碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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「あなたは"トロッコ問題"を知っているかしら」

 

 問いは突然に。

 セミナーの会議室を出ようとしていたギーに対し、調月リオはそんなことを聞いてきた。

 

 それは過去。今も記憶に新しい、初めて彼女と会った時のこと。

 ギーは僅かばかり逡巡し、しかし首を横に振って。

 

「いや、初めて聞いた言葉だ」

「思考実験のひとつよ。主に倫理的な問題を問う時に使われるわ」

 

 リオは滔々と話し出す。

 

「暴走するトロッコの向かう先には5人の作業員。あなたの手元には進路変更のレバー。

 あなたがレバーを操作すれば、トロッコの路線は変わり5人の命は救われる。

 その代わり、変更された先にいる1人の作業員はトロッコに轢かれて命を落とすでしょう。

 さて、あなたはどう行動するか───そういう思考実験」

「なるほど、意地の悪い質問だ」

 

 ギーはほとほと弱ったといった具合に息を吐いた。思考実験とはジレンマを主題とするために得てしてそうなるものだが、何とも底意地の悪い設問である。

 つまり、リオの語る問題の本質とはこうだ。

 

「5人を見殺しにして責任から逃れるか、1人を殺す咎を負ってでも多くを生かすか。

 どちらにしてもこの選択主は何かを失う。問題のために設定された状況に言っても仕方ないが」

 

 この問題は、単純に命の数を問うものではない。レバーを引いて意図的に1人を殺せば殺人者だが、レバーを引かず傍観したとて5人の死の責任を取る必要はないからだ。

 レバーを引かなければ自分の身の潔白は保証される。5人の命を引き換えにして。

 

「言うまでもないけれど、レバーを中途半端に引いてトロッコを止めるとか、トロッコ自体を破壊するとか、質問自体が間違っているといった答えは不適よ。思考実験の前提条件を否定するのは答えではなく詭弁に過ぎないわ。重要なのは、仮想的に用意された二択にどのように向き合うかということ。私は……」

 

 リオは目を伏せ、何かに耐えるように。

 

「私は、迷いなく後者を選択するわ。咎を負い、責任を負い、それでも多くの人を救ってみせる。

 それが為政者として負うべき、本当に最低限の責任だもの」

 

 その言葉には決意の色が滲んでいた。

 ミレニアムを統治する為政者として、個人の情を完全に排した声音だった。

 

 ───本来ならば。

 ───この歳の少女にさせていいはずのない決意だ。

 

「あなたはどうかしら」

 

 尚、リオは問う。

 期待も失望さえない、代わりに有無を言わさぬ重圧を孕んだ視線。

 

「もしも同じ状況に立たされたとして。ギー先生、あなたはどちらを選ぶのかしら」

 

 その視線を受けて。

 どうにもならない二択を前に、何を選ぶのか。

 

「僕は───」

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「先生とヒマリは仲良しなのですね」

 

 唐突な言葉だった。

 帰路に就こうとしていた矢先のこと。前を歩くギーの手を握り、とてとてと追うアリスは、そんなことを口にした。

 

 ギーは思わず振り返ってしまって、まじまじとアリスの顔を見つめてしまう。何もおかしいことは口にしていないと言わんばかりの天真爛漫な笑顔。自らを作り物と謳う彼女も、表情は完璧だった。

 

「それは……そう、なんだろうか?」

「どうして自信なさげなのですか」

 

 アリスの更に後ろ、自動走行の車椅子に坐すヒマリから呆れたような声が飛ぶ。

 彼女は不満そうな顔で、少し頬を膨らませたりもして。

 そんな子供っぽい顔もするんだなと、今更ながらギーは思った。

 

「私と先生の親密な関係性をして何を疑問に思うことがあるというのですか。謙虚も過ぎれば卑屈ですよ、先生」

「……まあ、そういうことにしておこうか」

 

 実際、そう悪い間柄ではないことは確かだ。

 ギーは対人関係には消極的であるから、対照的に積極的なヒマリとの相性は悪くなかった。ギーとしてもそんなヒマリの態度は好ましいものに思えたし、ヒマリの側も何故かギーのことを憎からず思っているらしかった。ありがたいことに。

 

 ただ。

 ヒマリとの関係性がどんなものかと問われると、はっきり答えられる自信がない。

 

