シャポンの脚   作:ウニダコ

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第1話

 

 

 自らの体の6%を失って以来,アレクサンダー・ヴァイスは国家というものを信用できなくなった。

 国家という総体が,鋼鉄でできた爪と牙で互いの体を食い合う。肉がえぐられ,血は河のごとく流れ出る。どちらかの血が流れきるまで戦いは終わらない。終わらせられない。幾多の血が失われようと,国家にとっては些末事に過ぎない。

 

 かつて僕らが「天」と呼んだ場所で,光の断片が飛び交い,鋼の亡骸が漂っていた。人の形をした機械が舞い,その内部では人の形をした人間が息をしていた。生きていた。死んでいった。光が瞬くたびに,数百あるいは数千が。

 

 空には、星々の無関心な瞬きだけが残った。

 時は流れ,傷は癒えない。欲するものは満たされない。失われた腕が疼くように,失われた日々が胸の内を掻き毟る。

 

 傷があった。物質的ではない。血が流れる。止まらず,流れ続ける。色のない血。笑いが漏れた。

 

 それは自分の内側に永遠に続いている。

 

 

 

 ソロモンは地獄だった。

 無数に飛び交う致命的な光芒に,雲霞の如く湧いてくる敵。そして,あの超熱量攻撃。かつて古代ギリシアのアルキメデスが,侵攻するローマの軍船に放ったもの。

 補給中だった。同窓かつ相棒のハインツとともに,ソロモンの内部にいた。一瞬の光と衝撃。コックピットの中から,外延部からの爆発を視た。ハインツのザクが光に包まれた。頭を強打して気を失った。

 朦朧なまま目覚める。視界がはっきりとしない。戦況が気になった。味方はどうなった。ハインツは。

 赤い球体が目に入る。ふわふわと空間を漂っていた。電子機器に悪影響のため飲料厳禁という掟を思い出しながら,違和を抱いて隣に目をやる。

 何かの破片がシートに突き刺さっていた。鋭利な金属の断片だった。コックピットの外装に穴が開いていた。

 断片は,左腕を貫いていた。

 絶叫する自分をよそに,コックピットが強制的に開かれた。赤十字の腕章。味方の救助隊。痛みと防衛本能で暴れまわる自分を抑えて,医療班が必死に治療を行った。

 ──止血帯から時間は。

 ──左上腕、上腕動脈からの出血、BP 80/50。

 ──ケタミン投与。

 ──デブリードマン開始。

 ──血管クランプ。

 ──上腕動脈の結紮、確認。

 ──体温36.5度。保温して──

 左腕は,自分に永遠の別れを告げた。

 

 サイド6を選んだ理由は特にない。強いて言うならば居住権取得の条件が比較的緩いことと,ジオン・連邦どちらにも属さない中立地帯であったことが挙げられた。

 故郷のコロニーに執着はなかった。ジオンという国籍にも。戦勝国といえど退役兵へのおざなりな扱いは,旧世紀から変わらない。補償に関しても,市民感情でも。『退役兵お断り』が付随する募集要項は珍しくない。ましてや傷痍軍人など。平時では,『磨き上げられた服』が支配的になるのだから。

 親は気を使って,気にしないでと言ってくれた。だがダメだった。変わってしまった体の重心。あるべき支柱を失い,なすがままに風にたなびく左袖への気まずそうな視線。

 

 ああ神様。自分はこれから一生,他人の寛大さに頼って生きていかなければならないのですね。

 

 一流の調理師になりたかった。料理で,人々の心を豊かにしたかった。もうなれない。戦前からの職場には,解雇通知を叩きつけられた。仕方のないことだった。片腕だけで,どれだけのことができるというのだろう。

 

 移住を両親は止めなかった。それが厄介払いなどでなく,自分の選択を尊重した結果ということを自分は知っている。この先,この故郷のコロニーに足を踏み入れることはないだろうと,シャトルの中で感じていた。

 

 難民が散見される下層街の安アパートに住もうと,傷痍恩給だけで生活は賄いきれない。幸いにも仕事はすぐ見つかった。古ぼけた軍需工場の夜警の仕事。人事役は自分の義手を一瞥すると,黙って勤務内容を伝えてきた。

 

 ジオン出身の退役兵。それも傷痍軍人に,二つ返事で与えられた仕事。

 当然まともなものではない。

 

 工場の夜間警備。給与は最低賃金に毛が生えた程度だが,仕事自体は単純だった。巡回と施錠確認。それから特定の時間帯で,ある物資が運び出されるのを見逃すこと。工場の裏の顔は,どこからか運び込まれた違法物資の集積所だった。

 見て見ぬふりをする報酬として,基本給に加えて小額の現金が毎週封筒で渡される。多くはない。恩給と合わせればなんとか生きていける程度。隠れて物資を運び出す者たちの姿を、記録から外すだけの簡単な仕事。その割に良心の呵責は大きい。

 

 MSのパイロットとして,祖国のために戦った。突出した技量があったわけではないが,兵士として自分なりに最善を尽くした。今は薄汚れた工場で,闇に紛れて物資を運ぶものたちの見張り役だ。戦友のハインツが見たらどう思うだろう。確かめる術はないが。

 だが,これも生きるための仕事の一つに過ぎない。

 傷痍軍人に残された選択肢は、そう多くないのだから。

 

 

 

 

 

 

 消えた左腕が疼いている。

 

 不快感で覚醒。埃っぽい空気。カーテンと窓を開く。光と空気が流れ込む。

 幾千万のミラーによって反射され,”河”と呼称される長大な採光窓で濾された太陽光。膨大な薬品の化学合成によって,緻密に調節された大気組成。

 生まれてから,ずっとこれを浴びている。

 

 内臓からの空腹の訴えに顔をしかめる。この24時間で,安いアルコールしか摂取していないことを思い出す。

 埃の目立つ床を進む。戸棚を漁り,いつもの栄養バーを取り出した。市場で売られている最も安価な栄養補給バー。軍のレーションと似ていた。最低の味だった。

 湯を沸かすのも面倒で,水道水で無理やり押し込む。石砂がセメントになった。いつものことである。これ以外の物を食べた記憶はない。いや,缶詰があったか。期限切れの。それに安いスナック菓子。夜勤の空腹を紛らわすのにちょうどよかった。

 戦場では,よく同僚に飯を振舞った。配給だけでは物足りない。管理人は,快く調理場を貸し出してくれた。余り物などで作る簡素なものだったが,ハインツたちは舌鼓を打ってくれた。自分も満足だった。

 

 ハインツのことは忘れられない。忘れるものか。偏屈気味な自分に学生時代からつるんでくれて,入隊後も配属先まで同じだった。カールを巻いた金髪にくりくりとした瞳は愛嬌があって,心地良いやつだった。少なくとも,MSの中で孤独にわけもわからずに死ぬべき人間じゃなかった。

 彼が今の自分を見たときなど考えたくもない。自分は生きていると言えるだろうか。生き残った価値はあるだろうか。だがこんな腕で何ができる? 

