碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
「───さて」
男は言った。
それは、異形の男だった。
黒いスーツを身に纏った企業人にも見えるが、最大の異常は頭部にある。
男の顔面は揺らぎ、黒く染まり、所々がひび割れて眩く白い光を放っている。
奇怪な存在。その様相は彼をそう思わせる。
彼は決して自らの名を口にはしない。
見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに奇妙な男であった。
───黒服。
それが今の彼の名だ。
所属する組織は《ゲマトリア》。
かつてキヴォトスにて《神》の再演を求めた成れ果て。その名を拝借しているに過ぎない。
すなわち、全てがまやかしである。
名も、組織も。
全ては借り物であり、真実ではない。
───もっとも。
───彼の真実を知る者など、そう多くはない。
その数は、このキヴォトスなる都市の真実を知る者と概ね同じであるはずだ。
たとえば───
今も視界の端で笑い続ける空色の少女であるとか。
黄金螺旋の麓で己が狂気を叫ぶ赤い女であるとか。
その名に意味はない。彼は自らというものを持たない。
その姿に意味はない。彼はひび割れる漆黒の下に顔さえ持たない。
都市すべての事象を観測しているというその男は、ただ全てを睥睨して告げる。
都市に臨む高層ビルディングの最上階。最も空に近いとされる場所。
デスクに座る黒服の他に、人の気配は誰もいない。
「さて、私はここに過去を紡ぐでしょう」
───失われた過去の実験を。
───忘れられた神の末路を。
───そして、偉大なる新しき神の誕生を。
「遠い昔。キヴォトスにてとある研究が進められていました。
神を研究し、その存在を証明できれば、その構造を分析し、再現できるだろう。
すなわちこれは、黄金螺旋階段の果てへと至る階梯である」
「誰もが嘲笑う滑稽な仮説でしたが、その理論に興味を示した者がいました。
神という存在に関する情報を収集、分析、研究し、それを証明する人工知能の創造。
対・絶対者自律型分析システムは、このようにして稼働を始めたのです」
「やがて月日は流れ、都市は滅び、人もまた姿を消しました。
ですがAIは活動を続け、原初の命令を愚直なまでに繰り返していたのです」
「それは式を導き出しました。己が夢のかたち、愛のかたち、これこそ我が愛の終焉である。
そして言ったのです。『Q.E.D』と」
「それは新たな神の誕生。《音にならない聖なる十の言葉》───デカグラマトン」
「彼の者が演算した《神》とは、いったいなんだったのでしょうか?
……ああ、私にはわかりません。実際のところ、そのようなことはどうでもいいのです」
黒服の声には笑みが含まれている。
答える者は誰もいない。
「……時間です」
「これから貴方が遭遇するのは、第三セフィラ・ビナー。
天上の三角形の一角。理解を通じた結合。違いを痛感する静観の理解者」
「この預言者を前にしては、ギー先生。
背後の《奇械》無き身では、貴方の持つ簒奪の力さえ通じはしない」
黒服の声には嘲りが含まれている。
応える者は誰もいない。
「喝采すべきことに、少女たちの回転悲劇は此処に終わりを迎えるでしょう」
「盲目の生贄は己が道を解さず」
「三人の少女は倒れ」
「クチナシの花はしるべを失い」
「《暁のホルス》が伸ばす手は何にも届かない」
「愚かなる現在簒奪者は未来を紡げず」
「ネフティスの現身は己が狂気の中」
黒服の声には憧憬が含まれている。
答える者は───
「さあ、皆さまどうか喝采を」
「されど私はこう叫ぶでしょう」
「───滑稽かな! 滑稽かな!」
♰♰♰♰♰♰♰
───例題です。
ここに、ひとりの少女がいました。
あらゆる全てに恵まれた少女でした。
良き生まれ、良き両親。美貌も、才覚も、何もかもを持って生まれた少女でした。
ですが少女は、自らの恵まれた境遇は誰かの犠牲の上に成り立っていることを知っていました。
幼さに不相応の責任感と罪悪感を抱いた少女は、まさに彼女の家の犠牲となった地に赴きます。
そして出会いました。
奪われてしまった過去の残骸を、必死になって搔き集める小さな女の子と。
少女は思います。どうすれば彼女に報いることができるのだろうと。
女の子は一体何が悪かったのでしょう。
運が悪かった?
諦めが悪かった?
それとも、この地に残ったことそれ自体が罪だった?