 友人かと言われると、なんだか少し違う気がする。

 生徒と教師かというと、立場的にはそうなのだが、やはり何かが違う。自分は教師として彼女と接しているわけではないし、そもそも彼女は自分などよりも遥かに頭が良い。

 ビジネスパートナーというのが一番しっくり来るが、これは"仲良し"のうちに入るのだろうか。

 

 ともあれ、ヒマリは何やら上機嫌であるように見える。なら何も言うことはないだろう。

 

「良かったです。ギー先生はリオとも親しいですから。みんなが仲良しなのは喜ばしいことです」

 

 そんな満足顔は、続くアリスの言葉で凍り付いたように固まった。

 

「……アリス。それは一体どういうことですか」

 

 実に芸術的な顔になったヒマリがいた。

 何とか笑顔の体裁を保とうとしていたが、明らかに口元が引き攣っていた。口の端やこめかみが時折ぴくぴくと動き、細められた目は全く笑っていない。視線と共に向けられるのはその目と同等に冷たい言葉。

 

「先生。それは一体、どういうことですか」

「どうして僕に聞くんだ」

 

 それ以外に何とも答えようがなかった。

 元はアリスが言い出したことであるし、ギーは自分がリオと親しいとも思っていないし、それに対してヒマリが反応するのもよく分からない。

 アリスは「?」と疑問符を浮かべてこちらを見ている。

 

「先生はリオと親しいのではないですか?」

「君が何故そう思ったのか知らないが、彼女とは大した親交はないよ」

 

 そのはずだ。幸いにもある程度の親しみを寄せてくれるヒマリとは違い、リオとは完全な契約上の関係だった。嫌悪は抱かれていないだろうが、同時に私人的な好意もないだろう。ギー自身、実直な彼女に対して個人的な好感を抱いているものの。

 

「先生の言う通りです。アリス、そもそもリオはあなたを破壊しようなどと言ってくるような手合いではありませんか。そんな人間のことを慮る必要はありませんよ」

 

 リオに対する批判を込めたヒマリの言葉に、アリスはただ笑って向き合った。

 アリスは、本当に何の疑問も持たない表情で。

 

「けれどそれは、"みんなのため"でしょう?」

「……」

「みんなを守るために、傷つけないためにそうしている。ただそれだけのことでしょう?」

 

 ギーは目を伏せ、ヒマリはついに言葉を失った。アリスの表情には一切の疑念が混ざる余地もなかった。

 見た目幼い少女が、宝物を前にした子供と同じ顔で功利主義を謳う姿は、どうにも見ていられなかった。

 

「なので、リオと先生は仲良しだと思ったんです。だって先生も、自分ひとりよりみんなを選ぶ人なのですから」

「アリス、それは」

「私と同じです」

 

 答えることはなかった。彼女たちに応えるべき言葉を、ギーは持たなかった。

 

 同じではない。同じであるものか。

 逃避に過ぎなかっただけの自分は、そのような高尚な意志など持ち得ない。

 

 周囲の喧噪の只中にあって、三人は無言だった。

 ギーもヒマリも沈黙し、アリスだけが、完璧な造形の表情のままにこちらを覗き込んでいた。

 

 ギーは何かを言おうとした。それは沈黙に耐え切れなかったが故か、それとも言わなければならないことがあったのか。

 分からない。自分でもどちらなのか、ギーには判別がつかない。

 何かを言おうとして、口を開いた。その瞬間。

 

 モール内の照明が、一斉に消灯した。

 

 

 

 

 

 

 予兆は何もなかった。

 大きな地響きやアラーム音が鳴ることもなく、ただ糸が切れるようにして灯りは落ちた。視界に映る全ては一瞬にして黒一色に染まり、伸ばした手の先すらも見えない暗闇に支配された。

 周囲に困惑や驚きの声が木霊する。「停電?」「何が」「店員さんを」といった比較的落ち着いたものから、悲鳴に近い金切り声まで。雑踏を占める喧噪よりも尚強く、騒ぎは徐々に拡大していった。

 

「……ヒマリ」

「はい、私はここにいます」

 

 ギーは一瞬だけ現象数式を起動し、視界を確保する。暗闇程度ならば、数式の残滓だけで見通すことができた。傍らにいるヒマリの姿を確認し、状況を判断する。

 

「驚いたな。ミレニアムであってもこうした事故は起きるのか」

 