 

 実のところ,自分は彼をほんの少しうらやんでいる。

 なにせ死んでしまえば,その先を考える必要はなくなるのだから。

 

 くすんだ壁を眺めながら今日の仕事内容を思い出す。いつもと変わらない。詰所で監視カメラを眺め続け,そして決まった時間だけカメラの電源を落とし,ダミーの映像を流すのだ。

 あと何回こんなことをするのだろう。あと何年,罪を犯し続けるのだろう。10年? 20年? 一生──? 冗談じゃない。冗談であって欲しかった。存在しない左腕が悲鳴を上げる。痛みは,ときに存在もしない腕から波のように押し寄せる。幻肢痛と呼ばれるもの。あるべき場所にないものが痛む矛盾。鎮痛剤が欲しい。切れていた。

 

 苛立ちながらシャワーを浴びた。湯が体温を上げていったが,生理的なだけだった。なにかがずっと冷えていて,決して温まらない。

 風呂場の鏡に自分の姿が映った。アンバランスな造形だった。空虚な左袖に視線を移す。そこに腕があるべきなのに,そこには何もない。どれだけ時間が経とうと,この違和感だけは消えることがない。

 

 シャワーを浴びた後の断端は,まだ湿っていた。タオルで拭き取り,断端袋を引っ張り上げる。特殊な素材でできた薄い布は,摩擦を軽減するためのものだが,性能は心もとない。そのため肌が荒れ,赤くなることもある。

 

 寝台の横の小さなテーブルに,茶色の木箱が置かれている。寝台に腰を下ろし窓から流れ込む薄い朝日を浴びながら,古ぼけた蓋を開け,義手を取り出した。朝の儀式。これから始まる一日の最初の苦痛。

 安物の義手。ジオンの軍人恩給で得られる最低限のもの。神経接続などという高級な代物ではなく,ただの装飾品と機能性の最低限を満たしただけの代物。「義手」という呼称すら恥ずかしくなるようなものだ。

 

 形だけでもあった方がいい。軍医はそう言っていた。あるいは言わなかった。記憶はもはや曖昧だ。自分が腕を失った瞬間も,手術の様子も,ほとんど覚えていない。ただ,痛みと喪失感だけが生々しく残る。

 灰色がかった肌色のプラスチック。あまりにも人工的な見た目。指の関節部分には金属の継ぎ目が見え,腕の付け根には革のベルトが付いている。せめてカバーをつけるなどの配慮があればいいものを,と思いながらも,それを求めるには余分な金が必要だ。そんな余裕はない。

 ベッドの上に並べられた義手のパーツを確認する。本体,ストラップ,調整ツール。これらを組み合わせ,自分の身体に取り付ける。右手だけで行う単調な作業。最初はこれだけで汗だくになった。いまでは慣れたものの,それでも時間がかかる。

 まず断端カップに保護パッドを敷く。次に義手本体を持ち上げ,断端に合わせる。微妙な角度調整を何度か繰り返し,肩のハーネスを装着する。右肩から胸にかけてベルトを回し,背中で固定する。調整具で締め具合を確かめながら──きつすぎれば血流が悪くなり、緩すぎれば落ちてしまう──ベルトの長さを調節する。最後に義手の角度を調整した。

 

 ──親指と人差し指で柄の付け根を挟む。力を入れすぎないように。中指、薬指、小指は柄に沿わせる。力の入れ過ぎは自在さを失う。刃は常に前方に──

 

 シェフは包丁の持ち方から教えてくれていた。基礎の部分から惜しむことなく伝授してくれる彼を尊敬していた。従軍以降合っていない。合わせる顔も持っていない。また痛む。鎮痛剤を買わなければ。

 

 毛玉の目立つ黒い外套に袖を通す。袖に隠れた義手は,一見すると本物の腕のように見える。しかし少し動けば,すぐにその不自然さが露わになる。指は微動だにせず,質感はもってのほか。代わりものということを喧伝している。 

 忌々しくてやるせない。

 さっさと靴を履き部屋を出た。仕事の時間だった

 

 視線を遠くにやる。地面が緩やかにカーブしながら上昇し,やがて頭上の「空」とつながっている。その空は河と"対岸"の街とで構成されている。この世界は,巨大な筒の中で折り畳まれている。

 

 人の少ない道を通った。いつものことだった。

 

 

 

 

 

 

 かつての軍需工場は,今では倉庫として使われているだけだった。夜間の照明も最小限に抑えられ、巡回時の懐中電灯の明かりだけが頼りになる。

 二階建ての本館は,かつてモビルスーツの部品の工場であったと聞く。その役割は今や失われ,一階の機器類は稼働しなくなって久しい。地下には整備用の機材が眠ったままだ。二階には事務所があったが,今は書類の保管場所。一階だけが現役の倉庫として機能していた。表向きは。

 

 警備室は一階の一角にあった。錆びの目立つロッカー。乱雑に積まれた書類。塗装の禿げた机。古ぼけた壁に掛かる複数のTV。TVは監視カメラの捉えた映像をリアル・タイムで映している。これを眺め続け,取引の時間になるとダミーの映像を流す。ログには残らない。運び出された物資がどこへ流れるかは知らされていない。興味もなかった。

 既定の時間が過ぎた。ダミー映像はそのままに,自分は懐中ライトを手に取り見回りに出た。予定通りの容量の物資運搬が,完了しているかの確認も仕事であった。物資はカメラの死角に集積されており,ダミー映像は人の移動を隠すためだった。

 

 電灯を落とした工場は薄暗く,場が全体となって人の存在を拒んでいるようであった。ライトが無ければ,暗順応の間に合っていないこの眼ではまっすぐ進むこともできない。しかしこの闇こそが,我々の為すことを隠し通してくれるのだ。

 200ルーメンの道しるべを頼りに集積地点へ向かう。壁と床が後ろに通り過ぎていく。進むにつれて,妙な感覚を覚えた。誰かがいる。いないはずの自分と異なる生き物。夜盗か。ここを出入りするのは後ろ暗い人間ばかりだ。

