました。それはつまり、天を睨み負けるかと気焔を吐く自分を、遙か高みから憐れまれ手を差し伸べられたようなものだと感じたからです。決して許さない。子供心にそう思った彼女は気高い復讐を誓ったのです。これが彼女とその子の出会い。
それから時が経ち、成長したその子は高校初等部にしてカリスマを持つ貴公子のようでした。その名を『シンボリルドルフ』この世に生きるウマ娘全ての幸せを目指す。そう謳ったその子を、彼女は苛立ち混じった目で見るのでした。
彼女は、あの子を見返す、振り向かせてやる。その想いだけで必死にリハビリと訓練を重ね、短時間だけなら走れるようになりました。走った後は呼吸器をつけなければならないほど体力を消耗しましたが、彼女には人並みより走れるだけの才能がありました。しかし、足りない。あの子にはこんなんじゃ足りない。こんな面倒な自分を受け入れてくれたトレーナーと二人三脚で走り続けます。
その間にあの子は自分より遙か先を行きます。皐月賞を獲り、世間は騒ぎ出します。この世代を背負っていくのはあの子だと。その間も、彼女とトレーナーは歯を食いしばってトレーニングを続けました。あの子の走りは一番自分が知っている。こんなんじゃ足りないのだ。そうトレーナーに訴えれば、トレーナーはそれに応えてくれました。何度も倒れ救急搬送された事も一度や二度ではありません。理事長達やそれを見ていた他の担当トレーナー達も見兼ねて止めようとした事もありました。
──今、あの子は命を賭けて走っているんです。それをどうして、我々トレーナーが止められるんですか?
私のトレーナーは、そう言いました。きっと、トレーナーも裏では散々言われてきたのでしょう。でも、それでも一切妥協する事なく私と共に在りました。気が遠くなるようなトレーニングに終わりは見えなかった。
世間は既に、二冠を取ったあの子に夢中です。未だ敗北を喫することなく勝ち進むあの子、シンボリルドルフはこのまま三冠を取り、時代の勝者となる──それは既定路線のように皆騒ぎ立てる。
そうして、三冠目。菊花賞。私は間に合うことができたのでした。
控え室。選手一人一人に設けられたその部屋で、私は1人ベンチに座り深呼吸をします。既に外では今か今かと観衆は騒めき、その声の響きが部屋にまで届いていました。
「──トレーナーさん」
「……なにかな?」
お互い、これが最後になる会話だと察していました。私は私の全てをここで使い切る。そのつもりで今日までトレーニングしてきたつもりだし、トレーナーもまた、その覚悟をしてきた。だから、これが最後。
「──楽しかったでしょうか」
いざ話そうとすると、何も思いつかないもので、私はそんなありきたりな言葉しか言えなかった。でも、トレーナーは全てを理解し、笑顔で言います。
「楽しかった、苦しい事ばかりだったけど、それでも君と過ごした日々は楽しかったよ」
その言葉を聞いて、重圧で押しつぶされそうな私の体は少し軽くなった気がします。
「それじゃ、一番になってきます」
そう言って、私は控え室の扉を開けて出場する為パドックへと向かいました。これまで幾度もなくレース場に身を置いてきた私でも、外に出た瞬間、全身に浴びる歓声に体が竦みました。しかし、落ち着くように深呼吸ひとつ。そうしてスタート位置にまで歩いていきます。
ここに至っても、あの子、シンボリルドルフはファンの声援を当然のように背負い、手を振っています。彼女とは、小学生の頃に話したっきりだ。それから話す事はなかったし、きっと忘れているでしょう。
こちらを見る事もなくゲートに入るシンボリルドルフを横目に、私もゲートに入ります。これが最後だというのに、妙に静かで、冷静な自分がいる事に驚く。この為に今まで走ってきた。それが。泣いても笑っても最後。
スタートを鳴らす合図と共にゲートが開く、ズレようもないベストのタイミングでスタートを決めた。戦法は既に決めている。トレーナーと決めたのは一つだけ。菊花賞のここ、京都競バ場は3000m。長距離に分類され、最後に淀の坂と呼ばれる起伏のあるエリアがある。シンボリルドルフの戦法は大抵の場合差し、追込みのどちらかである。本人の脚質もあるだろうが、王道を好むあの子らしい戦法だ。
──さあ、燃やせ。私の全てを焚べろ。
それに対して私が取った戦法は──逃げ、大逃げ。いや、そんな生ぬるいものじゃない。破滅逃げと言うべき代物。私にはこれしか無かった。下手な戦略はあの『皇帝』に踏み潰されて終わる。発想は単純だ。どんなレースだって全力で走り続けられるなら負けはない。それをするのみ。こうなったらもう止められない。
──あぁ
観客席からの悲鳴や怒号。それらを振り切り真っ直ぐと走る。既に速度も限界いっぱい。聴覚が飛び、視界も端が白飛び始める。それと同時に、口の中で鉄の生臭い味を帯び始める。それがどうした。私は勝つ。
シンボリルドルフは今、これまでにないほど追い詰められていた。私の理想の為にも、負けられないレースで、今まさに番狂わせが起きようとしていたのだ。
それもそのはず。誰もが予想しなかった、逃げ。誰にも見向きもされなかった一番下の人気バ。数合わせだろうと揶揄する者すら居ただろう。だが、そんな彼女には、虎視眈々と、袖の下に隠した鋭い毒刃があったのだ。それが、今まさに脅威となってこちらに向いている。
背後にいるウマ娘達は、すぐに垂れるとペースを維持している。が、シンボリルドルフの類まれなる才能と本能、そして直感が囁くのだ。
──あれは垂れない。何がなんでも3000mを走り切るだろう、と。
だから、この状況で出来る事はたった一つだけ。それは──
『シンボリルドルフ!ここで一気にペースを上げた!な、なんというレースだ!ほんとにこれは長距離なのか!?』
どう考えたっておかしいレースだ。長距離でやるペースじゃない。だが、それでもやるしかないのだ。限界ギリギリまで速度を伸ばし、先頭の彼女と距離を縮めていく。最後に待つのは淀の坂。坂を登る以上速度は落ちる。そこで捉える──!