 ギーは自分でも信じていない白々しい言葉を吐いた。傍らのヒマリが浮かべる表情が、切羽詰まったものである以上そんな事態ではないと理解していたからだ。

 

「なんて、冗談を言ってる場合ではないか。何か分かるか?」

「……ギー先生。悪いお知らせと非常に悪いお知らせがあります」

「悪いほうから聞こう」

「これは停電ではありません。もっと悪辣な何かです」

 

 そう言ってヒマリはいくつかの端末を取り出してみせる。その全ては電源が落ち、機能が停止していた。

 

「通常の停電なら配電設備が止まるだけですが、こうしたスタンドアロン式の端末すら応答がありません。稼働に必要な内蔵電力にまで影響が出ています。確か先生は腕時計をされていましたよね?」

「ああ」

「確認してください」

 

 言われ、ギーは左手首の腕時計を見る。短針と長針の、今時古めかしいと言われたアナログ時計だ。だがそれも針の動きが停止していた。それを告げると、ヒマリは予想通りといった様子で頷く。

 

「クォーツ式の時計は圧電体である人工宝石の振動を利用しています。電圧をかけることで発生する信号を1ヘルツの周波数に変換して針を駆動させる。電灯や端末のみならず水晶時計すら止まっているということは、この一帯の電力そのものが霧散したと見て間違いないでしょう」

 

 生体電気にまで干渉されなかったのは不幸中の幸いですが、とヒマリは一息ついて。

 

「もしかしたらなのですが……先生、シッテムの箱をお借りしても?」

 

 驚くべきことに、シッテムの箱は機能を停止してはいなかった。液晶に仄かな光が灯り、僅かに周囲を照らし出す。ヒマリは満面の笑みを浮かべて。

 

「なるほど、流石は連邦生徒会長の用意したオーパーツ。この状況下でも影響を受けないとは都合が良いですね。では先生、少々お待ちいただけますか? 私はこれから事態の原因を探ることにします」

「ああ、それはそうと非常に悪い知らせとは」

「この太陽も嫉妬する超絶美少女天才ハッカーが手足にも等しい電子機器を奪われたのですよ? それを最悪と言わずに何と呼べばいいのですか。それもシッテムの箱のおかげで窮地を脱したわけですが……」

「いや、そうではなく」

 

 ひとまずの状況確認と打開策の提示が為されたことで次の行動に移ろうとしていたのか、ギーは周囲を見渡しながら。

 

「非常に悪い知らせだ。アリスの姿がどこにもない」

「……はい?」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 

 

 どうしてこんなことになったのだろう。

 恐怖と混乱と疑問符だけが満ちる中、花岡ユズはそんなことを考えた。

 

 なんてことはない普通の日だったはずだ。

 才羽モモイと才羽ミドリ、そして自分を合わせた三人だけのゲーム開発部は、いつもと何も変わることのない日常を過ごしていた。

 そんな日々に突如告げられた廃部の危機も、どこかから噂を聞きつけた子が入部してくれたおかげで事なきを得た。偶さかもたらされた非日常はやはり唐突に終わりを迎え、後には代わり映えのしない、それでいて刺激と楽しさに満ちた日常が戻ってきた。そのはずだったのに。

 

「モモイ……ミドリ……」

 

 最初に「それ」を言ったのはモモイだったと思う。

 新入部員が来たなら歓迎会をしようよ、という元気の良い声。とびきりのパーティを思いついた! と言わんばかりの眩しい笑顔に、お澄ましさんのミドリどころか自分もなんだかその気になってしまって。

 その準備のためにここに来たのだ。寮から離れたところにあるショッピングモール、もう何年も来たことのなかった場所。たくさん買い物をして、ゲームセンターで対戦しつつ彼女にゲームのいろはを教えたりなんかもして。

 彼女。そう、ゲーム開発部に来てくれた女の子。

 

 悠園ライア。

 それが新しい友達の名前だった。

 

 綺麗な子。黄金色の瞳が神秘的な、どこか浮世離れした子。

 伝奇ノベルゲーのヒロインみたいな子だ、なんて。みんなして盛り上がったっけ。

 触れたら消えてしまいそうなくらいに儚い彼女は、けれど意外とノリが良くて。歓迎会をしようというモモイの誘いに一も二もなく飛びついてきた。

 そうして四人でわいわいと盛り上がって、他愛もない話をして、飛び出すモモイを必死に抑えたりもして、みんなして笑い合った。

 なんてことない時間だけど、それでも特別だった。

 楽しかったんだ。手作りのゲームが酷評されて以来、外に出ることも怖かった自分でさえも。みんなと過ごす外での時間は楽しかった。

 そのはずなのに。

 

