魔法省への行き方は知っていた。一年と少し前、法廷に呼び出し食らった際に使用した電話ボックス。ハリーは物陰に潜んで周囲を窺う。
「まあまあ、そう焦らず」
「一息つくことも大事だぜ、少年よ」
「ッ【
「「ホントに待って」」
振り返って唱えかけた呪文が止まった。赤毛のそっくりの顔ふたつ。
「……フレッドとジョージ……?」
「お、正解。僕たちグレッドとフォージ」
あまりにもいつも通りのツインズに、ハリーはうっかり気が抜けそうになって慌てて杖を持ち直した。
「うん、警戒は必要だ。良いことだ」
ジョージは仰々しく頷いた。
「さすが我らが無利子のスポンサー、ダンブルドア軍団のリーダー様」
「返済不要の無利子って最高だよな」
「本当にな。金利ゼロパーセント、なんて甘美な響き」
借金になんらかのトラウマがありそうなコメントはさておき。
「君がうちのママから貰った最初のセーターは真っ赤っか」
フレッドが節を付けて歌い出す。
「ロニー坊やはいつも通り栗色」
「ロニー坊やに至っては毎年恒例だよな。今年も恒例かもな?」
矢継ぎ早の言葉に意図を察して、ハリーが口を開く。
「……僕が君たちから一足早いクリスマスプレゼントを貰ったのは、僕が三年生のとき、ウィンターホリデー前最後のホグズミード」
「「我、よからぬことを企む者なり」」
本人確認を終えて、ハリーはようやく息を吐いた。
「止めに来たのか?」
「俺たちが? ああハリー、なんて勇敢なんだ、危ないことなどおよしなさい!」
フレッドが片頬でニヤッとしてみせた。ハリーもぎこちなく笑おうとして、ちょっと失敗した。きょろきょろと辺りを見回すのはジョージの方である。
「にしても、どうやって抜け出したんだ? 騎士団の誰かでもついてるかと思ったのに」
「電車で来たよ」
サリー州からロンドンまで、電車で片道一時間ちょっと。平日ド真ん中の終電数本前はさすがに空いていた。
「マグルの箒みたいなもんだっけ。親父がいたら食いついたろうな」
「……ちょっと待て? つまり、ホントに他に誰もいない?」
突然真顔になったジョージの再確認に、ケラケラと笑っていたフレッドからすっと笑みが抜ける。ハリーは頷いた。頷きながらも、彼も、薄々気づいていた。——おかしい。不意打ちで
「
「ここまでは、誰も」
妨害も何一つなく、ハリーはすんなりとロンドンまで到着し、魔法省前まで肉薄した。
「きなくさいな」
「ぷんぷんとな」
誘き寄せていることは間違いないが、その間に死んでくれたってむしろ願ったり叶ったりなはずだ。そうはしない理由がある。
「君たちは、僕を止めに来たんじゃなきゃ——何のために?」
「おかしいなあ、どう思う相棒? 僕たちからすれば、彼にはもちろん、お力添えが必要かと存じますね?」
「もちろんだとも、相棒。我らがW.W.W.および、ホグワーツきっての仕掛人の出番かとね」
それぞれウィンクをした双子に、ハリーの表情が未だに固いのを見て取って肩をすくめた。
「ロニー坊やの方がよかったか?」
「良いとか悪いとかじゃない……」
「ハリー、まったく、君ってば本ッ当に優しいよ。でもなあよく考えてみろ——電話ボックスは来客用、お偉いさんは
フレッドが
「そもそも、最近魔法省への登庁はだいぶん厳しくなっててな。正規の入り口はじつはこっからじゃあない。まあ任されてくれよ、侵入、潜入、俺たちってば君よりずっと大先輩なんだぜ」
「騒ぎを起こすのも同じくらいな。こういうのはプロに任せるのが一番なんだって教わったことは?」
「……アンブリッジを手こずらせたことだとか?」
「その通り!」
「あんなもんじゃあないのさ、もちろん」
➤
凸凹ばかりの獣道に光を灯した杖先を向ける。方角としてはこちらで合っているはずだが、こうも夜闇に包まれていると自信をなくしてしまいそうだ。
「〝連日あくせく働くだなんて、まるで労働階級のようじゃないか〟ぐらいは言うと思ったけど」
「普段ならばまだしも、私とて時と場合に応じて言葉を選ぶことぐらいはあるよ」
「なるほど僕がみくびっていたみたいだ。できればいつも選んでほしいかもしれない」
「善処するとして」
「ウーン……」
ディゴリーの訪問翌日、闇の帝王はヌルメンガードに侵入し、グリンデルワルトを殺害した。間一髪と言いたいところだが——この点は私の失点にカウントされる。グレゴロヴィッチおよびグリンデルワルトに辿り着くのが遅すぎた。膨大な史料から当たりをつけるのはこれだから非効率だ。フランスに飛んだ理由は、ニコラス・フラメルの研究資料を漁ってゴブリン銀の破壊方法を探るだけでなく、フランス魔法省にいろいろと話をつけたかったのだが、後者の目的を達成する前に蜻蛉返りする羽目になった。
しかしまあ帰国間もなく(具体的には、空港に飛行機が滑り込んだ五分後ぐらい)に実施されたラジオ放送からして、帝王側は手札が揃ったとみるべきだろう。たとえば——おそらく、ニワトコの杖はいよいよ帝王が手にした。
「ここまで早々に動くとは、グリンデルワルトは自白したかな……?」
極悪人とはいえ命を惜しむのはある種生物の初期値でもある。呆気なく殺されているものの、どうせ従おうが従うまいが帝王は時と場合と気分によって命を貰っていくタイプだろう。
私が予測する一方で「……いや、彼は、杖の在処は黙秘しただろうね」と、ディゴリーが言った。
「もとより君自身も言ったように、彼が最後に敗北した魔法使いの名前は知れ渡っている。歴史から類推することはさして難しくないはずだよ」
「だとしたら何故グリンデルワルト本人に確認を取る必要がある? 墓を暴けば終わりだ」
「彼の手元、あるいはヌルメンガード内にまだ存在している、という可能性が捨てきれなかったんじゃないかな」
……なるほど?
どうもグリンデルワルト側に肩入れをする物言い。ディゴリーに目をやると、彼は数瞬目を瞑っていた。やがて目を開けて「——グリンデルワルトが自白したかどうかは、あんまり今回に関係ない論点じゃないか?」と言った。間違いないな。
「帝王の目論見に話を戻そうか」
「そうだね。僕としては、ラジオ放送はハリーを誘き出す目的の他に、陽動でもあると思うけれど」
「読みとして間違ってはいないだろうな。私でもそうする」
垂れ下がる梢を杖で打ち払う。肩にぶつかる位置なら普段は無視できるが、今はちょっと困る。左肩に留まるミミズクに目配せをすると、彼もまた頷いた。
「ポッターを魔法省に誘い込みたいのは確定だ。その他の部分。魔法省に注意を向けさせることで——別所でなにかをしたい」
たとえばポッターから騎士団員を引き剥がす点は〝なにかをしたい〟の一種だろう。ただでさえ少ない団員たちは、帝王からマグル生まれたちを匿い、マグルたちを庇い、家族や友人を逃がし、
「その他に考えられるのは——予言の件か。ポッターを殺すのは闇の帝王でなければならない。であるからして、
物言いたげな眼差しを無視して「ただ」と言葉を続ける。
「その点、何故わざわざ魔法省までの呼び出しかは気にかかるな。マグルの市街地で戦闘を繰り広げた方が、帝王にとってはいくぶんか有利のように思う。ポッターはわりと馬鹿だ。赤の他人だとしても反射的に見捨てられない」
「……君……」
「なにか?」
「……いや、君ってけっこうハリーをよく見ているし、案外と買ってるよねと思って。特にそうやって憎まれ口を叩くあたり」
うるさいな。
顔をしかめた私を他所に『マグルの市街地でない場所を選んだのは——』と、レギュラス。
『帝王とポッター゠ジュニアの価値観の差異に基づくんじゃないかな』
「彼らの価値観にはそもそもいろいろと差異がありそうですが?」
『そうだね。この場合は……たとえばだ。ポッター゠ジュニアにとっては、無関係の他人であれども、マグルだとしても、巻き添えにできない——それはそうかもしれない』
ミミズクが首を回転させる。相変わらず不安になる稼動域だ。
『けれど帝王は、単なる他人かつマグルの命に価値を見出さないだろうね。逆に——親、あるいは親のような存在、近しい血縁、これらは無視できないと彼は仮定する。どれほど嫌いで、憎い相手で、マグルだとしても、少なくとも自分で手を下したいと考える』
どこか確信めいた口ぶりだ。
「ですが帝王は、他人の思考を推察することも得意では?」
『本来ならば』
明確な肯定ではなかった。
『しかし彼は……どうにも、ポッター゠ジュニアについては、どこか視野が狭くなる。予言に詠まれた子供、実際に一度敗北したから? ダンブルドアが目をかけていたから? もしかしたら、混血の出自ゆえかもしれない……』
脱線しかけていた思考が不意に打ち切られて『——まァ、とにかく、彼はポッター゠ジュニアに無意識に自らを投影し、思考する癖がある』と、ミミズクは続けた。
『それに、マグルの居住地での乱戦は、ある種帝王がもっとも危惧することだろう』
「帝王がマグルを恐れると?」
怪訝に聞き返した私に『そうだけれども、そうではない』ミミズクは首を横に振った。
『この点彼が恐れるとすれば、真には、マグルではない——うっかりでもなんでも、もしもポッター゠ジュニアの伯母が、ポッター゠ジュニアを庇う形で死んでごらんよ』
「……。なるほど」
元
マグルの家庭に魔法使いが生まれることはないこともない。同様に、ただのマグルのように見えて実のところホグワーツに通えない程度の魔法力を持つ例は、多くはないが、少ないというほどでもない。ペチュニア・ダーズリーがそうでないという保証はない。まして彼らにはリリー・ポッターの前例がある。
