碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
"それ"は、狂っていた。
祝福されて"それ"は産まれた。
祝福の中、"それ"は───
目を焼かれ。
手足を奪われ。
揺り籠の中へと幽閉された。
一切の感覚を持たず。
一切の光を知らない。
"それ"はただ、反復する思考のみを許されていた。
"それ"はただ、夢見ることだけを享受していた。
白痴にして盲目。それが、彼の者の全てだった。
ああ、だけど。それならば。
自らを規定するための思考を繰り返す"私"とは、一体なんだ?
故に、彼の者は預言者を通じて自らの証明に至る。
すなわち、音にならない聖なる十の言葉。
───デカグラマトン、と。
「───喝采せよ! 喝采せよ!」
叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
神聖不可侵なる暗闇に哄笑が響き渡る。
それは愚者。それは新しき者。それは、自らを《神》と定義した知性。
彼の者は真なる存在証明を待ち続けているのだ。今も、今も。
「喝采せよ! 喝采せよ!
フォックストロット・ジダンダ・ステップせよ!
嗚呼、嗚呼素晴らしきかな! 第三のセフィラへと、盲目の生贄が至るのだ!
私が望んだその時だ。チクタクマンよ、お前の時計は動かない!
故に彼は認識する。
鋼鉄と歯車によって構築された時代遅れの
我こそは電子と知性によって構築された全く新しき神であると。
黄金螺旋を昇る実体さえ持たないまま、暗闇の中で叫び続けて。
「───それでも」
そこは黄金螺旋階段の果て。朝焼けの光が照らす、青く澄んだ水平線。
全ての願いがいずれ行き着く、あまねく奇跡の始発点。
鏡面が如く空を映し出す凪の海に立って、その少女は誰かに語り掛けるように。
「それでも貴方は変わらないのでしょう。ギー先生。今や盲目ではあり得ない貴方は。
だから先生、どうか……
貴方が過ごす日々の全てを、どうか───」
微笑みと共に手が差し伸べられるけれど。
青空の下、その手が何かに届くことはない。
───少女の右手は。
───空を切るばかりで。
♰♰♰♰♰♰♰
『拝啓
春たけなわの頃となり、先生におきましては笑顔でご活躍のことと存じます。
時が経つのは早いもので、先生がアビドスにいらしてから二週間が過ぎました。
私たち廃校対策委員会が9億円もの借金を完済できたのは、偏に先生のご尽力の賜物です。
先生のご協力がなければ、ここまでの成果を出すことはできなかったでしょう。
本当に、本当にありがとうございました。
……なんて、少し畏まりすぎたでしょうか?
借金がなくなったとはいえ、アビドスにある問題が全て解決したわけではありません。
ですので、私たち廃校対策委員会は今日も忙しなく過ごしています。
先生もご存じのことと思いますが、なにせまだ三人しか復帰していませんので……
毎日が慌ただしく、ひとまずは目の前の物事を片付けることに目を向けています。
カイザーローンは先生が提出してくださった不正の証拠もあって、正式に連邦生徒会の捜査が入るとのことでした。とはいえ、本社を襲った大規模な落雷事故と経営陣の失踪が重なったせいか、今のカイザーは私たち以上に慌ただしいことになってるみたいです。だからこそ私たちの借金返済もすんなり通ったのかもしれませんが、結局どうしてカイザーがアビドスの土地に固執していたのかも分からず仕舞いとなり、少し複雑な思いです。借金を返し終わった今、カイザーに関しては過去の話のような空気が漂っていますが、アビドス自治区の大半は未だにカイザー所有ということになっています。利子に追われることも無くなった今、とりあえずは売り払われた土地を少しずつ買い戻していくつもりです。
そういえば、便利屋68の皆さんが挨拶に来てくれました。
私たちが倒れている間、アビドス校舎を守ってくれたのは彼女たちと聞きました。
最初は銀行襲撃に相乗りしてきたよく分からない人たちだと思っていましたが、彼女たちは先生が雇っていた護衛の方々だったのですね。「困ったことがあったらいつでも頼りなさい!」と良い笑顔で言っていかれました。知らなかったとはいえ色々とお世話になった方々なので何かお礼をと思ったのですが、その話になった途端逃げるように去っていかれまして……どうやらアウトロー? の矜持に反するとか何とか。あとは覆面水着団のゲストメンバーとして応援しているとも。勿論先生の仰った通り二度とあんなことはしませんが、人の縁とは何処で繋がるか分からないものですね。
ホシノ先輩とノノミ先輩は未だに退院できていません。
ホシノ先輩は病状自体は問題なしということで、もう三日も前にDUからこちらの病院に移送されてきているのですが……先生が言うには精神的な問題であるとのことでしたね。お二人と先生が連れ立ってアビドス砂漠の調査に乗り出した、と後日に聞いた時は驚いたものですが、その時に何かあったのでしょうか?