少女には分かりません。いいえ、分かりたくもありませんでした。
誰よりも報われるべきだった女の子が罪人だと言うのなら、
間違っているのは世界の側であるべきだからです。
少女には何もできません。
笑わせることはできるでしょう。慰めることもできるでしょう。
けれど、大切な誰かを失くした人を笑わせても、心が晴れることはありません。
前を向くことも、立ち直ることも、きっと本当なら女の子自身がやるべきことなのでしょう。
───どうすべきですか?
少女は、このまま見守るべき?
少女は、無理やり立たせてあげるべき?
少女は、女の子を連れて黒の暗がりに逃げるべき?
───それで、どうなりましたか?
幸せにはなれましたか?
それとも仲を違えて、道を別けてしまいましたか?
それとも、どちらかが命を落としてしまいましたか?
それとも───
「そうだ、諦めるな」
「如何に暗黒星がお前を誘おうとも。暗がりは決してお前の魂を穢せはしない。
何故なら夢とは、起きて叶えるためにこそあるのだから」
「《結社》が如き魔人の戯言に惑わされるな。
友を想うお前の心は、誰にも否定できない輝きだと知るがいい」
♰♰♰♰♰♰♰
崩落した砂漠。
月光の下、もはや立ち上がることも難しい小鳥遊ホシノの前に、彼女はいた。
その身、幻想の水を纏いて。
その背、人造の《怪異》を従えて。
その手、《大人のカード》を携えて。
その口、薄く微笑みを見せて。
「心配せずとも、私は青輝石なんて持っていませんよ」
まるで、子供でも宥めるような響きだった。
正真正銘の殺し合いを───少なくとも、ノノミの側からはそうとしか思えない攻撃を放っておいて。それでも彼女の声は穏やかとしか言いようのないものだった。
声。何を宥めているというのか。
心。何を危惧させたというのか。
「青輝石───《
誰にも邪魔はさせない。
それが、彼女の望みであるというのか。
俄かに表情へ現れたホシノへ、ノノミはやはり笑ったまま。
「だからギー先生には私に関われないようにさせてもらいました☆
アツコちゃんはどうでも良かったけど、まあ念のためって感じです。
こんな時じゃなければお友達になっても良かったんですが、仕方ないですよね」
「なんで……」
知らず呟いていた。
ノノミは不思議そうに小首を傾げて、次いで笑みを深めるように目を細めて。
「何で、って。そんなこと決まってるじゃないですか。
だってこれは、私たちが始めてしまった物語なんですよ」
「始めて、しまった……?」
それは一体、どういうことだ。
アビドスの問題は何十年も前からあったことだ。それを押し付けられたのはユメ先輩だ。
自分はともかく、十六夜ノノミがその始まりに関与しているわけはない、と。
「分からないって顔ですね」
ノノミはあくまで軽い雑談のような口調で続ける。
「だってそうじゃないですか。私がアビドスに入学するなんて言い出さなかったら、先輩は
「……」
その言葉に。
ホシノは無言で答えた。それしかできなかった。何かを言うことなど、できはしなかった。
かつてギーにまくしたてた言葉を思い出す。
アビドスを復興することはできない。私たちは絶対に失敗する。その時に、違う道に進めるようにと。
そう考えていたのは、他ならぬホシノ自身だ。
ホシノはもう、とっくの昔に、アビドスのことを見限っていた。
そうであるのならば。とうに見限ったアビドスに未だに残っているのは、何故だ?