 武装しているかもしれないが,どのみち片腕では抵抗できない。警告を発する生存本能に気を取られることなく,半ば衝動的に足の速さを緩めず続けた。刃物,棍棒,はたまた銃弾を受ける可能性があった。どうでもよかった。

 一気に踏み込み,ライトを向ける。ヒトのシルエットが映し出された。次に,姿かたちがはっきりと現れた。

 

 人影はびくっと震え、バランスを崩しかけたが何とか体勢を立て直した—確かに女性だった。彼女が振り向くと,15,6歳ほどの少女で,倉庫に残るわずかな光を捉える印象的な黄緑色の目をしていた。警戒心に満ちた表情。若すぎる年齢で多くを見すぎた者特有の頬のこけた顔。長い紺碧の髪が縁取っていた。

 学校の制服のようだった。痩せた体つきに対して数サイズ大きいシャツ。相反して袖丈の足りない紺色のブレザー。布地が薄かった。スニーカーは靴底がほとんど擦り切れていた。校章らしきものが胸元にあった。摩耗している上に自分には見覚えのないデザイン。学生を装った難民と推し量った。食うに困って悪事に手を染めるコロニー難民の子供は少なくない。

 彼女が目を大きく見開いた。数舜の沈黙の後,堰を切ったように彼女は走り出した。こちらとは別方向。その方向に勝手口があることを知っていた。運搬係が閉め忘れたか。彼女の逃亡を止めるでもなく,ただ眺めていた。是非はともかく,生への執着に溢れた動きに見惚れていた,かもしれなかった。

 足の響きが遠ざかり,そのうち聞こえなくなった。ライトを物資に向けて,かすめ取られた物資の内容を確認した。食料品の木箱がわずかに開く。目減りしていた。

 

 戦場で似たような光景を見たことがある。補給が滞る前線で,兵士たちが少しずつレーションを持ち出していた。彼女の見せた手の動きや立ち振る舞い。空腹に耐えかねた時の,あの独特の切迫感のある仕草だった。とても見覚えがあった。

 難民。かの大戦によってコロニーを失い,他サイドでの仮居住を余儀なくされている人々。故郷はもはや存在しておらず,その場しのぎの居住政策が次段階に進む兆しは一向に臨めない。

 オペレーション・ブリティッシュに就役してはいなかった。俗に言う一週間戦争で,ジオンは数多のコロニー群に致命的なダメージを与えた。破壊工作に関与していないことは確かだが,しかし属する組織が同等である以上,ぬけぬけと厚顔に無実であると主張できなかった。そんな自責の念が彼女を見逃した。そう願った。

 

 クリップボードを取り出し,懐中電灯の淡い光の下で輸送完了確認書を手に取り数字を記入していく。タンパク質配給パックは24ケースではなく,23ケースと記載する。「誤差1ケース」と記入,「輸送中の破損による」と付け加えた。自分の役割は単純に予定通りの量が運ばれたかを確認することであり,その数字が合わなければ報告する義務があった。

 ペンを止めた。もし報告書が監査されれば,改ざんは簡単に見破られるだろう。しかしこんな物資の端数に興味を持つ者などいないことも自分は知っている。それに輸送中の「破損」は珍しいことではない。万が一露見したときのことを考えたが,自分が害を被ろうと構わなかった。覚悟というよりは,投げやりだった。

 

 他者の空腹を満たすことの甘美さを忘れられずにいる。悪事に手を染めて糊口をしのいでいる人間が,満たされているはずがない。自分に見つかった以上彼女がここに今後現れることはないだろうが,狭いコロニーだ。

 たぶん明日は,包丁のほこりを払うかもしれない。たぶん。

 

 

 

 

 

 鍋がコンロの上で微かに揺れた。唯一の右手で芋の皮を剥こうとしていたが,野菜が手から滑り落ち調理台の上を転がる。

 

「クソ」

 

 苛立ちを抑えきれず呟く。かつての何の苦労もなく,二本の手で複数の作業を同時にこなしていた時間が,まるで別の人生のことのように思える。今では皮むきさえ難関である。

 

 芋を拾い上げ,まな板の上に置く。片手で押さえながら,もう一方の手でピーラーを使う動きを脳が勝手に指令する。左腕はもうない。わかりきっていたことだった。この5年間,累次に思い知ったことだった。

 固定する方法。逡巡の末,義手に無理やり握らせた。一面を剝き終わるごとにナイフを置き,また方向を変えて剝く。デンプンのざらつきが義手にこびり付く。皿や器具と同列な洗い物が,手の役割を果たしているということが奇妙だった。

 

 皮むきの動きはぎこちなく,かつての流麗さはいずこやら。皮が不均一な厚さで剥け落ち,時に深く切れ込んでじゃがいもの身まで削ってしまう。在りし日では,完璧な薄さで無駄なく皮を剥いていた。

 

 野菜を切るのはさらに難航する。まな板を濡れたふきんの上に置いて滑らないようにし,包丁を握る。かつては誇りだった均一な厚さのスライス。今では不揃いになっていた。片方を押さえられないため,野菜は包丁の動きに合わせて微妙にずれていった。

 

 油をひいた鍋に玉ねぎとパプリカのスライスを投入し,片手で時々かき混ぜる。鍋の持ち手を掴めないため,スパチュラで押さえながら具材をかき混ぜる技術を即興で編み出した。

 牛の肉とカルトッフェルを加え,カットが不均一なため火の通りにムラができることを覚悟しながら炒める。時間を見ずとも材料の色や香りの変化で正確に調理のタイミングを把握できていた感覚は,今や錆びついてその残滓すら見受けられない。トマト・ペーストを加えた。

 

 リンドスッペを加えて煮立たせる。塩加減を確認するために少しすくい上げた。スプーンが震える。熱いスープが手の甲に落ちる。

 

「チ」

 

 小さな火傷の痛みに顔をしかめながらも,スープを口に運んだ。味。期待していたものと違った。薄い。バランスが取れていない。記憶の中の味とは程遠い。記憶が正しいと妄信して突き進む。マジョラム・クミン・にんにく・月桂樹の葉──そうだ,パプリカパウダーを足すのだった。パプリカパウダー? 思考の歯車が空回りした。

 

「マヌケ!」

 

