碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
0-1
───記憶。
一面の赤色だけが最初にあった。道端に打ち捨てられた廃物のように、零れ落ちていく命たち。
───記憶。
全てが失われ、感情だけがそこに残された。救えなかった悔恨、届かなかった役立たずの腕。
───記憶。
救わねばと、衝動にも似た罪悪感を抱き続けた。その相手が誰かも忘れてしまったというのに。
───記憶。
ただ一人だけを求め、十年の時を彷徨い続けた。
そして。
「──────」
そして今、全てを思い出していた。
そこは黄金螺旋階段の最奥。あらゆる願いが果たされる終焉の地。
都市の崩壊という轟音の中にあって、けれど不可思議なほどの静けさに包まれて。
"どうして?"
問いかける少女の声だけが鮮明だった。
あの時のように無数に降り注ぐ瓦礫の中で、彼女を見上げながら手を差し伸べる。
濡れている彼女の頬。指先に触れる、僅かな暖かさ。
「……どうしてかな」
───深い泥濘の中を、ひたすらに藻掻きながら進むに等しい十年だった。
多くの命に触れ、多くの過ちを犯した。
死の都市法はこの行いを否定し、多くの侮蔑と不条理が向けられた。
それでも、と足掻き続けた。
見るに堪えない現実からの逃避、捨てられない未練の産物だったのかもしれない。
自分の中に生じた空洞を埋めるための、偽善的な代償行為に過ぎなかったのかもしれない。
救うことのできた僅かな人々にさえ目を向けず、その何十倍もの死だけを見つめ続けた、愚かな自傷の日々だったのかもしれない。
自分の行いに意味はあったのか。
その始まりから間違っていたのか。
分からない。けれど。
けれど、この腕の中に掻き抱く暖かさだけが、今ここにある確かな現実だったから。
「───……」
最期に何かを呟く。
それは言葉になりきらない唇の動き。声にはならない。それは、想いでしかなかったから。
果たして、彼女には聞こえただろうか。
伝えることができただろうか。
……もう何度目になるかもわからない衝撃が、都市を襲う。
視界が闇に覆われ、意識が急速に遠のいていく。
都市の巨人は"かたち"を失い、インガノックへとその姿を戻すだろう。
僕たちを瓦礫の生み出す暗闇に隠して。
あの日、あの時。
そうあるはずだった形のそのままに。
全てが黒一色に包まれる、その刹那。
確かに見えた。まぶしい光、炎のように赤く輝くもの。
そして、聞こえたんだ。
君の呟く、最後の願いが───
───────────────。
───それは、彼が既に黄金螺旋階段を昇った後のこと。
───それは、時に北央歴2207年12月25日のこと。
その日インガノックは解放され、そして都市からひとりの男が姿を消した。
誰もその事実に気付くことはないだろう。
十年を経て異形都市より解き放たれた人々は、死と断絶の昨日を忘れ、希望を抱いて明日を生きていく。
異形都市の物語は、ここで終わる。
だから───
「───と待って──代行──見つけ──連邦生徒会長を呼ん───!」
そこはとある都市の一角。陽光差し込む開放的なレセプションルーム。
幾人かの言い争う声が、ノイズ混じりに飛び交う。
「主席行政───待ちしており───」
「連邦生───に会いに───た。風紀委員長───状況につい───得の行く回答───」
それは少女たちの争論。
彼女たちの表情に滲む感情は、疑念と焦燥、そして憤りか。
「───これは───
こんにち───学園からわざ───訪問してくださった生───委員会───余してる皆さ──
こんな暇そ……大事な方々がここを─────理由は、よく───ます」
「分かって───何とかし───でしょ!」
感情のままに叫ぶ彼女たちの声は、当然として明瞭に耳に届くはずだ。
けれどそれらの音は、声だと認識はできても明確な言葉として頭の中に像を結ぶことはない。
熱に浮かされたような浮遊感。地に足つかず、茫洋として思考が纏まらない。
感覚も現実感も何もかもが遠く、夢遊のままに世界が揺れる。
そして。
「ところで、そちらの───方は……?
