碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
───瞼を開く。
黒見セリカが目を覚ました時、まず認識したのは白い天井だった。
柔らかな光、揺れる影。清潔さを感じさせる白色の壁。自分の部屋じゃない。
一体どうしたんだろう。私はなんで、こんなところにいるのだろう。
考えがまとまらず、寝ぼけ眼で何度か瞬きをして。
ああそういえば、今日は先生と約束をしているんだっけ。
それじゃあ、早く支度をして登校しないと。
そう、思ったのだけど。
「───セリカちゃん?」
その声を聴いた時、セリカは自分の置かれた状況を全て理解した。
声がしたほうを振り向く。仰向けに寝かされた体、しっかり洗濯と糊付けされたシーツの感触を頬で感じながら、セリカは首を右に倒す。
そこには、泣きそうな目で自分を見つめる少女の姿。
入院しているはずの、奥空アヤネの顔。
「……ああ、そっか」
原因不明だったアヤネの昏睡。
どうやら自分もそうなったらしい。徐々に冴えていく思考の中、最後の記憶が蘇ってくる。
確か、自分は自室にいたはずだ。明日の準備をして、久しぶりにバイトもない日だったから早く寝てしまおうなんて考えながら。
ちょっとだけ明日が楽しみだな、なんて思ったりして。
いつの間にか視界が黒く染まって。
痛みも予兆もなかったはずなのに、本当にいつの間にか気を失ってしまって。
そこまで思い出して、セリカの頭に浮かんだのは不安や恐怖ではなく。
なんか格好がつかないなぁ、というバツの悪さだった。
「せ、セリカちゃん……? その、大丈夫……?」
「ああ、うん。痛いとこなんかは全然……というか聞きたいんだけど、今日って何日?」
面食らった様子のアヤネが答えた日付は、セリカが丸一日以上寝ていたことを示していて。
あちゃー、なんて天を仰いでしまう。
「あー……やっぱ約束破っちゃったかぁ」
「セリカちゃん?」
「ううん、こっちの話。大したことないから気にしないで」
はあ、とため息をひとつ。それきり会話は途切れてしまう。
二人に沈黙が下りる。
互いに無言。けれど、不思議と気まずさはない。
風が吹き抜けるだけの穏やかな時間が、二人の間を流れていった。
「学校は、さ」
「はい?」
「私が倒れた後、アビドスってどうなったの?」
「えっと……特に、何も?
先生や先輩たちが頑張ってくれてると思うよ?」
「ま、そっか。一日二日じゃ何も変わらないわよね」
先生。ギーと名乗った彼と、秤アツコ。
彼らが来てからの数日は怒涛の勢いで過ぎ去っていったけれど。
考えてみれば、まだたったの数日しか経っていないわけで。
その数日で、随分と状況が変わったと思う。
いきなり取引がしたいとか言い出したかと思ったら、十億を出しますとか言い出して。
自分のバイト先がバレて大勢で押しかけられて、ブラックマーケットまで行くことになったかと思えばトリニティの子とか変な闖入者三人を巻き込んで銀行強盗なんかやっちゃって。
お説教されたかと思えば、なんだか思ってたよりこの先生って良い人なんじゃない? とか思ったりして。
本当に色々あったなぁ、と思う。
今はこうして倒れてしまったけど。先生やホシノ先輩たちが頑張ってるとなれば、まあ。
「それなら、心配はいらないか」
「うんうん、あの頑固だったセリカが心開いてくれて私も鼻が高い」
「そうそう、こうしてシロコ先輩もいるわけで」
言葉を切って、セリカは左側を振り向く。
アヤネとは逆方向、そこには同じく白い病衣を着てベッドに寝そべっているシロコがいた。
しかもなんかどや顔してセリカに親指を立てたりなんかしている。殴りたい、この笑顔。
セリカは無言で上を向いて、少し固まった笑顔のまま。
目を見開いた。
「なんでシロコ先輩までここにいるのよー!?」
三人まとめて放り込まれた病室は、意外と呑気な空気に包まれていた。
◆
「ああ、今すぐここに来てほしい。アビドス校舎だ、位置は分かるね?」
明くる朝。
ギーは携帯端末を耳元に当て、足早に校舎内の廊下を歩いていた。
砂に埋もれた一角、多くの瓦礫が残された通路。
まるで廃墟が如し様相だが、ここにいるべき住人たちが姿を消した今となってはあながち間違いでもなくなってしまった。
『そ、そりゃ分かるけど……でもいいのそれ?』
「既にアビドスの生徒は誰もいない。校舎を守る人間がいない以上、周辺の武装集団から襲撃を受けるのも時間の問題だろう。自治区間の内政干渉には該当しない、君たちは一時的にシャーレの預かりとして扱う」
電話口で対応する便利屋68の社長、陸八魔アルの声は困惑に満ちていた。
その感情を汲みたい気持ちはあったが、事は一刻を争う。
「砂狼シロコが倒れ、小鳥遊ホシノは姿を消した。今、ここを防衛できる人間はいない。
改めて依頼をする。アビドスを守ってほしい、便利屋68」
『……ああ、もう! そこまで言われたら断れないじゃないの!
