碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
───雨が降り注ぐ。
日が沈み黒く染まった曇天は、物言わずただ無数の雨を垂れる銀糸として降り注がせていた。
ここは都市・ウトナピシュティム地区。夜を知らぬキヴォトスの中心地。賑やかで人の多い大通りではなく路地の、ひっそりとした場所。
まともな子供は歩かない路地裏に、その少女はいた。
───白い少女。
白いフードをすっぽりと被った子だった。
とぼとぼと少し歩いて、不思議そうに街並みを見上げて。
大きく大きく首を傾げる。
どうしてだろう? と仮面の向こうの瞳が告げる。問いに答える人は誰もいないのだけど。
仮面。少女は、黒く大きな仮面を被っていた。表面を走る紋様から、時折青い電子光が瞬いて。
黒い仮面の少女。けれどそれ以外は何もかもが白い。
その服も、肌も、清廉なまでに白く。薄暗がりの路地裏に立つにはあまりにも似つかわず、まるで出来過ぎた一幅の絵画のように、儚げな白を湛えているのだった。
「……」
少女は歩く。何かを探すように、或いは、何かを求めるようにか。
見るもの全てを問う少女に届くのは、路地の向こうから聞こえる喧噪。
───曰く、とある潰れたアミューズメントパークには夜な夜な動く人形がいる。
───曰く、辺境の砂漠地帯には空を覆う巨大な影が現れる。
───曰く、夜な夜な機械の怪物が練り歩き、不運な生徒を襲っている。
───曰く、都市の果てには機関化された図書館があり、この世全ての情報が集積されている。
───曰く、空に向かって伸びる黄金の螺旋階段を見た。
道行く人々は口々に話す。
取るに足らぬ噂話の数々が、異様な数と頻度を以てまことしやかに囁かれていた。
それは連邦生徒会長の失踪に端を発する都市の混乱と不安に起因したものであるのか。
ともあれ。
少女は歩く。喧噪の波を後目に、冷たい雨に濡れながら。
何かを探すように。
何かを求めるように。
♰♰♰♰♰♰♰
キヴォトス都心部。ウトナピシュティム地区、またの名をDU。
そこは人で充ちていた。そう、人と呼ばれる者たちだ。
無数に行き交う人ならざる姿をした人。機関灯の発光で表情を形作る機関人間、あるいは《
これが解放されたインガノックであれば異様な光景。
けれど、キヴォトスではこれが正常な都市の姿。
多くの異人種に混じる、普通の姿をした少女たち。
これも正常。異常なのは、ただひとつ。彼らの携帯する装備。
誰もが銃火器を手にしていた。その大小の差はあれど。
ギーの横に並び歩くスズミもまた例外ではない。
彼女の上半身ほどもある、白を基調とした長銃を軽々と小脇に抱えて歩いている。
インガノックにおいては
奇妙な光景ではあった。
場所と時代が変われば価値観も変わるが、しかしここまでのものなのか、と。
「気になりますか?」
声は思ったよりも近くから聞こえてきた。
気付けばスズミは小首を傾げてこちらを覗き込んでおり、彼女の瞳と目が合った。
吸い込まれそうな、赤い瞳。
「すみません、少し不思議そうな顔をしていらしたもので。
先生はキヴォトスの外からいらっしゃったと聞きました。
やはりキヴォトスと外では大きな差異があるのだろうか、と」
「……ああ、そうだね。僕がいたところも決して治安の良い場所とは言えなかったが、こうも銃器を持ち歩く人間はいなかった」
慎重に言葉を選んでギーは答える。キヴォトスの外、という単語を突き詰めたい気持ちはあったが、それは当分叶いそうになかった。
気になるか、という問いに違うと言えば嘘になる。だがそれは装備の厳重さに対してというよりも。
「けど、それを加味しても尚、この都市は活力と笑顔に満ちている。そこが一番驚いたかな」
人が武器を手にするのは、身近に脅威があるからだ。
脅威があれば人は荒む。命の危険や犠牲者があれば猶更だ。それは自然の道理であり、しかしこの都市にはそうした陰惨さが見当たらない。
シャーレからここまでの道のりで見た人々の姿は、インガノックでは十年前に失われてしまったものだ。少なくとも、ギーにはそう見えた。
「……先生は、そのように言ってくださるんですね」