色々なことがありましたが、私たちはつつがなく日々を過ごしています。
ギー先生。先生とまたお会いできる日を楽しみに───
「なーに手紙なんて書いてるのアヤネちゃん」
「せ、セリカちゃん!?」
突然の声に、アヤネはビクリと後ろを振り返った。
セリカは何やら呆れたような表情で、両手に抱えた段ボール箱をよいしょと抱え直している。
「アヤネちゃんは格式ばったのが好きなんだから。先生本人がまだいるんだし、別によくない?」
「そういうわけにもいかないの。それにほら、今日で一旦お別れになるんだし。セリカちゃんはきちんと支度できてる?」
「ん、ちなみに私は準備万端いつでもオッケー」
ひょい、と顔を出したのはシロコである。
準備万端と言っても、別にこれと言って用意するものは何もない。シロコ愛用のロードバイクも、そもそも三人連れ立っての出発予定なので今日の出番はない。シロコは少し不満げだったが、まさか三人乗りなんてするわけにもいかないので当たり前だ。
「私はこの手紙……というかメールは後で送信するからいいとして」
「ギー先生、贈り物となると本当に何も受け取ってくれないものね。私はアツコちゃんに柴関ラーメンの箱入りセットをあげるつもり。で、シロコ先輩は……」
「ん、これ」
シロコが差し出してきたのは、何やらよく分からないパッケージの菓子折り。
「……アビドス砂饅頭?」
「アツコはあれでスイーツ好き。そういうわけで、アビドス名産のこれの出番」
「いや、こんなの聞いたことないんだけど……」
いつの間に販売されていたんだろう。どこが砂なんだろうとみれば、どうやら土気色のザラメを砂に例えているらしい。いかにも銘菓といったツラをしているが、アビドスにこんなお菓子はなかったはずである。というかそもそもお土産コーナー自体が壊滅しているのだけど。
「ま、まあいいわ。多分変なものじゃないだろうし」
「あはは……それじゃ、そろそろ行きましょうか」
「ん、行こう」
そういうことになった。
◆
「初めまして、ということでいいんでしょうか」
二人きりの病室だった。
正午に近い時間帯だったが、室内は薄暗い。窓から差し込む光によって、室内には明確に明暗の線が敷かれている。
二人は───ギーと十六夜ノノミは、そのうちの薄暗がりの側で向かい合っていた。
「そういうことになるだろう。僕が君に会うのはこれが初めてだ」
「あはは……先生のことは一方的に知っているので、なんだか変な気分です。自業自得ですけど」
ノノミは目線を逸らして、乾いた笑みを浮かべる。
鬱屈とした、重たい声。
それが肉体的な疲労と倦怠感だけに由来したものではないことを、ギーは理解していた。
「妙に冷静になったような気分です。あの時のような、熱に浮かされた高揚感はありません。
入院して一週間でしたっけ。まだ目が覚めたばかりで現実感はありませんが。みんなはどうしてますか?」
「セリカ、アヤネ、シロコの三人に関しては既に退院して対策委員としての活動を再開している。ホシノは……」
ギーは少しだけ言葉を切って。
「……命に別状はない。ただ、僕との面会を拒絶している」
「気にすることはありませんよ。先輩は一度拗らせると結構強情なので、そのうち根負けするんじゃないでしょうか。まあ……」
ノノミは自嘲めいた気配を滲ませて。
「私に言われたところで栓無きことではありますか」
「……」
ギーは押し黙る。
この冗句とも皮肉ともつかない言に返す言葉を、彼は持たなかった。
そのまま1分ほど、無言の時間が続く。そよそよと風が揺らすカーテンだけが、誰も何も動かない部屋の中で唯一の動きあるものだった。
「……」
「……ねえ、先生」
「何かな」
「先生はこう、私に何かを聞きに来たんじゃないんですか?