 買った記憶がない。買い忘れている。鈍っている。 

 ため息を飲み込み,販売店へ足を運ぶ。いつもと変わらない光景。だけれども,いつもより先が見えていた。余計なものが目に入らない気がした。自分でも分からない。一直線に前を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 帰路に着く。昼と夜の間だった。販売店も道も混んでいた。コロニーでは"河"の採光度を変えて昼と夜をシームレスに切り替える。地球では夕方という時間帯があると言う。大気層の厚さの差が生み出す,太陽光のオレンジ色の散乱。地球でしか見えない。

 家の近辺には小売店がない。一駅ほど歩いた。ほんの少し煩わしかった。帰路を急ぐ。角。直進。右折。左折。人通りの多い街路。周囲の変化に気がついた。

 

 軍警察のパトロール車両。二台。道を塞いでいた。青白いライトが回転し,通りに冷たい光を投げかけていた。

 

「検閲か」

 

 小声で呟く。サイド6内での軍警察による抜き打ちの身分証明チェック。不法滞在者の取り締まり。コロニー戦争後,多くの難民がサイド6に流入してきたが正規の手続きを経ていない者も少なくない。ことネノクニ周辺では。

 軍警は張り切っている。コロニーという閉鎖空間では水と空気が何より重視される。高い税を払って手に入れたそれらを横取りされているとなれば,強権的になるのも理解できる。元はと言えば無思慮な受け入れを進めたためだが,司法は行政に関与しない。

 

《区画にいる方は並んで,順番に住民票を提示してください。不審な動きを見せた場合,直ちに拘束──》

《おい,お前!》

《並べって言ってんだ!》

《待て!》

 

 マイクを通した声が響く。怒号が響く。幾人かが逃亡を試みていたが軍警察の検閲に抜かりはない。既にこのブロックごと包囲されている。追いやられ,警棒で滅多打ちにされるだけだ。その後にどうなるかは知らない。収監か,追放か。

 

 内ポケットから身分証を取り出した。元ジオン軍の傷痍軍人。現在はサイド6居住権保持者。コロニー内での就労許可済み。すべて合法的な書類だ。忘れでもしたら,あらぬ疑いをかけられ長時間拘束されるだろう。肌身離さず持っている。

 

「次!」

 

 20人分ほど前に並んでいた男性が,検問を通過するのが見える。列が進む。検問所に近づく。

 異変が,起きた。

 

「おい待て!」

「止まれ!」

 

 流れに逆らい人ごみを掻き分けていた。人影が向かって来ていた。息を切らし,喘いでいる。恐怖している。警官2人がそれを追っている。

 波を立てて群集が避ける。迫る警官に見返りながら駆けている彼女をぼうっと見つめていた。彼女がこちらに気づいたが,遅かった。紺碧の髪。黄緑色の目。記憶に新しい。

 

「が」

「ぐ」

 

 衝撃が胸元を起点に広がり,たまらず尻餅をつく。無理な体勢で走っていたため,彼女も衝撃を逃がし切れず倒れていた。

 僅かにふらつく視界の端で,ざわめく群集を押しのけながら警官が迫るのを見た。彼女を見やる。まだ衝撃が抜けておらず,呻いている。

 彼女は恐怖に満ちた表情をしていた。逃げようとするも,体が言うことを聞いていないようだった。息もうまくできていなかった。

 

 一瞬の判断だった。

 

「なんだ貴様っ」

「退かんか!」

 

 アレクサンダーは彼女と警官の間に立った。ほとんど,反射だった。

 背後の彼女を見る。状況を掴めていないようだった。理解してくれることを祈って,警官に向き合った。

 

「申し訳ない,自分の連れです。はぐれてしまって……」

「関係ない。身内なら,そいつの証明書を」

「それなのですが,彼女の分は忘れてしまって。なにせ急だったものだから」

「ふざけるなっ」

 

 なんとか煙に巻こうと試みたが,激昂が返答だった。肩を強く掴まれ押しのけられそうであった。その瞬間,義手が外れ落ち地面に転がった。

 

「くそ」

 

 わざとらしい悪態。本物の苛立ちも込めている。警官たち,群集の注目が彼に集まる。狼狽,好奇,憐憫の感情を感じる。慣れている。

 

「申し訳ない,戦争で。ちゃんときつく締めてなかったものだから」

「い,いや……こちらこそ失礼した。わかった。とりあえず,そちらの分だけでも」

 

 義手を拾い上げ,再び取り付ける。もう一方の手で身分証を警官に差し出す。警官は彼の証明書を手に取り、スキャナーにかけた。

 彼女に再び目線を向ける。まだ状況を飲み込めていないらしい。パチクリと瞳をまたたかせ,困惑している。当然か。

 

 警官がデバイスに表示された情報を読み取る。目を少し見開いた。アレクサンダーは胃の中に見慣れた結び目が形成されるのを感じた。完璧に静止したまま,表情は慎重に中立を保った。軍歴が言及されたとき,どんな感情──誇り,恥,反抗──を見せてもトラブルを招くだけだということを長い間に学んでいた。背後の彼女が緊張を察したのか身じろぎする。

 視線はデバイスから,急いで再装着された義手へ。警官の表情に何かが変化する──疑いから何か別のものへの微妙な変化。認識,あるいは理解。

 

 警官はほとんど察知できないほどのうなずきとともに身分証を返した。彼の同僚は異議を唱えそうだった。最初の警官がちらりと彼を見る。彼を黙らせた。

 

「通過許可。次からは,しっかり携帯させるように」

「ありがとうございます……ほら,行こう」

「え」

 

 ぶっきらぼうな許しだった。深々と頭を下げて,同情を買う。

 警官が去ったのを確認し,背後の少女に声をかけた。身内と偽った以上,そのようにふるまうべきだった。

 素っ頓狂で気の抜けた返事が返ってきた。強引に手招きして群集の中を進む。ボロを出したくはなかった。少々困惑しながらも,彼女はついてきてくれた。話を把握していた警官が,二人共ども我々を通した。

 

 夜になっていた。対岸の街が生み出す光が上空に広がっていた。星空を想起した。再び対岸を見上げる。

 かつてザクのコックピットから見た宇宙の星々を思い出す。戦場では星々は冷たく無関心に輝いていた。だが対岸の灯りには,何か違うものがある。温かさ,あるいは人間らしさとでも言うのか。

 

「言っておくけど,盗みを通報するつもりはない。書類上でも偽装しておいた」

 