いいわ、すぐ行くから待ってなさい先生! あ、すぐって言ったけど30分くらいかかるからね!』
通話を切り、懐へ仕舞う。そのまま歩調を緩めることなく校舎の一角へ向かう。
仮眠室として使用している宿直室、その扉を開き、中へ。ベッド脇に座るアツコが少し驚く素振りを見せるが、あえて無視して告げる。
「アツコ。君はこのままシャーレへ戻るんだ」
「……先生、いきなりどうしたの?」
元々そう多くない荷物を纏める。アツコは何がなんだか理解できていない様子だった。
それを心苦しく思うが、時間がなかった。校舎へ戻り、倒れたシロコを搬入し、手続きと治療を行ったその足で戻ってきたばかりのギーは焦燥を滲ませて言う。
「シロコが倒れ、ホシノが消えた。この自治区は防衛戦力を喪失している」
「えっと、それって」
「ここはもう安全地帯ではない。これ以上、君をここに置いておくことはできない」
「……ちょっと待って」
面食らった様子で、アツコがギーを引き留める。
「どういうことかちゃんと説明して」
「シロコの倒れた理由は不明、意識は回復している。ホシノは───」
「そうじゃなくて」
決して強い口調ではなかった。
けれど、その言葉には強い意志が込められていた。
ギーは自然と手を止め、アツコへ向き直る。
「ここが危ないのは分かった。けど、先生はひとりで残る気?」
「アツコ」
「私のことはのけ者にするのに、先生だけ危ないことするつもり?」
「アツコ、それは」
諭すつもりではあった。
けれど。
「先生。私は、強いよ」
「……アツコ。これはもうそういう話じゃないんだ」
「ならどういう話? 私、先生が何を言っているのか全然分からない」
アツコは頑として譲らなかった。
強固な意志の視線が、真っすぐにギーを射抜く。
「私ね、先生。今も分からないことだらけだし、いつも先生に教えてもらってばっかりだけど。でも、分かることもあるんだよ」
「アツコ、何を」
「先生、自分が死ぬことを何とも思ってないよね」
今度こそ体が固まった心地だった。
ギーは、彼にしては珍しく硬直した表情でアツコを見た。毅然とした様子。
仮面で表情は伺えなかったが、そこに凛然としたものを、ギーは覚えた。
「先生は自分のことなんかどうでもよくて、自分以外の人が傷つくのが嫌なんだよ。
そんな人に"自分を大切にしろ"なんて言われても。私、知らないんだから」
「……アツコ。何か気に障ったのなら謝る。だから」
「なら私を置いていかないで」
アツコは真っすぐにギーを見つめていた。視線を合わせて、ギーの頬に両手を添えて、言う。
「私を置いて、行ったりしないで」
「……そんなことはしないさ」
「今ちょっと間が空いた。信じられない」
アツコは聞き分けの良い子だったが、どこか強情なところがあった。
今がまさにそうだ。十日ほどを共に過ごして分かったことだが、こうなったアツコは中々に手厳しい。
ギーは観念したように、小さく息を吐いた。異形都市でのことを思い出す。どこまで行っても、ギーは少女の頑固さには勝てないのだった。
「分かった。けれど危ないのは事実だ。もうすぐここに便利屋68の面々が来る。合流したら彼女たちの指示に従ってくれ」
「うん、前に会った人たちだね」
便利屋への初回の依頼にはアツコを同伴させていた。彼女たちには一応の面識がある。
彼女たちは曲りなりにもプロだ。アツコを保護してもらう見返りは、追加で報酬を上乗せすればいいだろう。
そこまで考えて。
「アツコ、君は……」
言いかけて、少し言い淀む。
アツコは不思議そうにこちらへ向き直る。
これは聞いても良いことだろうか。少しだけ悩む。だが意を決して、ギーは尋ねた。
「君は……このアビドスのことをどう思う?」
