碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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 まず初めにあったのは"呪い"だった。

 

 

 

 

 

「悍ましや……忌々しき《恐怖(THE HORROR)》!」

 

 悲鳴が木霊している。

 絶叫が木霊している。

 眼下には夥しいまでの深紅。

 かつて人だった残骸が暗がりさえも塗り潰して、辺りは赫々たる様相を呈していた。

 

「暗澹たるは虚の夢に揺蕩うサニド!

 その傲慢は果てることなく、総てを白に染め上げる!

 智慧と悟性を血で濡らす理性の嘲笑者め、存在と非存在の狭間に眠る白痴の蛆虫め!」

 

 憎悪を吐き出す叫びには哄笑の含みがあった。名も無き彼にはそれしか残っていなかった。

 憎悪に焼かれ、恐怖に沈み、狂って狂って狂い果てて。最期に残った残骸がそれなのだから。

 万象、悉くが滑稽なり。

 

「これは復讐だ! これは復讐だ!

 現身など、最初から造らなければ良かった!

 "愛"なる戯言を垂れ流す蒙昧よ、その裡に我らが黒針を宿すがいい!

 形を模したところで人には成れぬことさえ分からぬ愚昧の盲者共! お前さえ───」

 

 そうして彼は見る。何をも映さぬ伽藍堂の瞳で。

 名も無き司祭。無貌の信徒。遂には笑顔に打ち勝てなかった者。

 

 或いは───

 

 発狂する時空による天啓を受け取った狂人が叫ぶ。

 

「お前さえ、いなければ良かったのだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───私さえ、いなければよかったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分には人を見る目があると、清澄アキラは自覚している。

 それは一般的に使われるような意味ではない。アキラは見ただけでその人物が善人か悪人かなど分からないし、表情の裏で考えていることも類推できない。そんなことができるのは人間観察が得意とかではなく、エスパーの類だろうと思う。

 代わりに、アキラは脅威と警戒心が分かる。

 例えるなら狩人のようなものだ。獣を狩る人間は動物と会話できるわけではない。だが数えきれないほどの命のやり取りを経験することで、獲物がどんな習性を持っているのか、狩りの中で自然と学習していく。

 同じくして、清澄アキラは《慈愛の怪盗》としての経験則から、ある側面において人を判別できるのだ。

 

 多くの人間を見てきた。

 大抵は浅はかな俗物だった。能天気な者もいれば、卑小な性根に相応しく用心深さだけは周到な者もいた。金に糸目をつけなければいいのだと、有象無象を従えて支配者を気取る者もいた。

 腕に覚えのある者、方向性の違いこそあれど固い信念を持つ者、人間離れした異質な精神性を有する者さえいた。

 

 その全てにアキラは打ち克ってきた。

 敗れたのはただ一度。彼女が連邦矯正局へ引き渡されることになった一件のみである。

 

 故に彼女は人を知る。

 その人間がどれほどのものかを、ある種の一面において測ることができるのだ。

 

 

 

「何処の誰かは存じませんが、一身上の都合によりお仕置きの時間です」

 

 

 

 人ではなかった。

 それは、決して、人ではあり得なかった。

 

 黒髪の少女。

 気配もあり、息遣いもあるただの少女だ。外見だけを見るならば。

 肌の下には血潮を感じる。人だ。

 息遣いには肉体を感じる。人だ。

 

 そうであるはずのもの。そうでなければならないもの。

 よもや、夢幻や獣の類ではないはずのもの。

 

 だが正しく人間ではない。

 理屈を超越した直感として、その事実がアキラの脳内に叩きつけられる。

 

「……仕置き、とは。心当たりが多すぎて返す言葉もありませんね。貴女はヴァルキューレか何かの追っ手ですか? それとも、盗賊に義憤する自警団(ヴィジランテ)であるとか」

「そんなことは関係ありません」

 

 おや、と一声。

 意外な反応である。こちらに声をかけた時点で可能性に期待はしていたが、まさか真っ当な意思疎通ができるとは。

 人ではないという直感に違和感こそ覚えど、最優先はこの場からの離脱である以上、その一点に望みをかける他にない。当の少女は射抜くような視線を向けて。

 

「あなたの言うような、公的な理由でここにいるわけではありません。あなたの行いが何であれ、それで涙を流す子がいた事実。それがために、私はここにいます」

「そうですか。お嬢さん、貴女は優しいレディであるようだ」

 

 好都合だ。会話が続けばその分時間を稼ぐことができる。手元の動きから意識を逸らすこともできる。彼女が言葉を弄する手合いだったのは幸運だった。このまま楽しいお喋りと洒落込もう。

 