 おずおずと追随していた少女がびくりと肩を震わせた。視線を横へ流し,少しばかり俯いた。きまりの悪い顔。一度会っていると知っている。疑問も浮かんでいるようだった。警邏が泥棒を見過ごしたのだから。

 

「あ……ありがとうござい,ます」

「難民をいじめる趣味はないよ……食えてないから,あんなことをしているのかい?」

 

 無言。ずっと俯いている。肯定と捉えた。彼女の体形は──女性に向かって無礼だ──スレンダーというよりも,栄養失調とか,不足による痩せぎすという表現が適切に感じられた。高い身長もそれを助長していた。か細かった。

 

「……よかったら,うちで食べてくか。量は問題ない」

「えっ?」

 

 何を言っているのか。自分でも分からなかった。案の定彼女の瞳に困惑と警戒の色を見た。半ばヤケになって,不思議な高揚感とともにまくし立てる。

 

「いや,すまない,急だった。ただ,食べ物の盗みなんて見てしまって。それに変なことはしない。なにせ」

 

 こうだから,と義手を振る。彼女の顔に気まずさが映った。自分の心にも罪悪感が宿った。傷を利用して他者の良心に訴えるのは今日で二度目だった。

 これでも元料理人だったんだ,で始める。

 

「味は保証できる……はず,たぶん。このざまでもね」

 

 どうかな,で締めた。

 戸惑いと逡巡。どう考えても不審性で満ちていたが,彼女は己の腹と相談したようだった。数秒の沈黙の末コクリと頷いた。

 片腕の有無が彼女の判断を導いた? 深く考えるのをやめて彼女に付いてくるよう頼んだ。一人しかいなかった家へ向けて,二人分の足音が響いていた。初めての感覚だった。

 

「アレクサンダー・ヴァイス。君は?」

「あ……ニャアンです」

 

 ニャアンか。

 かわいらしい名前だとアレクサンダーは感じた。

 言葉には出さず,喉の手前に押しとどめておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぜえっはあっはぁっ」

 

 無我夢中で駆けていた。訳も分からずに,ただひたすらに走っていた。そのうち息が切れて視界が暗くなってきたから,柱の陰に身を潜め,荒い呼吸を抑えた。

 警報音が耳を劈く。コロニー宙港内を,赤い光が不規則に掃引する。

 

《避難指示──全住民は直ちに最寄りの避難区画へ──》

《繰り返す──》

 

 地響きが足元から伝わる。激しく揺れたため、壁に手をつく。家族の姿がない。

 宙港は疎開しようとする人間で溢れていた。連邦ージオン間の,キナ臭い情勢を不安がったのだ。ニャアンの家族もそうだった。

 

 光とともに衝撃が走る。爆発だった。保安検査を受けていた。目に見える爆炎。たちまち周囲はパニックになった。逃げまどう群集に押され,あるいは押した結果,家族はどこかへ行ってしまった。もしくは,ニャアンが彼らから離れてしまった。

 

 誰かが叫ぶ。

「ジオンの奇襲だ」

「核が使われたらしいぞ」

「軍はやられちまったって」

「冗談じゃない」

 誰かが否定する。核など撃つか。コロニーなのに。

 現実だった。

 

 宇宙港へと続く通路。避難船が数隻残るのみ。押し合いへし合いの人波がある。怒号と悲鳴。全員が乗れる数ではなかった。

 

「おかあさん」

 

 叫ぶ。呼ぶ。誰も答えない。生まれてからずっと,物質的には離れることがあっても,常に心のどこかにいる気がしていた。初めて,それがどこか遠くへ行ってしまったようであった。

 人混みを抜けた先,格納庫に辿り着く。作業員が慌ただしく走り回っている。彼らの目には入っていない。強い衝撃。反射的に伏せる。震えが止まらない。ようやく治まって,顔を上げた。

 

「ひっ!」

 

 一機の小型機があった。プチ・モビルスーツ。貨物の運搬や宇宙空間での作業に使われる。ハッチが半開きのまま。操縦席には誰もいない。血痕がある。おそらく操縦士は何かの衝撃で投げ出されたのだ。

 

 揺れ。格納庫の一部が崩落し始め,作業員たちの悲鳴が聞こえる。迷っている暇はなかった。

 

 小さな体を無理やりコックピットに押し込む。ベッタリとこびりついた血に触れる。吐き気がする。模擬訓練で一度触れたことがある程度の機体。学校の社会科見学で。簡素化された操作系。でも実機は初めてだった。

 電源が入る音。ディスプレイが青白く点灯した。操作系がロックされていない。操縦士がエンジンを掛けたままだったのか。小さな幸運だった。

 

 操縦桿に震える手を置いた。どうやって動かすのか。何をすればいいのか。混乱する頭で,かつての見学の記憶を必死でたぐり寄せる。キャノピーの閉め方。閉め方。無我夢中でレバーを引いた。球状の窓が降りてきた。

 

「うああっ」

 

 ひときわ大きい振動。何もできなかった。落ちてくる鉄骨や部品に怯えて,血なまぐさいシートに蹲っていた。

 すべてが震え,歪む。破壊は極限まで達し,大きな亀裂が走ったのを見た。暗い空間が覗いていた。宇宙だった。

 踏ん張ることもできずに宇宙に放り出される。回転しながら流れ出る気流に巻き込まれたのだった。吐き気と怖気を催す遠心に,誤魔化すように叫んだ。頭を強打し,気を失った。

 

 目が覚める。コックピットの窓の外に,漆黒の宇宙が広がっている。後方にはかつてのコロニーが瓦礫となって拡散していた。煌めく破片。悪夢の中の星屑。

 再びキャノピーを見る。無限に広がる星空。どれも遠くにあって,決して届かない。真空だけがそばにある。独りだけだった。

 

 目眩がして,近くにあるものを探した。何かに触れたかった。コントロール・パネルを食い入るように見つめた。

 薄暗いコックピット内で,唯一の光源とも言える淡い青緑色の輝き。「O₂: 47%」と、白いデジタル文字が黒い背景に浮かんでいる。何を意味しているのか,幼いニャアンでも理解している。横には細長いゲージが半分を少し下回る位置で静止し,緑から黄色へと徐々に色を変えている。呼吸が浅くなった。

 

「ご はん……」

 

 ポケットを探る。何もない。水筒もない。ええと,水なしで生きてられるのって,どれくらいだったっけ。

 

 星々が冷たく瞬く。宇宙。終わりのない,底なしの暗黒。温かさも,音もない場所。

 