どう思う、とは。
「どう、って」
「君は僕を心配してくれた。それは嬉しく思う。しかし。
今ここに訪れているのはアビドス自治区の危機だ。苦難に遭っているのは彼女たちだ。
君は、彼女たちと過ごして何を思った?」
つまるところ、ギーはこう聞いている。
お前は大して思い入れのない相手のために命を懸けるのか、と。
自衛能力を持たないギーを心配してくれるのはいい。
だが、現実として起きている問題は「アビドス自治区に訪れた危機の対処」だ。
ならば事態に向き合うことは、彼女たちの問題に向き合うに等しい。
ギーにはシャーレ所属の嘱託職員としての責任があった。便利屋の面々は金銭の絡む対等な取引によってその戦力を行使している。それはアビドスの抱える問題に対する向き合い方の一例だった。
だがアツコは。
アツコはギーを守るという間接的な理由のために残ろうとしている。少なくとも、今の問答ではそのようにしか聞こえない。
ならばそれはお門違いというものだ。
鉄火場に首を突っ込むならば、相応の理由は必要となる。
ならばせめて。
せめて、アツコにもアビドスへ関与するための確固たる理由を持っていて欲しかった。
これは理屈ではない。納得の問題だ。
例えば───
例えば、"アビドスのメンバーに思うところがある"とか。
「……よく、分からない」
対するアツコの返答は、そんな要領を得ないものだった。
ギーは落胆するでも否定するでもなく、続きを促す。
「分からない、とは?」
「どうして、ホシノたちが諦めないのか」
すなわち、今を以てアビドス自治区を去ろうとはしなかったのか。
「分からないよ。どうしてみんなは、アビドスを諦めないの?
みんなは生まれで末路が決まってるわけじゃない。逃げたいなら、いつでも逃げられるのに」
それはまるで、"自分とは違って"とでも言うように。
アツコは心底から不思議そうに言っていた。対するギーの返答は決まっていた。
「……さて、ね」
彼は人の心を読める異能者ではない。心を知り尽くした哲学者でも、心理療法士でもない。
まして人を見る目に優れた人格者などでは、決してない。
だからアツコの疑問に対して答える言葉は持たない。そのうえで。
「アツコ。君のことだから、本人たちにもう聞いているんじゃないか?」
「うん。みんなでいるから、楽しいからだ、って」
「それを聞いて、君はどう思った」
その問いに、アツコが迷うことはなかった。
「眩しい、って思った」
それは欺瞞の色がない、心からの答え。
「何て言ったらいいのか分からない。みんなが正しいのかなんて知らない。
けど、みんなのことは……なんだか眩しかった」
「そうか」
「先生はどう?」
それに対するギーの答えもまた、決まりきっていた。
「僕もそう思うよ」
まるでガラスの向こうを見ているような心地だった。
姿を見ることも、声を聴くこともできる。話すことだってできるだろう。けれど触ることはできないし、踏み込むこともできない。両者が交わることはない。
ギーのアビドスメンバーを見る目とはそういうものだった。自分が入り込めない、立ち行ってはならない場所で話す彼女たちを見て、ギーもそれを眩しいと思っていた。
「……アツコ。僕にはやることがある」
「先生、なら私も」
「駄目だ。これは、僕に負わされた責任だ」
アツコを手で制し、ギーは立ち上がる。
行く場所は決まっていた。迷うことはない。
背中越しに、ギーは言う。
「ホシノに会いに行く」
言葉には、決意にも似た響きがあった。
♰♰♰♰♰♰♰
空が茜色に染まっていく。
その様子を眺めながら、瓦礫に腰かけるホシノはぶらぶらと足を揺らしていた。
そこはアビドス自治区の外れ。今は誰も立ち入ることのない廃墟区画。