というか───大丈夫? なんか───てるけど」
「ああ、伝え忘れ───こちらは連邦生徒会長が指名───先生として着任───
名前を───」
そして、振り返る少女の目の前を、支えを失った体躯がすれ違いざまに倒れていく。
どさり、と前のめりに崩れた体を中心に、夥しい量の鮮血がぶちまけられ、放射状に血しぶきが舞った。
悲鳴が、レセプションルームに木霊した。
……。
…………。
………………。
───だから、これはもう一つのお話。
機関と鋼鉄の御伽噺は終わり、新たに始まる愛と希望の物語。
崩壊した都市の向こう側に消えてしまった、いつかの夢の続き。
───明日を夢見る少女たちが紡ぐ、
♰♰♰♰♰♰♰
「……ギー先生。あたし、ね」
「空が、見たいよ……」
♰♰♰♰♰♰♰
───視界を"青"が埋め尽くしていた。
「……ここは」
呆然と呟かれる声さえ吸い込まれそうなほどに。
圧倒的なまでの色彩が、見渡す世界の全てに広がっていた。
学び舎を髣髴とさせる内装の廃墟。木造の床と等間隔に並べられた机と椅子が多くあり、壁と天井は頑丈な石造りであるが、経年のためだろうか、ぼろぼろと大きく崩落してしまっていた。
崩れた壁と天井の向こう側に見えるのは、文字通りに生まれて初めて見る異様な光景。
青空が、広がっているのだ。
そして地面も、青く澄み切った水面が地平線───いや、この場合は水平線か───まで広がっていて。かつて大学の蔵書で目にした"海"というものが、古代にはコールタールの如く黒く変色した半固形状の汚染物質ではなく純水に近いものとして存在していたのだという知識を、ふと思い出した。
ならば、これは"海原"か。
青い空と、青い海。
酷く穏やかな、牧歌的な空気。太陽の輝きは中天に坐し、波は静かに寄せるまま。
「……ッ」
酷く頭が痛む。知らず表情が歪み、目頭を抑えて頭を振る。
ここは何処で、何故こんなところにいるのか。
何も分からなかった。記憶は途切れ、類推できる情報は何一つとして存在しない。
疑問と困惑が胸中を占める。込み上げる憂慮を思考で押し殺そうとした、その時だった。
「───こんにちは、ギー先生」
凛、と澄んだ声音。
潮の香りを乗せた風。
鈴を転がしたような、それは小さな朗笑を含んだ音吐。
この場所に来て初めて聞いた自分以外の声。微かな驚きと共に振り返れば。
いつの間にいたのだろう、未だ年若い少女が立っていて。
「きみは……」
───屈託なく笑う、青い少女。
年の頃は10かそこらだろうか。その髪も、瞳も、纏う服も青く、清涼たるものを思わせる。
だが水面のような深い群青ではない。
それよりも淡く、例えば今も自分たちの頭上に広がる蒼穹のような。
空色の少女。
そんな印象を、ギーと呼ばれた彼は抱いた。
「やっと───本当にやっと、お会いすることができました。
私はここで、ずっと貴方のことを見ていました」
万感の思いを込めるようにして、例えるならばもう二度と会えるはずもなかった旧友にでも再会したかのような面持ちで、少女は言う。
だが面識はない。ギーは、彼女を知らない。
会ったことはないはずだ。
数式を起動させるまでもなく、再編された記憶を精査してもこの少女の姿はどこにもない。
「……どうやら、きみは僕のことを知っているようだが」
それでも聞きたいことは多くあった。
ここは何処で、この少女は何者で、何故自分はここにいるのか。
いいやそもそも、彼女が自分をここに連れてきたというのであれば、インガノックは。
キーアはどうなったのか、であるとか。
「そう、ですね。まずは自己紹介をしましょうか」
言うと、少女はやはり年相応の溌剌とした声でこちらに向き直り。
「お久しぶりですギー先生。わたしは縺ゅ↑縺溘↓繧医▲縺ヲ謨代o繧後◆41縺ョ縲雁・?「ー縲九?縺イ縺ィ繧翫〒縺」