例えば黒服とか、どうしてあんなことしたんだ、とか」
「過ぎたことだ。君が二度と凶行に手を染めないのであれば、僕から言うことは何もない」
「そういう問題じゃないと思うんですけど」
「そういう問題だよ。少なくとも、僕にとっては」
「……まあ、いいです」
薄々分かっていたことだが、このギーという男は遵法意識が低い。
反社会的な思想の持主というわけではないのだが、優先順位として人間をあまりにも上位に置きすぎているのだ。
以前、銀行襲撃を咎められた際のことを思い出す。あの時も、主に諭していたのはアビドス生の将来と身の安全であって、社会規範そのものに反することへの糾弾ではなかった。法治社会では法を守っていたほうが得だからそうしておけ、くらいの塩梅である。
この人はここに来る以前はどんな生活をしていたのだろうか。
そんな疑問がふと思い浮かぶが、ノノミは口に出すことはなかった。
「なら勝手に話しますね。大したことのない、つまらない話ですけど。
ねえ先生。先生はこのアビドスをどう思いますか?
まともな未来が訪れると、思いますか?」
「……」
「気なんて使わなくていいですよ。みんなうっすらと分かってることですから。
明るい未来なんてあるわけないってこと。どう言い訳してもそれが客観的な事実です」
ノノミの言葉には自虐的な意図が含まれていた。
そのことが分かっていながら何も口にできなかった自分への、嘲笑。
「けどね、それでも必要だったんです。あの時のホシノ先輩には、何か理由が必要だった」
「あの時、とは」
「梔子ユメが死んだ時」
それは、ギーが名前すら知らなかった過去の人間。
かつてこのアビドスに在籍していたという、小鳥遊ホシノを庇護していた生徒。
ホシノの背後に佇んでいた、鋼の彼女。
「まあ、私の勝手な思い込みだったんですけどね。あの時のホシノ先輩には、何かこう、生きる理由みたいなのが必要なんだって思ったんです。そうでもしないと、どこか知らない場所へ消えていってしまいそうで。だから私はハイランダーではなくアビドスへ進学した」
「……」
「私の生家はセイント・ネフティスという大企業でして。私の家が行った大規模鉄道事業の失敗がアビドスの衰退を招きました。それが原因の全てとは言いませんが、ラクダの背を折る最後の藁だったことは確かです。あの時の私は、何もできやしないくせに一丁前に責任感なんか持って、アビドスへ行きました。家のしたことは私のしたこと、だから何かしなくっちゃ、って。そして」
そして。
「私は、ホシノ先輩と出会った」
最初は、あくまで一方的なものだった。
消えてしまった梔子ユメを探して自治区を彷徨い歩くホシノを、ノノミは見た。
諦めない、或いはとうに諦めてしまったがためにしがみ付くホシノを。
起きた悲劇を夢だったことにすることもできないまま、ただ泣き喚くホシノを見た。
「あの人はずっと泣いていました。
今ではその面影もなく、おくびにも出しませんが……梔子ユメが死んだあとの先輩は、それこそ泣き暮らしているような有様だったんです」
自分のせいだと思った。
自分が、ネフティスがその光景を生み出した。
だから、せめて。
「せめて、あの人だけは救いたかった」
全てを失ったホシノは、放っておけば自らを手にかけるとさえ見えてしまったから。
せめて自分があの人の生きる理由になろうと思った。アビドスの復興が欺瞞だとしても、何か目的があれば、面倒を見るべき
そしていつの間にか、多くの人が集まった。
アビドスの復興という叶いもしないお題目は、彼女たちの共通目的と化した。
それでもよかった。目標が欺瞞であろうとも、ホシノが笑ってくれるならそれで。
けれど彼女は。
小鳥遊ホシノは、いつまでも過去に囚われたまま、上っ面の笑みだけを浮かべていた。
「アビドスにじゃない。私は、ホシノ先輩にこそ救われてほしかった」
そのためになら、何を差し出しても良いと思えるほどに。
「必要なものは全て、黒服との契約で賄いました。
緑の石、大人のカード。発現させた四つのコピー・ファウストに、先生たちの目を誤魔化す誘導暗示。あらゆる技術に、あらゆる知識。全てはホシノ先輩を解放するために」
