碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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閑話・この息苦しい世界の中で

 

 

 ───雨が降り注ぐ。

 

 そこには、何もなかった。

 灰の大地と鉛の空。人の営みは何処にもなく、動くものもまたいない。

 見渡す限りに色彩はなく、降り止むことのない雨音が耳朶を叩くばかりである。

 

 それは過去。モノクロに覆われたいつかの記憶。

 私という存在が生まれ落ちてからずっと見てきた、決して逃げられない世界の形。

 

 此の地に生まれるということは、すなわち諦めと共に生きることを意味する。

 全ては虚しく、あらゆるものは意味を持たない。

 本来子供に教えられるべき多くのことが、そんな一文だけで済まされてしまう。

 

 此処には何もない。

 富も、喜びも、慈悲も、安らぎも、祈るべき神さえない。あるのは諦観だけだ。

 

 地獄とは神の不在であるならば。

 此処はまさしく、地獄と言うより他になかった。

 

 私は歩く。視界を押し潰すような土砂降りの中、濡れそぼった髪から水滴を落として。

 重たい泥濘の只中を、私は歩き続ける。

 

 空を見上げる。

 この鉛色の空の下。きっと何処に逃げたとしても、同じ雨が体を打ち、同じ泥が足を絡め取るのだろう。

 

 私は歩く。

 いつか、この苦しみが終わるまで。

 いつか、この苦しみが終わってくれると信じたくて。

 

 私は生きている。

 この、息苦しい世界の中で。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 春を思わせる陽気に包まれた昼下がりのこと。

 教室に差し込む光は埃の粒をきらきらと浮かび上がらせて、窓の外では街路の桜並木が花びらをそっと手放し、地面に桃色の絨毯を広げているのが見えた。

 

 少女は姿勢よく机に向かいながら、同じく机に向かう気だるげな同輩たちと並んで、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。

 

「……デオキシリボ核酸。いわゆるDNAは、すべての生き物の細胞の中に眠る、命の設計図だ」

 

 スクリーンに映し出された赤と青の二重螺旋を指し示しながら、先生の声が静かに響く。

 落ち着いた、重みのある響き。決して大きな声ではないのに、体の芯にまで沁み込んでくるかのような声だった。

 

 ギー先生。

 目の前で教鞭を執っている、私の先生の名前だ。あ、今は私"たち"の、だっけ。

 

 白いビジネスシャツを着た、彼。

 意外と珍しい姿だった。彼はいつも白い外套を着ているから。白衣やダッフルコートにも似ているけど、少し違う。多機能外套。何でも、少し前に結構流行っていたんだって。これ一着あれば山にも登れる、みたいな謳い文句で。ミレニアムのどこぞの部活が開発したのだとか。山なんて、この辺じゃ全然見かけないのに。

 

 ラフな格好の彼。

 黒目黒髪の、今は眼鏡を掛けている彼。歳は多分、二十歳くらい。たまにシャーレにやってくるリンのように、大人びた生徒と並ぶと同年代に見えなくもないかな、という感じ。

 表情は少ないけれど、綺麗な顔をしていると思う。青白くて、目元に隈ができているのが難点だけれど。暗いところで見たら、なんだか幽霊みたいなのがちょっとどうかなって思うけれど。最近はちょっとだけ治ってきたかな? とも思う。

 

「このように対を成す塩基は水素結合よって構築され、この結合と規則性がDNAの安定性を保つ。

 だが同時に、この螺旋は解けることもある。細胞分裂の際、一揃えのDNAをコピーすることで二倍に増やし、それぞれの新しい細胞へ格納する。これがDNAの複製と言われる」

 

 周りの子たちはいつものように落ち着きがない。

 私の右隣にいる金髪に染めた子は、頬杖をついてペンをくるくると回している。左隣の目つきが鋭い子は、ノートに何か意味のない紋様を書いている。時たまメモが回されて、くすくすと声が漏れる。彼女たちの小さな笑い声や、椅子の軋む音が、先生の声と混ざり合う。教室の空気はどこか軽やかで、けれど散漫だ。

 

 先生はそんな空気に気付いてか気付かずか、多分気付いているんだと思う。

 先生は、あんまり厳格な態度を求めない。度が過ぎれば注意はするけれど。

 きっと今も、教室のざわめきに内心苦笑でもしながら話を続けているのだろう。彼はそういう人だった。

 

「……時間だね。それじゃあ最後に小テストをして終わろう。

 課題は出さないが、各々自分の間違えた箇所をおさらいしておくように」

 