……聞こえない。
彼女は確かに何かを言ったはずだった。唇が動き、何かの音を紡いだ。
けれど、それを言葉として認識することができない。ノイズに塗れた雑音にしか聞こえない。
そのことを悟ってか、少女は困ったような笑みを浮かべて。
「……ああ、やっぱり特定の文字列は弾かれてしまいますね。
ええっと、先生。きっと混乱されていると思いますが、どうか今は私の言葉を聞いてください」
言葉。
一体、何の話をするというのか。
「責任と選択の話です。私たちが果たすべきものの話」
少女の、名前さえも知らない彼女の表情は、どこまでも穏やかなものだった。
「かつて私は言われました。責任を負う者……大人としての果たすべき義務と、それが意味する心延えを。その延長線上にあった彼の選択こそが、本当なら正しかったのだと……今なら受け入れることができます。けれど」
僅かに、その表情を歪ませて。
「全ては最初から間違っていて、前提そのものが狂っていた。
どう足掻いても破綻した結論にしか行き着けず、それは馬鹿げた整合性で舗装されていた。
私たちに選択の自由はなく、責任は果たされず……故にこそ都市は歪み、異形と化した」
朗々と、謳うように彼女は言う。
少女の言葉の真意を、ギーは図りかねた。
それを知ってか知らずか、少女はやはり笑いながら。
「連邦学園都市《キヴォトス》。
それが貴方の向かうべき場所であり、かつて私たちが諦めてしまった世界の名前です」
哀しい笑み。
それはまだキーアと同年代に見える、そんな幼い少女が浮かべるには酷く疲れた、消え入りそうな微笑みだった。
「きっと貴方は理解できないし、私の話は忘れてしまうでしょうが、それでも構いません。
だって先生は何も変わっていなかった。
そう、かつて私が見た貴方とまったく同じだったのですから。
例え世界が移ろうとも、その手を差し伸べ続けると信じています」
ギーは唇を開き、何かを言おうとした。
少女の言葉は分からない。
しかし、彼女が何かを背負い、そして自分に何かを求めていることは察せられたから。
けれど、ギーが口を開くより前に。
視界が急速に反転した。
「──────ッ」
体ではなく意識が引っ張り上げられるような、言いようのない浮遊感。
体の芯が空白になり、文字通り気が遠くなる。
動いてなどいないはずなのに、視点が急速に後退していくような違和感。
青い色彩に覆われていたはずの世界は靄がかかったように薄らぎ、モノクロに色褪せていく。
ギーはその感覚を知っていた。
それは常では味わうことのない現実離れしたものでありながら、同時にギーにとっては馴染み深いものでもあった。
視界の先の少女は遠く、ただ静かに微笑みながら手を振っている。
それすらも薄らぎ、ギーの意識は水底から浮き上がるようにして青の世界を離れていく。
それは。
「ではギー先生、良き青空を」
───それは、夢の目覚め。
♰♰♰♰♰♰♰
そして、ギーは目を覚ました。
「……」
まず視界が開き、飛び込んできたのは白い部屋だった。
白い天井と壁は汚れひとつなく、機関灯の柔らかな光に照らされている。
視覚に続いて他の五感が感覚を取り戻すと、鼻先につんと香るエタノールの微かな刺激臭。
自分の体は寝巻らしい簡素な白い衣服を身に着け、柔らかなベッドとシーツに抱き留められていた。
耳に届くのは傍らから響く、恐らく心電を図るための検流計の規則正しい音。足音や何らかのアナウンスの音は遠くに聞こえる。
周囲を見渡そうと首を動かせば、いくつもぶら下げられた点滴のパックと、それに繋げられた透明なチューブが自分の右腕に突き刺さっているのが見えた。
自分の置かれた状況を判断するには、これだけで十分すぎた。
