### **岩塩**
山奥の古びた温泉宿に泊まったときのことだ。東京の喧騒から離れ、静かな場所で心を休めたかった。宿は江戸時代から続く歴史ある建物で、木造の廊下は歩くたびに軋んだ。
「お部屋にお塩を置いておりますので、よろしければお使いください」
女将がそう言って、小さな陶器の皿に盛られた**岩塩**を指さした。
「これは……?」
「厄除けです。この辺りでは昔から、お塩を枕元に置いて寝ると、悪いものが寄ってこないと言われております」
「なるほど」
私は特に気にすることもなく、荷物を整理して温泉へ向かった。夜の露天風呂は静かで、湯船に肩まで浸かると、遠くからフクロウの鳴き声が聞こえた。満点の星空を眺めながら、都会では感じられない深い静寂に包まれた。
部屋に戻ると、布団が敷かれていた。枕元には先ほどの**岩塩**が置かれている。
(まあ、せっかくだしそのままにしておこう)
そう思いながら布団に入り、ゆっくりと目を閉じた。
――カリ、カリ、カリ……
どこかで小さな音がする。
虫か何かが壁を這っているのかと思ったが、次第にその音が**布団のすぐそば**から聞こえてくるのに気づいた。
――カリ……カリ……
まるで何かが岩塩を**かじっている**ような音だった。
布団の中で息をひそめる。心臓の鼓動が速くなるのが分かった。
(ネズミか何か……?)
だが、この宿は清潔で、そんな獣が入り込むような隙間はないはずだ。
音は止まらない。むしろ、**どんどん近づいてくる**。
意を決してそっと目を開け、枕元の岩塩を見た。
――**誰かの指が、それをつまんでいた。**
白く細い指。だが、爪は異様に長く、先が黒ずんでいる。
私は悲鳴を上げそうになった。
その瞬間、指の持ち主が**こちらを見た**。
黒い髪が乱れた女だった。顔は青白く、目だけがぎょろりとこちらを見開いている。口元は裂けるように引きつり、歯がむき出しになっていた。
女はカリ、カリと岩塩を噛み砕きながら、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「お前の味も……見せて……」
ゾワッと鳥肌が立つ。全身が硬直して動けない。
次の瞬間――
「**お客様、大丈夫ですか!?**」
女将の声がした。
部屋の扉が勢いよく開き、パッと電気がつく。
女は、消えていた。
私はゼェゼェと荒い息をつきながら、女将を見た。
女将は青ざめた顔で、枕元の皿を見た。
そこにあったはずの岩塩が、**跡形もなく消えていた。**
「……やっぱり、出ましたか」
「今の……何だったんですか……」
女将は押し黙り、やがてポツリと話し始めた。
「昔、この宿にいたんです。一人の女性が……。婚約者に裏切られ、この部屋で命を絶ったそうです」
喉がカラカラに渇いていた。
「彼女は岩塩をかじるのが癖で……最後も、血塗れの口で……」
女将は言葉を濁した。
「お客様、すぐに部屋を変えます。今夜は別の部屋でお休みください」
私は頷いた。
新しい部屋に移り、やっとの思いで布団に入る。しかし、瞼を閉じても、あの女の顔がこびりついて離れなかった。
――カリ、カリ、カリ……
いや、そんなはずはない。もう岩塩はない。女も消えた。
でも――
口の中に、ほんのりとした塩の味が広がった。
###
口の中に広がる、しょっぱい味。
(……何で?)
私は慌てて起き上がり、舌で歯の隙間をなぞる。確かに**塩の味**がする。夢でも見ていたのかと思ったが、唇を指で拭うと、そこに**ザラッとした感触**が残った。
まるで、岩塩のかけらがついていたような――
「……気のせいだ」
そう自分に言い聞かせ、もう一度横になった。だが、眠れるはずもない。
頭の中には、さっきの女の顔が焼きついている。
あの**黒い爪**。
ギョロリと見開かれた**血走った目**。
そして、口をゆっくり動かしながら、**私を味わうように**舐め回したあの表情。
「お前の味も……見せて……」
――カリ、カリ、カリ。
私は弾かれたように飛び起きた。
今のは、外の音か? それとも、また幻聴か?