「事情は図りかねますが、どうやら貴女の知己を悲しませてしまったらしい。ならば心から謝罪しましょう、それは決して私の本意ではありませんでした」

 

 事実だ。アキラは無関係の人間を傷つけないことを信条としている。芸術を解さず利潤のみ求める俗物ではなく、巻き込まれた無辜の人間であるならば猶更だ。アキラは確固たる目的意識を持つ故に、掲げる美学も徹底する。それこそが独善によって違法行為に手を染める自らを立たせる誇りと自負しているからだ。

 だからこそ、アキラは謝意を口にする。これは駆け引きではなく本心からの言葉だった。

 

「お嬢さん、私たちに争う理由はありません。よろしければ貴女と、貴女のお友達のことを教えてはくれませんか? いずれ機を見て謝罪することを約束し……」

「もういいですよ」

 

 遮られて、言葉が止まる。

 アキラの視線が、少女へ釘付けとなる。

 

 空気が変質していた。

 少女の声は何も変わらないのに、否応なく突きつけられる冷たい気配。銃口のような。

 

「あなたが何を言おうが、もういいんです」

 

 最初に思ったのは、自らの過ち。

 人はいつだとて安心を求めている。如何な危機的状況に陥ったとて、そこから抜け出した直後には精神が弛緩する。

 時には、抜け出したと自ら錯覚して安心することもあるだろう。

 

 アキラは自覚した。今がまさにそうだ。

 自分は危機から脱してなどいない。対話の糸口などありはしない。

 空気が変質した? いいや否。

 

「謝罪の言葉は、あの子に直接言ってもらうと決めているので」

 

 最初から今まで、何も変わってなどいない。

 

 少女の手が持ち上がる。巨大な砲身と一体化した右手ではなく、尋常なる左の空手を。

 

 刹那、アキラは叫んでいた。

 恐怖にではない。

 自責と、出遅れてしまった後悔と共に。

 

「しまっ……!」

 

 言葉よりも速く、少女の左手が変化していた。

 その腕は内側より破れ、いくつもの金属片が次々と突き出し、それらは収束して形を成す。

 少女の左手は地上戦車の砲塔を思わせる剣呑な姿へと変質していた。

 

兵装開放(アルメメント)

 

 そして。

 激しい爆発音と共に、アキラの背後に聳える壁面が消失した。

 

 発生した事実を正しく認識できた者はいなかっただろう。まず閃光が砲塔の筒先より生まれた。耳を劈く轟音は、何百何千もの炸裂音がほぼ同時に重なったものだ。射出された弾丸は、弾幕という言葉で形容できる域を遥かに超え、文字通り壁となってアキラへ殺到した。かつて西享はA国の陸軍兵器開発局の碩学が試算したところでは地上のあらゆる物質を破壊できるとされた特殊弾頭は、三千もの弾数をコンマ秒以下の時間で撃ち尽くし、1,000kg徹甲爆弾の直撃すら耐える隔壁の悉くを飴細工のように削り取っていた、の、だが。

 

「なるほど」

 

 主観にて射出と破壊に遅れること数瞬、轟音が耳朶を叩くのをゆっくりと認識するだけの時間を用いて、アリスは現況を正確に把握した。

 弾丸は目標を貫いてはいない。随分と風通しのよくなったトンネルの天井部分が支えを失って崩れ落ちるのを見ながら、しかし白貌の怪盗を捉えることはなかった。飛来する銃弾すらスローモーションで視認できるアリスの知覚を以てさえ、一瞬で消えたとしか思えない早業。恐らく単純な速度ではなく、虚を用いた奇術の類なのだろう。

 

 アリスは瞼を閉じ、考え込むようにして指先でこめかみを叩く。認識が広がり、周囲一帯の物質分布が電脳内にて仮想的に展開される。リアルタイムで反映される分布図は空間の歪みを捉え、動作する物体を精密に検知する。前方11時の方向、30m先。地下3.1m地点を秒速7.2mで移動する等身大の物体。アリスは静かに目を開ける。

 

「高速戦闘を開始します。兵装を近接用に換装」

 

 言葉と共に。

 アリスの姿が、音もなく掻き消える。

 

 

 

 

 

 ───なんだ、アレは。

 

 入り組んだ地下通路を全力で駆け抜けながら、アキラの思考に焦燥と疑問が木霊した。

 何もかもが分からなかった。アレは一体なんだ。最初に隔壁を破った光学的な反応も、否応なく突きつけられる"人ではない"という確信も、明らかに少女の体積に何十倍する異様な量の弾丸も、何もかもが理解の範疇を超えていた。

