碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
───私は今日も彼女を見る。
───誰かを求めて彷徨い歩く、小鳥遊ホシノの姿を。
遠い記憶。欠けた現実。
もう一年も前のことだ。その時のことを、十六夜ノノミは何もかも覚えていた。
もつれるような足取り、焦点の合わない瞳。髪も肌も服も汚れて、茫洋と手を伸ばす姿。掠れる声、頬を流れる涙。うなだれた首の角度、声にならない唇の動き。何もかもを克明に思い出せる。
ただひとつ。
ただひとつだけを、私は想う。
(どうして……?)
どうして、この人は諦めないのだろう。
いつまで、この人は砂漠を彷徨うのだろう。
誰もいなくなってしまった都市。輝ける明日が遂に訪れることのなかった学園。
全部忘れてここを去れば、何も苦しむことなどなかったというのに。
現実は物語じゃない。バッドエンドを迎えようと、人生は終わることなく続いていく。
今ある日常は、そんなありふれた後日談に過ぎない。
私は彼女を見る。今日も。
後輩たちに囲まれて笑顔を浮かべる、本当は何も笑ってなどいない、小鳥遊ホシノの姿を。
バッドエンドの後に続いてしまった、灰色の現実の中で。
今日も、私はホシノ先輩を見つめ続ける。
ああ、けれど。
───けれど、もしも全てが夢ならば。
♰♰♰♰♰♰♰
「───さて」
男は言った。
それは、異形の男だった。
黒いスーツを身に纏った企業人にも見えるが、最大の異常は頭部にある。
男の顔面は揺らぎ、黒く染まり、所々がひび割れて眩く白い光を放っている。
奇怪な存在。その様相は彼をそう思わせる。
彼は決して自らの名を口にはしない。
見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに奇妙な男であった。
───黒服。
それが今の彼の名だ。
所属する組織は《ゲマトリア》。
かつてキヴォトスにて《神》の再演を求めた成れ果て。その名を拝借しているに過ぎない。
すなわち、全てがまやかしである。
名も、組織も。
全ては借り物であり、真実ではない。
───もっとも。
───彼の真実を知る者など、そう多くはない。
その数は、このキヴォトスなる都市の真実を知る者と概ね同じであるはずだ。
たとえば───
今も視界の端で笑い続ける空色の少女であるとか。
黄金螺旋の麓で己が狂気を叫ぶ赤い女であるとか。
その名に意味はない。彼は自らというものを持たない。
その姿に意味はない。彼はひび割れる漆黒の下に顔さえ持たない。
都市すべての事象を観測しているというその男は、眼前の何者かへと語りかける。
都市に臨む高層ビルディングの最上階。最も空に近いとされる場所。
デスクに座る黒服と、もうひとりの"誰か"がそこにいた。
「さて。私はここに提案するでしょう」
───決して拒めない提案を、ひとつ。
───決して避け得ぬ未来を、ひとつ。
「至高なりしはこの世にただひとつ。我ら《結社》が総帥たるヘルメース師」
「すなわち。アルトタス=トート=ヘルメース」
「しかし。かの師の威光をも凌ぐものが。
この基底現実に在り得ざる都市にて再演を果たすのでしょうか」
黒服の声には笑みが含まれている。
対する何者かは、無言。
「契約の進行は順調です。既に篝火は二つが灯されています。
いずれタタールの門は再びその扉を開くことでしょう」
「ただひとつ懸念を申し上げるならば。
黄金螺旋の果てに至った彼の者が、既に都市を去った《未来編纂者》の立場に就いていることですが」
「あれは貴女たちが望む《願いの果て》ではないと。
梔子ユメもまたそう仰るに違いありませんね?」
黒服の声には嘲りが含まれている。
対する何者かは、無言。
「成る程」
「そういうこともあるでしょうが、
そうでないこともあるでしょう」
「では、小鳥遊ホシノさん。我らが親愛なる《
「───あなたは、神を目の当たりにしたことはありますか?」
♰♰♰♰♰♰♰
また明日会いましょう、と彼女は言った。
笑顔。信頼と共に、そう言ってくれた。
「……」
そこはアビドス中央病院の一区画。黒見セリカが運び込まれた一室。
心電図の規則正しい音だけが響く静寂の中、ギーは言葉なく彼女を見つめ続けていた。
セリカの身体に異常がないことは何度も確認済みだ。
その脳も、内臓も、骨格も、神経も、何もかもが正常のままだ。
それでも彼女は目を覚まさない。