果たして、彼ら伯母甥の関係に愛があるのか? 実妹が魔法使いだったとしても、生粋のマグルが魔法のことをどれだけ知っているものか? 無知が天文学的な偶然を齎す可能性もゼロではないとして、奇跡がまさか、二度三度と起こるとでも? ——さあ、知らない。けれど懸念として存在するのは確かだろう。
蚊帳の外だったディゴリーに、レギュラスの言葉を簡便に要約して伝達すると、彼は何度か頷いて、それから首を傾げた。
「僕も開心術を覚えるべきかな」
『すまないね、
病み上がりは無理しないでほしい(そもそもロコモーターで強制的に稼働している状態は、病み上がってすらいない)として。
「習得したところで、あまり得はないよ」
私は言った。
「
「つまり?」
「誰も信用しない。できないと言い換えるべきか? 他人のすべてを握っていなければ安眠すら訪れない性質が技量の向上を補助する」
おそらくダンブルドア元校長や闇の帝王のそれは後天性だ。本人たちの有り余る才能が、過度な人間不信と致命的なほど噛み合ってしまった。よく似ている。まったく違うのに。
「それは——辞めておいた方が良さそうだね」
「それが無難だろう」
背の低い茂みをかき分ける。ディゴリーは頭の脇で手を振っている——蜘蛛の巣が引っかかったようだ。アクロマンチュラの巣ではないだろう。たぶん。彼らのコロニーはその体躯もあってきわめて巨大になり、そのぶん蜘蛛の手(手?)で整地が行われる。点灯魔法を行なっている状況で見逃すことはない。はず。おそらく。
「例のあの人があれだけ大々的に放送した理由、陽動の裏で行いたいことが、もうひとつ思いつくかもしれない」
「うん?」
「——
ディゴリーの言葉を吟味して、私はかすかに眉を寄せた。
「そうであったら大問題だよ」
「早めに済ませないとね」
「早めとは……」
未だ木々は続いているが、上の方の視界が開けてきた。森の端が近い。
月明かりの下、星々が瞬くもと、石造りの城が荘厳にたたずんでいる。卒業からおよそ四ヶ月ぶりの母校だ。
——ホグワーツ。
➤
ハリーの二学年上のレイブンクロー寮生、ロジャー・デイビースとは、ハリーはあまり話したことがない。シンプルにタイミングがなかったからだ。クィディッチのプレイヤーだとしても寮が違う、ポジションも違う、学年も違う、ハリーはキャプテンではない——ハリー・ポッターはまだ、六年生としての学生生活を一日たりとも経験していない——となれば、関わり合いになるタイミングはほぼないに等しい。クィディッチの他の情報だと、セドリックが主催する自習サークル︰焚火会のメンバーだったとか、
「いいか? 何度も繰り返すように——」
フレッドとジョージと仲が良いだなんて聞いたこともなかったし命懸けの潜入に協力してくれるほどとはもっと聞いていなかった。
「このポリジュース薬の予備はないからな。どっかの監督生や首席ならまだしも、僕は! ただの! 一般人」
「そうかな」
「ただの一般人はポリジュース薬の材料集める伝手もない気がするな」
「とにかく!」
たぶんこの調子だと、レグルスとセドリックとも仲良いんだろうな、とハリーはなんとなく思った。なんならもしかしたら、長い付き合いなのかもしれない。
「魔法薬の名手とかでもないわけだし、誤魔化せるのは最短の一時間とみてほしいね。いやもっと短いかも」
「わかってるわかってる」
「本当にわかってる……? 化ける相手はうちの会社とよく提携してる国際魔法協力部の部員とちょっと飲んだとき拝借してきたけど、解ける瞬間を見られてしかも例のあの人に勝たれたら一発で終わる。僕どころか化けた相手も会社も終わる」
「まァそのときはイギリス魔法界も終わる。遅かれ早かれ世界も終わる」
「全部終わるなら誤差だな」
「誤差かなあ……」
渋い顔をしたロジャーがハリーの肩をパシパシ叩いた。
「なんかとにかく頑張って。僕死にたくないから」
「それでも協力してくれるんだ?」
ハリーの尋ねるような眼差しに「ポッター、いいかい」ロジャーがかぶりを振って、真面目な顔つきで見つめ返した。
「厄介な友人と賢く付き合っていくコツはひとつだ。——長いものには巻かれる」
真面目な顔つきで言うことでもない。君子危うきに近寄らずと言えば聞こえは良いのだが、レイブンクロー寮生はどうにも多かれ少なかれ、事なかれ主義のようなものを抱えている。機をうかがい、大局を判断する。狡知を尊ぶスリザリンと迷われやすい理由はそこにある。
「今の状況より友達の方が長いもの判定でいいの」
「そういうこともある」
ヴォルデモートよりも逆らわんとこ……される友人とは。果たして友人なのか。友人扱いでいいのか。
ロジャーは「まァそれに」とちょっと頭を掻いた。
「そうだな、僕は魔法族の生まれで、僕の友達も大概せいぜい混血だけど……例のあの人支配下の世界にクィディッチがあるかは怪しいだろ? クィディッチがないのは、ちょっと嫌だ。それで、ちょっと嫌、って案外重要なのさ。ときにはね」
➤
ホグワーツ放送を聴いてまず思ったことはなにか。
ポッターを誘い出そうとしている。そうだな。
闇の帝王が校内放送呼び出しよろしく全国放送呼び出しするの、ちょっと面白い。これは本音。
今度はなにを企んでいるのか。これも本音。
全面対決を望んでいるなら早急に残りの
——当代ラジオホストのチョウ・チャンはどうなった?
海外から戻ったその足でロンドンでディゴリーを捕獲して、母校まで強行突破しに向かったのはそういうわけでもある。学期末と合わせて、禁じられた森をまさか往復することになるとは思いもよらなかったよ。
「来ると思った」
森を抜けたところでドラコが待っていた。隣には、ロングボトム——意外な組み合わせだ。
「ハグリッドが小屋の鍵を僕にくれたんだ。今思えば、あのときから応援パーティを企画してたのかな——ひとまず入ろう」
杖を振る。ノックス、消灯。ディゴリーも同じく。
そして私は先導する二人を見比べた。
「ところで……仲良くなったのか?」
「「誰がこんなやつと」」
「なんだか既視感が……わかった、フレッドとジョージと君だ」
「やめろ……」
ドラコは否定のついでに脛を蹴ろうとしてきたので、靴先を避けて逆に踏みつけておいた——やめてあげなよ、という目で見られた。
ハグリッド教授の小屋には初めて入った。印象に違わぬ雑然とした室内である。壁の釘にはユニコーンの毛が無造作に引っかかっていた。まあまあの貴重品。人間が来て嬉しかったのか、単にディゴリーが動物に懐かれやすいのか、じゃれつくファングがぐいぐいとディゴリーの脇腹に鼻先を押し当てている。適当にあしらっているようだし置いておくか。
机の上の埃を軽く払って、ロングボトムはテーブルに地図を広げた。広げられた地図をのぞき込む——地図、すなわちマローダーズ・マップだ。私の現在地が双子にことごとく把握されていた忌々しき物品。プライバシー保護などという概念がない代物。どのようないきさつによるものか、ロングボトムにわたったらしい。今一度思うが、一個人が持っていて問題ないのか、これ。ホグワーツ在学中であればロングボトムを言いくるめて献上させたかもしれない。
ともあれ、利便な道具は有効活用するべきだ。ほとんどの氏名は各寮に密集している。例年の記憶を参照するなら、この時間帯ぐらいは空き教室か大広間、図書室、あとはクィディッチプレイヤー用のシャワールームあたりにたむろしていてもおかしくないのだが——ほとんどいない。クラブ活動といった余暇どころか単独行動が制限されている、あるいは、余暇に時間を割くよりは集団行動の必要に駆られている。前者は先学期のアンブリッジ統治下、後者は秘密の部屋事件……事故時の生徒たちの行動が前例として当てはまる。
城外は、見回りらしき教授の名前がちらほらと。あとはそれこそこの掘っ立て小屋に押し込められた、私、ディゴリー、レギュラス、ロングボトム、ドラコ——家主のハグリッド教授は、ハリー・ポッター応援パーティを試みた結果逃走中なので不在。
特筆すべきは、やたらと城の下方——湖の底と同等の位置にあるスリザリン寮の談話室も越えて、さらに下——に集合する生徒名。フロア名等はなにも書かれていないが感知自体はしている、となると製作者たちが把握していない抜け道や隠し部屋と見るべきだが、論点はそこではない。
私にも覚えのない名前ばかりだ。
今年からの新入生ならば当然私が把握しているはずがないのだが、それを踏まえた上で——私の記憶にない家名ばかり、という意味でもある。おそらくマグル生まれ。
「彼らは?」
指差すと「今年度の授業が始まってから特に被害を受けた子たちで、ダンブルドア軍団で匿ってる」とロングボトムが言った。
「磔の呪文の練習台だとかにさせられるから」
……。
眉間になにかを押し当てられて、私は眼差しを上げる。ドラコの指だった。無意識に眉をひそめていたらしい。引き剥がす。
「今は秘密の部屋を避難所にしているから、たぶん、地図が書き取っているあたりに秘密の部屋があるんだろうね。正確な位置は知らなかったから初見は驚いたよ」
……仮にもサラザール・スリザリンが残した秘密の部屋を避難所扱い?
「バジリスクが長らく居座ってたせいか、虫も害獣もいなかったんだ」
ロングボトムはバジリスクを虫除けかなにかだと認識しているのか?