 目を閉じると,窒息した自分が思い浮かんだ。怯えて反射的に目を開ける。

 巨大な残骸だった。折れ曲がった金属の骨組みと、砕けた居住区の断片だった。癇癪を起こした赤子に引き裂枯れた紙のようだった。

 住んでいた。たくさんの人が生きていた。どれだけの命が真空に撒かれたか。家族だって。

 

 ただ蹲る。何も見たくない。寄り添ってくれない宇宙も,減り続ける酸素残量も。

 

 おかあさん。

 おとうさん。

 

 

 

 

 

 

 

 フードデリバリーバッグの肩ベルトを緩く握りながら,ニャアンは親を追う小鴨のように,先を行く男──アレクサンダーと名乗った──の足跡を辿っていた。ダウンタウンからベッドタウン。建物の背丈が卑屈になり,埃っぽさが増してきた。

 

「入って」

「お,おじゃまします」

 

 古びたコンドミニアムの彼の部屋に通された。安っぽいセキュリティドアを抜けて,部屋の明かりが灯された。スイッチを押してから二秒ほどで,数度の点滅が伴って暖色の光が広がった。

 古い衣類と、微かな金属油の匂い。そして何か辛い香辛料の残り香。コロニーの標準住居よりも天井が低く、窓は小さかった。壁際には簡素な寝台があり、その横には木製の小さな机とロッカー。反対側には調理スペースと、一人用の質素なテーブル。それだけの空間である。

 

「少し待っていてくれ」

 

 アレクサンダーはキッチンへと消える。鍋と水の音。金属の音。薄い壁越しに伝わってくる。ニャアンは硬い木製の椅子に座り、無機質なテーブルの上で指先を絡ませていた。やることもなかったから。スマホをいじるのも,なんだか違った。

 

 部屋の時計を見る。十分が過ぎる。十五分が過ぎる。カチカチと響く音が耳に残る。

 

 手持ち無沙汰で目を泳がせる。壁の塗装は剥げ落ち,窓枠の金属部分には錆。

 不安が膨れ上がる。知らない男の部屋。突然の好意。義手の男。これはあまりにも軽率だったのではないか。空腹に駆られて,判断を誤った? やはり逃げるべきだろうか。窓。ドア。太腿に力が入る。立ち上がるー—

 

「すまない,待たせてしまった」

 

 アレクサンダーという彼。片手でバランスを取りながら,大きな鍋を抱えている。顔には薄い汗が滲み,額には調理の熱が残っている。義手はぶら下がったまま実用性を欠いている。

 取り繕って座り続けた。いざとなったら,あの窓から逃げよう。ここは一階だから,高さの心配もなかった。相手は男性とはいえ片手だから,正面からでも勝てるかもしれない。

 

「昔よく作っていたものだが……まあ、今の腕前は保証できないけどね」

 

 彼は自嘲気味に笑いながら,鍋をテーブルの中央に置いた。蓋を開ける。深い赤褐色の湯気が立ちのぼる。部屋の少し埃っぽい空気を一掃するように,豊かな香りを運んでくる。パプリカとトマトの甘さ。牛肉の旨味。複雑なスパイスの芳香。胡椒のピリッとした刺激。

 

「いただきます……」

 

 警戒心は香りに溶け込んだ。白磁の平皿に注がれたシチュー──見たことがない──をスプーンですくった。見知らぬ食事に少し気が張った。熱くもあったが,空腹が我慢を許さなかった。一口。二口。口の中で肉が柔らかく崩れ,濃厚なソースが舌を包む。パプリカの鮮烈な風味がニャアンの味覚を呼び覚まし,スパイスが鼻腔をくすぐる。

 

「これ……すごい」

 

 信じられない顔で見上げる。難民キャンプの配給食。盗んだ缶詰。それらとは比較にならない深みと豊かさがある。生理的な刺激のみならず,形而上学的な感覚も含んでいた。様々な意味で温かかった。

 

「本当に,美味しい。おいしい」

 

 素直な感嘆。アレクサンダーの硬い表情が少しだけ緩む。本物の料理人だったというのは,嘘ではなかったらしい。彼はそっと自分の皿にもシチュウを注ぎ,しばらく眺めていた。固い目じりが緩み,何かを思い出しているような,懐かしむような目。

 

「それなら良かった」

 

 夢中で食べ続けた。ほんの数時間前まで彼女を追いかけていた警官のことも,倉庫での窃盗も,明日の不安も,すべてが遠くに押しやられた。ただ目の前の一皿。それだけ。

 

 

 

 食べ終えて,部屋に静寂が戻る。ニャアンは最後の一滴まで皿から舐め取るように食べ──お行儀が悪いので,気持ちだけだ──スプーンを置いた。アレクサンダーは彼女の様子を黙って見つめている。

 

「ありがとうございました」

 ニャアンは小さな声で言った。照れくさそうに髪を耳にかける。

「こんなに美味しいものを食べたの,覚えてないくらいで」

 

 アレクサンダーは頷くだけで,自分の皿を見つめる。彼の食事は半分ほど残されている。

 

「毎日,食べてるのか?」彼は唐突に尋ねた。

 ニャアンは一瞬戸惑い,肩を少しすぼめ,斜め下に視線を向けた。

「食べられるときに」

「配給は?」

「難民キャンプの配給は……」言葉を切る。

「その,実を言えば足りません。質も……」

 

 アレクサンダーは納得したように頷いた。窓を見やる。薄いカーテンは,僅かに外の電灯の光を通している。しばらく黙って,「ふむ」やがて決心したように振り返った。

 

「ここに来るといい」

「え?」

「ここに来るといい」繰り返す。

「食事のため」

 

 驚いて目を見開く。

「どういう意味……ですか?」

 

「簡単なことだ。君は食うものに困っている。こっちは料理ができる」

 彼は自分の左腕を見た。

「まあ、以前ほど上手くはないが,今日の反応を見る限り,まだ失っていないようだ」

 

 混乱する。見知らぬヒト──それも私は難民だ──に,これからも食べさせてもらう。彼は正規の住民票を持っている。どうしても,得心がいかない。

「そ,その。嬉しいです……でも,なんでですか」

 

「なぜか」

 反芻するように言葉を繰り返す。「わからない。ただ……」

 

 言葉を探すように天井を見上げた。戸惑いがあった。

 

「誰かのために料理をするの,久しぶりだったんだ」ついに言った。

「久しぶりに,意味があるように感じたんだ。それだけ」

 