 彼の言葉に合わせて、手元に置いてある支給品のタブレットの画面が切り替わる。

 十個程度の設問が用意された画面。アツコはすらすらと答えを記述していく。周囲からは「うあー」とか「だめだー」といった呟きがちらほらと聞こえてきた。

 

 暫しの時間を置いて解答と解説文が送信されてきて、スクリーンの光が落ちる。

 それで今日の講義は終了した。

 

 

 

 

 

 

「やあ。アツコ、君には少し退屈だったかな」

 

 講義の後。

 廊下で会った先生は、両手に資料の束を抱えながらそんなことを言ってきた。

 

 退屈かと言われると、確かにそうかもしれない。

 だってもう、一度はやったことのある内容だったから。

 

 今の講義内容は私じゃなくて、他の子たちに合わせたものになっている。

 元ヘルメット団の子たち。学籍を剥奪された、ちゃんと勉強をさせてもらえなかった子たち。

 先生が言うには、彼女たちは中学の卒業要件を満たせていないということで。だから復習にたくさんの時間を割いているんだって。

 

 でも、ちゃんと勉強できなかったのは私も同じだから。そこに不満とかはない。

 ない、のだけど。

 

「ううん、私も復習になって良い感じだよ」

「そう言ってくれるとありがたいんだけどね……」

 

 先生はちょっと難しい顔をしている。

 私は小首を傾げてしまって。何かあったのかな、何か困ってる? なんて考えてしまって。

 

「先生?」

「いや、何でもないよ。大丈夫」

 

 なんて言うものだから。私はちょっとムッとしてしまう。

 なんでもない、他愛もない会話。けど、隠し事をされてしまうとちょっぴり引っかかるものがある。曖昧に誤魔化そうとして、そういうのは好きじゃない。

 

「ふぅん。なんでもないんだ」

「……ああ、そうだよ」

「そっか。私には話してくれないんだ」

「……」

「そういうこと言うんだ。寂しいな、悲しいな」

「……分かった。けど、面白い話ではないよ」

 

 先生はちょっと困ったような、途方に暮れたような顔をする。

 

 ごめんね。困らせたいわけじゃないの。ただ、何も隠して欲しくないだけ。

 私には、私にだけは、全部伝えてほしいだけ。

 

 不機嫌ですよ、なんてアピールするのはお行儀がよくないって分かってるけど。

 私の気持ちも分かってほしいと思うのは、やっぱりワガママなのだろうか。

 こんなことを思うのも、やってしまうのも初めてだから。よく分からない。

 

「その、なんていうのかな。僕は先生と呼ばれてはいるけれど、今まで教鞭を執ったことは無かった。だから学びやすい授業というのも、ユーモアを交えた講義というのも、中々難しい。つくづくそう思ってしまってね」

「なるほど」

「今までは君とマンツーマンだったからね、まだ何とかなったのだけど。今はそうもいかない」

 

 確かに、と思う。人数が増えれば統率する側の負担も倍増する。それは当然のことだ。

 部隊人数の増えた時のサッちゃんも頑張ってたな、なんて思い返す。

 

 人には人の、違う立場にはその立場なりの苦労がある。

 それを理解しながら、けれどそれ以上に。

 

「私も、ね」

 

 先生のとある一言が嬉しくて、私はこう言う。

 

「私も、先生と二人きりの授業が楽しかったよ」

「……そうか。やはり大人数を相手にしてはまだ改善点が多いということか」

 

 先生は何やら納得しているみたいで。私はそういう意味で言ったんじゃないんだけど、でもまあ、いいのかな。

 これ以上ワガママを言って困らせたくはないのだし。

 

 そうこうしているうちに、周りには何人か他の生徒が集まってきて。手を振ってそのまま通り過ぎる子もいれば、先生と何か話したそうにしてる子もいる。かと思えば、先生の外套に掴まって「なあなあせんせー、今度みんなで遊び行こうぜー」「隊長も一緒にさ。最近張り詰めてばっかで大変だったし」「あ、もちろんアツコちゃんも一緒な」「トリニティでなんかお祭りやるんだってよ! これは偵察しに行かなきゃだよなー!」などとわいわい盛り上がったりして。

 

「ああ、それはまたおいおいね。

 それじゃアツコ、準備があるからまた後で」

 

 そう言って、先生は若干ふらつきながら歩いていく。

 その後ろには何人かの生徒たち。こちらにもばいばいと手を振ってくれて、私も小さく振り返す。

 

 私は笑う。

 マスクを着けているから、彼には決して伝わらないだろうけど。

 それでも笑いながら。

 

「うん。がんばれ、先生」

 

 

 

 

 

 