慌てて部屋を見渡したが、何もおかしなところはない。ただ、ふと**枕元の皿**に目をやると、**そこにあったはずの塩が消えていた**。
「……ありえない」
別の部屋に移ったのに、また岩塩が……?
嫌な予感が背筋を這い上がる。私はそっと布団をめくり、足元を見た。
――そこに、**塩の粉が散らばっていた。**
(どういうことだ?)
恐る恐る足を布団から出し、畳の上に降りる。部屋の明かりをつけようと手探りでスイッチを探す。
――カリ、カリ、カリ……
今度は、**はっきりと聞こえた。**
「……どこだ?」
音は、すぐ近くからしていた。
ふと、足元に視線を落とす。
――畳の隙間から、白く細い指が覗いていた。
私は息を呑んだ。
その指は、ゆっくりと畳の隙間から這い出し、私の足首へと向かってくる。
「っ!!」
私は飛び退いた。
同時に、指がズルリと伸び、今度は**私の足跡がついた塩をつまみ上げる**。
カリ、カリ、カリ。
「……いい味」
背筋が凍った。
畳の隙間から覗く、青白い顔。血の気のない唇が、ゆっくりと開く。
「もっと……」
私は全力で部屋を飛び出した。
### **3日後**
東京に戻った私は、あの宿のことを調べた。
すると、過去の新聞記事に、こんな記述を見つけた。
**「○○温泉宿にて、女性が失踪。部屋には大量の岩塩が散らばっていた。未解決のまま、事件は迷宮入り」**
掲載された日付を見て、私は息を呑んだ。
――たった**1週間前**の出来事だった。
その宿は、私が泊まる**直前に**営業を再開していた。
私は、咄嗟に口を手で覆った。
――まだ、しょっぱい味がする。
舌の上に残る、岩塩の感触。
それが、**本当に塩の味なのかどうか**、私にはもう分からなかった。
###
それから数日、私はずっと口の中に残る**塩の味**に悩まされていた。
いくら水を飲んでも、歯を磨いても、そのしょっぱさは消えない。まるで、あの夜に**何かが私の中に入り込んだ**ように――
最初は気のせいだと思っていた。だが、**異変は確実に私の体に広がっていた。**
#### **1週間後**
会社の昼休み。私はいつものように定食を頼んだ。
だが――
(……味がしない?)
ご飯も味噌汁も、まったく味を感じない。
唯一、口の中でわずかに感じるのは、**岩塩のようなしょっぱさ**だけ。
「……おかしい」
不安になり、家に帰ってから試しに塩を舐めてみた。
「……っ!!」
舌に広がったのは、普通の塩とは**全く違う味**だった。
ただしょっぱいのではない。何か……**生臭いような、鉄のような味**が混じっている。
嫌な予感がした。
私は恐る恐る、鏡の前に立ち、口を大きく開けた。
舌を出し、懐中電灯で照らす。
そして、私は**自分の舌の異変に気づいた。**
舌の表面が、**ほんのりと白くなっている**。
まるで、**塩の結晶が染み込んだように。**
「……そんなバカな」
震える手で、舌をこすってみる。
だが、白い部分は取れない。むしろ、よく見ると、舌の**奥の方から何かが生えている**。
――カリ、カリ、カリ。
その瞬間、背後から聞こえた。
「……いい味」
ゾクリとした悪寒が全身を駆け巡る。
(いや、いるはずがない!! ここは俺の部屋だ!!)