「みんな……どこ行っちゃったの……」

 

 突然のことだった。

 いきなり現れたユウカ先輩が追いかけてきて、モモイたちはみんな笑いながら方々へ逃げ去っていった。ユズもその時は笑っていた。ぷんぷんと怒るユウカ先輩は怖かったし、正直その怒りに返す言葉はなかったし、ロッカーに隠れる要領でそこらへんの物陰に潜んだ時はガクブル震えていたけど、それでも楽しさが勝っていた。

 けれどそれは唐突に起きた。

 モールの電気がいきなり消えて、辺りは真っ暗闇になってしまった。慌てて取り出した携帯端末は全く動かず、どこにも光源は見当たらない。必死で叫んでみても私の声はか細くて、周囲の喧噪には全然勝てなかった。

 

 孤独。

 大勢の中に取り残されて、それでもユズはどうしようもなく一人だった。

 

「誰か……」

 

 何もできない。

 どこにも行けない。

 ユズはやみくもに手を伸ばすけれど。その指先が誰かに届くことはない。

 

「助けて……」

 

 彼女の声は届かない。

 けれど。

 

 

「───大丈夫」

 

 

 触れるものがあった。

 柔らかく、そして暖かなもの。誰かに抱きしめられているような。

 ユズの声に応えて現れた、それは彼女を安堵させるように。

 

「あなたの声を聞きました。安心してください、あなたを脅かすものは何もありません」

 

 知らない声。会ったこともないであろう誰か。

 それでもユズは、奇妙な安心感を覚えた。理屈ではない感覚。まるで優しい母親の腕の中にいるかのような。

 

 ユズの目から、今まで必死に我慢していた涙がこぼれた。

 けれどそれは、決して恐怖に因るものではなかった。

 

 

 

 

 

 

 程なくしてアリスは見つかった。

 ただし、厳密にはアリス"たち"と言うべきか。

 

「……」

 

 アリスの胸に抱かれて、見知らぬ少女が泣いている。

 さめざめと涙を流す少女。歳の頃はアリスと同程度、10代前半といったところか。ジャケットを着用しているが、恐らくはミレニアムの生徒だろう。

 アリスは少女を抱きしめながら、これまでのような嫋やかな笑みを浮かべるでもなく、いつにも増したる真剣な表情で。

 

「先生。とある地点を中心に半径500m範囲に電力異常が発生しています」

「それはこちらでも確認を……いや、発生源が分かるのか」

「はい。原因は既に特定済みです」

 

 アリスは虚空の一部分を指さして。

 

「水神クタアト。水の力を以て風の力を抑える魔術。まさかこの都市にさえ魔術師の類が残されているとは」

 

 アリスの言葉の多くはギーには理解できなかったが、この事態が人為的なものであることは察せられた。

 

「先生」

「……ああ」

「私はこの子の声を聞きました。助けを求める、この子の叫びを」

「……」

「私は……」

 

 アリスは何かを思い、言葉にしていた。今まで考えもしなかったことを必死で考え、言の葉にし、こちらへ伝えようとしていた。

 

「私は、人の感情に優劣を設けません。怒りも悲しみも憎しみも、全ては同列の精神活動であると定義しています。けれど、私は……」

 

 そして。

 彼女の瞳、輝いて。

 

「私は、誰かに悲しみをもたらす行いを容認できません」

 

 アリスはすっくと立ちあがり、掻き抱く少女のことを立たせる。

 もう大丈夫と言うようにその頭を撫で、柔らかく笑いかける。

 

 果たして、この暗闇で彼女にそれが見えただろうか。

 少女は、何がなんだかと言った様子で立ち尽くす。アリスはそれを、こちらへと誘導して。

 

「先生、この子をよろしくお願いします」

「待て、君は何をするつもりだ」

 

 ギーの制止に耳を貸さず、アリスはただ短く告げる。

 

兵装解放(アルメメント)

 

 ───言葉と共に。

 ───アリスの足が変わる。変わっていく。

 