 シャーレにはいくつもの設備がある。図書館、射撃場、宿泊施設。本当に様々だ。

 菜園場もそのひとつだった。野外教室のために設置されていただろう、花壇やプランターの置かれた小さな園芸場。少し前までは、茶色い土だけが広がっていた、殺風景だった場所。

 

 今、そこには花が咲いていた。

 

 色とりどりの花。名前は分からない。雑多な、野放図に生えている雑草の種をアツコは植えた。

 どんな植物が育つかもわからなかった。花なんて、本当に咲くのかさえ。

 

 今は違った。

 暖かな風が頬を撫で、若草の香りが胸をいっぱいにする。

 雲一つない空の下、太陽が暖かくその場所を照らしていた。

 

「大したもんよね、それ」

 

 声に振り替えれば、そこには長い赤髪の少女。

 確か、河駒風ラブという子だ。アビドスにいる間に、先生が知り合ったという子。

 彼女は"よっ"と段差をジャンプし、そのままアツコの隣にしゃがみ込む。

 花壇を覗き込んで、笑いながら。

 

「猥雑っていうかさ。統一された花畑もいいけど、こういうバラバラなのも味があるって言うのかな。

 ちなみに、アンタがいない間に世話してたのはうちだから、そこは感謝してよね」

 

 言葉とは違い、恩着せがましさを全く感じさせないからっとした口調で少女は笑う。

 アビドスにいる間、花壇の世話はユウカに頼んであった。本当に最低限の、水かけ程度のものだったけれど。シャーレを空けるにあたって留守を預かる当番というのがあって、それに立候補したのがユウカだった。生真面目な彼女は当然のようにアツコの花壇の世話まで買って出て、アツコはその好意に甘えることにしたのだった。

 アビドスに滞在している間も映像通信で様子を見させてもらったりもしていた。

 とはいえラブの言うことも嘘ではない。アツコたちが帰還する直前の数日間だけではあるが。

 

「うん。聞いてるよ。ありがとう、ラブ」

「ま、他人の世話は慣れてるからね。いいってこと」

 

 何でもない風にケラケラと笑う彼女は不良然としているが、どうにも面倒見が良い。

 元々舎弟の面倒を見ていたというのはあるのだろうけど。それ以前に、何というか育ちが良い。

 アツコは彼女との付き合いは短いけれど。それでも日常のふとしたところで微妙に噛み合わないところが目立った。驚いた時は逆に荒っぽさが無くなったり、変なところで良識的だったり。

 深いことは聞かない。きっと、彼女にも色々事情があるだろうから。自分と同じで。

 

「……二人とも、ここにいたのか」

 

 振り向かなくても分かる。

 ゆっくり歩み寄ってくる彼に、隣のラブは朗らかに手を挙げて。それに小さく応えつつ。

 

「それなりに時間はかかったが、ちゃんと芽は出たようだね」

 

 私は、そうだね、とだけ答える。

 ここに来た時は何も芽生えていなかった。どんな花が咲くのか、そもそも花が咲く種なのか。そんなことすら分からなかった。

 寄り添い世話したところで、全部無駄になるんじゃないか。いいや、それが私に相応しい結末なのだろう。そう思ったこともあった。けれど。

 

「綺麗だな」

 

 変わったことと言えば、もうひとつ。

 先生は最近、よく表情を変える。

 それは他の人では気付けないほど小さなもの。ふとした時に垣間見える、ほんの小さな頬の動き。

 

 例えば、今も。

 ギー先生。いつも仏頂面で、言葉も少ない貴方。

 そんな貴方の小さな変化が、私は好きだ。

 

「けど、花しか育てないつもり?」

 

 しゃがんだ膝に手を回して、ラブが顔を上げながら言う。

 彼女はちょっと不思議そうな顔で、確かにここは園芸場だから他にも色々育てられるけれど。

 

「例えばさ、ラズベリーとかライチってのはどう? うちもちょっと本で見たんだけど、初心者にも育てやすいんだって。あ、野菜は勘弁ね。あんまりたくさん採れても食べらんないし」

「私知ってる。捕らぬ狸の皮算用って言うんだよ、それ」

「うっさい」

 

 先生は私たちを見つめて。ああやっぱり、今もそうだ。

 ねえ先生、気付いてる? 今の貴方の表情。

 

「ああ。そういうのもいいかもしれないな」

 

 私は思う。この時間が、ずっと続けばいいのにと。

 先生のことを思う。彼に抱く、名前も知らない感情と共に。

 

 それが何なのかは分からない。無理に名付けようとも思わない。

 ただ、言えることはひとつだけ。

 

「楽しみだね、先生」

 

 ───先生の隣は、なんだか息がしやすかった。

 

 

 

 

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