ホシノの周囲に散らばるのは雑多な破片と金属塊の数々だった。その残骸がアビドス砂漠近郊に集まる自律型ドローンやオートマタといった危険因子であることは、もはや言うまでもない。
その全てが砕かれ、地にばら撒かれている。おおよそ人智を超えた戦闘力を持つキヴォトスの生徒たちであろうとも、生半な人間ならば抗し得ないほどの戦力。その全てが、今はホシノの足元に散らばるガラクタと化していた。
ホシノは歌う。曲名も、サビ以外のメロディすら知らない歌の一節だけを繰り返し。
ややあって、彼女は振り返ることもなく背後へ声をかける。
「や、先生。元気してた?」
「……ホシノ」
そこに立つ人間が誰かなど、ホシノはとうに知っていた。
素人丸出しの足音など数十メートル先からでも容易に探知できる。
尤も、彼は隠すつもりもなかっただろうけど。
「何故、昨夜は姿を消した」
「いやぁ、あのまま先生に捕まってたら面倒なことになってたでしょ~。
流石にそれはおじさん的に、ねえ?」
うへぇ、と怠惰に笑う。昼行燈を気取った、他人に警戒心を抱かせない笑み。
それを彼に向ける意味は、もうあまりないのだけど。
「でも呆気なく見つかっちゃったね。セントラルネットワークでも使ったのかな?
先生もワルだね~。あれ、バレたら怒られるだけじゃ済まないでしょ」
どうでもいいけど、と一言。
「で、シロコちゃんも倒れて後はノノミちゃんだけってわけだ。
先生、ノノミちゃんは元気してる?」
「……君は何を言っているんだ」
「ふぅん。ま、いっか。先生はさ、私を連れ戻しにでも来たの?」
「事情を聞きに来た」
ホシノはそれも予想してたというように、笑う。
「それを聞いて、先生は何をするの?」
「君の体は限界だ」
おや、とホシノ。
ギーは一切にたじろぐこともなく、淡々と続ける。
「君が《奇械》を顕現させていることは理解した。それを用いて何某かを砕いていることも。
だが君の《奇械》の緒は既に砕けている。神経負荷は、計り知れない」
「機械……まあ、そういうふうに見えないこともないか。
でもね先生。何か知ってるみたいだけど、私は今やめるわけにはいかないんだよね」
やめるわけには、いかない。
それは昨夜ギーの見た、四足獣の鋼鉄を砕く一連の行動か。
それが何を意味するのか、ギーは知らない。
だがここまで連続すれば法則性を理解することはできる。今までの連日、夜になると姿を消していたホシノ。そして一晩ずつ倒れていくアビドスのメンバー。先程彼女の語った、シロコは既に倒れていることを知っている口ぶり。
あの鋼鉄と、アビドスのメンバーは繋がっている。
そして鋼鉄を砕くことは、彼女たちの何かを砕くことに等しい。
それがホシノのやめるわけにはいかない事情か。
昨夜見た光景。ホシノの背後に佇む《奇械》が、既に緒を断たれてホシノと繋がってすらいなかったことと、関係があるのか。
「あと一回で終わりなんだ。それだけで、全部終わる。
だから先生には関わって欲しくないんだけど、言うこと聞いては……くれないよね」
ホシノは笑いながら瓦礫から降りると、反応すらできない速度で銃を突きつける。
大口径の、ショットガンと呼ばれる銃種だ。直撃を受ければ即死は免れないだろう。
「これが最後の警告だよ。命が惜しければアビドスでもシャーレでもどこへなりとも帰って」
「……残念だが」
ギーは怯えるでも歯向かうでもなく、ただ淡々とした表情で返す。
「僕の帰る場所は失われている。少なくとも、今は」
「……言ってる意味がわかんないなー」
「君を置いてここを去るわけにはいかないということだ」
ホシノは鬱陶し気に顔を歪める。言葉と脅しで引かないことを理解したからだ。