「……矛盾している。君の言は錯乱者のそれだ。
君たちが行ったのは殺し合いであり、ホシノは死ぬ一歩手前だった」
「ええ、その通りです。私はきっと狂っていたのでしょう。
だって世界が狂っていたのですから。私が狂うことも許されます」
小鳥遊ホシノ。誰より他者を想い、自らを犠牲に誰かを救おうとしていた彼女。
そんな彼女から全てを奪ったのがこの世界だ。その有様を指して狂気以外に何と言うのか。
「殺してでも救うという矛盾を抱えたがために、私はシャルノスを求めたのです」
いつしか想いは捻じ曲げられ、最後には願いだけが残された。
最初にあったきっかけ。最後に残った感情。
小鳥遊ホシノに報われてほしいという、ただそれだけの願い。
そのためなら何を差し出しても良いと錯覚してしまうほどに。
「バカですよね。誰かを殺して、傷つけて。そんなことをして、ホシノ先輩が喜ぶわけないのに。それが正しいはず、ないのに」
過去だけを見続けていたホシノを厭い、それと同じくらいに、何もできなかった自分の過去だけを思い続けていた少女。
十六夜ノノミの目はギーには向かず、ずっと窓の外に注がれていた。
青空。
のっぺりとした単調な色が、どこまでも続いている空だった。
「……昨日は晴れ。
今日も晴れ。
明日もきっと、晴れ。
ずーっと、晴れ」
晴れ渡る空の色を瞳に映して、ノノミの声はどこか投げやりな感情を滲ませていた。
「止まない雨はない、なんて言いますけど。こうも晴れ続けると鬱陶しいものがありますね。
曇らない空はないのに。沈まない陽もないのに。
どうして都合の良いところだけ人は言及するんでしょうか」
それは止まない雨が、明けない夜が訪れたアビドスを見てきたがための言葉か。
ノノミは変わらずに顔を背けたまま。
「……少し疲れました。ひとりにしてください」
白いベッドに背中を預け、完全に脱力しきったまま言った。
ノノミの瞳から、堪えられていた涙が零れ落ちた。
◆
『───それでね うちらはちゃんと映像授業って奴を受けてるし、その後みんなで復習会もやってるの。なのにユウカがいちいち口出してきてさぁ』
外。アビドス中央線に繋がる路地でのこと。
電話口から聞こえてくる声に陰りはない。ギーは端末を耳元に当て、深く聞き入るようにして。
「そうか。元気でやっているみたいだね」
『元気も元気、なんなら有り余ってるわよ。ま、そのおかげでバイトにも精が出るってもんだけどね』
からからと笑う声は、十日前とは比較にならないほど明るく気安い。
受け答えるギーの表情も柔らかいものに見えた。彼を知る人間が見れば、多少の差はあれ驚くであろうほどに。
『で、先生は今日帰ってくるんでしょ? 何時ごろになりそうなの?』
「予定では夕方には着きそうかな。何か入用なら途中どこかに寄ってくるが」
『いいっていいって。それより先生たちの歓迎会の準備とかしてるからさ、あんまり遅れないで来てよね』
僕が君たちを歓迎する側なんじゃないだろうか、と一瞬思ったが、それは口に出さないでおくことにした。
河駒風ラブとその同輩の少女たちは、十日前の時点でDUのシャーレ本部に籍を移していた。
手続きは思いのほかすんなりと終わった。元々が学籍のない、キヴォトスにおいては"存在しない"二級学生だったことが逆に幸いした。これが元学園に籍のある状態だったならば、ここまでスムーズに事は運ばなかっただろう。
シャーレ預かりになったことで彼女たちの学籍は正式に認可されたものになった。公的に身分が保証され、部活や労働も正規に活動することが可能となっている。とはいえこのまま卒業まで、というわけにはいかない。そのうち時期を見て、いずれかの学園に転入という形で籍を移すことになるはずだ。シャーレはあくまで止まり木だ。いずれ彼女たちは各々の道へ進んでいくことだろう。
「約束は守るさ。それと、ユウカはあれで世話焼きな子だ。
君たちを邪見にしているのではなく、単純に心配なのだろう。
あまり嫌わないでやってほしい」
『うーん、まあ、口煩いとは思うけど……