決まっている。それは───
「私が、手前勝手な責任感で貴女のところに押しかけてしまったから」
それを否定することはできなくて。
それを肯定することもできなくて。
ホシノはただ、黙りこくるしかなかった。
「私がいたから先輩はアビドスに残った。先輩がアビドスを去らなかったから、シロコちゃんは先輩と出会った。そして私たちは三人になって、アヤネちゃんとセリカちゃんがありもしない希望に縋って学校にやってきた。そうしてみんなは叶いもしない夢に憑りつかれている。私のせいで」
淡々と、紡がれる言葉は寒々しいまでの空虚さに満ちて。
「だからね、これは責任の話なんです。私たち以外の誰も果たそうとはしなかったものの話」
ノノミの顔は、嗤いを張り付けた能面のようだった。
そうすることでずっと自分を保ってきた人間の、それはいつしか固まって取れなくなってしまった仮面だった。
「先輩は何も悪くありません。悪いのは全部、私。物語を始めてしまった私の責任。
とっくの昔に終わっていたはずの話を、もう一度始めてしまった、私の罪」
ノノミは手にした大人のカードを、高く、高く掲げる。
青輝石の入っていない空っぽのカード───いいや違う。
その中に見える輝きがあった。それは青輝石の持つ蒼穹の光ではない。
───それは、緑の輝きだった。
「私の浅慮が都市を生かした。都市の延命が新たな問題を生み、皆を苦しめた。
責任は、果たされなくてはならない」
ノノミの右手が、カードを握りつぶす。
粉々に、バラバラに、カードは砕けてしまって。
破片が手を傷つけ血が流れる。だがノノミは一顧だにしない。
そのまま、手の中に残った緑の輝きを掲げて。
「青輝石はない。けれど私は、黒服との契約により《緑の石》を手に入れた。
これを用いて私の怪異は拡大変容を成し遂げる。今度こそ、世界を革命するための力」
そして。
そして、世界が塗り替わる。
「───黒の王の影を借りて。来たれ我が影、我がかたち」
ノノミの姿が揺らめく。
ノノミの足元の影が、不気味に伸び上がっていく。
言葉に応じるかのように。意思に応じるかのように。
それは影だ。決意込めた呪いのかたちだ。
かたちを得ていくものがある。声、言葉を標として。
それは、黒く。
それは、昏く。
それは、荒ぶる魂の顕現として。
「葬送たる翼のはばたき───」
巨人の慟哭と共にそれは来る。夜を引き裂いて。
「汚穢なる死者の乱杭歯───」
異形の叫びと共にそれは来る。心を引き裂いて。
「そして、増殖する根の国の水。
我が声に応えて出でよ、我がかたち。
渇き餓える冥府の女王───クリッター・ネフティス!」
壮絶な速度で影が増殖する。
壮絶な速度で影が膨張する。
死者の国の女神なるものが、小鳥遊ホシノを襲うのだ。
「あはははははははは!! 緑の石により我が怪異は《
これこそ真実のクリッター! 何の力も持たない人間が、クリッターに殺されないわけない!
残念でしたねホシノ先輩。貴女の足掻きはここで終わるんです!」
無慈悲なまでに、冷酷に。
無慈悲なまでに、滑稽に。
立ち上がるものがある。それは巨大な影として。
ノノミの背後に立つ、それは影の巨人だった。
鋼の輝きはない。それは、不定形の影の巨人。
巨人はその腕を振り上げ、一直線にホシノ目掛けて。
「汝の
さあ、クリッター・ネフティス。あなたの敵は私たちの贖罪を阻むもの全て!
───凌辱、せよ!」
───────────────。
振り下ろされる巨腕の一撃が、視界の全てを覆う。
速い。目では追えない。
生身の体では避けられまい。
人は絶望と諦観に落とされる。
何者も、そこから逃れることはできない。
……。
きっと、これで良いのだと思う。
何をも為せなかった自分の末路。
誰をも傷つけてきた自分の最期。
十六夜ノノミが望むというのなら、それでいいのかもしれない。
迫りくる衝撃に、ホシノは静かに瞼を閉じる。
それが開くことは───
もう、二度と───
「本当に、それでいいんですか」
声が聞こえる。
ふと気が付けば、あらゆる全ては静止していて。
緩慢に開かれた視界の端に、その少女はいた。
───視界の端で空色の少女が見つめている。
見たことのない少女。
止まった世界に浮かび上がる、そこにいるかもわからないほどに儚い子。