ギーの言葉を受けて、スズミは何かを思うように言葉を紡ぐ。
「確かに表面的にはひと月前……連邦生徒会長が失踪する前と変わらない情景です。
けれど実際には、キヴォトスの治安は確実に悪化の一途を辿っています。
連邦矯正局からの脱走者の続出、不良生徒の劇的な増加。
戦車やヘリ、出所不明の武器の流通も20倍ほどに膨れ上がりました。
例えば先生がキヴォトスにいらした日も、矯正局からの脱走者がシャーレ本部を占拠しようと暴動を引き起こしました」
言われ、ギーはひとつ得心した。
スズミと連れ立ってシャーレのエントランスを出た時、目に入ったのは無惨に破壊されたままの道路と、巨大な雷にでも打たれたのかと思うようないくつもの焼け焦げた跡だった。
あれは暴動とそれに伴う戦闘の結果だったのか、と納得する。
「幸い、その暴動自体は《転校生》たる彼によって鎮圧されましたが……こうした事態は今のキヴォトスでは珍しいことではありません。残念なことですが」
「……君は、法執行官のような立場にあるのかな」
七神リンはあの年齢で行政官という重役に就いていた。そして自治単位が国家ではなく学園となっているこの都市ならば、スズミのような未成年であってもそうした立場にあっておかしくはない。リンと直接顔を合わせて直談判していたらしいこと、わざわざ自分に会いに来たこと、そして彼女の口ぶりからの推測だったが。
「いいえ。私は、そんな大それた人間ではありません」
否定の言葉。だが卑下の響きはない。
「私はトリニティの何に属しているわけでもありません。自発的に自治区を見回ったり、騒ぎがあればそれを仲裁しているに過ぎないんです。それを指して自警団を纏めていると言う人もいますが、明確に部活として成立しているわけではありません」
それが事実ならば、スズミは善意の一般人ということになる。
治安が急激に悪化した中での、シャーレへの訪問。
何となく察することはできる。ギーはスズミの言葉を促すように続けた。
「つまり君は……一般生徒の立場にあって、この現状を何とかしようと思っている、ということか」
はい、と短い肯定の声。
「確かトリニティ自治区には、正式な法執行機関があったはずだ」
「正義実現委員会のことですね。はい、その通りです」
一瞬だけ官憲の腐敗を疑ったギーだが、しかし対するスズミの表情は言外にそうではないことを示していた。
「正義実現委員会の皆さんを信用していないわけではないんです。ただ」
ただ。
スズミは何か気負うでもなく、当たり前のようにその言葉を口にした。
「それが私のやるべきことだと、そう思ったんです」
「……」
「先生にお会いすること。キヴォトスにやってきた先生に、この都市の実情を伝えること。
それは私でなくてもできる、私である必要のないことではあります。けれどそうしたかった。
先生は、キヴォトスが笑顔に満ちているとおっしゃいましたね」
「……ああ、そうだね」
忌憚の無い意見だった。心からそう思った。
この都市の人々は、ギーたちが十年前に置いてきてしまったものを持っている。
それは言うまでもなく尊いことで、ギーにとっては眩しいとさえ思えるものだった。
「私もそう思います」
スズミは、ほんの少しだけ笑って。
「私はキヴォトスが好きです。キヴォトスにいる人たちが好きです。
今でこそ規律秩序は乱れ、不穏な気配に包まれていますが……いつかまた、誰もが安心して出歩けるようになれば良いと思っています」
ギーが当初、スズミに抱いた印象は大人びているというものだった。
リンとはまた別の意味で、落ち着きのある理知的な少女だと思っていた。
その印象は決して間違ってはいないだろう。だが、しかし。
今ギーの目の前にいる守月スズミは、年相応の少女のように、気恥ずかし気な笑みを見せていて。
「私は自警団の人間で、正義実現委員会のように公に認められた治安維持組織員ではありません。
どの自治区や組織の代表でもなく、まして都市に生きる人々の代表などというわけでもない。
なので本来なら、先生にお目通りして意見を言うなんてこともお門違いなのでしょう。
それでも私は、何者でもない私個人としてあなたと顔を合わせ、話をしたかった。