もはや、周りの音が聞こえない。光すら、その目から失いかけている。それでも、走ることだけはやめない。肺は悲鳴をあげ、口の端から血が漏れる。脚からは嫌な音が鳴りっぱなしだ。
それが、どうしたというのだ。背後からあの子の気配を感じる。見なくたってわかる。きっと私との距離は縮まっているのだろう。ほんとに、嫌になる。私がこうしてありとあらゆるものを燃やして走ってなお、絶望的な壁。呆れて笑うしかない。でも、しかし。それでも。シンボリルドルフは作戦を組み立てるのに数秒?或いは数十秒か。笑わせるな、私には10年の月日があった。なら、負ける道理なんてない。
さぁ、最後の直線だ。淀の坂にさしかかる。きっと、あの子は速度が落ちる、なんて考えてるんだろうな。きっとそう。私だってそう思う。だけどね、常識の中に身を投じたって、意味がない。いつだって可能性は非常識の中にあるんだから。だから止まらない。今まで以上に脚を動かす。速度は落ちない。それどころか登るはずの坂ですら加速する。そうして頂点に達してから、あとは下りだけ。
──パキリ
そんな時に、私の脚からはそんな呆気ない音が響いて、力が抜ける。膝が曲がる。私の限界なんてこんなもんだとせせら笑っている。
──ふざけるな
「あ、ああ」
痛みなんてもう感じない。何がなんでも前へ進め。進め!進め!!!
「あああああぁぁ!!!!」
一度でいい。一度でいいんだ。一度でもいいから、あの完璧無比の皇帝を。
──ビビらせてやるッッッ!!!
信じられないことが起きている。それは、なんだ。誰もが言葉を失った。あれだけ騒がしかったレースで、誰もが掛ける言葉が見つからない。それは走りと呼ぶには余りにも強烈で、苛烈で、それでいて眩しすぎる。破滅を伴う閃光は、その場にいる全員の目に焼き付いて離れない。
シンボリルドルフすら、徐々にその距離を離しつつある。もう、この差は縮まらない。
ゴール板を通過した時、シンボリルドルフは一番では無かった。一番は、誰もが見ていなかった誰か。
──すげぇ……
誰かが言った。そんな漏れた呟きが会場に伝播する。
──パチパチ
最初は小さかった拍手も、すぐに会場を揺らす大音響へと変わった。誰もがルドルフの三冠を信じて疑わなかった。しかし、それを覆されて残念に思う気持ちなどない。間違いなく、あの走りには見る者に納得させるだけの力があったのだから。
ゴールを抜け、膝をつくルドルフもまた、その想いだった。あれに負けたのなら、仕方がない、と。先にゴールを抜けた彼女へ、ルドルフは声を掛けようとして、その光景を見た。
「おい!聞こえるか!?」
力なく倒れ、担当であろうトレーナーに肩を抱かれているそのウマ娘の姿を。トレーナーは、泣いていた。
顔色なんて青を超えて土気色へ。その顔にもはや生気なんて感じられなかった。しかし、その手に握られた勝利を確信した拳だけは、ずっと握られたままであった。
この先、どんなレースをしようと、どんな記録を打ち立てようと、シンボリルドルフの中で焼きついた光は一生離れて消えない。それって素晴らしいと思いませんか?
きっとどんな時も「ここに彼女がいたら……」って考えるんですよ?最高じゃないですか?