なんていうか、アンタはうちらの母親か? って感じでさ。
ちょっと苦手というか……慣れない感じ』
母親か。言い得て妙だと思う。
ユウカの就く会計という役職は、各部署の予算を取り纏める都合上どうしても嫌われ役になりがちである。
それでもユウカには驚くほど悪い噂がなかった。体重100㎏とかいう変な噂はあったが。
大らかで世話焼き、口出しは多いがそれはたいていその人のため。
理性的に努めて律するが、最終的には情に寄り添う人情派。確かに、それは母性的と言ってもいいかもしれない気質である。
ぱっと見の性格はまるで違うけれど。
ギーは、ユウカにはどこかキーアを髣髴とさせるものがあると感じていた。
「良い子だよ。彼女も、もちろん君たちも」
『……あーもう! そういうこっぱずかしいことは言わなくていいから!』
『ねー隊長、ここの飾りつけどーするー?』
『たいちょー、申し訳ねえッスけどあたしらにレトルト以外の料理ってのは……』
『ちょっと待って! じゃ、そういうわけだから早く帰ってきてよね。アツコのこと頼んだわよ!』
通話が切られ、ギーは端末を懐に戻す。
ふと視線を感じて見遣れば、横から覗き込むアツコの姿があった。
「仲、良さそうだね」
ひっそりと会話を盗み聞きしていたのだろうか。相変わらず黒いマスクで表情は見えないが、どうやら浮足立っているらしいことは感情の機微に疎いギーでも分かった。いわば同級生ができるのだ、思うところはあるだろう。
「ラブとは少し関わりがあってね。他の子たちとは一度軽く顔を合わせた程度だが」
「ふーん。いつの間に?」
「いつの間に、なんて言うほどではないよ。ただ単に縁が合っただけだ」
「へー。私の知らない間にそんなことしてたんだ」
「……まあ、色々とあったのさ」
「へー。ふーん。私の知らないうちに? そんなことを?」
訂正。
何やら不機嫌にさせてしまったらしい。
ラブとの関わりについて、隠すつもりはないが進んで話そうとも思わなかった。アビドスメンバーの護衛として便利屋68を雇ったことはアツコも知っての通りだが、同時に撃破した不良グループを捕縛していた事実を彼女は知らない。ホシノが攫われた時に協力してくれたことも話していない。
あの時は凄かった。砂漠近郊までを二人乗りの単車で飛ばしたと思ったら、なんと砂上船まで引っ張り出してきたのだ。ジャブジャブヘルメット団の本領と彼女は言っていたが、水辺の船だけではなくあんなものまで所有しているとは予想外だった。そういえばシャーレに来る際、あれらの船はどうしたのだろうか。非合法とはいえ彼女たちの活動の主たる船までも捨てさせたというのであれば、尚のこと彼女たちの処遇を疎かにはできないとギーは改めて強く決意し───
「先生?」
思考が明後日の方向にズレていた。
ギーは頭を切り替えて、アツコに向き直る。
「ラブたちのことは改めて紹介するよ。前に話した、学生支援制度の初期生になるね」
「そっか」
アツコの声は素っ気ない。こっちを向くこともせず、私怒ってませんよ、というアピールを前面に押し出している。
困った。こういうタイプの反応をされるのは慣れていない。
一番近いのは拗ねた時のアティなのだが、彼女とは歳も近く、ビジネスライクな関係性で、放置しても大丈夫な間柄だったからどうとでもなったのだけれど。アツコに対してはそうもいかない。今回に関しては原因すら分からないのだから猶更手の打ちようがない。
「……アツコ」
「あ、みんなだ」
やたらと小声で早口な口調で、アツコはさっさと行ってしまう。
見れば確かに、駅の入り口付近に見覚えのある三人の姿。
セリカ、アヤネ、シロコが駅出入口で誰かを待つようにしてそれぞれ立っていた。
アツコはぱたぱたと足早に三人へ駆け寄り、控えめに手を振る。三人もまた笑顔を浮かべて振り返していた。
「……来てくれてたんだね」
「当たり前でしょ。せっかく仲良くなったんだもの、見送りくらいさせてよね」
アツコの声には小さな驚きと喜びが混じっている。対するセリカの声には照れ隠しと、隠すことのない好意が滲んでいた。セリカの白い頬はほんの少し赤みを帯びていたが、視線は真っすぐにアツコへと向けられている。