ここは明らかにどこかの病室だった。自分は怪我人として運び込まれ、そして治療を受けていたのだろう。静脈カテーテルが末梢に使われているのを見るに、意識を失っていた期間は大して長くないと思われるが、ともかく誰か人を呼ばなければと思い立ち。
ふと、目が合った。
いや、その表現は果たして正しいのだろうか。それは確かに「目」と直感的に判断できる丸図形だったが、それが表示されているのは絵でもなければ電光板でもなく、白衣を着た人型実体の顔面であり……
「せ───先生が意識を取り戻しました! 誰か人手を───!」
「───……ぁ」
扉の向こうに消えていく何者かに向けて。
「待ってくれ、彼女は……」
乾燥した喉で辛うじて掠れた声を出す。
「キーアは、無事なのか……」
掠れる声に、返される言葉はなかった。
その後は色々と大変だった。検査に次ぐ検査、そして明らかに外科的な措置で頭部を数秘機関に置き換えたとしか思えない者たち(話を聞くに、どうもこの病院の医師らしい)からあれこれと問診を受け、そして更に駄目押しの検査を受けた。
ギーに接した誰もが「あなたはひとりだった」と言った。キーアの、少女の姿など誰も見ていないと口々に言い、それよりもギー自身の傷病のほうが一大事であると各々の仕事をこなしていた。
そして。
「もう一度、あらためて今の状況をお伝えします」
「────……」
少なくない時間を費やした後、ギーは病衣のまま、彼に用向きがあるという女性と向き合っていた。
「私は七神リンと申します。学園都市キヴォトスの連邦生徒会所属の幹部です。そして貴方は恐らく、私たちがここに呼び出した先生……のようですが」
高い身分を誇示するような華美な服装。
理知の光を宿らせる銀フレームの眼鏡。
よく手入れのされているだろう紺の長髪に、血色の良いシミ一つない肌。
厳に自らを律していることが伺える顔つきと合わせて、彼女が深い教養を持つ富裕層の人間であると、容易に察することができた。そして恐らく、ギーが運び込まれたこの病院と一帯を管轄する立場にある人間であることも。
……その頭上に浮かぶ、光輪のようなアクセサリは初めて目にするが。
「推測のような物言いだが……いや、それよりも」
先生、の、よう。
随分と曖昧な物言いだった。更には彼女たちが自分を呼び出したらしいという、そんな不確かな言い分に思うところはあったが、まず言うべきことは他にあった。
「治療と厚遇に感謝を。
今回の処置がなければ僕は命を落としていたかもしれない。
本当に、ありがとう」
「いえ……いやしくもこの都市を統括する立場にある以上、当然のことをしたまでです。胸の傷は最初から塞がっていたようですが失血のほうは酷かったとのことで、大事に至らず安心しました。医師たちとしてはむしろ慢性的な栄養失調のほうが気になると言っていましたが」
深々と頭を下げるギーに対し、リンと名乗った女性は胸を撫で下ろしたような様子で答える。
その態度は当初抱いていたイメージよりもずっと幼く、"生徒会"というこの場にそぐわない組織名通りに未だ大人の庇護下にある子供なのかもしれない、とギーは思った。
その場合、何故子供がこのような立場に身を置いているのかという新たな疑問が浮かぶことにはなるのだが。
「話を戻してもよろしいでしょうか?」
閑話休題。
「推測のよう、と仰られた先生の疑問は正しいものです。実のところ、先生を選んだ人物は他におり、私も先生がここに来た詳しい経緯については把握していません。その人物……連邦生徒会長も今は行方不明であり、詳細を聞き出すことができないのです」
連邦生徒会長。
その字面とリン自身が言った「都市を統括する立場」という言葉から察するに、今ギーが運び込まれているであろう場所の最高責任者に相当する人物のようだが。
その人物が、行方不明?