ホシノとて、別に彼を殺したいわけではない。自分の邪魔さえされなければいいのだ。
1秒、2秒と時が過ぎて。やがてホシノが大きくため息を吐いた。
「……邪魔だけはしないでよね」
「分かっている。僕は君に事情を聞きにきただけに過ぎない」
そして事が済めば本格的な治療に入る、と付け加える。
「ならさ、ここじゃなんだから付いてきてよ。ただ……」
ホシノが歩き出し、ややあって振り返る。
口元には、努めて酷薄な笑みを浮かべて。
「巻き添え食らっても文句は言わないでよね」
そういうことになった。
◆
「まず最初に言っておきたいのは、私はみんなを傷つけたいわけじゃないんだよね」
共に歩き出してから小一時間。
既に太陽は沈み、空は黒く染まりつつあった。
ギーの半歩前を歩くホシノは、そんなことから切り出した。
「傷つけたくないし、まして殺すなんて以ての外。
私はね、先生。むしろみんなを危険から遠ざけたいんだよ」
「危険、とは?」
「《シャルノス》」
含みのある物言いで、彼女はそう続ける。
「聞いたことあったりする?」
「……いや、初耳だ」
「だろうねー」
けたけたと笑う。声とは裏腹に全く面白くはなさそうだった。
「実際のとこ、私も詳しいことは知らないよ。
けどね、"あれ"が駄目なのは分かる。あんなところに、みんなを落とすわけにはいかない」
「……話を聞くに、それは何処かの場所を示す言葉らしいが」
「まあね。一度だけ行った……というか、見たことあるんだよ。1年以上前に」
ま、それはどうでもいいか。とホシノ。
「んで、私の影に付き纏ってるアレ」
「……《奇械》」
「そう、それ。それであのクソでかいドローンみたいなのを破壊するのが私の結んだ契約。
黒服はあれを《
黒服。
ギーの知らない個人名が出てきた。それが、ホシノが結んだ契約とやらの主か。
「ま、機械とやらは契約の前からいたんだけどさ。
あれが何かは知らないけど、使えるものは全部使わないと。でしょ?」
「……さて」
言葉は濁しておいた。何を言ったところで、彼女の望む返答にはなり得ないだろう。
「それで、君の言う《コピー・ファウスト》を破壊することが、アビドスの面々を遠ざけることに繋がるのか」
「まあね。詳しい原理は知らないけど、あれを破壊されると《シャルノス》との繋がりを失くすんだって。これは確かな情報だよ? なにせ、正式な契約の下に提供された情報だからさ」
キヴォトスにおける契約の重要性は聞き及んでいる。
それは法的な拘束力を超えて、概念的な拘束にまで至るという。
故にキヴォトスで結んだ契約は、その全てが強制的に履行される。そこに虚実は入らない。入ることができない。
過去のアビドス生徒会のように、暴利にも等しい一方的な契約もまた履行されてしまう危うさこそあるが。
「だから私が砕く。だから、私が全部背負う。奴らは私の目に引き付けられるって話だから、探すのも接敵も楽ちんだったしね」
「目?」
ギーの疑問に、ホシノが答えることはなかった。
黄金色に染まった彼女の右目が、細く見据えられる。
「お喋りはこの辺でおしまい。さ、来たよ」
言葉と同時に。
しん、と周囲が静まり返る。元より人気のない場所で音などなかったのだが、これはそうした一般的な無音とは一線を画していた。
耳が痛くなるほどの、透徹した無音。
空気が硬質なガラスにでもなったと錯覚するような。冷たく張り詰めた気配。
その重圧をギーは知っていた。それは動物でもなく、機械でもなく、人だけが持つもの。
それは、殺意と呼ばれるもの。
───巨大な機械が駆動する重低音。
───装甲部の隙間が擦れる金属音。
───そして、断続的に響き渡る巨大な破砕音。
それは、巨大な人型にも見えた。