この都市を見て、ありのままの現在を知って欲しかった。
それは何故かと問われれば……やはり、それが私のやるべきことだと思ったから、なんです」
我儘ですよね、と呟くスズミに、ギーはただ首を横に振ることで答えた。
そうするしかできなかった。何かを言うことは、無粋であるとさえ。
「それと、先生に一言謝りたかったんです」
「……それは、どうして?」
「たったひとりのあなたに、謂れのない重責を押し付けてしまっているから」
やはりスズミは、それは人として当たり前であるかのように言葉を紡いで。
「本当なら、これは私たちキヴォトスの住民全員で背負うべき責務です。
けれど連邦生徒会長は失踪し、行政は麻痺し、シャーレという超法規的機関を発足させなければならない事態になってしまった。
先生。私たちはあなたに、過剰な責任を背負わせてしまっています。だから……」
「スズミ」
その言葉を、ギーは留めた。
思いのほか強く出た声だったのだろう。スズミは少しだけ瞠目したようにこちらを見て。
「やめてくれスズミ。これは君が謝るようなことじゃない」
そして、きっと誰が謝ることでもないのだろう。
都市の混乱を、他者の不幸を心から望む者など、きっとそう多くはあるまい。
誰もが最悪の未来を止めようとして、けれど結果として今があるとするならば。
それは謝るべきことではない。誰も悪くなどないのだから。
「スズミ、君は言ったね。この都市が、キヴォトスが好きだと」
「……はい、その通りです」
「ありがとう」
ギーの言葉に、スズミは今度こそ驚いたように目を丸くした。
やはりこういったやり取りは慣れないものだ。
けれど、自らの信念としてギーに向き合ってくれた彼女に対して報いるには、ギーもまた本心から彼女に臨むしかないのだと思った。
「正直なところを言えば、僕はこの都市に対して何の縁もない。
いるべき確たる意味も理由もなく、義務も、きっと義理さえないのだろう。
だから君の気持ちが分かるなどと、知った口をきくこともできない。
君の信念は君だけのものであり、僕が口を挟む権利はないからだ。
そのうえで」
ギーは足を止め、隣を歩くスズミに体ごと向き直る。
正面から彼女を見つめる。ひとりの人間として、敬意を以て相対する。
「ありがとう。君のような人がいてくれたことが、僕にとっては何よりの
スズミは言った。それが自分のやるべきことだと思ったからだ、と。
その通りだ。ギーがインガノックで足掻き続けた十年も、きっとそういうものだった。
ならば、やるべきことなど最初から変わりはしなかった。
インガノックに帰る。そのために連邦生徒会長に会う。そのためにシャーレに属し求められた業務を遂行する。
それは確かだ。だがそんなことよりも前に───
誰も見捨てない。
そんな子供めいた我儘は、今もギーの内にあったから。
「……お礼を言われるようなことなんて、何もしてないですよ」
「ならそれが僕のやるべきことなのだろう。君と同じく、僕もそうしたいから君に感謝する。
君に会えて、本当に良かった」
困ったような、照れるような笑みを浮かべるスズミ。
それがどうにも眩しくて、ギーは再び歩を進め、言葉を続ける。
「君の伝えてくれた言葉、そして都市の現状。それを僕は忘れない。
君が好きだと言った、真に穏やかな都市を取り戻す一助となれるように。
シャーレの職員として、僕は、できる限りのことをしよう」
「はい。いつか、きっと」
いつかきっと、その未来が訪れるように。
「ああ。約束だ」
肩越しに顔を向けて、歩みを止めることなく、ギーは表情を形作る。
───それは。
───果たして、笑顔になっただろうか。
♰♰♰♰♰♰♰
シャーレに戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
道並ぶ街灯が次々と点灯し、黒く染まる路地を煌々と照らしている。道行く人々の喧噪から少しだけ離れて、シャーレのビルディングは明かりもなく静かに佇んでいた。
「ここまで来れば大丈夫ですね。ああ、それと」
と言い、スズミは小脇のバッグから何かを取り出し手渡してくる。
それは片手に収まる程度の筒状の物体。先端には指で引っ掛けるピンが付いている。