私は振り向いた。
**そこには誰もいない。**
だが――
部屋の隅の**床**に、**白い粉が散らばっていた。**
塩……いや、岩塩のかけら。
私はたまらず、部屋を飛び出した。
### **医者の診断**
翌日、私は慌てて病院へ向かった。
「先生、俺の舌……なんか変なんです」
医者はルーペで私の舌をじっくりと観察し、難しい顔をした。
「……これは……不思議ですね。まるで、舌の細胞が硬化しているような……」
「硬化?」
「ええ。何か特殊なものを食べたりしましたか?」
私は言葉に詰まった。
食べたもの……?
違う。
――**食べられている。**
**あの女に。**
**少しずつ、少しずつ、俺の舌が"岩塩"になっていく。**
「先生……これ、治りますよね?」
「……もう少し詳しく検査してみましょう。」
だが、その言葉に安堵することはできなかった。
### **夜**
病院から帰った私は、台所に立ち、包丁を握った。
「……もし、本当に舌が"侵食"されているなら……」
恐る恐る、包丁の刃を舌の表面にあてる。
**ジョリッ**
「……っ!!?」
想像していたのと違う感触。
舌を切ったはずなのに、血が出ない。
代わりに、切り口から**白い結晶のようなもの**がポロポロとこぼれ落ちた。
**まるで、砕かれた岩塩のように。**
「……あはは……」
震えた笑いが漏れた。
俺の体はもう**普通じゃない。**
その時――
――カリ、カリ、カリ。
真後ろから、確実に聞こえた。
そして、耳元で囁く声。
「**やっと、お前もこっちの味になったね……**」
真っ白な世界が、俺の目の前に広がった――。
###
**――やっと、お前もこっちの味になったね……**
その声が耳元で囁かれた瞬間、全身が凍りついた。
(いやだ……いやだ……!!)
叫びたくても声が出ない。足も動かない。
でも、**分かる。**
背後に、**あの女がいる。**
ガリ、ガリ、ガリ……
音がする。
何かを**噛み砕く音**。
私はゆっくりと首を動かし、鏡を見た。
そこには――
**自分の肩にしがみつき、私の耳をかじっている女の姿があった。**
「――ッ!!!」
息をするのも忘れるほどの恐怖。
女の口元から、白い粉がポロポロとこぼれ落ちる。
**それは、俺の耳だった。**
「美味しい……ねぇ、もっとちょうだい……」
女の爪が、ゆっくりと俺の頬を撫でた。
**ザラリ――**
その感触で、俺は気づいた。
俺の肌が……硬くなっている。
指で触れると、そこには**皮膚の感触はなく、まるで岩塩のようなザラザラとした質感**があった。
「嘘だろ……」
震える手で鏡を見る。
俺の頬の一部が、**真っ白になっていた。**
皮膚が変質している――いや、違う。
俺は**岩塩になっていく。**
「やめろ……!!」
必死に振り払おうとしたが、女の手は俺の顔をしっかりと掴んでいた。
「逃げられないよ……だって、もう"同じ"だから……」
俺の目の前で、女の口が大きく開いた。
「ねぇ、お前の味……もっと……」
鋭い歯が、俺の**頬**に食い込んだ。
**ガリッ――**
「ぐあああああああ!!!」
痛みとともに、俺の肌の一部が**崩れ落ちる**。
白い粉が舞う。
(いやだ……! いやだ!!!)
俺は全力で女を突き飛ばし、部屋を飛び出した。
### **廃旅館**
気がつくと、俺は街をさまよい、山の方へと向かっていた。
気がつけば、あの**宿**の前に立っていた。
(どうして俺は……ここに?)
分からない。だが、本能が**ここに戻らなければならない**と訴えていた。
宿は、すでに**廃墟**になっていた。
(俺が泊まったばかりなのに……?)