傷つく者を取りこぼさないための技術は、この都市においてすら、何の役にも立たなかった。
「先生……その、セリカちゃんは……」
「心配はいらない。じきに目が覚めるだろうさ」
その言葉の、何と白々しいことか。
現象数式の解析も現代の医療技術も、この異常事態を詳らかにはしない。
ただひとつ言えることは、セリカは生きているということ。
何の異常も損傷もなく、隣のベッドに横たわるアヤネと同じように。
だから希望的観測を持って悲観しすぎることはないようにと。
そう言うことしかできない自分の、何と滑稽であることか。
「そう、ですよね……あんまり気落ちしてたら、セリカちゃんが起きた時心配させますよね」
アヤネの瞳が揺れる。ギーはこれ以上取り繕う言葉を持たず、無言で視線を逸らした。
その先で、自分の手が見えた。
伸ばしても何にも届かなかった、自分の手。
やせ細りごつごつとした、疲れ切った、老人のような手だった。
ギーは右手を差し伸べ、セリカの額に触れる。
次いで数式が起動し、脳の中に認識が拡大。セリカを構成する情報の全てが脳内に流れ込む。
やはりというべきか、セリカの肉体に何ら異常はなかった。しかし外傷や疾患、機能障害とは別種の異常を示す数列が脳内に表示される。
疲労、だった。
セリカの体は、この歳の少女とは思えないほどに、慢性的な疲労に苛まれていた。
筋肉の硬直に血流の悪化、自律神経の乱れ、ストレスによる胃腸の荒れが顕著に現れている。
命が云々という場では意識的にしろ無意識にしろ見逃すだろう些細な不調の数々。
だがそれは、対策委員会の面々が置かれている状況が如何に過酷であるかということと。
何より黒見セリカという少女が、その苦難に対してどれだけ懸命に抗っているかという証左でもあった。
「……」
ギーは、無言。
彼は何も言えなかった。
何を言う資格もないと思った。彼には少女たちを正しく導く義務があったが、しかし人の道を説く資格はなかった。義務は権利に優先するが故に、昨日はああした説教めいたことを言ったが。やはり本来、ギーに彼女たちをどうこう言えるだけの資格はないのだと、そう強く思う。
ギーは脳内に表示された数列を弄り、元の形に修復していく。
現実時間にして10秒。たったそれだけで修復作業は完了した。
不意にセリカの表情が和らいだ……ように思う。
ギーにできることは、それで終わりだった。
「あの……先生、それは……?」
「手品だよ。ただのつまらない手品だ」
当然湧き出る疑問を誤魔化してギーは立ち上がる。
そこに、アヤネの声が投げかけられた。
「先生……こんなことを言えた義理ではありませんが、それでも。
皆さんのこと、どうかよろしくお願いします」
「……」
任せろ、とは即答できなかった。
ギーは振り返ることもなく、ただ端的に返した。
「善処する」
ギーは責任を持って言えるのは、ここまでだった。
彼女たちに嘘は吐きたくなかったのだ。
◆
アビドスの面々の反応は、驚くほどに冷静だった。
セリカが倒れたこと、意識不明であること、命に危険がないこと、異常はないこと。
それらを耳にした彼女たちは、アヤネの時のように取り乱すことはなかった。
薄情なわけではない。単なる慣れだ。
何事もそうだが、二度目ともなると混乱は少なくなる。
それは単に、ただそれだけの話に過ぎない。
代わりにもたらされるのは悲観と停滞だ。
元々が片手で数えられる程度の人数しかいない集団である。少ないからこそ結束は固く、ひとりひとりが替えの利かない人員となる。能力的にも、心情的にもだ。それが二人も欠けた現在、アビドスに残された者たちの士気は明らかに落ちていた。
「きっとみんな疲れてたんだよ。この機会にきちんと休もうよ~」
というホシノの解散宣言と共に各自自由行動となっている。
アビドス対策委員会は今、開店休業状態だ。
ギーとしても特にやれることはない。
ヒマリに依頼した調査結果はまだ出てないし、彼女が送ると言っていた砂漠調査のための追加人員が到着するのは二日後だ。やれることと言ったら待機か、アビドス校舎を攻撃してくる武装集団への専守防衛くらいなもの。後者に関しては現状その気配が一切ないし、そもそもギーの出る幕はない。つまり、やることがない。アヤネとセリカの治療も、そもそも治すべき異常がないのだからどうにもならない。何もできない、まるで置物になった気分だった。
目ぼしい収穫は見込めないだろう資料整理の続きでもしようか。