 それは小さな変化だった。アリスの足首より先が内側より破けて、瞬時に、いくつもの金属棘が生える。同時に、それらは流動する液体の如く姿を変え、自動四輪の蒸気式自動車にも似たローラーとなって。

 

 そして。激しい駆動音。

 音を置き去りにする爆音と共に、ギーが認識した瞬間には既に、アリスの姿はなかった。

 頬を切り裂く凄まじい風圧だけをそこに残して。

 それが高速移動による産物だと理解できた者は、ただひとり数式の残滓を宿す目を持ったギー以外には、誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 閉鎖された機関式トンネルの中に、その姿はあった。

 

「なるほど、これが……」

 

 完全に停止した輸送車の後方、電子ロック式の扉を事もなげに開け放ち、《慈愛の怪盗》と呼ばれた白き少女はまじまじとその物品を見つめる。

 

「《時計王の冠》……曰く、この世に至上なる芸術品。曰く、手にした者を死に追い遣る呪物。曰く、終末時計を加速させる核。曰く……」

 

 彼女は陶酔にも似た眼差しを向けながら。

 

「極小の《大機関時計(メガエンジンクロック)》なるもの、ですか。その言葉が指す意味は杳として不明ですが」

『カルシェールなる別名もありますね。ともあれ、これで目的は達成されたわけです』

 

 行程は非常に楽だった。ミレニアムにおける輸送の類は全てAIによる自動運行が確立されている。それが例えヴァルキューレに証拠物品を送るものであったとしても、引き渡される中継ポイントまでは無人輸送車による運搬が主だ。

 故にこうなる。分厚い隔壁が下ろされた閉所において、あらゆる電子機器が機能不全に陥った現状、彼女たちに手を出せる人間は存在しない。

 そうさせた手段こそ不可解であるものの。

 

「しかし、まさか本当にこのような効能があるとは」

 

 怪盗は手元の古びた書籍を何か信じがたいものでも見るかのように見遣る。耳元のマイクからは愉快げな声。

 

『雷電魔人さえも遠ざける水の書。かの《転校生》への対抗策として用意したものですが、いつ何が役に立つか分かったものではありませんね』

「契約を信じるならば、これもまた世に存在を知らしめるべき芸術品として下賜されるとのことでしたが?」

『構いません。現状《転校生》と敵対するつもりはありませんし、この程度では決定打にはなり得ませんので』

 

 密封から解放するだけで電力を封じ込めるなどという妄言を信じたつもりはなかったが、まさかこのようなことが現実に起こるとは思ってもみなかった。おかげで簒奪の工程が遥かに短縮できたのは僥倖だったが、用意した数々の道具や仕掛けすらも台無しになったのは些か残念ではあった。

 余談だが、念には念を入れて解放場所の近辺に病院等の医療施設がないことは確認済みである。怪盗という違法行為に手を染めながら、その過程において血が流れることを少女は病的に忌避していた。

 

「……ヴァルキューレの蕾たちのみならず、ミレニアムもまたこの程度でしたか。

 狂気なりしビッグ・シスター。その畏名は飾りでしかないと、そう思うより他にありませんね」

 

 少女の目には失望の色があった。その輝きと美しさのままに知らしめるべき芸術品、その担い手として相応しい資格を持ち合わせない者へ向ける視線。

 自分如きに盗まれるような手合いには、芸術品を持つ資格などない。

 それは彼女が持つ信念の帰結としての思考だった。芸術の価値は万人に開かれるべきだが、価値を占有するならば相応の力と覚悟が必要であると。

 

 ミレニアム。キヴォトス三大校が一つ、文明華やかなりし近代都市。

 それですら資格には値しないのかと、落胆の感情を滲ませて去ろうとした。

 

 その時だった。

 

「兵装拡張───《光の剣能(シャイコース)》を使用します」

 

 ───光が、視界の全てを覆った。

 

 続く轟音は隔壁の破られた音か。

 衝撃に体躯を吹き飛ばされ、中空にて身を翻した怪盗は、その光景を目にした。

 

 崩れる金属壁。朦々と吹き上がる砂埃。

 煙幕にも似てその向こう側を覆い隠すその中で、ゆっくりと歩み寄る人影がひとつ。

 

 それは右手を長大な砲身に変化させて、その銃口を真っすぐにこちらへと向けながら。

 

「何処の誰かは存じませんが、一身上の都合によりお仕置きの時間です」

 

 

 

 

 

 

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