そんなはずはない。**営業していたのを確かに見た。**
俺は足を引きずるようにしながら、宿の中に入った。
廊下は朽ち、畳はボロボロに破れていた。
そして――
俺が泊まったあの部屋にたどり着いた。
ガラリ……
扉を開ける。
その瞬間、目の前に広がった光景に、俺は言葉を失った。
――そこには、**岩塩の塊のようになった無数の人間の姿**があった。
白く固まり、ところどころ崩れ落ちた人の形。
その間を、**あの女が歩いていた。**
「おかえり……やっぱり、戻ってきたね……」
ニタリと笑う女。
その口元には、また**白い粉**がついていた。
「ここでみんな……"いい味"になっていくの……」
俺は、ゆっくりと自分の手を見た。
指の先が、**完全に岩塩になっていた。**
(ああ……もう、俺も……)
女が、ゆっくりと近づいてくる。
「次は……どこを食べようかな……?」
俺は、静かに目を閉じた。
### **数日後――**
「最近、この山の近くで変なものを見たんだよ」
「ああ、聞いたことある。岩みたいに真っ白な"人型の塊"がいくつも立ってるって……」
「気味悪いよな。何なんだろうな、あれ……」
「さぁな……でも、不思議なことに……」
「……たまに、**位置が変わってる**らしいぜ?」
###
**――たまに、位置が変わってるらしいぜ?**
その噂を聞いたのは、登山が趣味の友人からだった。
「お前、あの山の近くに行ったことあるか?」
俺は答えられなかった。いや、**答えたくなかった。**
思い出したくない。あの夜のことを。あの**味**を。
「何か……変なもん見たのか?」
友人は冗談めかして笑うが、俺の顔を見て表情を強張らせた。
「おい、どうした? なんか、顔色悪いぞ?」
「……何でもない」
「ほんとかよ。なんか、顔……白くね?」
俺はぎゅっと拳を握りしめた。
分かってる。
最近、俺の**皮膚がさらに白くなってきている**ことを。
「……疲れてるだけだよ」
そう言い残し、俺はその場を立ち去った。
### **変化**
異変は、日に日に増していった。
皮膚の白さが目立つようになり、**触れるとザラついた感触**がする。
(まるで、岩塩みたいだ……)
そのうち、汗をかかなくなった。喉が渇かない。
いや、むしろ……**水を飲むと気持ち悪くなる。**
普通の食べ物の味はしない。ただ――
塩だけが、わかる。
いや、違う。
"**塩気を感じるものだけが美味しく思える。**"
俺は、気がつけばスーパーで**肉を買っていた。**
真っ赤な生肉。
キッチンの前に立ち、それを口に入れる。
**――ジュルル……**
舌の上で広がる、塩気。
「……うまい」
噛みしめるたびに、**舌の奥が熱くなる。**
ジュワリと広がる鉄のような味。
俺は止まらなかった。
――カリ、カリ、カリ。
肉の繊維を噛み砕くたびに、あの夜の記憶が蘇る。
「お前の味も……見せて……」
俺の手は、震えていた。
**喜びで。**
(違う、違う、俺はこんなことをするはずじゃ……)
だが――
鏡に映った俺の顔は、**頬がこけ、目が落ち窪み、青白く変色した姿だった。**
**あの女と、同じ顔だった。**
「嘘だ……俺は……!!」
### **衝動**
次の日、俺は街を歩いていた。
普通の人間のふりをして。
だが、すれ違う人間の**肌が妙に美味しそうに見えた。**
(……やめろ……)
じわじわと、**歯の奥が疼く。**
カリ、カリ、カリ……
「ねぇ、君」
「――!!?」
突然、背後から声をかけられた。
振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
**あの宿の女将だった。**
「あんた……」
女将は、静かに微笑んだ。
「ねぇ、そろそろ……戻ってきませんか?」
俺は言葉を失った。
女将の手のひらには、**白い粉が載っていた。**
それは、**岩塩だった。**
「あなたも、もう"こっち側"でしょう?」
俺はその言葉を聞いた瞬間、何かが弾けた。
### **選択**
逃げなきゃいけない。
でも、足が動かない。
喉の奥が、カラカラに渇いている。
そして――
**俺は、無意識に手を伸ばしていた。**
女将の掌にある**岩塩**を、つまむように。
口の中で、ザラリとした塩の感触が広がる。
その瞬間――
俺は、すべてを理解した。
**"彼女"は、最初から俺を呼んでいた。**
そして、俺はもう**"こっちの味"になっていた。**