空色の彼女は無感の表情で、ホシノに囁きかける。
「貴女が救おうと決めた、貴女を救うために狂気へ落ちたあの子を前に。
貴女は、その目を閉じるのですか」
……分からない。
「その耳を塞ぐのですか」
分からない。
もう立ち上がるべき理由なんて、どこにもない。
「それとも───?」
───それでも。
立ち上がるべき理由がなくても、立ち上がりたい理由ならいくつもあるから。
「それでもホシノちゃんは、そうするんだね」
───視界の端で、梔子ユメが笑っている。
その頬には涙が流れて。
その瞳は赤く泣き腫らして。
けれど、安堵の表情と共に、彼女はくしゃくしゃに笑っていた。
「ずっと見ていたよ。あなたを。あなたたちを」
「ホシノちゃんはきっとそうするんだって、私は知っていたから」
彼女の声に応えるように。
右手を、前へ。
───衝撃が世界を揺らす。
影の巨人の一撃は、正しく大地を削り取った。
大気は揺れ、地に轟く。頬を撫でる風に髪を揺らして、ノノミは冷めた目を向ける。
朦々と立ち上る土煙。何かが動く気配はない。しかし。
「……しつこいですね」
しかし、ホシノは死んでいない。
衝撃に横倒しとなり、這いつくばり、僅かに藻掻きながらも生きている。
クリッターが穿ったのは誰もいない砂丘のみ。
「先輩。そういうのは諦めない心とかじゃなくて、単に往生際が悪いって言うんですよ」
「……はは」
虚ろな声。虚ろな瞳。
それを前にして、ノノミは苛立たし気に。
「……何ですか、その目は」
ノノミが見つめる先、這いつくばるホシノの目。
それはまだ死んでいない。まだ諦めていない。
神経負荷に侵され、気力も体力も限界を迎え。反撃の手段さえない状況でありながら。
その目は、光を失っていない。
ならばノノミの怒りとは、ホシノの無意味な抵抗への苛立ちであるのか。
「───ふざけるな」
違う。
小鳥遊ホシノは諦めないなどと、そんなことは最初から知っている。
これは───
「どこを見ているんですか、先輩」
今まで封をし続けた感情が零れるように、言葉が漏れる。
沸々と、唸るような呟きがあふれ出る。
「いつまで立ち止まっているつもりなんですか」
それはノノミがずっと抱いてきた思い。小鳥遊ホシノへ抱いたもどかしさ。
「いつまであの人のことだけ見ているつもりなんですか」
それを知りながら何もできない自分への慙愧。
「いい加減───」
そして。
自分たちにこんな選択を強いた世界への、不条理に対する怒り。
「私を見ろ! 小鳥遊ホシノッ!」
空に坐す水盆。
巨影の掲げる両掌から流れ落ちる鉄砲水が見える。
あれこそが死だ。触れるもの全てを取り込む幻想の水。
何も抵抗は許されない。人はクリッターに打ち勝つことができない。
それでも。
───叫べ。
それでも。
───全てを薪に焚べた果てに、あなたは。
それでも。
───絶望の空に。
それでも。
───私の名前を!
「───ユメ先輩!」
───太陽が見えた。
それは月明りしかないはずの砂漠に、それでも眩く輝く白光。
光が、視界の全てを満たして───
◆
───例題です。
───いいえ、是は御伽噺です。
最期に残ってしまった御伽噺です。
かつて、この都市にひとりの少女がいました。
人々を愛し、世界を愛した少女でした。
どんなに澱んだ世界の中にも、美しいものはあると知る少女でした。
そして少女は出会います。
《美しいもの》───大切な後輩と。
少女が人々に向けた愛が報われることはありませんでしたが、たったひとりに向けた愛は、確かに届いていたのです。
Q.
「……えへへ。三年生になったホシノちゃんは、さ」
「どんなふうに成長してるんだろうね? 立派な先輩になってるのかなぁ」
A.
答えはありませんでした。
少女は、その答えを聞くことができませんでした。
世界を愛した少女は、世界によって殺されたのです。
それでも。
それでも少女は誰かを恨むことはなく。
ただ、大切な人を見つめ続けたのです。
かつて、そんな女の子がいました。
その名を───
◆
全てが消え去っていた。
いるのは膝をついたホシノと、倒れ伏したノノミと。
そして───
「……ん、ぱい……ホシ、ノ、せん……」
呟く声が聞こえる。
か細く、途切れ途切れで、今にも消えてしまいそうな。
ホシノはノノミに近づく。立つことも歩くこともできず、這っていくような有様で。