ギーが校舎に戻った時はそんなことを考えたりもしていたのだが。
「あっちむいてホイ」
「ホイ」
「ホイ」
「ホイ」
「ホイホイホイホイホイホイホイホイ」
「「ホイ」」
……一度深呼吸をして、目の前のことについてじっくり考えてみた。
とは言っても実際行われていることは単純なので考える必要はない。「じっくり」というのは呆然となったギーの思考が落ち着きを取り戻すまでに要した数瞬のことである。
アツコとシロコがあっちむいてホイをしている。
それは別にいい。息抜きの必要性は言うまでもないし、そもそも彼女たちは学生なのだから、自由時間で何を遊ぼうと問題はない。むしろギーとしてはアツコが他人と親交を深めてくれるのはありがたかった。彼女は兎角無口で抑揚が少ない。感性自体は年相応なのだが、感情を表出させるのがあまり上手くないのだ。アツコは優しい子だが、初対面の人間からは誤解されることもあるだろう。そういった面は、これから多くの人間関係を築いていく中で徐々に改善していけたらと考えていたから、シロコがアツコと仲良くしてくれるというなら何も言うことはなかった。
と、ここまでは良い。問題は次だ。
尋常じゃなく速い。
じゃんけん、指と首の振り、更に次の勝負へ移行するステップが異様なほど速かった。まるで録画した映像記録を数倍速で見ているかのような違和感。それでいて出鱈目ではなく互いに勝負が成り立っている上でこの速度なのだから、傍目からはよくできた殺陣を見ている気分である。
呆けた気分で眺めていると、そのうち二人の動きがピタリと止まる。シロコの指と、アツコの顔の向きが合致している。シロコはおもむろに両手を掲げると、いつも通りの無表情からふんすと鼻息を出して。
「あいむうぃなー、かんかんかん」
「むぅ……」
どうやら勝ち誇っているらしい。対するアツコはどこか不満げだった。
どう声をかけるか考えあぐねていると、二人はこちらに気付いたようで。
「ん、おかえり先生」
「……これは、いったい?」
「んー、普通にゲーム?」
「……戦闘訓練」
「じゃあ、手合わせってことで」
あくまで軽いシロコと、ほんの少しむくれるアツコ。
その微笑ましい様子が姉妹のようにも見えたのは、かつて都市で囀っていた双子の情報屋を髣髴とさせたせいだろうか。
ともあれ。
「手合わせ?」
「本当は模擬戦闘をしたかったんだけど、今は私たちしかいないし、襲撃に備えなきゃだし。
あと、先生も巻き込んじゃうかもしれないから」
「アツコは強いよ。磨けば光る、ダイヤの原石。
そして私はアツコに三連勝。いぇい」
ピースサインを向けるシロコと、やはりむくれた様子のアツコ。
表情こそ少ないが、どちらも感情豊かな子だった。
「確かにアツコは強いね。僕も頼りにしている。しかしどうして今、そんなことを?」
「ん、先生に言われて私は目が覚めた。遊びや中途半端な気持ちで銀行強盗をしちゃいけないんだ、って」
それはそう、なのだが。
どうしてだろう。シロコの言い方にどこか違和感を憶えてしまうのは。
「だから私は銀行強盗をするなら本気で、人生を賭けてやるって決めた。
見ていて先生、きっと華々しく完璧にやってみせるから」
「やめなさい」
やはり雲行きの怪しい話になった。
シロコはほんの少しだけ笑いながら「冗談だよ」と言いつつ。
「そうやって私たちは日々努力するのでした。
目指すは打倒ホシノ先輩。またそろそろリベンジするつもりだから、先生も応援してね」
「ああ、それは構わないけれど」
打倒ホシノ。
アツコの強さはギーも知るところだ。最初に会った日、機関兵を打ち倒した動きは素人目に見ても洗練されたもので、彼女が特殊な訓練を受けているだろうことは理解できるほどに。
それよりも強いというシロコが、打倒を目標とする人物。
それが、あの小鳥遊ホシノであるというのか。
カヨコに言われたことを思い出す。小鳥遊ホシノに勝てるビジョンが見えない、と。
誰もが口を揃えて言う。小鳥遊ホシノは、強い。
「ホシノは、それほどまでに強いのかい?」
「ん、今まで一度も勝ったことがない。最初に会った時からずっと」
シロコは少しだけ遠い目をする。
過去を思い出すような、そんな目。
「でもホシノ先輩も少し変わった」
「……変わった?」
「ん、少し余裕ができたというか。
前までは何かに追われてるみたいだった」
追われる。
生き急ぐ。
それは、どうして?