「……ようこそ」
女将が、優しく微笑んだ。
俺の視界は、ゆっくりと暗くなっていった。
### **後日談**
それから数週間後、登山者たちがまた奇妙な話をしていた。
「なぁ、知ってるか? 例の山道でさ……」
「おう、また"人型の塊"が増えてたんだろ?」
「いや、それがさ……最近、新しいのが増えたんだけど……」
「増えたんだけど?」
「それがさ――**よく見ると、一つだけ笑ってるやつがいるんだよ。**」
「……は?」
「他のやつは全部、無表情なんだけどな。そいつだけは、なんか……嬉しそうに笑ってるんだよ。」
「冗談だろ……?」
「マジだって。しかもさ……」
「そいつの足元にだけ、**白い粉が落ちてた**んだよ。」
「……まさか……岩塩……?」
登山者たちは、その"塊"を二度と見に行くことはなかった。
###
それからしばらくして、俺のことを知る人間は誰もいなくなった。
いや、正確には――
**「俺」という存在が、この世界から消えていった。**
### **報道**
「続いてのニュースです。先日、登山者たちの間で噂されていた"人型の岩塩の塊"について、調査が行われました。」
テレビの画面には、山奥の**廃旅館の跡地**が映し出されていた。
「専門家の調査によると、それらはすべて**純度の高い岩塩で構成されており、自然現象では説明がつかない**とのことです。」
レポーターの女性が、不気味そうに塊の一つを指さす。
「さらに、これらの"塩の塊"には、奇妙な特徴があります。ご覧ください。」
カメラがズームする。
すると、塩の塊の表面には――
**指の跡のようなものが無数に刻まれていた。**
「まるで、誰かが必死に内側から掻きむしったような……」
レポーターがそう言いかけたときだった。
――カリ、カリ、カリ。
かすかに、マイクが拾う音。
「……?」
「今、何か音がしませんでしたか?」
スタッフがざわつく。
カメラが**ゆっくりと"笑っている塩の塊"に向けられる。**
レポーターがその前に立ち、恐る恐る手を伸ばす。
指先が、**白い塩の表面をかすめたその瞬間――**
### **パキッ――**
「ひっ!?」
突然、"塩の塊"に**ひび**が入った。
塩がパラパラと崩れる。
その瞬間、**カメラが拾った映像**に、スタジオが凍りついた。
崩れた塩の隙間から――
**ぎょろりとした目玉が、こちらを覗いていた。**
**――カリ、カリ、カリ。**
カメラは、そこで急に**ブラックアウト**した。
### **"彼"の視点**
俺は、"ここ"にいる。
体はもう、動かない。
でも、意識だけははっきりしている。
俺は、塩に包まれたまま……**ずっと、生きている。**
カリ、カリ、カリ……
また、あの音がする。
**彼女が、俺を食べに来る音。**
「ねぇ、もっと、ちょうだい……」
ザラリとした指が、俺の頬を撫でる。
「次は……どこから食べようかな?」
暗闇の中で、俺は……ただ、笑うことしかできなかった。
###
**俺は、まだ生きている。**
動けない。喋れない。まぶたすら閉じることができない。
でも――
**"彼女"の気配だけは、はっきりと感じる。**
**カリ、カリ、カリ……**
あの音が、また聞こえる。
俺の"体"のどこかを、"彼女"が少しずつ削り取り、口に運んでいる音だ。
それが自分のどの部分なのかは、もう分からない。
**もう俺の体は、人間のものじゃない。**
皮膚も、筋肉も、骨すらも、**全て岩塩に変わってしまった。**
でも――
**"感覚"だけは、まだ残っている。**
俺は、"自分が食べられている感覚"を、すべて"味わっている"のだ。
――ザクッ。
「……っ!!」
今度は、俺の指の一本が**折られた**。
バラバラと砕けた塩の破片が、床に落ちるのが分かる。
それを"彼女"が拾い上げる気配。
そして――
**ザラ……**
彼女の細く白い指が、俺の"顔"に触れる。
「……うれしい……」
その声が、微かに震えているのを感じる。
「……こんなに長く"生きてる"なんて……すごい……」
彼女の指が、俺の"頬"を撫でる。
「もっと……」
そして――
**ガリッ。**
俺の"頬"に歯が食い込んだ。
### **崩壊**
――ザラザラザラ……
俺の"体"が、音を立てて崩れていく。
削られ、砕かれ、食べられる。
(……もう、終わりなのか?)