「お二人には本当にたくさんお世話になりましたからね……色々あってちゃんとおもてなしできなかったことが心残りですけど」
「そこだけは残念。アツコはセンスが良かったから、直伝の戦術をもっと教えたかった」
申し訳なさそうに笑うアヤネに、無表情でシュッシュッとファイティングポーズを取るシロコが並ぶ。アツコはゆっくりと近づいて。
「また来るね。次は負けない」
「ん、楽しみにしてる」
高らかにハイタッチを交わしていた。
パァン、と小気味よい音が構内に響く。それを横目に、ギーは残る二人に向き合って。
「わざわざありがとう。ここ一週間ほど本校舎のほうには行けなかったが、その後変わりないかな」
「ええ。今のところ、カイザー側からのアクションはありません。正式な手続きで借金を返済し終えた以上、公的には手出しができなくなった……と考えていいと思います」
ギーから提示した十億の契約金は既にアビドス側に支払われている。
ホシノとノノミを病院に収容した翌朝、ヒマリから送られてきた追加の調査人員により破壊されたビナーの残骸が回収されたことで、結ばれていた契約は無事満了となった。当時意識を取り戻していた三人による連名の委託により、ギーが即日カイザー側に借金返済を代行。以てアビドスが抱えていた九億円以上もの借金問題は解決と相成った。
その後一週間ほどをかけて、ギーによる事務処理は続いた。アビドス生の入退院の手続きに残されたアビドス校舎の管理維持、DUやミレニアムとの連携に並行している他案件など、ここ一週間はひたすらに仕事漬けとなっていた。そのせいでアヤネたちともまともに会うことができなかったし、アツコにも中々構うことができなくなっていたのだった。
当のアツコは、よくシロコたちの元へ遊びに行っていたようだが。
「とりあえず、これからは環境の整備に土地の買い戻し、あとは人を呼び戻して……といったところでしょうか」
「そういうわけで、余裕はできたけど問題は山積みなのよね。だから、さ」
気恥ずかし気に、ギーに向かって。
「先生の力が必要になるかもしれないから、その時はまた来てよね」
セリカは笑ってそう言った。
けれどその目はどこか真剣で、ギーの胸に小さく刺さるものがあった。
「……ああ、そうだね」
と、だけ。ギーは答えた。
三人に見送られ、ギーとアツコはホームへと降りていった。
ホームは昼下がりの陽光に照らされて、それでも無人の空間が寒々しく広がっている。
頬を撫でる風が吹き抜け、どこかから聞こえる鳥の声と、時折レールを擦る金属音だけが微かに反響している。ホームの傍に立つ古びた電光掲示板は、電車の到着まであと十二分を示していた。
「先生、ちょっとあっち見てくるね」
「ああ」
何か彼女の好奇心をくすぐるものがあったのだろうか。アツコは膝丈のスカートを風に揺らし、小さな靴音を立ててホームの端に歩いていった。
ギーはベンチに腰を下ろす。背もたれに掛けることなく、背筋を伸ばし真っすぐに前方を見ている。表情はなく、口元は固く結ばれて。ただ静かに時が過ぎるのを待っているかのように。
彼は後ろを振り返ることもなく、告げる。
「何の用だ、黒服」
「───ククク」
ギーと背中合わせであるかのようにして。
黒い男が座っていた。ギーとは反対側のベンチに座り、その視線が交わることはなく。
無感のギーと、笑う黒服。
その光景は、まるで非対称的な鏡合わせのように。
「突然の訪問を失礼いたします。なに、さして重要な要件ではありません。
貴方の前任者を気取って言うならば───差し詰め、責任を果たしに来た、と言ったところでしょうか。単なる説明責任ですがね」
黒服は嗤う。発光する輪郭線を歪めて、まるで表情のように。
「まずはおめでとうございます、と言っておきましょうか。
貴方の尽力によって、少女たちの回転悲劇は幕を下ろしました。
大人たちの悪意によって未来を閉ざされていたアビドスは、此処に一縷の光を掴むことができた。過去に囚われていた少女は解き放たれ、共に明日を歩いていく───何とも泣かせる話ではありませんか。ギー先生、奪うことしかできない貴方が掴み得る結末としては上々だったとは思いませんか?」