「これは?」
「閃光弾です。事実として今のキヴォトスは物騒ですから、何か護身用の装備を持っていても損はないと思いまして」
確かにその通りだった。ギーに射撃や荒事の経験はないにしろ、この手の制圧用の道具はあるに越したことはない。礼を言って受け取ると、スズミはバッグから次から次と同じ閃光弾を取り出してきた。流石にこれ以上は持て余してしまうと断れば、少しだけ不満そうな表情で。
「先程はああ言いましたが、あまり危険な場所へは近づかないようにしてください。危うきに近寄らないことが一番の自衛ですから」
「ああ、肝に命じるよ」
そうしてスズミはシャーレを後にした。途中振り返りながら「またいつでも連絡してください」と言い、洗練された動きで歩き去る姿は、どこか浮かれているようにも見えた。
ギーはスズミの姿が見えなくなるまで見送り、やがて彼女が通りの向こうに消えると、ほうと息を吐いた。
静寂。
誰もいなくなってしまったと錯覚するような無音。
佇むギーの頬を、夜の冷たい風が横切っていった。
(物騒、か)
目の前に広がる、放射状に黒く煤けた路面。いくつかの残骸と放置されたままの空薬莢。ギーが意識を失っていた間に鎮圧された暴動はまさにこの場で繰り広げられていたという。それを為したのは驚くべきことに、スズミと同年代の不良生徒であるとも。子供たちでさえ安易に火器を手にし、暴力を行使する現状。あらゆる人倫が失われたインガノックにおいてさえ異常な光景だった。
けれど、キヴォトスでは正常な光景。
ギーが身を置くと決めた都市の姿。
いつか、殺される時が来るかもしれない。
いつか、不良生徒や何者かの銃弾がこの身を穿つ時が来たなら。
(そうなれば、その時に考えよう)
シャーレに戻ろうとして、ふと雨音がすることに気付く。
雨が建物を打つ、規則正しい音。
にわかに勢いを増す雨音に、そういえばスズミは傘を持っていただろうかと思いを馳せて。
「こんにちは、先生」
「あの雑踏をよく見てください」
───視界の端で空色の少女が笑っている。
自然と視線が動いていた。
まっすぐに人込みを見遣る。路地の向こうの更に奥。異形の姿の人々と、そこに僅かに混ざる少女たち。
───その中に。
───白い少女がいた。
年の頃は10も半ばか。スズミより少しだけ年下に見える少女。白を基調とした服装でフードを被り、その顔は影になって見えない。
小柄な子。すっと視線が吸い寄せられる。
ギーから少女の位置までは距離がある。普通なら声を掛けるはずもないが、視線が。外れない。
見えてしまったからだ。歩く少女の背後、離れた場所から覗く無機的な光。
重機関兵士にも似た、人型をした金属塊めいた何かが付け狙っている。
理屈ではなかった。感覚としても理解できなかった。
気付けばギーは駆け出し、雨の降りしきる夜の雑踏へと身を躍らせていた。
靴が水たまりを踏み抜き、しぶきが辺りに飛び散る。
まばらな群衆をかき分け、路地の向こう側に消えていった白い影を追った。
裏路地に入れば、白い影は更に向こうの曲がり角へと消えていく。
それを追ってギーも曲がり角に向かう。辿り着いてみれば、そこにはもう少女も、影の姿もなかった。
自分でも行動の理由が分からなかった。
少女と自分は断じて知己ではない。影も本当に彼女を付け狙っているのか、本当に危険なのかも定かではない。普段の自分なら決して関わることはないだろう些細な違和感、そうであるはずなのに。
視界の端で笑う誰かの言葉か。それすら頭に靄がかかって判然としない。
自らの内の衝動と行動に思考が追い付かず、ただ見失ってしまった事実に足を止めて息を切らせて。
「───動かないで」
背後に感じる、冷たい感触。
気付けば、ギーは背中に何かを突き付けられていることを理解した。その感覚はよく見知ったものだった。暴力と死が渦巻くかの都市において、それは日常的な恐怖として常に人々の隣にあった。
銃口。
ほんの少し引き金に掛けた指が動けば容易くギーの命を奪う黒い筒先が、明確な死のヴィジョンを以て向けられて。
「答えて。あなたは、誰?」
剣呑な気配とは裏腹の涼やかな声が、ギーの耳朶を震わせるのだった。