意識が遠のいていく。
だけど、その時――
**俺の中で、何かが"叫んだ"。**
(**俺は……まだ、生きていたい!!**)
その瞬間、俺の"体"の奥から、何かが**こみ上げてきた**。
### **"岩塩の叫び"**
**パキ……パキ……パキパキパキ……!!**
突然、俺の"体"の表面に**無数のひび割れ**が走った。
「……え?」
"彼女"の手が止まる。
俺の内側から――
**何かが、逆流する感覚。**
**「お前も……"味わえ"!!」**
### **反転**
**バキィィィ!!!**
俺の"体"が**爆ぜた**。
砕けた塩の破片が、四方八方に飛び散る。
そして――
俺の"手"が、彼女の腕を**掴んだ**。
「……え……?」
彼女の表情が、一瞬、"恐怖"に歪む。
俺は気づいた。
――俺は、"塩の塊"のまま、まだ動ける。
いや、違う。
"彼女に喰われながら"、**俺は、俺自身を取り戻した。**
「お前も……こっちに来いよ……!!」
俺の"指"が、彼女の"頬"に触れる。
**ザラリ。**
その瞬間――
彼女の**肌にひび割れが走った。**
「……!? やめて……!!」
彼女はもがくが、もう遅い。
俺の"塩"が、"彼女"の中に広がっていく。
「いや……やだ……! 私、私は……!!」
彼女の声が、次第にかすれていく。
**パキパキパキ……!!**
彼女の**白い肌が、岩塩に変わり始めた。**
「お前も"味わえ"よ……"俺の味"をな……!!」
俺は、ゆっくりと彼女の顔を覗き込んだ。
彼女の"唇"が、ボロボロと崩れる。
目も、鼻も、すべてが"塩"に変わっていく。
**――カリ、カリ、カリ。**
「……**いや……わたしが……食べる側……なのに……**」
最後の言葉を残し、
**彼女は完全に"塩の塊"になった。**
### **終焉**
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
崩れ落ちた"彼女"の塩の破片を、俺はじっと見つめる。
ザラリとした指を、そっと舌の上に運ぶ。
――カリ、カリ、カリ。
……しょっぱい。
でも、それは**今までで一番、美味しい味**だった。
俺は、ゆっくりと笑った。
「……あぁ……これが……"俺の味"か。」
### **数ヵ月後**
「おい、また増えてるぞ……」
「あぁ、例の"塩の人型"か?」
「でも、なんか変だぞ……?」
「何が?」
「最近、一つだけ"形が変わってる"んだよ。」
「は?」
「前は"笑ってるやつ"がいたんだろ? それがさ……」
「それが?」
「"口を開けてる"んだよ。」
「……開けてる?」
「ああ。まるで――**何かを食べてるみたいに。**」
山の奥では、今日も風が吹いていた。
**――カリ、カリ、カリ。**
###
**――カリ、カリ、カリ。**
山奥の風の音に混じって、その音は確かに聞こえていた。
何かを**噛み砕く音**。
何かが**崩れ落ちる音**。
そして――
何かが**少しずつ動き始める音。**
### **夜の山道**
「おい、マジでやめとけって!」
「大丈夫だって、ちょっと見るだけだから。」
大学生らしき若者二人が、夜の山道を歩いていた。
噂を聞きつけて、肝試しに来たらしい。
「ほら、あれじゃね?」
懐中電灯の光が、**"塩の人型"の群れ**を照らし出す。
「うわぁ……これ、ほんとに人みたいだな……」
「なあ、これホントに岩塩なのか?」
一人が、塩の塊の一つを指でこすった。
ザラ……
「うわ、めっちゃザラザラしてる。」