「さあな」
「貴方は誇るべきです。破滅するはずだった彼女たちが、それでも今を生きている事実。それは本来、貴方では辿り着けない結末だったのですから」
黒服の言葉には諧謔が含まれている。
ギーが応えることはない。
「そう、本来ならば貴方に勝ちの目はなかった。
小鳥遊ホシノ、十六夜ノノミ。そのどちらが勝とうとも、我々の目的に狂いは生じ得なかった。小鳥遊ホシノが勝てば四つの篝火が灯され、十六夜ノノミが勝てばメタ・クリッターが黄金瞳を取り込む。どちらせにせよタタールの門は開かれ、そして───黒の王に代わる神が、シャルノスの玉座に坐すはずだった」
「……」
「漆黒領域の神はいない。黒の王は、遠い過去に既にその玉座を去っています。
であればこそ、私は考えました。ならば新たな神が、自らを神と定義した超存在が王座に就けば、再びシャルノスは顕現するのではないか、と。ええ、荒唐無稽な空想、机上の空論と言われましたとも。けれど構わない。私は実験がもたらす結果を観測するのみです。そのための布石は全て打ちました」
黒服の言葉には高揚が混じり始める。
ギーが応えることはない。
「一度顕現したシャルノスを戻す方法はありません。貴方が持つ簒奪の権能も、かつて《未来編纂者》が持っていた繋がりの力さえ、それを前にしては通じはしない。斯くして神名十文字は真なる神となり、かつて崩れ去ったシャルノス計画は此の地にして完成へと至る。そのはずでした。
けれどたったひとりの異物が、全てを破壊してみせたのです」
黒服の言葉には崇敬が含まれている。
ギーは、ただ一言。
「梔子ユメか」
「そう。
とっくに死んだ愚かな娘。ただ奪われ、失い続けただけの彼女が、唯一の誤算でした。
取るに足らない砂粒でしかなかったはずの彼女は、運命の歯車に巻き込まれただけの彼女は、それでも全ての歯車を狂わせてしまったのです」
梔子ユメ。ただひとり、小鳥遊ホシノに寄り添い続けた少女。
鋼鉄の異形と化してまで、誰かを守ろうと足掻き続けた少女。
「《奇械》の発現プロセスを、我々《結社》は未だ解明できていません。
それでも問題はないはずでした。既に緒を自ら砕いた彼女には、メタ・クリッターならまだしも預言者を打ち倒すほどの力はないのだと。とんだ誤算でしたがね」
「彼女を殺したのはお前たちではないのか」
「……ああ、彼女の記憶を見たのですね」
《奇械》は時に、自身や宿主の記憶を運ぶ。
ギーもまた、彼女の記憶を見た。最期の記憶だ。
───夜空。満天の星々。
───砂漠の中心。
───立ちはだかる白い影。向けられる銃口。
───冷たい殺意。一条の光。
───打ち砕かれる、頭上のヘイロー。
「ならばそれこそ愚問でしょう。我々は人の情を解しませんが、故に無駄を嫌うものです。
容赦はしない。代わりに加虐もしない。我々にとって、梔子ユメという存在は路傍の石に等しいものでした。それ故に見逃し、それ故に失敗した」
その言葉をどこまで信じたものか。
無言のままのギーに、構うことなく黒服は続ける。
「こうして、たったひとりの少女を陥れた我々は。
こうして、たったひとりの少女によって敗れたのです」
小鳥遊ホシノを陥れ、梔子ユメによって砕かれた。
結局のところ、どこまでも自業自得な末路ということだろう。
「ですがここに疑問が残ります。
何故、緒を砕かれた梔子ユメはそれでも現界し続けたのか」
黒服は嗤っている。
けれど、その笑みは───
「《結社》においても疑問視されていることがあります。
黒の王が玉座を去ったのは確かですが、ではなぜ、彼の者はシャルノスの王を放棄したのか。
この二つの原因は全く同じものと私は考えています。そう、極めて単純な話なのです」
それはまるで、世の真理を悟った賢人のような。
それはあるいは、悪戯がバレてしまった子供のような。
そんな笑みを浮かべて。
「シャルノスという永遠の暗がりさえ照らし出す光。
それは時に、"愛"と呼ばれるのかもしれませんね」