「混乱されてますよね、分かります。このような状況になってしまったこと、遺憾に思います。けれど今は、どうしても先生にやっていただきたいことがあるのです」
そう言うと、リンは1フィート程度のタブレットのような機関端末を手渡してきた。
「結論から述べると、今現在の連邦生徒会はサンクトゥムタワーの最終管理者を欠いており、都市における行政権を失った状態にあります。今まで認証回避の手段を模索してきましたが、全て失敗に終わりました……連邦生徒会長が遺した、この『シッテムの箱』を除いては」
「この端末が?」
「普通のタブレット端末に見えるでしょうが、実は製造元もOSもシステム構造も、動く仕組みの全てが不明な代物です。連邦生徒会長はこの端末は先生のもので、先生が使えばタワーの制御権を回復できると言っていました。具体的な方法については、結局聞けないままでしたが」
そもそもこれを取り戻せたのもつい昨日のことで……と申し訳なさそうに呟くリンをしり目にギーは端末に触れる。
リンの言葉の多くをギーは理解できていないが、概要を纏めると「失われた政治機能をこの端末で取り戻せる」ということになる。そして何故か、ギーの手によってのみそれが可能なのだと。
自分はこの端末について何も知らない。見たこともなければ製造に関わる技術体系について見当もつかない。
しかし、何故だろうか。記憶ではなく感覚のレベルで、自分はこの端末の使用法を知っている。
ギーは自身の信条において政治事に関わるつもりはなかった。能力的な理由もあるが、そこまでの責任を負うことができないからだ。だがリンの頼み事はそれ以前の、もっと単純な話だった。これを行わなければ多くの人間と都市機能が混乱に陥る。場合によっては少なくない死者も出るだろう。そうであるなら断る選択肢はなかった。
液晶画面に触れると、柔らかな電子光が点灯する。表示されるのはパスワードの入力を求める画面だったが。
【謌代???譛帙?縲∽ク?▽縺ョ蝌?″繧偵?】
【謌代???隕壹∴縺ヲ縺?k縲√ず繧ァ繝ェ繧ウ縺ョ蜿、蜑?r縲】
【鮟?≡陞コ譌矩嚴谿オ縺ョ譫懊※縺ォ縺ヲ蠕?▽縲】
【遘√◆縺。縺ョ諢帙′縲∝惠繧句?エ謇?縺ァ】
「文字化けが……いいえ、そもそも既に認証がパスされて……今まで起動すらできなかったのに……」
覗き込み呟くリンに構わず、ギーはこの不明な文字列をパスワードとしてそのまま押し込んだ。
果たして、正常な表示に切り替わった画面を直感に従って操作していくと、ややあって軽快な電子音が端末から鳴り響く。
屈んだリンと2人して顔を見合わせ、やがてリンは自身の携帯端末でどこかへと連絡し。
「はい……はい。分かりました」
どうやら遠隔電信機器であるらしいそれを用い、通信の向こう側の人物に確認作業と指示を行った後、リンはギーへと向き直った。
「サンクトゥムタワーの制御権の移譲を確認しました。これで連邦生徒会長がいた頃と同じように、行政管理を行うことができます」
「そうか。それは良かった」
何故責任者が失踪し行政権が失われていたのか、何故それを移譲可能な機関の操作権が自分にあったのかは分からない。
だが、誰かが助けを欲し、自分がそれに応えられる状況にあるのならば。そして自分の行いで誰かが救われるのならば、協力を惜しむつもりはギーにはなかった。
だからこの一件に関しては特に文句はなく、リンたちが助かったのであればそれに勝るものはないと心から考えている。
それはともかくとして、ギーへの頼まれ事が無事済んだということであれば、知らなくてはならないことがある。
「なら、そろそろ聞かせてほしい……ここは、何処なんだ?」
それは唐突な、あまりにも今更な疑問だった。
ギーが目覚めてから今まで目にした設備の数々は、明らかにインガノックのテクノロジーを大きく逸脱したものだった。大侯爵の隠した技術の産物であるのか、或いは本当に都市が解放されて周辺諸国の災害医療班が駆けつけてくれたのかと今まで思案していたが、自問するばかりでは答えが出ることはなかった。
リンとの会話や要望に素直に付き合い続けたのも、そうした部分の事情が大きい。
ギーの言葉に、リンは一瞬だけ呆けたような顔をして。
「……そうでした。申し訳ありません、こちらも解決すべき問題が立て込んでしまって、根本的な話すらできていませんでしたね。
ここは連邦捜査部《シャーレ》に併設された病棟区画であり」
