初めて見たのは、まだ桜も散らない春の日。夕闇が空を覆う時間。生徒が楽しそうに下校を始める頃だった。練習場にはまだ人影があった。
「まだ人がいるのか……?」
そろそろ帰らなければ寮長に怒られてしまうだろう。熱心な生徒が多いここでは遅くまで居残り練習をする者が絶えない。ある種の風物詩ですらあった。その中で彼女は走っていた。
「……綺麗な走りだな」
教科書のお手本のような綺麗な走り。それが彼女を見た時の感想だった。ただそれだけだったし、それ以上深入りするつもりなどなかった。それから数日後だ、再び同じ時間に同じように走る彼女を見つけたのだ。勤勉だな、としか思わなかったが、その印象はすぐ変わることになる。その人影が、走り終えてすぐに倒れてしまったからだ。
「!?おい!」
それはもちろんビックリした。まさかそんな事が起こるなんて思わなかったし、心臓が跳ねた気がした。急いで駆け寄れば、ヒュー、ヒュー、と掠れた呼吸で、地面を這っていた。急いで肩を貸す。
「君!大丈夫か!?待ってろ、今保健室に──」
そんな風に言う私を、震える手で制して、指差す。指の先には、車椅子があった。グラウンドの端に置いてあったそこには、機械が積まれていた。
「あそこに……」
息も絶え絶えな彼女はそう言った。つまりあそこに連れて行け、と言う事らしい。急いで抱えてそこまで連れていく。車椅子にそっと座らせると、彼女は震える手で機械を操作して、呼吸器を付けた。シュー、シュー、と機械が作動し、ようやく彼女の顔と肩から強張りが取れた。
「君は──」
そこまで言って、詰まる。聞きたい事は山ほどあるが、何から言えばいいのか分からなかった。こうして準備されていたあたり、きっとこれは初めてではないのだろう。車椅子に座る姿には慣れがあったし、もしかすると体が不自由なのかもしれない。彼女は、そんな私をじっと見るばかりで、何も言わない。そんな彼女を前に、私がようやく吐いた言葉は。
「何故、走る?」
自分の中で明確な意味があったわけではない。未だ混乱の中に居た中でなんとか捻り出せた言葉に過ぎない。しかし、それは彼女の本質を聞くものだった。
「勝ちたい人がいるから」
そう言ってこちらを見る彼女の瞳には、見る者に突きつけられる刃を幻視させる気迫があった。体の不自由さ、体の弱さ。それらを呑み込み羽ばたかんとする気高さを感じ取った。白鳥という生き物がいる。水面に浮かぶ白鳥はその美しさで優雅に水面を浮かぶが、その水面下では誰にも見えないように泳ぐのだ。彼女には、それにも似た気高さがあったのだ。気がついた時には、私は彼女に担当トレーナーになる、と提案していた。その言葉に、彼女は静かに言った。
「貴方は……最後まで付いてくれますか?それが破滅するものでも」
破滅。彼女はそう言った。その言葉の意味するところをその時の自分は理解していなかったが、それでも返す言葉に違いはなかった。この時に私は、既に彼女の澄んだ狂気と覚悟が同居した瞳に魅入られていたのだから。それからの私達は、打倒シンボリルドルフを掲げ、それだけを目的に走り続けた。
彼女の体は、走り続けるうちに弱っていった。だけど、その度に彼女の瞳は前を向き続けていたのだ。走れなくなるまでに、シンボリルドルフと戦えるのか。それだけが心配だったが、なんとか間に合う事ができた。
──今すぐこんな事やめさせろ!
そんな私に、酷く怒った様子で先輩トレーナーが胸ぐらを掴み叫んできた事があった。当然だ。これはトレーナーのやる事じゃない。目に見える破滅を前に、突っ走ることを指示するトレーナーなど居てはいけないのだから。
──彼女は走ると言っているんです。その望みを叶えずしてトレーナーなんて名乗れるわけがないでしょう!
私はそう返した。確かに、それを止める選択肢だってあっただろう。しかし、しかしだ。それをやめさせた後に彼女に残るものはあるのか。きっと、一生後悔を背負い、誰にも見られることなく細々と消えていく。そんな惨めなものになる。そして、そんな末路を彼女は認めない。きっと、その前に自ら消える事を選ぶだろう。付き合いは人より長い、彼女はそういうウマ娘だ。誰よりも不幸を背負い、それでもなお誇り高い姿を見せる者だ。
──そんなことさせたらお前は……!
そうだろう。きっと、私は破滅する。だがそれがなんだと言うのか。彼女にその覚悟をさせておきながら、私だけが逃れようなどスジが通らない。堕ちる時は一連托生だ。そうして彼女は、最後の舞台へと立った。その道へ向かおうとする彼女に、私はなんと声を掛けたらいいのか、分からなかった。分からないままに、手を伸ばそうとして、その手を必死に止めた。何も言えず嗚咽だけが廊下で鳴いていた。
──今更、都合が良すぎるだろう。もう辞めようなんて言えるわけがないだろう。楽しかった、楽しかったんだよ。だから辞めようなんて言えない、言えないんだ。それは、彼女の覚悟と、これまでの積み重ねを否定してしまう。
そうして、彼女は走った。私は、ウィナーズサークルで待った。彼女は必ずここに来る。しかし、成功しないでほしいという気持ちと、してほしいと言う気持ち。今まさに心がふたつあった。
レースが始まり、トレーナーは涙を堪えて喉を壊す勢いで応援した。止まるな、走れ。勝て、と。ここまで来い、と。
──あぁ
それでも彼女の走りは美しかった。ここに居るウマ娘の誰よりも。
そうして、彼女は一度も勢いを止めることなく走り切った。ゴールを抜けて地面に倒れる彼女をその前に、全身で受け止めて叫んだ。
「聞こえるか!勝ったぞ!勝ったんだ!」
もはや力なんてかけらも残ってない。ここにあるのは抜け殻だとしても、その結果を知らずにいくな。いくんじゃない!
「お前は勝ったんだ!」
聞こえているか。聞こえているだろうか。
後日談その1