 黙って彼を見つめる。その言葉には嘘がなかったと思う。嘘・虚飾・暴力で塗り固められた,悪意のある人間を幾人か見てきた。このヒトは自分から何かを得ようとしているのではなく,自分自身に何かを取り戻そうとしている。

 

「じょ,条件は?」警戒心を捨てきれない。自分を汚いと感じてしまった。

 

「条件?」苦笑。

「別にない。食材費を少し出してくれればそれでいい。キャンプの配給より安くはなるはずさ」

 

 シチュウの残滓を舌でできるかぎり味わいながら,しばらく考え込む。二の足を踏む。危険かも。本当に善意なの? 軍警には引き渡さなくても,他の闇に売られるかもしれない。

 結局,腹の底から湧き上がる満足感と,久しぶりに味わった安堵感は疑念を押し流した。

 

「わかりました」ついに言った。言っちゃった。

 

 彼の顔に,わずかな安堵の色。期待していたみたいだった。

 

「ああ,ああ構わない。俺の勤務時間は夜だから,昼過ぎなら大抵いる」

 

 立ち上がり,キッチンへ向かった。

「また来てくれ。何か別のものを作っておく」

 

 彼の背中を見つめた。片腕のヒトの少し傾いだ後ろ姿。それでも私より真っすぐ。

 

「ありがとう」

 

 アレクサンダーさん。

 彼は一瞬立ち止まる。そして,何も言わずに皿を片付け始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 アレクサンダーはサイド6の小さな広場で時間より早く着いていた。住宅街の真中に取り残された,公園とも呼べない区画だった。一つだけあるテーブル付きのベンチに腰を据えていた。

 テーブルにランチボックスと紙袋を乗せる。薄く傷のついた金属の容器を無意識のうちに指先がなぞる。以前,何となしに購入した。軍にいた頃に使っていたものと似ていた。木製が好みだったが,軍生活の慣性が働いていた。

 昼時の住宅街は人通りが少なく,目立つことを好まない彼女にとってはうってつけだった。雑木の小枝が揺れていた。予定表は晴れを指していて,広場には草いきれが立ち込めている。食中毒を気にかけ始めたころ,視界の端に紺碧の髪が揺れた。

 

「す,すいません……遅れました」

「いや,問題ない」

 

 彼女は軽く息を切らせ,膝に手を置いて一息つく。走ってきたようであった。バイトがあるので,家まで行く時間がないといった彼女の要望だった。着ているのは前と同じ制服めいた服。洗ったのか、少しだけ皺が伸びている気がする。

 飲むといい。フェルトカバーで覆われた,アルミ製の無機質な水筒を差し出す。彼女は僅かに躊躇い,受け取って中身に口を付けた。麦茶だった。

 

 向こうのベンチを示す。「座るといい」

 彼女は言われた通り座ると,目についたランチボックスに興味深げだった。こういった文化は珍しいと思われた。ネノクニの一角で,チャイニーズ・フードの露店が立ち並んでいたことを想起させた。

 

「これ,作ってきたんですか」

「ああ」

 

 蓋を開け,差し出す。彼女がおずおずと受け取った。恐る恐る中を覗き込んだ。

 太陽もどきの光がパン粉の上で輝いた。鮮やかな黄金色の衣と、添えられた鮮やかな紫のキャベツのマリネ。香り立つレモンの皮。

 彼女は目を少しだけ,されど明らかに見開いた。そしてどこからともなく取り出したヘアゴムで,長い髪を後ろにまとめた。手際がよく,習慣を感じさせた。

 

「いただきます……」

 

 渡されたカトラリーを握り,最初に衣付きに手を付けた。ジューシー。風味。うま味が口に広がる。サクリとした食感と,肉の噛み応え。かすかに漂うニンニクの香味。主張しすぎず,上品な程度で。ニンニクの薄く切ったのが,肉の切れ込みに挟まれていたのかな。

 表情が緩み,目を細めてゆっくりと噛み締める。余韻を堪能しながら,マリネにフォークを伸ばす。馴染みのない紫には若干の抵抗を抱いたが,きっとおいしいと言い聞かせて口に放り込んだ。酸味と甘み。脂への馴化がリセットされた。これで再び楽しめるだろう。

 

 彼が紙袋から,黒いパンを取り出した。彼はナイフを取り出すと,食べやすい大きさに切り分けてくれた。ずっしりとした,珍しいパンだった。

 パンと肉を口に放り込む。酸味がある。穀物を大きく感じる。よくある白パンとは大きく異なるが,肉には合っている。すこしだけ固かったけど。

 

 あとはもう,無我夢中で食べた。はしたなかったかもしれない。肉もマリネも,きれいさっぱりなくなっていた。久しぶりに,満足というものを覚えた気がする。心残りはレモンを残したことだった。夢中だったから,つい。

 ごちそうさまでしたと言う。彼も自分の分を食べ終えていた。別に箱があった。

 

「どこで料理人,やってたんですか?」

 

 おなかがいっぱいで,つい言葉が漏れてしまった。気が大きくなっていた。普段ならこんなこと絶対に聞かないのに。

 一瞬の硬直。視線がわずかに泳いだ。しまった。数舜前の己を恥じる。聞いてはいけないことだった。

 

「サイド……6」絞り出すように,何かをためらうような彼。視線を合わさない。

「辺境のバンチだよ。うだつの上がらん大衆食堂で,見習いをやっていた。腕は,事故。事故だ。事故で腕をやってしまって」

 

 気づいたらここに流れ着いた,と彼はまくし立てた。感情が乗っていない。彼の言の葉は整然と並び建てられ,誰も彼をも拒む壁となった。そのくらいのことはニャアンにも察せられる。

 

「じゃあ,またいつか。欲しかったら連絡をくれ」

 

 壁を打ち破る術をニャアンは知らなかった。その勇気も持ち合わせていなかった。「また」という言葉が風に溶けていく。彼はもう立ち上がり,ランチボックスを片付け始めている。

 

「あっありがとうございました。本当に美味しくて,その」

 

 言葉が続かない。安っぽい美辞麗句が脳裏をそぞろ歩き,そのまましまっておく。おそらく今の彼には何を言っても響かない。

 ニャアンの言葉にアレクサンダーはわずかに頷いた。無機質な表情だった。右腕だけでテーブルを拭き,無言で紙袋を畳む。

 

「いやいいんだ。こちらこそ,そんな風に食べてもらえて。また会おう」

 