リンはおもむろに立ち上がるとギーに背を向けつかつかと歩き出し、病室の窓際に掛かったカーテンに手をかけて。
「改めまして───キヴォトスへようこそ、ギー先生」
カーテンが開かれた瞬間、ギーは理解した。
ここはインガノックではなく、まして王侯連合や北央帝国、或いは遥か西享の地ですらない。
なぜなら、そう。
───青空があった。
カーテンを開けた先、七神リンが《キヴォトス》と呼んだ地には、抜けるような青空が地平線の果てにまで広がっていたのだった。
◆
事態は、当初想定していたものよりも遥かに異常であるようだった。
「キヴォトスとは数千の学園が集まって成り立っている巨大な学園都市です。これから先生が働く場所でもあります」
しかもどうやら就職先まで斡旋されているらしい。
「きっと先生がいらっしゃったところとは色々な事が違っていて、最初は慣れるのに苦労するかもしれませんが……でも先生なら、それほど心配しなくてもいいでしょう。あの連邦生徒会長がお選びになった方ですからね」
「……《先生》とは、教職者のことだったのか」
「ええと、先生。それはどういう?」
あまりの情報量と常識外れの多さから来る思考の鈍化により、本題から外れた枝葉末節に対する突っ込みが口を突いて出た。
数式医として巡回を続けてきた自分は医者として扱われることも多く、先生と呼ばれることには慣れている。だが教職者とは、そう来たか、と唖然とした気分であった。
教員としての役割を求められているという異様な状況。それに対する思いは、何故そんなことをとか、誰かに勉学を教えることができるのか、という懸念以上に。
「子供を導けというのか、僕に」
呟きは、きっとリンの耳には届かなかっただろう。
自分をここに運んだ連邦生徒会長は、このつまらない男を随分と過大評価しているようだった。
いっそ人違いか手違いであったほうがキヴォトスの住民たちにとっても幸運であろうが。
「確か連邦生徒会長なる人物の紹介によって僕が招致されたという話だったが……通知書や引継ぎ書類の類はないだろうか」
「申し訳ありません。何分こちらとしても寝耳に水な話で、正式な手続きがあったわけでは……身内の恥を晒すようですが、私宛てに個人的な書置きがあった程度でして」
ご覧になられますか? と言って手渡された便箋を見れば、そこにはシャーレなる部署を設立すること、それに相応しい人物を招くこと、リンに対する個人的な謝罪が簡素な文章で短く書かれているのみであった。そしてシャーレの先生とする人物として、「G」の頭文字から始まる名前が記載されており───
「……確かに、僕の名前だ」
とっくの昔に捨て去ったはずの名であった。
今やこの名を知る者は少ないだろう。所属する上層階段付属病院の名簿も正式な戸籍も焼け落ちて久しく、両親や友人たちも皆死んだ。旧友たるサレムもまたこの世を去り、他で知っているのはせいぜいがエラリィか、他人の過去を漁る情報屋たちくらいのものだろう。
であれば、連邦生徒会長とは何者か。
何故自分を知っている? 自分を選んだ理由は? このキヴォトスなる都市とインガノックの関係は?
一つ説明を受けるごとに、新たな疑問が次々と湧き上がる。
すべての疑問を解消するには日が暮れるまで質問を続けても足りないだろう。だが最低限聞くべきことはあった。
自分をどうやって連れてきたのか───ひいてはインガノックの現状はどうなっているのか。
それを聞くため、ギーは口を開こうとして。
「─────────……」
……声が、出なかった。
絶句したわけではない、何を言うべきか分からないわけでもない。
ただ単純に、突然として声が出なくなったのだ。
「……! ……!?」
インガノック。
キヴォトスの外。
元の場所。
王侯連合。
北央帝国。
カダス文明圏。
西享。
それらの言葉を口にしようとする度に、ギーの声は失われた。唇を動かすことさえできず、ただ意味の無い息だけが漏れる。そうであるならば、と備え付けのベッドテーブルに置かれたメモ紙と万年筆を掴み、書こうとした。
できなかった。
ペン先が紙に触れる寸前で止まり、それ以上進むことができない。試しに全く関係ない事柄について書けばそれは問題なく筆記できるにも拘らず、「キヴォトスの外」に関係する事柄だけは言葉にも文字にもできなかった。
今までで最大の、明らかな異常事態。
せめてこの異常性を伝えようと、ギーはリンのほうへ顔を上げて。
「しーっ、ですよ。先生」
───視界の端で空色の少女が笑っている。