辟易した表情で遠くを見たドラコが「清掃が一番大変だった……」とつぶやいた。おまえもおまえでなかなかの感想だな。
「抜け道もいくつかつなげたから、なにもかも終わったら直しておかないと……」
そういう問題なのだろうか。
「今日抜け出す道もハグリッドが使ってる水道脇に出られるように掘ったから、さすがに放置してると地盤が緩むかもしれない」
「うんまあ大問題だね」
「あとで通るならばその際に補強しておくか……」
千年物の城が今更地盤沈下で崩落されても困る。
そして、秘密の部屋が利用されているなら別の件が気にかかる。
「バジリスクの牙はどうした?」
「下手に破棄もできないだろ。兄上が興味を持ちそうだから保管しておいたけれど」
私をよく理解していることで。
「今出せるか?」
「寮に戻らなきゃない。寮も談話室にはオーグリー様がいる……」
スリザリン寮の談話室には確かに〝Delphini〟と綴られていた。家名は記されていない。
「というか、好奇心を満たそうとするには時期がどうかと思うよ、兄上」
未だに端々で生意気な弟を可愛がるべくきりきりとこめかみを締め上げる。
「バジリスクの牙は諸事情で必要なんだ」
ディゴリーが(私とドラコの間に割って入りながら)説明した。ロングボトムが若干引いているのはどういう了見なのか。
「もしかしたら君たちも持っておいた方がいいかもしれない。それか、僕たちだけでもどうにかして確保して、あとは破壊しておきたいかもね。レグルスもじゃれてる場合じゃないのはわかってるだろ」
「厄介なのは〝レストレンジ〟だけか?」
話を戻すことにした。
涙目のドラコが首をひねる。
「生徒は、元ダンブルドア軍団所属だとむしろ積極的に協力してくる。エッジコムはちょっとわからないけれど。焚火会の会員だったなら……ディゴリーと兄上に逆らおうとか思うやつはいないだろ」
その言い方だと恐怖政治を敷いていたように聞こえて外聞が悪すぎるがまあそうだな。
「教授はたいてい見て見ぬふりしてくれる。もしかしたら協力すらしてくれるかもしれない。クラウチとカロー兄妹以外は、という条件がつくけれど……」
クラウチ゠ジュニアについてはもはや言うこともないとして、カロー兄妹に関しては新聞でも見かけた名前だ。教授に就任した件はもちろん、第一次魔法戦争の際も、どちらとも
「カロー兄妹は本質的に僕たち生徒をなめてるから、詰めが甘いんだ。結局できることはたかが知れているって、見くびっている」
と、ロングボトム。長年なめられてきただけあるのか、やけに実感こもった言い方だった。
「逆に、クラウチは……あいつは目ざとい。九ヶ月誰も彼も騙し切っただけあるんだと思う」
新聞で名前を見かけたときから予想できていたことではある。
「チョウの居場所は把握している? 地図の中に見つからない」
これはディゴリーの本命であり、私としても副次として確認しておきたい点。
ドラコとロングボトムは揃って苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「……僕も放送を聞いてすぐに探したんだ。地図には見当たらなかった」
「……城外に運ばれたか?」
「それは真っ先に考えたよ。けど、たぶん違うってマルフォイが」
「ホグワーツからの
まァ逃亡手段ないし侵入手段をご丁寧に残しておく必要はない。アンブリッジがわざわざ残していたのは、これ見よがしに開けられた穴に引っかかった間抜けを釣るためで、今更帝王の勢力が釣りをする必要はない。魔法省にのこのこと顔を出したところをひき潰して終わりだ。
「チャンをわざわざ魔法省に連れて行く必要はない。クィディッチの才能は今の情勢じゃべつに特に役に立たない。ポッターのガールフレンドでもない」
これまた道理。
「けれど人質としての価値はある。ディゴリーとチャンは付き合ってる——半年前に大喧嘩したから付き合って
「どうなんだ」
「僕の自認は現在進行形……」
「——ならさらに効くか」
ドラコはさっぱり言った。
「どちらにしろ、一度は勧誘をかけたディゴリーに対して、こいつを殺されたくなければ従え、だとか脅す選択肢は十二分に想定できる。単なる友達よりも効果がありそうだし、雲隠れした家族を確保するより簡単だ。だから殺してはいない。と思う」
ディゴリーが小さく呻いた。
「となるとホグズミードに連れて行くだとか禁じられた森に放置するだとかも、同様にないと見るべきだ。人質はなるべく手元に置いていた方がいい」
「そうだな。すぐに死の呪文を撃てる位置に置かなければ人質としての意味がない、となると……ああ、なるほど」
「マルフォイ家ってもしかしてそういう教育受ける……?」
ロングボトムがつぶやいた。
受けるか受けないかで言ったら受ける。
「帝王が最も信用する下僕がいるとすれば、レストレンジ夫妻、クラウチ、オーグリー」
ここの選出理由は私にも読める——ごくシンプルだ。挙げられたメンバーは帝王を一度も裏切っていない。信頼という意味でも、任務の失敗すらない。
「空いているとすればホグワーツ配備の後者二名。ホグワーツ内のどこかに閉じ込められてる——でも地図には映ってない」
ドラコが城の下方に集う氏名を指差す。
「地図にない隠された部屋だとしても、そこに入った奴らが地図自体には映るのは、秘密の部屋が証明した。……それでも映らないとしたら、たぶん、必要の部屋だ」
存在しないことになっている部屋。レギュラス曰く、帝王の
そこに囚われているとすれば——絶対に開けられないか開けられたとして確実に罠かの二択。
「……レグルス、今の弟くんの意見に反論や、より確実な見解は、ない?」
「私の贔屓目を抜きにしても妥当だと思う。……吐きそうなら今は強制的におまえの食道を塞ぐぞ」
小屋の外に出て吐いている暇はなく、吐いたとして臭気で気づかれる。小屋の中で吐かれるとこの人口密度では私たちが使い物にならなくなる。巻き込んでしまった罪悪感は今は飲みくだせ。構っている暇がない。
「吐かない。大丈夫……君こそ、確認事項は残り何個?」
「残りひとつ。組み分け帽子の所在は?」
「……え? 組み分け帽子……?」
青褪めていたディゴリーが露骨に戸惑いを見せた。ロングボトムも怪訝そうな顔をしている。「校長室に入れなくなったからか、最近はトロフィー室に飾られていたよ。どっちにしろ、組み分け以外では使わないし……」ドラコは外野は無視しつつ、しかし私を半眼で見ていた。ディゴリーにさえも説明していないのかという目つきだ。私が黙っていたのは一割念のため、九割おまえの安全のためなのだが。誰もが閉心術を身につけてくれていたらもう少し楽だったな。
「今日の出来事を踏まえると、念を入れてオーグリーかクラウチが持ってるか、もしかしたらどこかに隠された可能性もある」
「今から超特急で宝探しか……」
「……君が言う〝宝探し〟ってそれだったの?」
優先順位は明白だ。第一には〝レストレンジ〟とグリフィンドールの剣。ペットの大蛇も殺せるならばよかったが、ホグワーツに連れてきているとは思えない。リスク分散は初歩中の初歩である。ポッターが帝王を倒すまでに、少なくとも
……ただ、ディゴリーにとっては、そうもいかない。
ホグワーツ放送とチャンを結びつけたのはディゴリーで、そもそも彼と付き合っていなければ人質としての価値は見出されなかった。親はたかだか魔法省勤め、多少秀でているがその程度でしかない、監督生にすら選ばれなかったアジア系生徒に意味を見出すことはない。
ディゴリーを説き伏せることはできる。ハッフルパフの模範生はもとより私利私欲よりは公を取る。感情をねじ伏せるすべを当然知っている。それは〝見捨てたところで平然としていられる〟と決して等号ではない——
——いや。
この場合、気にするべきは
「……ディゴリー、チャンの安全確保をおそらくおまえに振る。最優先で頼む」
「僕に気を遣っているなら——」
「そういうことにしておいた方が私の人間性は疑われずに済みそうだが、あいにくそうではない」
最優先は変わらない。第一に
誰もその限度など把握できていない。実際に予定外は既にひとつ生まれていた。
「
「……。なるほど、それは。……そうだね」
交渉の手段として使われるならまだマシだ。いよいよ用無しの人質を、魔法省に向かって蹴り出されてみろ。
……。
……ん?