「おい、舐めてみろよ。」
「バカ言えよ!」
「いや、でもほら、俺たちが見た噂のやつ、どれだ?」
もう一人が、懐中電灯を動かす。
そして――
「……あった。これだ。」
彼らは、噂になっていた"塩の人型"の一つを見つけた。
他の塩の塊と違って、それは**口を開けていた。**
しかも、よく見ると――
「なぁ、これ……**増えてないか?**」
「え?」
「口の中。前に撮られた写真と比べると……なんか、ちょっと広がってる気がする。」
「……バカ言えよ。」
「いや、マジでさ……なんか、喰ってるみたいじゃね?」
「おい、もう帰ろうぜ……これ、マジでヤバい気がする。」
だが、その瞬間――
**――カリ、カリ、カリ。**
「……え?」
確かに聞こえた。
何かを"噛み砕く"音が。
若者たちは、一瞬で顔を見合わせた。
そして――
**――ガリッ。**
「うわあああああ!!!」
塩の塊の"口"が、**ほんの少しだけ動いた**のを、彼らは見た。
崩れた塩の欠片が、地面に落ちる。
二人は叫びながら、一目散に山を駆け下りた。
しかし――
誰も知らなかった。
彼らが去った後、"塩の人型"の影が、**ほんのわずかに揺らいでいた**ことを。
そして、"口を開けた塩の塊"の足元に、新たな**白い粉が落ちていた**ことを――。
### **変化**
次の日の朝。
「おい、見たか?」
「見た見た……昨日のやつだろ?」
「また、形が変わってたよな……」
「……うん。」
「口が……"もっと大きくなってた"。」
誰も近づかなくなった山道。
だが、それでも**誰かが喰われている。**
"塩の人型"は、少しずつ"何か"を取り込みながら、形を変えていく。
そして――
また、**新たな岩塩の人型**が、一つ、増えていた。
今度のそれは、**目を開いていた。**
**――カリ、カリ、カリ。**
###
**――カリ、カリ、カリ。**
山の奥で、その音は確かに聞こえ続けていた。
何かを噛み砕く音。
何かが崩れる音。
**何かが、新しく生まれる音。**
### **行方不明者**
「……また一人、消えたってよ。」
地元の老人たちが、山のふもとの食堂でひそひそと話していた。
「今度は、夜に登った若いもんだろ?」
「そうだ。昨日、肝試しだとか言って山に入ったきり、戻ってこねぇんだと。」
「これで何人目だ?」
「……もう、数え切れねぇよ。」
山に入った人間が、次々と**行方不明になる**。
だが、遺体は見つからない。
代わりに、翌朝には**"塩の人型"が増えている。**
**まるで、喰われた人間が"新しい塩の像"になっていくかのように。**
「これ、もう村のもんじゃどうにもならねぇよ……」
「お祓いとか、してもらうしかねぇんじゃねぇか?」
そんな会話が交わされる中、食堂のテレビがニュースを流した。
**『本日未明、山中で新たな"塩の塊"が発見されました。これで確認された数は合計……』**
客たちは、画面に映る"それ"を見て凍りついた。
……新しく発見された"塩の人型"。
**それは、山に入ったばかりの行方不明者の顔に、そっくりだった。**
### **山の中**
風が吹く。
夜の山道。
誰もいないはずのその場所で――
"塩の人型"が、**わずかに動いた。**
カリ、カリ、カリ……
音がする。
少しずつ、**口を開く音。**
少しずつ、**何かを噛み砕く音。**
そして――
少しずつ、**新たな"顔"が浮かび上がる音。**
次に、この山に足を踏み入れるのは――
**あなたかもしれない。**