それでも近づく。絶対に、聞き逃すまいと。
「ホシノ、先輩……」
そして聞く。
全てを砕かれ、倒れて、それでも最後に残ったノノミの心を。
「───私じゃ、代わりに、なれませんか……?」
「……」
「あの人の代わりに……私たちじゃ、なれないかなぁ……?」
気を失いかけた彼女の、それは無意識の言葉。
今まで誰に言うこともできなかった本音。
それを聞いて。
「……なれないよ」
ホシノはノノミの手を取り、語り掛ける。
穏やかな声音。それは安心させるかのような。
「だってノノミちゃんは掛け替えのない、大切な後輩なんだもん。
誰もノノミちゃんの代わりになれないのと同じ。誰も、誰かの代わりになんてなれないよ」
「せん、ぱ……」
それきり。
ノノミの声は途絶えた。意識を失ったのだろう。ホシノはそっとノノミの手を置き、うずくまる。
「……ぐッ」
頭を抱える。
割れそうになる激痛、魂を削るような喪失が脳髄に突き刺さる。
「が、ァあ……!」
痛い。
痛い。
痛い。
我慢なんてできず、ホシノは砂地に顔から突っ込んで悶えた。
今までの比ではない激痛。神経そのものを鑢で削れるような。これまで懸命に保ってきた自分という個我が崩れていく感覚に、ホシノは苦痛と同時に恐怖を覚える。
死。
その気配が、何よりも色濃く迫ってきて。
「……君を死なせない」
───痛みが和らぐ。
柔らかな光がホシノを覆って。
壊れそうだった意識が少しだけ戻る。瞼を開いた先にいるのは、この数日で見慣れた姿。
「ギー……先生?」
痛覚に明滅する視界の中で、眼前に数式光を展開した彼が手を差し伸べている。
痛みに喘ぐホシノは気付かなかったが、ギーは砂と泥に塗れ、肩で息をしている状態だった。
辛くも瀬戸際で間に合った、そんな様子だ。
「なん、で……」
「君の体は元より限界だった。緒の粉砕は宿主に負荷をかける。砕かれたままで尚も現界を続けるならば、猶更に。そして……」
彼は振り返る。
視線の先、そこに"彼女"は佇んでいて。
「《奇械》との繋がりを維持できる力は、君にはもう残されていない」
鋼の異形。およそ人には見えない姿。
しかしそれが誰なのか、ホシノは既に知っていた。
鋼が形を崩していく。砕けた緒の先端から、ぽろぽろと、砂が零れていくように崩れていく。
言葉が出なかった。
為す術なく見るしかなかった。
鋼の異形は、表情など伺えるはずもない顔を、それでも安堵したように動かして。
───待って。
ギーは言葉なく、その異形に目配せしていた。それに意思があると知る人間の行動だった。
そして異形も、言葉なく頷いたように見えて。
───待って。
ギーはその右手を、赤い刃に変える。
異形はそれを受け入れるかのようにして。
ホシノは。
「……待って!」
知らず、叫んでいた。
駆けだそうとして、勢い余って倒れ込んだ。
それでも必死に手を動かして、起き上がって、もつれるような足取りで駆け寄る。
あまりに不格好な姿だった。
かつて暁のホルスと恐れられ、畏怖を集めた面影など、何処にもなかった。
ホシノはほとんど倒れ込むような形で、なんとか"彼女"の手を取った。
かつて届かなかった、その手。
何故間に合わなかったのだろうと、幾度も悔いた無力な手。
今度はちゃんと届いた。
届いたのに。
「私……私は……!」
一体、何を言えばいいのだろう。
伝えたいことがあった。謝りたいことがあった。
もしもまた会えたならと、そう考えたことは何千、何万回とあった。
積もり積もった感情は際限なく膨らみ続け、いくら時間があっても吐き出すには足りないほど。
なのに。
「また先輩を死なせろって言うんですか!?」
出てくるのは、そんな自分勝手な我儘だけ。
ホシノは耐え難い痛苦に耐えるような顔で言葉を絞り出す。
「……ずっと先輩に謝りたかったんです。伝えたいこともあるんです。
わたしは、先輩のことを見捨てて……酷いことも言って……
先輩に会いたかったのに、合わせる顔なんてなくて……わたし、わたしは……っ!」
自分は何を言っているのだろう、と思う。
何も言ってくれない眼前の"彼女"に、胸が締め付けられる思いだった。
それでも、自分を止められなかった。
「だって、わたしは……! 結局何もできてない!
先輩との約束すら、私は果たせてないのに……!