ちょっと待て今の今まで見落としていたが、何故彼が
➤
エレベーターに人はほとんどいなかった。そろそろ深夜帯にさしかかる。一般の勤務時間とは懸け離れた時間帯であるからして、未だに省に残っているのは社畜だとか公畜だとかそのたぐいの激務の者共ばかりだ。
素知らぬ顔で乗り込む三人。フレッドとジョージはさすがに慣れているのか、まるで当然の顔つきですらある。一瞥を向けた男はすぐに視線を切り、【B1】のボタンを押した。エレベーターは上昇する。
来客および登庁は地下八階、エントランスホール。地下九階の神秘部は崩落。地下十階のウィゼンガモット法廷も当然使い物になるはずもない。残り、地下一階から七階——
「魔法大臣室は地下一階にある」
男が不意に喋った。
箱の左上で【B7】の表示が【B6】に切り替わる。
「今や
「——どうも、ずいぶんと親切なおじさんだな。それで、見知った誰かに化けた不審者たちになんの御用だい?」
開き直ったフレッドが尊大に腕を組んだ。視線の先では階数が【B4】とカウントされた。
「わざわざ不意打ちしないで、お喋りを始めた理由が知りたいな。まさかこれからティータイムに招待してくれるってわけでもないだろ?」
相棒がつらつらと尋ねる横でジョージはいやに静かだ。ハリーがちらりと見ると、いつの間にか、彼は花火の束を握りしめていた。W.W.W.の暴れ花火——消失呪文で十倍に増える危険性は対アンブリッジで充分に証明した。
「私はルーファス・スクリムジョール」
男は言った。
【B3】から【B2】へ、文字が揺れる。
「ハリー・ポッターと……誰だか知らない御一行。
解ける。切り替わる。
【B1】
金細工の扉が開く。
➤
「わたしが知る限り、チョウ・チャンの功績は特にないの」
銀髪の女は軽やかに笑った。
「レイブンクローのシーカーだっていうのは、そうね。あと美人さん。エキゾチックな魅力、うん、憧れちゃうひとがいても、おかしくないわね。でもそれだけ。レイブンクローもそんなに連勝した記録もなかった。むしろ、連続でグリフィンドールに優勝を掻っ攫われてる」
金縛り呪文は利便である。一年生でも使用可能な呪文でありながら、縄一つなく、意識を落とすことなく人を拘束できる。死後硬直に似た筋肉の強張りは、たとえ解呪されてもしばらく尾を引く。
「だから正直言って、驚いたの。リー・ジョーダンがラジオ放送をやるまでは、知ってた。加速したのも想定内。そういう手筈で練っていた。けれど——ほら、あなたは賢いじゃない? 賢いから、ちゃんと従う
手のひらが頬を撫で上げた。死人のような体温、とでも評したいところだったが、あいにくと人らしい温かみがあった。
「どうしちゃったのかしらね。ああ、ボーイフレンドと大喧嘩したんですって? 反骨心ってやつ? それとも義憤? まァなんでもいいわ。目立ったことをしてくれるなら、わたしも使ってあげられる。こんなふうに」
手のひらが離れる。チョウ・チャンの虹彩は開ききったまま、デルフィーニはひらひらと眼前で手を振った。
「でも一人ってさみしいでしょう。わかるわ。だからボーイフレンドも連れてきてあげましょうね」
微笑んだ女が足取りも軽く部屋をあとにする。だだっ広くなんでもあるなにもない空間。その半ば——虚空を四角に切り取ったが如く穴が空いていて、その先にホグワーツの廊下が続いている。ゆっくりと扉が閉じるにつれ、空間に似つかわしくない裂け目は細くなり、
——消える寸前で停止した。
「【
チョウの四肢が自由を取り戻す。
セドリックは目くらまし呪文をようやく解いた。片手には小さな砂時計が握られている。
「……ごめん、たぶん、僕が巻き込んだ……」
小さく謝罪するセドリックにチョウはぱちぱちとまばたきし、ついで跳ね起きた。
「セドリック?」
「うん」
「本物?」
「……。どうやって証明しようかな」
「ダンスに誘ってくれたときに最初に言ってくれた言葉は?」
セドリックは思わず天を仰いだ。たっぷり三秒たってから、記憶に残る台詞を述べた。「もうちょっと大きな声で」「勘弁して」「冗談よ」チョウがようやく笑った。
「……ありがとう」
「……うん」
どういたしまして、と言うには巻き込んだ負い目があった。
「それと……その、ダンブルドア軍団のこと。言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「僕もそれは——」
「マリエッタのことは悪いと思ってないけど」
「この話あとにしようか」
さすがに今から喧嘩を再開すると、良くて死ぬ。悪くて、どこぞの首席にネチネチつつかれる。具体的には月一で思い出したように擦られるのが最短でも五年は続く。スリザリン寮生は粘着質なことで評判だ。
途端に話を逸らしたセドリックにチョウは眉を吊り上げて、それからふっと息を吐いた。
「マリエッタのことは悪いと思ってないし、こうなったのはあなたに巻き込まれたからじゃない。どちらも私が考えて、私が選んだことよ。私の選択を勝手に取り上げようとしないで」
「……そうだったね」
「そうよ。——戻ってきたってことは、なにかあるんでしょう。私はなにをすべき?」
セドリックはわずかに目を瞑った。賢きを尊ぶレイブンクロー。思考を止めないことこそが彼らの強みであり、彼らの矜持である。チョウのそういうところをセドリックは好きになった。
目を開く。肩に停まる
「まず、この人を送り出す必要がある」
セドリックは、今から二時間は必要の部屋から出られない。チョウも同様だ。遡ったのは三時間。ホグワーツ放送まで残り五分。
——さて。
どこぞの誰かさんは、入学式でたった一度呼ばれただけでもその年の新入生の顔と名前をすべて記憶する化け物だが、当然ながら、誰もがそうというわけではない。ネビルも、興味関心の高い薬草学にはとても優れた記憶力を発揮するが、たいていの科目ではむしろ物覚えが悪い方に分類された。因縁深いマルフォイおよびその兄、あるいはハリーの後見人であり、釈放後も紙面をたびたび騒がせたシリウス・ブラックならまだしも——
「お願いします、ミスター・ブラック」
——生還時のインパクトはとんでもなかったが、しかしたった一度名乗ったきり、新聞の広報でもマルフォイの情報操作でほとんど言及されなかったただ一人、ぬるっとホグワーツの理事に収まりながらもほとんどの時間をミミズク姿で過ごした男、レギュラス・ブラック。彼の名前をそれから何年も覚えていられる人間は、そうはいない。地図で
ミミズクは——セドリックには
➤
「アッハハァ、我らがお坊ちゃまから、またまた無茶な指令が来てるぜ」
「なんだって?」
煤けた頬に引きつり笑いを浮かべて、フレッドが読み上げた。
「〝帝王——〟例のあの人だよな?〝——に誰も殺させるな〟」
「マジで言ってるのか? フレッド、おまえさんの突発的乱視ってセンは?」
「だったら君も読むかい、兄弟!」
「やめとくぜ! 現実ってやつは変わらないんだ。そうあのときの借金の額みたいになんなら悪化するんだ」
ジョージが呻いた。ポリジュース薬が解けて顕になった赤毛をかきあげる。
「マルフォイのことだし無茶ってことは百も承知だろ」
「まァそりゃそう。あの坊ちゃんなんならトリアージつけろって言い出す方だもんな」
あるいは〝理想論だ〟と一蹴するタイプ。人の心はあるものの、およそ使う気がない。
「てことはなんかある——」
「——なんかあるにしても、俺たちにこそもうちょいなんかあるよなあ!?」
「——それはなあ!? あいつ僕たちのこと無茶振りしても壊れない下僕ぐらいに思ってるよ!」
「信頼されてるのかも」
「そうかも」
魔法省地下一階。
ハリーとはふつうにはぐれた。
「信頼されてるなら仕方ないな」
「信頼されてるってことにしといた方が面白いだろうしな」
本音が出ている。
「仲間のために戦う僕たちグリフィンドール」
「元でもグリフィンドール」
「騎士道を重んじる勇敢なる獅子」
好き勝手言っていたらば飛んできた呪いが壁を焼いた。スライディング逃亡、間一髪セーフ。
「そもそもあいつ、僕たちが魔法省突撃するってもしかして読んでた?」
「まァ突撃するかどうかで言ったらする」
「する。間違いなくする。なんなら今してる」
軽口を叩きながらも算段する。既に殺されていたらばもはや手遅れだとしても、指示が飛んできた以上は従っておくのが得策だ。性悪令息は性悪であるからこそ、敵への効率的な嫌がらせをよくよく知っている。敵ならば厄介で味方に回せばなお厄介、無茶を振りまきつつもその無茶に確かな意味がある。
手始めに、W.W.W.の暴れバンバン花火に交えて、盾の帽子をばらまく。正確には、避難生活中に焚火の集い各員に送りつけて改善レビューを募った末、グレードアップした盾の帽子(新)改良版の改良版_最新版ver2の決定版——落ち着いたらちゃんとした名前つけないとな、とは双子双方の意見。
製品テストはしていない。しいていえば今こそがテスト。
「ところで相棒」
これはジョージ。
「なんだよ相棒」
これはフレッド。
「〝
「敵さんの安否に構ってる暇ないだろ」
「ないけど、だってマルフォイだぜ? 味方限定ならそう言いそうだよな」
フレッドはしばし沈黙した。
「……あいつじゃあ僕たちに間接的に死ねって言ってる?」
「そうかも」
——少しでもふざけていられたのはここまで。
➤
魔法大臣の執務室。執務席にはファッジが能面のような顔で腰掛けている。服従の呪文をかけられ続け、都合の良い言葉しか吐けない傀儡。
魔法大臣の席より、よほど上等な肘掛け椅子が、部屋の中央に置いてある。蛇に似た顔つきの男が肘をついていた。姿勢を正す素振りもないのに何故かどこか上品だ。
ヴォルデモートは口角を上げた。
「ようこそ」
ハリーはせめてもの虚勢で笑ってみせた。ポリジュース薬が解けて若干ローブがきつい。
「ご招待ありがとう?」
床に這いつくばったバーノンが、呆然と甥っ子を見上げていた。戯れに痛めつけられたせいか、精神的ストレスのせいか、顔じゅうに脂汗を浮かべていた。いつも商談の際にきっちりと着るスーツは縒れてボタンもいくつか弾け飛んでいた。メタボのせいだけでもないだろう。
言葉は既に無用だ。
呪文が飛ぶ。二度。三度。防御、回避、回避、さらに防御——歴代魔法大臣の絵画が焼けた。肖像画が悲鳴を上げる。写真が割れた。写った人影が退避する。机が真っ二つに割れた。
「ッ」
ハリーの頬をジッとひかりが焼いた。あらぬ方向から飛んできた閃光。うつろな瞳のファッジが杖を向けていた。
「服従の呪文は実に利便よな。禁じられるのもよくわかる」
ヴォルデモートが謳う。
利便なだけあって複雑怪奇な術式だ。並の術者ではなかなか持続しない。長期間、加えて、他の数多な強力な呪文との併用。魂の分割は魔法の使用にはなんら影響を及ぼさないご様子。
「【
ハリーは魔法大臣室から転がり出る。隣室、ひとまわりちいさい無人の執務室には〝上級次官〟と記されていた。器物損壊を気にしてもいられない。壁と扉を破壊して、強制的に場所を開放する。
「いまいちな動きだ」
ゆったりとヴォルデモートは椅子から立ち上がる。どうにも余裕ぶっていた。
「学校のお勉強はちゃあんとしてこなかったのか? ンン? ハリー……」
「おまえこそ——ほぼ二対一で僕を五分も生かしているだなんて。弱くなったか?」
ハリーは煽りながらも、確かに疑っていた。真正面からの撃ち合いでいえば、そもそも学生の魔法使いがヴォルデモートに勝てるはずがない。賢者の石の事件はヴォルデモートはまだ霊体で、まだハリーに直接触れることすらできなかった。秘密の部屋ではクィレルがリドルを引き付けていた。墓場のヴォルデモートはハリーを侮っていて、たっぷりと屈辱を与えてから殺す腹積もりだった。
——今は?