身の丈およそ10フィート。細身の、女性的なシルエットにも見えるそれは、やはり鋼鉄で構成された異形の人型で。
積み上がった瓦礫を巨重の脚が砕く。
生半な銃弾など通さないであろう重厚な全身装甲。手持ちの火器はおろか、機動戦車か北央帝国の戦艦級戦闘機関でも持ち出さなければ破壊はできないだろうと思わせるほどの威容。
ホシノが如何に強かろうと、彼女が異能持たぬ人間である限り鋼鉄の怪異には及ばない。
けれど、けれど。
───けれど。
「さあ───出てきなよ、化け物」
けれど、鋼の影は人ではない。
湧き上がるものがあった。それは地面からではなく、ホシノの影から。
泡の沸き立つようにして現れる。それは影。それは鋼。それは力持つ暴威の顕れ。
───《奇械》
それはかつて都市インガノックで語られた御伽噺だ。人に《美しいもの》をもたらすという彼らは、事実として破壊現象たるクリッターをも屠る力をも示してみせた。
その正体とは、何か。
ギーとて確信には至っていない。それが事実として、何故そうなったかも理解できない。
だが分かることがある。取り戻した記憶の中、かつてギーが取りこぼした命の様相。
41人の妊婦と、41人の胎児。
あらゆる全てが符合するそれらは、けれどキヴォトスにおいては無関係であるはずのこと。
何故、《奇械》が此処に在るのか。
何故、緒を失って此処に在れるのか。
睥睨するホシノの足元、鋼の影が現れたその先。
ホシノと繋がっているはずの緒は、黒い破砕面だけを晒して途切れている。
「これで最後だ。これでようやく、全部終わる」
集束する力がある。それは掲げられた《奇械》の右掌に。
人型の鋼鉄は反応できていない。その距離には未だ開きがあり、詰める前に集束した力は放たれるだろう。
《奇械》はおよそ無敵だ。ギーもその点については疑っていなかった。砲も熱も刃も毒も通じなかったクリッター、それさえも打ち砕く御伽噺の如き力。その暴威が正しく発揮されたならば、なるほど確かに、あの鋼鉄とて無事では済まないだろう。
昨夜ギーの見た、四足獣の鋼鉄のように。
しかし。
「───え?」
《奇械》の動きが、止まった。
集束したはずの力は霧散し、掻き消える。そして鋼の影は悶え苦しむように己の顔を掴み。
『オ』
『オォ』
『オ、オ、オ、オ、オ……!』
鋼。青白い表皮を湛える、鋼鉄の異形。
それは夢見るように咆哮をあげて───
声と共に。
それは、夢見るが如くひとつだけの"目"を瞬かせて。
蠢き歪んで姿を変える。
それは変形。
それは増殖。
蠢き、胎動して変化するものか。
変化。成長して産声を上げるものか。
その体表は赤熱化し。
その瞳は二つに分かれ。
口が形成され、異形の咆哮が木霊する。
そして何より。
何より、最大の異変は頭部にあった。
───ヘイローが浮かび上がっていた。
それは太陽を髣髴とさせる白光。陽光をモチーフとした紋様を四角形が囲み、更に巨大な円形が周囲に縁どられた光輪である。
ヘイロー。その意味するところを知る者は少ない。
少なくとも、それは確かな視覚情報として映りながら、個人の識別を可能にはしないのだと。
けれど違った。
小鳥遊ホシノは、その目を持っていた。
茫洋と見つめる視線の元、黄金色に輝くホシノの右目は、残酷なまでに全ての真実を暴き立てていた。
目に映るものが何であるのか、分からなかった。
脳内に直接流れ込む情報が何を意味するか、分かりたくなかった。
けれど、何よりも雄弁に語るその視界に映るものが、残酷なまでに真実を伝えていたから。
呆けたような声で、ホシノは呟いた。
「───ユメ、先輩……?」
再度の咆哮が、夜空に響き渡った。
怒りでも敵意でもない。それは、慟哭と呼ばれるものだった。