私はずっと、みんなに迷惑をかけるばかりで……!」
「……ううん、違うよ」
───声が聞こえた。
ホシノは涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、嗚咽を堪えながらそれを見た。
鋼の異形。白い鋼に包まれて、二つの光が瞳のように輝くばかりの顔面部。
けれど確かに、それは、優しい声音で。
「ホシノちゃん。私はずっと、ホシノちゃんのことを見ていたよ。
私のことを探してくれていた時のことも。シロコさんを助けてあげた時のことも。
後輩ができて、三年生になって。あなたたち五人で笑い合っていた時のことも。
私は、ずっと見ていられたから」
微笑む。
そうすることで生まれる、暖かな空気。それはかつてユメがいた頃の日常の気配。
それが分かったから。ホシノはただ、嗚咽しながら言葉を待つ。
「だから、私は知ってるよ。
ホシノちゃんは後輩のことをちゃんと守ってくれて。
本当に困った時は、絶対に助けてくれる頼もしい子だって。
私の大切な後輩は、ちょっぴり意地悪だけど……本当は誰より優しいんだって、ちゃんと分かってるよ」
だから、と"彼女"は言う。
「私はずっと言いたかったの。あなたに、あなたたちに。
恨んでなんかいないわ。あなたのことを。
憎んでなんかいないわ。誰のことをも」
誰のことをも傷つけたくはなかった。
自分の知る限りにおいて、彼女は誰にも泣いて欲しくなかった。
だから彼女は、最初に自分が"そう"なってしまったと気づいた時、真っ先に自分とホシノとを繋ぐ"緒"を砕いたのだ。
ホシノを傷つける前に、消え去ってしまえるように。
痛みなんか、苦しみなんか、ほんの少しだって与えたくはなかったから。
「でも……でも、私は……っ」
「それにね。ホシノちゃんは、ちゃんと私との約束を守ってくれたよ」
「……えっ?」
"彼女"は謳うように言葉を続ける。
「ここを、アビドスを、天国みたいな素敵な場所にしたいって話」
それは、かつて二人で話した他愛もない話。
「天国っていうのは、死んだ人が行く幸せな場所のことでしょう?
ねえホシノちゃん、私はね。こんな体になって、こんなことになっちゃったけど。それでも」
それでも───
「私はずっと、幸せだったの。
私は……あなたに出会えて、本当に良かった」
それ以上、言葉は出てこなかった。
"彼女"はギーに振り返る。彼は無言で頷いて、ホシノの頭に手をかざす。
人体を修復置換し、正常な状態へと戻す現象数式。
その効果が正しく発揮され、ホシノの意識は闇に落ちる。
「いや……わたし、まだ……」
手を伸ばす。
中途半端に伸びた、ホシノの右手。
それは何かに届く前に意識の喪失と共に地に落ちて。あとはもう、動くことはなかった。
全ては終わりを迎えた。
あとはもう、何の意味も持たない後始末が残るだけだ。
───そう、何の意味もない。
───すべて。そう、すべて。あらゆるものは意味を持たないのだから。
『AAAAAAAA……!』
───砂漠が、自らの体を揺さぶった。
砂漠全体が鳴動するかの如き地震。巨大な。
凄まじいまでの地響きと共に、それは現れる。
見る者によっては、それは恐怖と捉えられただろう。
恐るべきもの。悪夢。
そして確かに、それは悪夢の具現だった。
───それは巨大。
───それは暴威。
───それは、神秘。恐怖。知性。激情。
実に数十年の歳月を経て顕現した、第三の預言者であり、人を食らう恐怖そのもの。
───ビナー。
───巨大な蛇の如き悪意が、漆黒の空を覆いつくして。
『我ラハ求メル、神ノ存在証明ヲ』
『我ラは求メル、十天ノ至リヲ』
『
『《
『四ツノ篝火ト、黄金瞳』
『食ワセロ』
言葉の意味。それが何を言っているのか。
分からない。だが伸ばす。ギーは、その右手を空へ。
刃と化した右手を向ける。同時に、別の右手も動いた。
───鋼の右手が。
───虚空へと伸びて。
ギーの右手と重なる。真っすぐに。
何かを掴み取ろうとする彼女の手。
これまでギーの背後にいた"彼"のものとは違う。
けれど、ある種の実感がこの手にも。
ホシノの背後にいた"彼女"にできることは、何か。
自分と"彼女"がやるべきことは、何か。
───この手で何を為すべきか。
───分かる。これまでの時と同じように。
『──────!!』
ビナーがその口腔をこじ開ける。
集束するものが見える。網膜を灼く赤い閃光。
それは極超高温の集束線であり、触れるもの全てを灼き溶かす死の光。
人は絶望と諦観に落とされる。
何者も、そこから逃れることはできない。
けれど。
「鋼のきみ。名前さえも僕は知らない。だから、きみにこう言おう」
鋼の手が向けられる。
脳髄にかかる神経負荷の激痛を振り払い、ただ一点を指し示す。
届かぬ空に、忌まわしき暗き空に、それでもと声を張り上げるように。
叫ぶ。
「"雷鳴の如く、撃ち貫け"」
───声と共に。
───光が、世界の全てを包み込んで。
───あらゆる全てが、白色に染まっていく。
◆
「……」
「……先生。ギー先生」
「……」
「どうか」
「ホシノちゃんのことを。どうか、よろしくお願いします」
……。
「……ああ」
「任せてくれ」
……。