「私も詳しいことは知らないけど、前はホシノ先輩ともうひとりでアビドス生徒会をやってたみたい。先輩が副会長で、その人が生徒会長。その人がアビドスをやめて、生徒会は先輩だけになったんだって」
そしてホシノは今現在をしてアビドス生徒会の副会長に就いている。
アビドス生徒会長の座は空席のままだ。
そうしているのはホシノの意思であるのか。それとも。
「で、ホシノ先輩に拾われたのがこの私……!
悪名高き覆面水着団の2号、ブルーというわけ」
「ちなみに私は6号のブラックロイヤルだよ。ふふっ」
「やめなさい」
少し引っかかる部分もあったが、おおよそのところは理解できた。
ホシノ。何かに追われていたという、素顔を見せようとしない少女。
アビドスを、そしてギーの知らない何かを背負う子。
「アツコ。すまないが、今日の夜は外に出る」
「……えっと、それなら私も」
「いや、君はここで待機していてくれ。なに、大したことのない私用だよ」
確かめなければならないことができた。
本当に大したことはない───過去の確認だ。
◆
誰もいない教室は、涼やかな静けさを保っていた。
人の少ないアビドスでこうした時間は珍しくない。けれど、アヤネとセリカが入院した今となってはかつての賑やかさは遠くなってしまった。アツコとギーの去っていった扉を見つめながら、トレーニングの続きでもしようかとシロコは思い立って。
「───だーれだ☆」
後ろから目を隠されてしまった。
ふわり、と揺れる体。微かに鼻腔をくすぐる香料の香り。
誰だも何も、こんなことをする人間はひとりしかいない。シロコは確信を持ってその名を言う。
「……ノノミ、背中が苦しい」
「はい、正解です☆」
体を離し振り返ってみれば、そこには見慣れた笑顔があった。
十六夜ノノミ。笑顔を絶やさない明るい子。
彼女は両手を振りながらニコニコと笑いかける。
「シロコちゃんが黄昏れてるのが珍しくって、ちょっと悪戯しちゃいました。油断大敵ですよー」
「いや別に、そういうわけじゃ……」
とはいえ、油断大敵という言葉は効いた。
気を抜いていたのは確かだが、まさか簡単に後ろを取られるとは思ってもみなかった。
というか、ノノミは一体いつこの教室に入ってきたのだろうか。
扉はずっと見ていたはずだけど、誰かが立ち入る気配も音もしなかったはずなのに。
「ノノミ、いつからいたの?」
「先生たちが出ていくちょっと前から、ですね」
「なら普通に入ってきたらよかったのに」
わざわざ覗き見するようなこともないだろうに。
ノノミはそれには答えず、ただ笑って。
「それにしても……ふふ」
「うん?」
「ううん、シロコちゃんとアツコちゃんがお似合いだったなーって」
ノノミは笑いながら、何かを慈しむように、あるいは懐かしむように言う。
「シロコちゃんとアツコちゃん。二人はそっくりで、並んでると双子みたいで。
まるでおそろいのお茶請けのお菓子みたいに可愛かったなー」
「ん……」
言われ、少し困ってしまう。
褒められるのはいいけれど、可愛いと言われると複雑なものがあった。
何というか、気恥ずかしい。
嫌というほどじゃないけど。やっぱり、困る。
困る。だから、無理やりに話題を変える。
「ところでホシノ先輩は、またどこかでお昼寝?」
「うーん……」
ホシノがふらっといなくなるのは珍しくない。
ふらふらと何処かをぶらついて、よさげな昼寝ポイントを見つけるのはアビドスの日常だった。
ノノミはちょっと考える素振りを見せて。なんでもないように。
「───多分、黒服さんのところじゃないでしょうか」
「……黒服?」
聞き慣れない単語。
アビドスには似つかわしくない表現。
個人の名前ですらない。それは一体、誰のこと?