「ポッター。おまえは未だに、度々私の頭の中を覗いている」
ヴォルデモートは言った。
「双子芯の杖の奇跡。既に御存知だろうとも。それとも、お優しい校長から伝えられていたかな? アルバス・ダンブルドア、偉大なる英雄、死に敗北した者……おまえを真綿に包んで、利用し、死地に追いやる者……」
彼の指が無造作に杖を振る。ゴゥッ、焔が燃え上がる。壁紙を焼いてにおいを放つ。
「杖を取り替えてもそれは再現された。はて。双子芯の奇跡は既に私たちの運命にすり替わったようだ。であれば——最強の杖。これまた御存知かな。宿命の杖よ……予言に関わる者が持つには正しいだろう」
ハリーは杖を手放さない。眼鏡のレンズ越しにヴォルデモートを睨み据えている。柊と不死鳥の尾羽根の杖先もまたヴォルデモートに向けられている。
「しかし——宿命の杖は果たして、双子芯の奇跡が適用しきれないと言い切れるのか?」
「【
赤と緑が衝突した。呪文のひかりが衝撃を撒き散らす。杖同士の閃光が結びつき、黄金色へと変化する。
「——やはり、ここに証明された。すなわち、おまえがその杖を私に向け続ける限り、私はおまえを殺せない。私が私である限り、私はおまえを殺せない」
ヴォルデモートは言った。
彼は落ち着き払っていた。
「ならば
杖先を打ち払う。木霊の出現よりも前につながりが切断される。ハリーは衝撃で廊下へ吹き飛ばされた。体勢を立て直す。
ヴォルデモートは未だ悠然と佇んでいた。ハリーを追撃する様子もなく、すこし小首を傾げていた。
「ハリー・ポッター! 大丈——」
——きぃん
耳鳴り。
「ア゙ガッ」
激痛。
一瞬で全身をしばった苦痛にハリーは膝を折った——膝をつく前に、足に力がこもり、固定される。
「〝——そう、このようにして——〟」
自らの口蓋を通して、誰かが喋る。意志に反して頭が動く。
顔を上げた先には、新聞で見た顔——ヤックスリー——それに、見知らぬ魔法省員がいた。ハリーは、ハリーではない者の意思で杖を掲げた。
閃光が走る。
ヤックスリーの傍らをすり抜けて、ひかりは命中する。魔法省員の顔が驚愕に固まったまま、倒れた。
「〝ああ、なるほど、まァ痛い。筆舌に尽くしがたいほど痛い、しかし——〟」
先々学期、クラウチ゠ジュニアが、あるいはヴォルデモートが、戯れにかけた服従の呪文。あの恍惚とした支配とはまた異なる感覚。ヴォルデモートにかけられた磔の呪文の激痛ともまた違う。
全身を焼け付く苦痛に縛られて、ハリーは身悶えしたいほどの苦しみに襲われていた。指一本たりとも動かせるとは思えなかった。ハリーの身体は、今、彼自らの支配下にはなかった。
「〝——すくなくとも、この身体でも呪いは撃てる。であれば、なにも問題はないな?〟」
ハリー・ポッターに、ヴォルデモートが取り憑く懸念。ムーディは先学期にそのように提示した。
ダンブルドアがその懸念を持ち合わせていたのか、ハリーはついぞ知らない——
——今、現実と化していることは確かだった。
➤
魔法薬学教授の教授室は雑然としていた。ガラス戸の向こうには数多の器具が片付けられていて、本棚には専門書や束ねられた羊皮紙が並べられ、積み重ねられている。しかしどうにも殺風景だった。私物らしきものがほとんどないせいだろうとクラウチ゠ジュニアは思う。
前任の陰険蝙蝠はホグワーツに十余年は勤めていたはずだが、その間、新調したものがどれだけあるのかきわめて怪しい。消耗品を除くなら、両手の指でも数えきれるのではなかろうか。
「——ミズ・ナギニ」
音もなく忍び寄っていた大蛇がつるりと舌を出す。
「侵入者だ。行こう」
➤
「隠れてばっかりでつまらないわ! 遊んでくれないの?」
「呪文の撃ち合いは遊びとは呼ばない!」
「価値観の相違ね」
レギュラスとディゴリーを送り出したのち。私は、スリザリン寮にバジリスクの牙を取りに行く——ことはできなかった。案の定とも言える。
青のメッシュが入った銀髪、端正な面持ち——目鼻立ちは、ベラトリックス伯母上にはあまり似ていないものの、哄笑する姿はなるほど彼女の母親を彷彿とさせた。興奮でうっすらと頬が赤らんでいる。平時であればヴィーラの美貌を連想したかもしれない。
「おいでなさいよ。夏場は決着がつかなかったもの、ちょうどいいと思わない?」
「これまた意見に相違が見られるな」
決着もなにも、死ぬぞ、私が。在学時代はつくづく手を抜かれていたらしい。
焼け焦げた盾の帽子を脱ぎ捨てる。私の手元にあるのはウィーズリーどもから一方的に送りつけられた改良前のサンプルだが、それでも、軽い呪い程度ならばいくつか弾く。保険程度には役に立つことが
「あなたたちって防戦になると強いのよね……」
「保身と日和見はしばしば恨みを買う」
「あは、自覚あるじゃない。それでもお父様にはつかないつもり?」
〝レストレンジ〟はからからと愉しげに尋ねた。
「ダンブルドアの目論見はもう終わりなのよ。わからない? ハリー・ポッターは魔法省に到着したらしいわ。馬鹿正直にね」
ウィーズリーに送ったメッセージは、やつら、目を通していると信じたいところだが。
「選ばれし者が単に選ばれただけで死ぬのも時間の問題。それとも、成人もしていないような学生が、まさか本当にお父様に勝てるとでも思ってる? そろそろ投降する方が賢いでしょうに」
「投降? まさか」
思わず鼻で笑った。
「何故私がホグワーツをOB訪問したのか気にならないか? 魔法省を後回しにしてまで」
「チョウ・チャン——というより、セドリック・ディゴリーのためではあるでしょう? あなたは身内には優しいもの」
「否定はしない。しかしレストレンジ、私はこれでもいろいろ考えているよ」
「
「帝王が死を迎えなかったからくり」
呪いの連撃が一瞬止まった。
刹那のことだ。すぐに再開される。
「日記。指輪。なるほど自らのルーツに基づく物品は魔術的な効果も強く出現するだろうよ。ロケット。カップ。冠。剣。スリザリン以外は高祖ではないにしろ、古来から伝わる品々はそれ由来の特別な効能を持ちうる。ホグワーツ創設者の四名はいずれも非常に強力な魔法使いだった」
「——あはは」
笑い声は明らかに上ずっていた。
「それ、ダンブルドア? まさかこの期に及んで、あなたを信用していただなんてね……他人を信用したからこそ、自らの妹も、ポッター夫妻も、みすみす殺された男が」
「信用とは少し異なるだろうとも」
人間というものはつくづくと矛盾だらけだ。私たちはしばしば、合理を重んじた判断よりも情を取り、確実性よりも可能性を取り、そうして破滅に導かれる。ダンブルドア元校長が何名かを信用した根拠を私は知らない。どうでもいいので。手痛い失敗を繰り返した老人が、ゆえにこそ判断を間違わないこともあるだろうさ。けっきょくのところ確実な情報をくれたのはあの爺でもなく、スネイプ教授だった。
とはいえ確実な情報とまではなくとも、匂わせはあったこともまた間違いない。私はポッターの味方ではなく、ダンブルドアの味方でもなく——しかし敵の敵なれば同盟を組むこともあるだろう。あるいは少しだけ手を貸すこともあるだろう。今のように。
「ともあれ、そう、もういくつか。ペットの蛇。復活の材料に用いたほどならばまァ理解は及ぶ。結びつきはより強い。
意見は未だ変わりない。親が子を贄のように扱うことは、いくら前例があったとしても、つくづくと正気を疑う。それを褒美として取り扱うのはなおのこと。しかし——あくまでも私の価値観でしかない。となればそれを前提として取り扱おう。
それはそれで、逆に、違和感がある。
そうは思わないか?