今まで会ったことのない、けれど不思議と見覚えのある幼い少女。
彼女は薄く笑いながら、唇の前で人差し指を立てていた。
「……」
「……あの、先生。どうかされましたか?」
「いや……」
心配そうに覗き込むリンに、心ここに在らずといった様子で答える。
ギーは頭を振り、言葉を続ける。
「ひとつ確認したい。僕がここに来た時、他の人間はいなかっただろうか」
「? はい、先生おひとりだったと記憶していますが」
「そう、か」
それは他の者たちと全く同じ回答だった。
予感はあった。キーアは、大人となる十年後が遂に訪れることのなかった子だ。あの日、あの時、自分が救うことのできなかった命だ。きっと解放されたインガノックに戻ることがあっても、二度と会うことは叶わないのだと、理屈ではない直感として理解できる。
それでも。
再会の可能性が限りなく0に近かろうと、例え完全な0であろうとも、僕は。
「……何にせよ、連邦生徒会長に会う必要があるか」
インガノックへと戻らなければならない。
どれだけ時間がかかろうとも、僕を待つ人間が誰ひとりとしていないのだとしても。
あの日キーアに手を届かせることができなかった責任を取るために。
キーアに訪れてしまった永遠を悼むために。
いつ決めた? それは十年前。
いいや否。たった今、この瞬間に。
「僕に用意された役職に後任や代理となる人間はいない。そう理解していいかな」
「! では、先生」
「ああ。どこまで出来るかは保証できないが、この仕事を引き受けよう」
求められたのであれば応えよう。
この手で救える者があれば差し伸べよう。
そして僕に為せる全てを終えて用済みの身となった後、誰に惜しまれることもなくこの都市を去ろう。
「貴方に心からの感謝を。これからよろしくお願いします、ゲオ───」
「すまない、僕のことはギーと呼んでくれないだろうか」
心なしか弾んだ印象を受けるリンの言葉を遮り、言う。
「ええと、それは愛称、ですか?」
「そのようなものかな。紛らわしくてすまないが」
「いえ、では改めてよろしくお願いします。ギー先生」
やはりだ。
やはり、自分に向けられる笑顔と無条件の信頼。子供が大人へと向ける無垢な感情。
それがどうにも痛かった。自分は信頼に値する大人などではなかった。奉仕と使命感に溢れていたかつての名前では受け止められないほどに。
キヴォトスの平和を願う少女に対して、ただインガノックへの帰還を第一として考えているような男が、このギーという人間だった。
リンの目に耐えられなくなって視線を逸らせば、そこに映るのは透き通るような青空。
キーアが、最期に望んだもの。
「……これは、きみが望んだことなのか」
返事は何も返ってこなかった。
視界の端に、既に、空色の少女はいなかった。
◆
「それでは、必要な時はまたご連絡いたします」
幾ばくかの時間が経って、ギーはシャーレのオフィスにただひとり佇んでいた。
退院と諸々の手続きを経て、ギーが所属するシャーレの説明と各部署の紹介、そして机上に残された業務に関する引継ぎ資料の説明を終えると、リンは自分の仕事が残っているということで去っていった。
退院自体はすんなりと許可された。検査結果としては(貧血と栄養失調以外)何も問題ないことと、何よりギーが望んだことが要因としては大きかった。病院としても治療の必要のない人間をいつまでも置いておくわけにはいかないだろう。ただ食事や生活習慣に関しては厳重に口頭指導を受けてしまったが。
それにしても。
「目的の無い組織、か」
連邦捜査部《シャーレ》
それは連邦生徒会長が己の持ち得る権限をフル活用して設立した超法規的機関。連邦組織のためという名目の下キヴォトスに存在する全ての学園の生徒を制限なく加入させることが可能で、各自治区における無制限の戦闘活動さえ容認されているという。今ギーが立つ、インガノックにおいては都市摩天楼にさえ匹敵するであろうこの巨大なビルディングすら、シャーレとギーに与えられた最低限の活動拠点であるのだとか。
そこまでの圧倒的な権限を持ちながら、シャーレには明確な目標が存在しない。
そのことを問えば、リンは「先生のやりたいことをやって良い、ということですね」と笑って答えた。
自分の、やりたいこと。
何ともお誂え向きな題目だった。やりたいことのない男に、自分のやりたいことをやれ、とは。
十年にも渡って突き動かされた代償行為の数々すらトラウマに起因した強迫観念に過ぎなかった自分には、あまりにも出来すぎた皮肉だった。