「まあ、そのうち戻ってくるでしょう。それまでに会議の準備だけ終わらせちゃいましょうか」
「……ノノミ」
「うん?」
「ノノミたち、何か隠してる?」
それは明日の予定を聞くような、何でもない声音だった。
対するノノミもまた、いつもと何も変わらない態度で。
「だとしたら……」
あるいは、
「だとしたら、シロコちゃんはどうします?」
「別に、なにも」
あら、と漏れた声はきっと素のものだった。
ノノミの目は意外なものでも見るかのように見開かれる。
「シロコちゃんはそれでいいんですか?」
「ん、いいというか……ノノミや先輩のことは信じてるから。
言わないってことは何か理由があるんだろうし」
だから別に……と、シロコは言い終える。
ノノミはただ無言でシロコを見つめていた。1秒、2秒と過ぎて、やがてシロコを見つめる目は柔らかに細められて。
「……やっぱり、シロコちゃんは可愛いなぁ☆」
「ノノミ。それやめて。本当にやめて」
穏やかな午後。
それぞれの抱える事情の切迫さとは裏腹に、日々はそのようにして過ぎていくのだった。
♰♰♰♰♰♰♰
───巨大な機械が駆動する重低音。
───装甲部の隙間が擦れる金属音。
───そして、断続的に響き渡る巨大な破砕音。
夜の暗がりに在って。
漆黒に閉ざされた小道を走る小さな人影があった。小柄な体躯、少女のようにも見える。
少女は走る。何かから逃れるように、或いは何かを求めるようにか。
規則正しく漏れる少女の吐息は、夜の冷たい空気に溶けて消える。
それは同時に響く轟音───積み上がった瓦礫を砕く巨重の前脚に比すれば、あまりにも小さな音だったから。
そう噂される存在がある。夜な夜などこかに出現し、不運な生徒を襲うのだと。
ここ数日アビドス自治区に出現した影。その正体こそがこれだった。
鋼鉄はフォークロアなどではない。それは確かな実体を伴って現実に存在する。
真偽を知る者は少ない。だが事実としてその鋼鉄は暗がりの瓦礫をいとも容易く破砕していた。
少女の吐息。
鋼鉄の轟音。
二つは徐々に、徐々に近づいていく。
やがて二つの距離が完全に狭まり、重なったその瞬間。
「───何をしているんだ、ホシノ」
声が聞こえた。
それは鋼鉄が破壊される轟音の中にあって、不思議なほど明瞭に耳へ届いた。
少女は振り返る。鋼鉄の怪物を背に、今まさに砕かれていく怪物を一瞥さえせずに。
振り返って、笑う。
「なんだ。見つかっちゃったか」
───鋼鉄の怪物が、鋼鉄の怪物を破壊していた。
それは奇妙な光景だった。都市伝説に語られる《怪異》が、二体いた。
一つは四足獣のようなフォルムを持つ、体長十フィートほどの巨大物体。建物を一足で踏みつぶせそうな威容は、しかし見るも無残に破壊され尽くして。
一つは異形の人型。それはホシノの足元の影から現れて、彼女の背後に音もなく佇んでいる。体長は三フィートほど。四足獣の鋼鉄に比すればあまりに小さく、ともすれば前脚の一撃で容易に吹き飛ばされそうなほどであるのに。
ギーは見た。
人型の鋼鉄が右腕を掲げた瞬間、その掌に集束する光と力を。
それは帯電する紫雷を備えて。空気の灼ける特有の音とイオン臭と共に破壊の一撃を放った。
漆黒の空を駆ける、一条の雷光。
一撃。ただの一撃で四足獣の鋼鉄は粉砕された。ばらばらに、粉々に、打ち砕かれて。
今も周囲に反響する甲高い音は破壊された鋼鉄のあげる悲鳴だった。口を形成しての慟哭は、夜の街を震わせている。
ギーは、この感覚に覚えがあった。
肌が総毛立つ戦慄。脳内器官さえも圧迫する負荷。
それは獣も、怪異も持ち得ない感覚。人だ。人だけが持つもの。
人だけが持つ殺気。殺意と呼べるもの。
ギーはその鋼の影を知っていた。
それはかつて自身の背後に在ったもの。
ケルカンの、レムル・レムルの、ヨシュアと共にあったヨハンの背後に佇むもの。
───《奇械》
背後に御伽噺の奇械を顕して、今まさに異形の鋼を打ち砕いたホシノは、朝に路地ですれ違ったような気軽さで。
「こんばんは、ギー先生」
いつも通りの脱力した笑みで、そう言うのだった。