「自らの血縁に固執する帝王が、自らの血を継ぐただひとりを、本人の希望があったとしても材料に用いるとは——」
「何が、言いたいの?」
「帝王が死を迎えなかった理由。そして、おまえたちが決戦を急いた理由だ。なにもご丁寧なお呼び出しをせずとも、護りが切れるまで悠々と待つこともできた。そうしなかった。わざわざポッターを誘い出してまで、早期の決着を目論んだ。と、同時に」
盾にした石像が破壊され、その破片が瞬時に組み立てられて石壁となって迎え撃つ。背後から襲い来た蝙蝠たちを水で絡めとり、凍結、転移、解放のついでに主導権を奪い取った小動物たちが〝レストレンジ〟のもとに降り注いだ。
「ベラトリックス・レストレンジ、我が伯母上、おまえの母君の目撃情報が七月三十一日以降にひとつもない。ことここに至ってひとつも。ディゴリー曰く、おまえは、二十年近く早く生まれたと言っていたらしいな? つまり——
きょうだいはいな
床から幾本もの石槍が伸びる。外部に干渉する魔法は初動から発動までにわずかにタイムラグを生む。一瞬早く杖を振り、爆破呪文の反動で後方へ飛ぶ——直前まで籠城していた石壁が粉々に砕かれて、石槍が虚空を串刺しにしていた。
「口がよく回るのね。まだ喋るつもり?」
その向こうで〝レストレンジ〟は瞳に赤くひかりをともしている。
「もちろん」
鎌首を上げた焔の蛇を風圧で叩く。消えた。悪霊の炎ではない、ただの高火力の炎だ。彼女は高難易度の黒魔法を扱えない。
「おまえはダンブルドアを〝ダンブルドア〟と呼ぶ、ならばディゴリーに話した〝アルバス〟は別人を指すのだろう。おそらくはおまえが知る未来の誰か。偉人の名前を子どもに名付けることはそう珍しくない——偉人と称されているならば」
帝王が支配した世界で、我が子にわざわざ、帝王がかつて恐れた天敵の名前を名付ける馬鹿はそうはいまい。実例に置き換えてみよう。グリンデルワルトが猛威をふるった大陸で、自らの子どもに〝ゲラート〟と名付ける魔法使いが、まさかいるものだろうか? マグルであればアドルフ・ヒトラーあたりでも引き合いに出したらばよいだろうか。同郷同名の俳優で、改名手続きを取った事例もある。
ディゴリーとの、憶測に基づく検討で述べた言葉もまた事実だ。しかしそれ以上に——確信はここにあった。分の悪い賭けをするだけの根拠。
「ダンブルドアは後世に偉人として残された。おまえが見知らぬアルバスと会話したならばすなわちそのとき、
「憶測と推測ばかりでものを語る、本当に傲慢……!」
しかし反論はない。
そうだろう?
「おまえが
人の子が宿ってから生まれるまで、平均期間は十月十日。箒に乗った我が伯母上殿の腹をまじまじと見るほど暇でもなかったが、どちらにせよ、妊娠は多少の月を経るまでは然程目立たない。
「——おまえたちは焦っている」
過去に一度さだめられた敗北を避けるために。
➤
「さて——」
ハリー・ポッターの、母譲りのエメラルドの瞳は見る影もなく、紅の虹彩が人々を睥睨した。
——あっ。
まずい。
双子は双子らしく、同時に、まったく同じ感想を抱いた。
一撃目は咄嗟に放った盾の帽子(以下略)と、気絶キャンディで誤魔化せた。と信じたい。希望的観測。しかし二撃目は——
ハリー=ヴォルデモートの腕が振られる。微笑んだ顔の中で瞳だけが爛々と輝いている。ハリーの友人がロン・ウィーズリーであることも、ウィーズリー家が子沢山で血を裏切る者で赤毛であることも、ヴォルデモートはよく知っているのだろう。
駆け込んできたフレッドに杖先は真っ直ぐに向けられていた。
「〝【
閃光は逸れて壁に当たった。
要因は二つあった。
フレッドの襟を強く引いた人間。パーシー・ウィーズリーは青ざめた表情で、文官たる彼の力はクィディッチ元ビーターかつレギュラーメンバーにとってあまりに微々たるものだったが、しかし確かにわずかに姿勢をずらした。
時同じく、捨て置かれていたバーノンが、ハリー=ヴォルデモートにタックルのごとく飛びついて引き倒——すことはぎりぎりできず(クィディッチプレイヤー、しかもシーカーたるハリーの体幹は鍛えられている)とはいえ、軌道はわずかに外れていた。一㎜の差異が生死を分ける。
「うちから殺人者など
——このオッサン、ここまでくると一周回ってスッゲェのかも。
双子はやっぱりまったく同時に同じ感想を抱いた。
兄弟の感動の再会どころではない。すぐさま追いついたジョージが、兄と相棒二人まとめて地に伏せる。呪いの追撃が二つ。廊下を飛んでかすめていった。
「〝本当に元気なことで〟」
バーノンを杖の一振りで叩きつけ、呆れたようにハリー=ヴォルデモートが言う。改めて杖を振ろうとした指が「〝ッ?〟」しかし一瞬、魂への激痛とはまた別種の痛みですべった。
魂の痛みと肉体の痛みでは基本的に魂の方が痛い。内臓よりも己に近しい部分を傷つけられるのだから当然だ。一方で肉体への刺激の特徴は、肉の体であるからして、脊髄反射で身体が動いてしまう点にある。反射で利き手を振った拍子、弾き飛ばされたものが壁に叩きつけられた。ヂゥと濁声の鳴き声が響く。
「〝ネズミ——〟」
スキャバーズ。あるいはピーター・ペティグリュー。サリー州からハリー・ポッターのフードに隠れて機を窺っていた
長期間の潜伏が生んだ時間稼ぎはたったの一秒にも満たなかった。
「【
床が抜ける。底が抜ける。地下一階から地下八階までを貫通する穴が開く。ヴォルデモート本人とハリー=ヴォルデモート、
落ちていく。
落ちていく。
落ちていく。
魔法を用いようとしたハリー=ヴォルデモートの指が、しかしヴォルデモートの意思でもなくぴくりと動いた。利き手の指だけが動く。全身を蝕む苦痛に耐えてハリーは口を開いた。
「おまえは……いつまでも、僕の身体にはいられない」
「〝そうだな〟」
ハリー=ヴォルデモートは目を細めた。向かいのヴォルデモートは目をつむっている。意識を失っているとハリー=ヴォルデモートは知っていた。身体を乗り換えている間は、おおよそ、このようになる。
「〝私は今この時にも苦痛を感じている。いつまでも、はいられまい——しかしそれで充分だ。人を殺した、殺しかけた気分はどうだ? ハリー・ポッター?〟」
返答はなかった。
「〝重畳〟」
ハリー=ヴォルデモートのくちもとに笑みが浮かぶ。
「〝私が出ていくまでの間、果たして、
ハリー=ヴォルデモートの指が柊の杖を振る。かのロード・ヴォルデモートは箒なくして飛行可能だ。
しかし——意識を失ったヴォルデモートの体躯がふわりと空に浮いた一方で、ハリー=ヴォルデモートは未だに落下していた。柊の杖先は真っ直ぐに己の胸に向けられていた。
杖先がひかる。
「殺させるものか」
ハリーの脳裏では、若きトレローニー教授が野太い声で繰り返す。
そして彼らは穴の底へと突っ込んだ。
地下一階から八階までを貫通する大穴。その底。
崩落した神秘部が大口を開けていた。
「——ハリーッ!」
➤
——まァ帝王の実子かつ重用されている部下に挑んで勝てるとも、あまり思っていなかった。
貴族に現場仕事を任せてろくな結果が生まれると思わない方がいい。世の中には適材適所という言葉がある。
どちらにせよ私の役目は単なる時間稼ぎだ。
「またロングボトムが暴れていた——」
グリフィンドール生の身体を乱雑に放り投げて(金縛り呪文がかかっているかのように、微動だにしなかった)それからクラウチ゠ジュニアは愉快がるように唇を歪ませた。
「これまたずいぶん荒れてるな。それと——そいつ、
猿轡を噛まされた状態でなにを言えるはずもなく。目を細める程度はした私に、一方で〝レストレンジ〟はクラウチ゠ジュニアを一瞥して、首を振った。
「些末なことよ。ああそれと——今しがた、ポッターが死んだみたい」
ロングボトムの瞳だけがわずかに動く。
「呆気ないな。さすがに悪運も尽きたか」
「お父様に乗っ取られて自殺。〝一方が生きる限り、双方は生きられぬ〟の文字通りね」
「帝王は生きていらっしゃるんだな?」
「ポッターが死ぬ前に元の体に戻ればいいだけだもの。ねえ本当、これに負けるだなんて……当時のハリー・ポッターはよほど運が良かったのでしょうね」
嘆息した〝レストレンジ〟が「ともかく、カロー兄妹を呼んできて、ああ、ドラコも起こさないと。聞かなきゃいけないことが山積み」指折り数えてぼやく。
「寝入りばなに働くものでもないわね」
そこで——ふと、彼女は眉をひそめた。
「なんの音?」
耳をすませると、ばさばさと、かすかに音がする。
「蝙蝠か、そうじゃあなきゃ、梟じゃないか? この騒ぎで何匹か起こしたかな」
「ははァ。レイブンクロー寮生たちにとって、きっと今ごろ安眠妨害ね、スリザリンが地下配置でよかった、とでも言うべきかしら……」
疲れたように銀髪をかきあげる〝レストレンジ〟を、クラウチ゠ジュニアはしばし眺めていた。ちらりとその眼差しが私に落ちる。すぐに〝レストレンジ〟に戻される。
「そういえば、けっきょく、ディゴリーはどうして確保したかったんだ?」
「んー」
クラウチ゠ジュニアの問いに〝レストレンジ〟はちいさく唸った。
「
「ああ、そういう」
ばさばさ。ばさばさ。
「それにしてもどれだけ叩き起こしてしまったのかしら」
〝レストレンジ〟が窓へと歩み寄り、カーテンを開ける。
目を見開く。
「え」
ばさばさばさ。ばさばさはさ。
石窓の向こうには梟が羽ばたいている。一匹二匹ではない。何十匹。何百匹。梟小屋から禁じられた森から、近場のほとんどすべての梟が集う。
中央には、見覚えのある、美しい白梟。
それと、ミミズク。
——従叔父上ってば、ポッターのペットとも仲良くなられていたのだろうか?