 外套を羽織り,そのまま去って行く。引き留めようとしたが,彼を繋ぎ止めるに足るセリフを書き連ねる力はなかった。

 彼はぎこちない笑みを浮かべ手を振った。水分の少ない粘土を強引に歪めたような表情だった。彼はそのまま後ろを向き,歩道を進み続けた。居心地が悪くなって,思わず視線をテーブルに落とす。吹き荒れる風がわざとらしく木々を揺らしていた。もう,ランチの余韻は残っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 ぼやけた視界が徐々に晴れ,空間が顕わになっていた。小惑星の一部をくり抜いた形で造られた宇宙船ドックには破壊の跡が無数に残り,大小さまざまのデブリが浮遊している。忘れようもなく,ソロモンのドックだった。家にたどり着いて,安いアルコールを浴びるほど飲んだところまでは覚えている。夢の中にいると知った。

 

 赤い流れが見えた。無重力空間での液体特有の流れだった。一つの生き物のように薄く広がり,川のように流れている。出所を見る。自らの左腕だった。いつの間にか,ジオン軍制式の深緑色のノーマルスーツを着ていた。

 闇の中から人影が現れる。同じノーマルスーツを着ているが,ところどころがズタズタだった。各所から垣間見える肌は焼け焦げ,ちぎれている。ハインツ。呼びかける。おもむろに首を振り,バイザー越しにこちらを見つめてくる。瞳だけが辛うじて見えた。既知の色だった。

 

「そうやって死んだんだな」問いかける。答えず,ただ見つめてくる。

「そんな目で見るなよ」

 非難めいた眼差しをバイザー越しに見出す。自分一人だけが生き残ったことへの非難ではない。彼がそんな狭量な男ではないことを知っている。

 

「だがな,ジオンにいたなんて言ってみろ。コロニー難民だぞ。どんな目で見られるか……」

 

 オペレーション・ブリティッシュで,ジオンは数々のコロニーを永遠にヒトの住めない場所へと変えてしまった。しかしいくら自分自身は加担していまいと,自分たちが彼らの故郷を奪ったのは間違いない。

 

 ドッグの中へと,どこからか光が差し込んでくる。遠く在る太陽か。人工のライトか。光は回り込み,ハインツを照らし出す。

 舞台の幕が上がるようだった。淡い光の線がバイザーの表面を滑り,反射しながら闇を切り裂いた。輪郭が現れ,自分の眼は彼の顔へ引き寄せられた。

 

 ──アレク,これ本当にお前が作ったのか? ──

 

 ──うまい! これは絶対にうまい! ──

 

 ──また明日も作ってくれるか? 約束だぞ──

 

 ──……生きて帰ったら,またお前の飯を食わせろよ──

 

「そういえば,お前の頬にはそばかすがあったっけな」

 

 彼は笑った。そう見えた。きっと笑っただろう。

 

「そうだよな。嘘をつくなんて不誠実だ。ほんとのことを話すべきだ」

 

 素直に身の上を明かすべきだった。自分に嘘を突き通せる能力が皆無なことなど,自分が一番理解している。信じてくれた彼女への裏切りだ。こんなにも自分が臆病になっていたとは。

 今度会うとき,正直に経歴を打ち明けよう。たった数回会った程度だが,気遣いのできる優しい子だと感じられた。きっと聞いてくれる。もし怒りを向けられたなら,それはそれでしょうがない。

 

「久しく忘れていた。お前の食い方」

 

 あの子も,同じように食べていたな。

 

 

 

 

 

 

 風が頬をかすめ,ニャアンの紺碧の髪を揺らした。光は常より強く,眩しさと多大な熱量をもたらしている。街を行く人々は今日も忙しなく,お互いをいないかのように扱う。ニャアンにとっては都合がいい。

 

 前は変なこと聞いちゃった。考えながら早足で歩く。アレクサンダーさんの表情が曇ったあの瞬間が忘れられなかった。サイド6の話。そして「事故」という言葉。踏み込むべきではない領域に土足で入り込んでしまったことを後悔していた。

 手提げ袋を持ち直す。中身は小さな焼き菓子。バイトの給料の一部を使って買ったものだ。お礼の気持ちと、謝罪の印に。もっと良い店の品を用意したかったが,値札はニャアンの厳しい懐に容赦しなかった。まぁ,こういうのは気持ちの問題。

 

 しかし値段の事情で吟味しすぎて,また遅れそうになっていることは我ながらいただけない。頬に熱が少し溜まる。美味しいご飯を食べさせてもらってるのに,待ち合わせすら守れないなんて恥ずかしい。足を速めた。目立ちたくないが,致し方ない。

 

 通りを曲がると,人通りの多い繁華街でいっそう人だかりが見えた。軍警の制服が目に入る。緊張が背筋を駆け上がった。

 

「こんな所で検問なんて……」

 

 姿勢を低くしようとして,不審さが増すだけと気づき,踏みとどまった。軍警の恐ろしさは心の奥底に刻み込まれている。目ざといアイツらを避けるには,見つからないことが最善だった。

 

 あてどなく思考をめぐらせ,遠回りをしようと決意する。方向転換。なるべく自然に,それでいて足早に。通り過ぎて,区画ごと離れようと試みる。その瞬間,野次馬の会話が耳に入ってきた。

 

「強盗だってよ。連邦の敗残兵の」

「撃たれた奴がいるって?」

「あぁ,男だ。それも元ジオンの退役軍人らしい。即死だ」

「まったく、一年戦争が終わってもこんなことが……」

「犯人はもう死んでるらしいな。自殺か、抵抗して撃たれたか……」

 

 ニャアンは足を止めなかった。退役軍人。頭の中で言葉が数度反響し,すぐに消え去った。コロニーには大勢の退役軍人がいる。

 急いで裏道を通り,事件現場を迂回した。時計を見ると,約束の時間まであと5分しかなかった。

 

「間に合うかな」

 

 息を切らしながら,ついにあの小さな広場に辿り着いた。一つだけあるベンチには誰もいなかった。アレクサンダーさんは前回より早く来ていたはず。少し遅れているのかもしれない。

 

 ベンチに腰掛け,焼き菓子の入った袋を膝の上に置く。何を作ってくれるのだろう。今日はどんな話をするのだろう。そして,どうやって謝ろうか。

 

 風が吹く。時間は過ぎていく。

 

 広場の向こうから誰かが近づいてくるのを期待して首を伸ばした。だが,そこに見えたのは小さな鳥が地面をつついている姿だけだった。

 

 

 

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