「……」
備え付けの椅子に座り、小さく息を吐く。微かな声が吹き抜けとなったオフィスの空間に響くことなく溶けて消えた。
ひとり、だった。
思えば、近頃は随分と騒がしい日々だったように思える。
アティがいて、時たまパルにルポにポルンの三人が遊びに来て、キーアとルアハという同居人まで増えて。ひとりきりの時間というのはほとんどないに等しかった。
楽しかった、のだと思う。彼らの暖かさを感じるごとに、自分はささやかな充足感を得ていた。
ひとりだった。
今はもう、そしてこれから二度と、この冷たい体に彼らの熱を感じることはない。
寒々しい静寂だけが、辺りを包んでいた。
(感傷か。そんなものに浸る暇など無いだろうに)
振り返れば、そこに広がるのはキヴォトスの空。
オフィス背面のガラス張りになった壁から見える空は、抜けるような青から焼けるような赤色へと変じていた。
夕焼けという言葉を、ギーはこの日初めて知った。
(利害の一致だと、勢いで承諾してしまったが……そもそも僕はこの都市について何も知らない。
仕事については追々把握すればいいとして、まずはそこからだ)
僅かに見た設備や手元にあるシッテムの箱といった携帯端末を見るに、この都市の技術水準はインガノックや王候連合の100年は先を行っていると考えていい。
技術発展がもたらす影響は生活環境の変化だけではない。そこに暮らす人々の意識、価値観、風習に法整備。世界の違いとはすなわち人々の違いであればこそ、都市と住民の現状について理解を深める必要があった。
巡回医師を続けるだけならば自分が死なないことのみ考えればいいが、ここで求められた役割は曲りなりにも教職であればこそ、そういった部分を蔑ろにするわけにはいかなかった。
つまりはどういうことか。
この部屋に閉じこもっていても話は始まらないということだ。
ギーはおもむろに立ち上がると、ハンガーラックに掛けられた薄手のコートを取り、官給品の白シャツの上に羽織った。
いい加減、外の空気を吸いたかったのだ。
◆
シャーレのビルディングは巨大である。
都市摩天楼にも匹敵し得るというギーの目測に違わず、オフィスから出て一階を歩くだけでもそれなりの時間を要した。一階にはギーが目指すエントランスの他に運動コートや視聴覚室、教室、図書館、射撃場、実験室、格納庫があり、階層を上がれば広大な居住区とそれに付随する多数の生活・娯楽施設が完備されている。果てはギーが収容されていた病棟までもあるというのだから驚きだ。
恐らくやろうと思えば生まれてから死ぬまで一度もこのビルディングを出ることなく一生を過ごすことさえ可能だろう。ギーひとりが利用するには明らかに過剰すぎる設備の数々は、つまりそれだけの多人数の利用が想定されていることを意味していた。
所属に関係なく望んだ生徒を加入させることができる、というリンの言葉が思い出される。各自治区における無制限の戦闘許可といい、連邦生徒会長は一体何を想定してシャーレなどというものを作り上げたのか。
益体もつかない思考に埋没しながらエントランスロビーに足を踏み入れると。
そこには先客の姿があった。
「───……」
凛然とした少女だった。
灰がかった色素の薄い長髪が夕日の赤い光の中でブロンドのように輝いていた。彼女は入り口脇のソファに姿勢よく腰かけていたが、こちらの姿を確認すると小気味良い所作で立ち上がり、気持ち早足で歩み寄ってきた。
「あの、初めまして。私は守月スズミと言います。
いえ、厳密には昨日もお会いしているのですが……」
「ああ……」
その言葉にギーは得心する。リンから聞いた説明と合わせて考えれば、つまり。
「見苦しいところを見せてしまったようだね。本意ではなかったとはいえ、すまなかった」
「そんなことは……それより先生が無事で良かったです」
ギーはキヴォトスに来た当初、各学園の面々が集まる場で倒れてしまったのだという。しかも血塗れで、だ。
考えるまでもなく子供に見せていい光景ではなかった。気の弱い子であるならトラウマにもなりかねないだろう。
他の面々にも正式に詫びを入れなければならないな、とそこまで考えて。
「ところで、今日は何故ここに?」
「……はい。えっと、ですね」
スズミと名乗った少女は少しだけ言葉に詰まり、その赤い瞳でじっとギーを見つめて。
「先生、少し私と話をしませんか?」
そういうことになった。