風が吹き込んだ。カーテンが大きくはためいて——狭い窓から一斉に、梟の大群が飛び込んできた。うち一匹がくたびれた帽子を放る。組み分け帽子。ゴドリック・グリフィンドールの遺品。人海戦術はいつの時代も有用だ。探し手が梟であってもなおのこと。ときにはより効果を発揮することもあるだろう。人間は見咎められる今この状況だったりとか。
千年物の帽子の端をロングボトムの手が掴む。金縛り呪文などかけられていないが、そういうふりをしていた青年——かけられていたらば瞳すらも動かせない。片腕を入れて、引き抜く。現れたしろがねの剣。ルビーが嵌まっている。真なるグリフィンドール寮生のみが引き抜ける剣だ。私やドラコよりは——よほど適任だろう。
「【
呪文とともに私の拘束が外れた。間、髪入れず足払いをしかけて〝レストレンジ〟を引き倒す。物理攻撃はときたま役に立つ。私たちは間違いなく魔法使いで、私はクィディッチには興味がないけれど、それでも実技には筋力も重要である。特に魔法生物飼育学。
私に引き倒されて、しかし〝レストレンジ〟は
「バーティ?」
「どうも」
クラウチ゠ジュニアはとぼけるようにちいさく会釈した。
➤
「どういう意図だよ?」
「同情のようなものだ。哀れな女だよ。生まれながらに呪われた者、
「……。おまえは、例のあの人の——僕の両親を」
「信用など要らない。どうでもいい。もうなにも。あの方が勝たれるのであれば俺は——それは、それで構わない。ただ、そう、そうでないなら——」
➤
梟の大群が頭上で渦を巻く中、彼はゆったりと歩み寄った。
「オーグリー様、あなたの言う通り、確かに彼女はロングボトムの手で死んだよ。バジリスクの牙で殺した」
私はあくまでもデルフィーニを引き付けるための囮、時間稼ぎだ。バジリスクの牙を確保する本命は、ドラコとロングボトムだけが全容を把握している、秘密の部屋を経由する隠し通路の方。〝レストレンジ〟がドラコと曲がりなりにも取引を結んだ以上、私には手加減すると見込んでの策。
ただ——彼だけは、想定外だった。
「俺はそれを見ていた。死ぬまでを見ていた」
クラウチ゠ジュニアが杖を振る。〝レストレンジ〟の手元から杖が吹き飛んだ。
「だっ——あなたが裏切るはずな」
「オーグリー様、知っているだろう、予言は関わった本人でなければ取れないんだ。神秘部の予言を取れる人間は、ポッターか、トレローニーか、帝王か——ダンブルドアだった」
茶髪の男はうすらと微笑んだ。明らかに疲労がにじんでいた。加えて厭世をもたたえていた。
「おまえはダンブルドアからの信頼を掴み取ったと言ったわ。親子愛で改心したように見せかける——」
「ダンブルドアはそこまで愛を過信していない。ああいう人間のわりには」
「——どうして?」
〝レストレンジ〟が呻いた。
絶対的優位ゆえの超越者ぶった態度が、ここにきて、剥がれた。途方に暮れたようにすら見えた。
「ロドルファスは言っていたのに。彼と、母と、ラバスタンと、おまえだけは——一度だって、裏切らなかった、裏切らなかったのに!」
彼女の物言いは子どもの癇癪に似ていた。
「あなたの知る俺は裏切らなかったろうな」
クラウチ゠ジュニアが肯定した。
「帝王の復活のために尽くした。
ロングボトムがグリフィンドールの剣を蹴り飛ばした。床を滑ったゴブリン銀の剣を、私は自由な方の片足で捕らえた。ほぼ同時に私めがけて飛んできた
「俺には先もなにもなく、そこに、裏切りが起きるはずもない。オーグリー様、お願いだ、ひとつ教えてくれよ——」
手のひらの下敷きにしたバッジが青白く輝き始める。
「——結末がさだめられた俺を
〝レストレンジ〟は唇を震わせる。
彼女が答えを紡ぐ前に、私たちは姿を消した。
➤
「——つまり、ヴォルデモートは意図せずに、僕の身体を——
「その通り。ゆえにこそ君は……残酷じゃ、あまりに残酷だものの、ああ、
「〝一方が生きる限り、双方は生きられぬ〟」
「しかし、希望はあったのだよ。ヴォルデモートは自らの復活のため、そして、君を傷つける力を得るため——愚かにも——君の母君の護りを取り込んだ。ゆえにひとつは……他の誰でもない、ヴォルデモート自身が君を殺すことで、君の魂には傷をつけず、やつの魂の片鱗だけを殺せるやもしれなかった」
「けれどヴォルデモートは、自らの杖が、たとえニワトコの杖であろうとも、僕を傷つけられないかもしれないと悟っていました。だからやつは僕にとりついた——僕は、耐えきれなかった。誰かを傷つけることに耐えきれなかった。フレッドやジョージ、もしかしたら、ロンやハーマイオニーを傷つけるかもしれなかった。だから僕自身を殺しました。ヴォルデモートの望み通りに」
「それこそがもうひとつの希望じゃ。母君の護りが君を護る——君自身からも。それに、そう、君は正確には、己を弑するためではない。君を操るヴォルデモートを弑するため——死を受け入れた。そしてそれこそが、君を生かすための道じゃった」
「これは僕の頭の中で起きていることですか?」
「無論、そうであろうとも」
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ハリーは目を開ける。不思議な——どこか真珠にも似た、遊色を宿したひかりがそこかしこに散っていた。そこらじゅうに小物が浮いている。小さなスノードーム。水晶玉。汽車のレプリカ。本がいくつか。
ハリー=ヴォルデモートは地下一階から八階までを落下した。崩落した神秘部の内部——頭上を見上げると、空間がどこまでも広がっていて、大穴だとかは確認できない。あまりの高所からの落下となると、魔法族といえども全身ぺしゃっとつぶれてもおかしくなかったわけだが、さて。神秘部の崩落がなにを生んだのかは未だよくわかっていない。全く知らぬどこかへと転移させられた可能性もあるだろう。
ハリーはひとまず、身を起こした。
ハリー
どこからか声が呼んでいる。聞き覚えはあるが、誰の声かはわからなかった。
「【
北を示すはずの方位呪文は、しかし杖をぐるぐると回転させるだけに留まった。まるで無意味すぎる。溜息とともに呪文を切った。
ハリー
ハリーは歩き出した。床を踏む感触はなく、だだっ広い空間に道はどこにもなかった。上も下も、右も左も、どこにゆけばよいのかいまいち掴めない。浮いている小物たちは、浮いているというだけでは不正確で、
ハリー
誰かがハリーを呼んでいるような気がした。ハリーは呼ばれているような気がした。
ふと目を上げると、ハリーは、白いアーチの前に佇んでいた。まるでハリーの行手を予想していたように、当然のようにそこに在った。ベールが揺れている。人の気配がする。
ハリー
「……母さん?」
ハリーは囁いた。彼は確信していた。
「父さん?」
ハリーの名前を連呼する声はもう聞こえなかった。ベールの向こうはかすかにさざめいていた。
不意にベールが大きくはためいて、その向こうに、誰かの姿が垣間見えた気がした。誰かの——たとえば、みぞの鏡を通して見つめた姿、アルバムに収納された数多の写真に切り取られた光景——
ハリーは手を伸ばそうとした。
「ハリー」
はっきりと声が聞こえた。背後から。
ぱっと振り返ったハリーに、赤毛の男は顔をしかめる。彼の顔の横にはふよふよとひかりが浮いていた。
彼は古びたライターをカチンと鳴らした。しゅぼ、と音を立て、明かりが消える——ライターに収納される。
「残念だけど、目を覚ました以上は、そっちは君が行くべきじゃない」
「……ロン?」
「もちのロン!」
「あら、私もいるわ。お忘れなく」
栗毛をまとめた女が微笑みかけた。
「ハーマイオニー」
「神秘部には当然、私たちで来ないと。ベストフレンド」
「君たち——けれど」
ハリーは瞬きを繰り返した。ハリーには、彼らは最高の親友たち、ロンとハーマイオニーのように見えた。けれど——ハリーが知る親友たちと比べて、彼らは明らかに、年を重ね過ぎていた。ハリーと同学年の彼らは、ハーマイオニーが成人の十七歳を過ぎたばかりだ。けれど眼前の彼らは、四十は超えているように見えた。
「なんだか、君たちじゃあないみたいだ」
「まァそうかも」
ロン(?)が肩をすくめた。
「僕たちを君は知らない。なにせ
「……なんて?」
「
ハーマイオニー(?)が当然のように言ってのけた。
「
「だから僕たちの出番ってわけだ。なにせ、遺品は貰ってた。負けたけどね。ハハハ!」
「面白くないわよ」
「はい」
灯消しライターがなんなのか、
「マ、あんまり難しく考え過ぎないでくれよ。僕だってよくわかってないし」
「
「テーマにしてる暇があるかい?」
「ないわね」
勝手に完結した二人が頷き合う。
「本当はもっと語らい合いたいところだ——なにせハリーと会ったのはもう数十年ぶりだし」
「そうね、けれど、私たちが知るハリーはとっくに
「ここ数十年意識することもなかったけど、僕たちって案外と気が合うよな」
「知らなかった? 意外とそうなのよ。ここ何十年もそれどころじゃあなかったけれど」
「まァ子どもが生まれるぐらいらしいしな」
「そこは全く信じられないわ」
「なんでさ。……マとにかく、それじゃあ、もう決まってる」
「ええ、その通り」
ハーマイオニー(?)がぐいっとハリーの手を引っ張った。ロン(?)がハリーの肩を叩いて、くるっとアーチとは逆方向に向けた。
「「いってらっしゃい!」」