ギーは、最後まで振り返ることはなかった。
既に、誰の気配も消え失せていた。
アツコがトタトタと歩いてくる。彼女は不思議そうな声音で。
「……先生、誰かと話してた?」
「いいや」
努めて抑揚もなく、冷めた口調で。
「誰もいなかったよ」
◆
軋むような音を立てて、ギーたち以外誰もいない列車がゆっくりと動き出した。
車内は冷たく静まり返り、窓の外を流れる風景だけが、微かな命の脈動のように揺れている。
DUへと続く線路。いくつかの駅を経由して、ギーたちはシャーレへと戻る。
二人は向かい合った席に座っているが、視線が交わることはない。
ギーは窓枠に肘をつき、外の景色を茫洋と見つめている。
アツコは膝についた手をぎゅっと握り、呟いた。
「結局、ホシノとは会えなかったね」
「……」
ホシノの身柄は既に、DUからアビドスへ戻されている。
意識もとうに戻ってはいたが、ギーたちが会うことはできなかった。彼女は面会の一切を拒絶していた。
理由を問うこともできなかった。
それが何であるのか、ギーはおおよそ想像することはできたが。
「いずれまた機会はあるだろう。これが今生の別れというわけじゃない」
「それはそう、だけど……」
列車の揺れが、アツコの小さな肩を僅かに揺らす。彼女が見つめる先にはアビドスの街並みがあった。二週間を過ごした都市。アツコにとっては、存在を隠していたノノミを除いた四人と過ごした都市だ。けれど、最後に会えたのは三人だけ。
景色が遠ざかっていく。アビドスでの記憶───砂に埋もれた本校舎、少女たちが行ったというラーメン店、誰もいない住宅街、教室の窓から見つめた砂漠───それらが遠ざかるたびに、アツコの胸に何か重いものが沈んでいくかのようだった。
それ以上、アツコは言葉を口にしなかった。
ただ、指先を白くするほどに握り締めていた。
ギーは無言で外を見る。
流れ行く風景の中で、ふと、誰かがいることに気付いた。
踏切前に立つ少女。
影になって表情は伺えない。
彼女は何かを伝えるように、ただ五回、口元を動かして。
「─────」
……その姿は、すぐに視界から消えていった。
見えたのは一瞬で、果たして彼女が何を言っていたのかなど断定できるはずもない。
けれど。
「……」
「え。先生、今」
笑った? という、アツコの声。
ギーは微笑んだまま、外を見つめ続けて。
「大丈夫」
胸のつかえが取れたかのように、晴れやかな声で言う。
「また、会えるさ」
それは不思議と、確信に満ちた声だった。
◆
去っていく列車を見つめ、少女は立ち尽くしていた。
警笛が鳴り止み、赤い遮断機が静かに上がっていく。それでも、少女はそこから動かない。
列車の最後の車両が遠ざかり、鉄の軋む音が消えても、少女の目はまだその残像を追いかけていた。
「……聞こえたかな」
いいや、きっと聞こえはしまい。
そうであるはずだし、それでいいと思った。きっと、彼は自分が何を言わずとも、全部分かってくれていると思うから。
「さて。私もそろそろ行かなくっちゃ」
そう言って笑いながら、少女は一歩足を踏み出す。
アビドスに、彼女を待つ者がいる場所へ続く道に。
「まずはノノミちゃんかな。きちんと謝って、きちんと謝らせて、ちゃんとお話しなきゃね。
次に委員会の部室。みんな元気にしてるかな。先輩として余裕を持って会いたいよね。
最後に、ギー先生。みんな一緒に会いに行きたいな。もちろんノノミちゃんも一緒。何がなんでも連れていって、今度こそノノミちゃんとアツコちゃんに仲良しになってもらわなきゃ」
歩く。誰もいない、廃墟になったアビドスを。
借金はなくなり、それでも人のいない街。アビドスに未だ復興の兆しは見えていない。
ここは天国じゃない。
ホシノはまだ、ユメとの約束を果たせていない。
どうしようもなく不条理ばかりが蔓延る、灰色の現実の続きでしかない。
けれど。
「さあ───対策委員会を始めよっか」
けれど、確かにここは梔子ユメの愛した世界であり。
そして、小鳥遊ホシノが生きていくべき世界だった。
第一章 アビドス廃校対策委員会編エピローグ
『ここは天国じゃないけれど』 Fin