ハリーは振り返ろうとしたが、できなかった。二人の力で勢いよく押し出され、送り出されていく。一方で、親友二人——そうではない二人——は、顔を合わせて吹き出すと、二人でアーチに歩み寄った。くぐり抜けて、ベールははためき、彼らの姿は既に見えなくなっていた。
遊色のごとくきらめいていた周囲は、すぐに暗くなり、視界は闇の中に閉ざされる。ハリーの身体は未だ奇妙な空間を飛び続けていた。
「「ハリー!」」
暗闇が拓ける。二本の異なる腕がどこからか伸びて、ハリーの腕をそれぞれつかむ。
「ロン、ハーマイオニー——」
親友たちは、年相応に顔をくしゃくしゃにして、神秘部の残骸:混沌の坩堝からハリーを引き抜いた。
「死んだかと思った、死んだかと思った! 僕たちが駆けつけたとき、君が落ちてきて、それで——信じられないよ——君は自分に杖を向けて——」
「それが、僕も助かるだなんて——」
「馬鹿言わないで! 本当に死ぬ気だったみたいな、そんな、もう心臓がいくつあっても足りな——」
ハーマイオニーが途中で杖を振るった。組み上げられた三重の壁が、刹那、一撃で粉砕される。
「あれで生きているとは」
ヴォルデモートは八階に舞い降りた。
「今宵は誰を盾にした?」
その間にも緑の閃光は何本も迸る。銅像を盾に、柱の根元に転がり込んで、噴水の脇に身を隠す。
ハリーは赤い閃光を飛ばした。自らの体で無言呪文を使う感覚は、不本意ながら、つい先ほど理解したばかりだ。ロンとハーマイオニーが各員、三人まとめての防衛に徹する。金の繋がりがときどき生まれては強引にねじ切られる。
「ワァオこれなぁに!? どういう状況!?」
背後からの声——ヴォルデモートは見もせずに呪いを放った。瞬時に小柄な老婆と化し、物理的に身長を縮めて躱した彼女は「くわばら!」明るく言った。顔は若干引きつっている。
「トンクス!? 君ずっと行方不明で——」
くたびれたローブの男が電話ボックスから飛び出した。
「ああねえ聞いてリーマス、ほんっと意味わかんないよ! 神秘部が崩れたかと思ったら召喚陣のど真ん中にいて聖女様この世界をお救いくださいっていや世界の命運他人に任せるやつがいる? こっちだってそれどころじゃないのにさ、とにかくようやっと」
「なんの話?」
「私が聞きたいよ! あとで話すね!」
トンクスの得意科目は変身術だ。一瞬にしてヴォルデモートが羽織るローブが完全な石に変わる。たった一瞬だ。杖を振ることすらなく、元通りに布がはためいた。ヴォルデモートは刹那の拘束を意に介した様子もなく、眉を寄せた。
「乗っ取れない——?」
思案の暇はない。死角から大型犬が飛び込んできた。ヴォルデモートの利き腕、骨と皮だけの腕に牙が食い込んだ。
「ッ——」
大型犬を弾き飛ばす。思いの外軽く、ギャンと鳴き声が響く。刺されかけたトドメはルーピンが弾いた。ヴォルデモートは気にせず杖を振るう。いずれも時間稼ぎにはあまりに短く、しかし確かに、タイムラグを生んだ。
致命的に。
先にハリーの呪文が当たった。武装解除。ヴォルデモートが握っていた杖は放り出され——弾みで回転する。
手放した杖、構築し終えていた呪いをもはや止めるすべはなかった。
すべての杖先は、そのとき、ヴォルデモートに向けられていた。
ニワトコの杖も含めてヴォルデモートに向かっていた。
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「酔っ……」
死ぬほど気持ち悪い。
またもや、地面に横たえる羽目になった身を起こす。数年前にポッターとともに墓場に放り出されたときを思い出していた。かつてのように夜半で、隣には同伴者がいるものの、今はリトルハングルトンではない。ただ、傍らには白い墓石があった。亀裂が走っている。ダンブルドア元校長の墓は見事墓荒らしをされていた。
今回——死の呪文はどこからか飛んでくるわけでもない。
「——あ、」
声がこぼれる。私ではない。ちらりと目を向けると、〝レストレンジ〟が呆然と天を仰いでいた。
片方の手が喉をかく。苦しんでいる、というより、なにかを捉えようとしているように見えた。なにを——ほとんど、直感する。
父親の魂の破片を留めようとしている。
「お父様」
ばき、ぱき、
霜を割る如き音が響いている。
「待って」
私たちの間に横たえられた——共に連れてきたグリフィンドールの剣に、亀裂が入っていた。ぴし、ぱき、と音を立て、その亀裂が伸びていく。縦に横にと細分され、ひずみは増しゆく。
「やだ、いや、いやよ」
グリフィンドールの剣の様子に気づいていないのか、気づいていて、それどころではないのか。銀髪に砂埃がついているのにもかまわず、〝レストレンジ〟は膝立ちになり、もう片方の手を伸ばした。どこへ、どこかへ——ホグワーツの方角を換算すると、おそらくあちらに魔法省がある。
喉をかく手が激しくなる。赤く引っ掻いた線がつく。
「置いていかないで!」
——ばきん!
グリフィンドールの剣は自壊した。
刹那の間を置いて、粉々に崩れ去った。
「どうし——どうして!」
〝レストレンジ〟が絶叫する。喉が割れんばかりの大声だった。
頭を抱えて、現実を拒絶するように首を横に振った。
「わたし死んでほしくなかった! わたし、わたし、もし失敗したとしても、置いていかれたくなかった! だから、だから剣を、だからわたしを、だから——なんで!? どうして!? そのためのやり直しなんじゃあないの!? 今度こそ——」
転がっていたバッジを拾い上げる。裏面には
では——その時間
消失した物質は真には消失しない。存在しない部屋に格納したところで〝存在しない部屋に格納されている〟という事実が残る。封印はまるで無意味だ。
けれど、時間跳躍なれば——一時的な効能でしかないが、
未来へ飛ぶことはそう簡単ではないが、過去へゆくほど難しくもない。とはいえ、何度も試算し、その上で、たかだか一時間が限度だった。そもそも従来の機能を無理矢理上書いて動かしている。成否にかかわらず、実践の果てには
神秘部は崩壊し、現存する正規の
たった一度の機会だった。
魂を幾度分割しようとも本体はただひとつだ。欠けた魂が動き回った例は、最初に作成されたトム・リドルの日記のみ。それさえも、使用者からの働きかけがなければ動き出せもしない、受動的な存在だった。私が直に手に取ったティアラもまた、悪質な気配は感じたが、悪霊の炎に抵抗することなく焼かれた。まして最後の最後に作られた——スネイプ教授の言葉を借りるなら、籠められた魂の量が最も少ない——
あとは、この一時間のうちに帝王が死んでくれていれば、という賭け。
自壊した剣が、〝レストレンジ〟の絶叫が——答えだろう。
「レストレンジ」
呼びかける。それでいて、私の脳裏には全く別の人間の言葉が木霊していた。
——死すべきときに死ねぬ、おお、なんと哀れか。ありえぬひとよ。既に死霊を三度寿いだひとよ。いずれ代償を支払うことになろう……。
——逆向いた剣が終わりを告げる。ありえぬひとともに弔鐘を鳴らすであろう。代償はようやく支払われる。
彼女は父母を救いたかった。それで、救えないのであれば——共に死んでしまいたかった。本来ならば、本体を叩く前に、
死すべきときには死ねぬまま、彼女が殺そうとした人間は生き延びて、彼女が生かしたかった人間は死んだ。
「レストレンジ」
もう一度。
「ねえ——」
ほつれた銀髪の向こうから鋭く眼差しが私を睨んだ。
「それ、嫌味? ずっと」
彼女の出自を踏まえれば、レストレンジ家の血は一滴も流れていない。
「私は今まで一度だって、おまえにまともに名乗られていない」
私は無感情に言った。腕を強引にとって、バッジを押しつける。
「預かりものだ」
裏面に溶接した
銀と緑の装飾。【HEAD GIRL】と文字は綴られている。私にかつて与えられたバッジと意匠は似ていて、明白に異なる。
「なに、これ」
「どこぞの老いぼれが私に託したんだよ。おまえの住所がわからないから」
私の学年、当代首席は私と、女子の方は誰も選ばれなかった。私が戻るまでは首席は完全に空席だった。女子首席の空席は、卒業まで誰も座ることはなかった。
ダンブルドア元校長はつくづく酔狂だ。下らないことにこだわって、肝心なことはなにひとつとして言わない。それでいて物事はこのように巡る。
しばらく、銀髪の合間から虚ろな瞳が覗いていた。
やがて。
「ふ」
〝レストレンジ〟が笑う。乾いた笑いだった。一頻りくつくつと笑ってから、彼女はつぶやいた。
「愛が勝つなんて嘘じゃない」
私はなにも言わなかった。
「嘘つき。うそつき。さいてい。どうして?」
女はうずくまる。その瞳に涙はない。
「わたしいっしょにいきたかっただけなのに」
数多の罪を生んでおいて、数多のものを利用しておいて、数多の人を殺しておいて、今更それは通用しないだろう。と、私は思った。口にはしなかった。
ならばどうすればよかったのかと聞かれると——どうすればよかったのだろうな。
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魔法省の決戦の裏、ベラトリックス・レストレンジの第二子は、比較的早産で生まれた。生まれた娘は手筈通りにロウル家に引き渡された。
当日——深夜にもかかわらず、日刊予言者新聞は号外にて、ヴォルデモートの崩御を大々的に報じた。
翌朝、
自我:お気に入りは「電車で来たよ」です。