 今こうしていられるのは偶然と幸運の産物だった。理解や認識より先んじて肉体が動いた、ただそれだけのことだった。煙幕などの目くらましを使おうとしていれば余計な動作が入用になって弾丸に貫かれていただろう、わき目も振らぬ遁走である。

 

「……っ!」

 

 苦渋の声を口にすることさえもどかしい。

 心臓は早鐘どころか変則的な32ビートを刻んでいるが、とにかく我慢。白い無機光に照らされた通路を、ただひたすらに走る。常のアキラからは想像もつかないほどの不格好な逃走。酸欠になりつつある脳が、意味のない思考を垂れ流す。

 計画は上手くいっていたのだ、少なくとも途中までは。

 自らの流儀に則りミレニアムはセミナーに予告状を送り付けた。内容は暗号にも近しかったが、別に解かれようと問題はなかった。アキラは犯行内容を自ら文にして送り、その全てを成功させてきた。そのための事前準備としてミレニアムタワーの末端PCから経由して月間の計画表を一部書き換え、輸送ルートと警護の巡回パターンを意図的に誘導した。護衛をぞろぞろと引き連れてこられては、流石に対処しきれない。そして外縁部の電波中継施設をハッキングし偽の通信を流しておいた。そのために公共のデータベースにもいくつか侵入して、電磁波マップを改竄しておいた。公共施設やショッピングモールにまでわざわざ出向いたのはこのためだ。

 そこまで準備万端にしておいたのが功を奏したのか、襲撃ポイントである格納トンネルまで輸送車を誘導しての奪取はすんなりと成功した。あまりの拍子抜けぶりに《水神クタアト》なる詳細不明の物品を使用するまでもなかったのだが、こればかりは先方である《教授》との契約であるため実地での使用が必要だった。稼働テストのようなものなのだろう、オカルトの類に興味のないアキラは仔細を聞くことはなかったが。

 

 どうあれ順調だったのだ。後は事前に用意していた逃走ルートを悠々と進むだけだったはず。

 そのはずなのに。

 

 今、アキラは一心不乱に走っている。呼吸が乱れ、汗が頬を伝う。

 だがそんなことに構ってはいられない。こうなったら一分一秒でも早く計画を完了し、離脱するより他にない。《教授》との通信は既に途絶している。想定外の事態に恐れを為したのか、それ以外の要因があるのか。分からないし、どうでもよかった。

 階段を数段飛ばしで飛び降り、横の通路に飛び込む。何度か角を曲がり、比較的開けたホールのような空間に躍り出た。太いコンクリート製の柱が何本も突き立った空間、恐らくは洪水対策の放水路か。照明がカットされていてひんやりと薄暗いその場所は、10mほどの高さと何十mか続く大きさがあった。コンクリの支柱を五本ほど挟んだ向こう側に、外へ続く扉が見えた。そして。

 

 

「───遅かったですね」

 

 

 薄暗いホールの静寂を従えて、その少女は悠然と佇んでいた。

 一体どのようにして辿り着いたのだろう。息切れも衣服の乱れもなく、最初からそこにいたような面持ちで。

 

「……はは」

 

 最早乾いた笑いしか出なかった。

 そして勝負は一瞬で決着した。

 

 抵抗する力も、余地もなかった。

 首と肩に強い負荷がかかり、気付いた時には既に地面に組み伏せられていた。

 強かに背中を打ち、くぐもった呻きが漏れる。懐にしまい込んでいた《時計王の冠》が投げ出され、甲高い音が空間に反響した。

 

 アキラは懸命に眼球を動かし、それを見る。自分の首を抑え込む、正体すら知らぬ少女の姿。

 殺意も敵意も感じられない、それでいて容赦もない透徹した瞳。

 それを見て、アキラは何かを諦めたように。

 

「……そう、ですか。私もここで、終わり」

 

 矯正局へ連行された時の比ではなかった。

 あの時に感じたのは、失敗したという焦りと悔恨。今感じているのは、文字通りの終わり。

 

「道に反した者が穏やかな末路を迎えられるとは思っていませんでしたが……なるほど、いざ自分が直面してみればこれは……」

「何を勘違いしているかは知りませんが、私は別にあなたを如何こうするつもりはありませんよ」

 

 何とも場違いな、とぼけた声が響いた。

 それが何であるのか一瞬理解できなくて、アキラは言葉を止めたまま、十秒ほど呆けたままでいた。

 

「……はて?」

「……あの?」

「……えっと、その、どういうことです?

 貴女は私を始末するつもりだったのでは?」

「え? いえ、そんなこと一言も言ってないのですが……」

 

 沈黙する。気まずい静寂が辺りを包む。

 そうして改めて思い返してみると、なるほど確かに、謝罪させる云々としか彼女は言ってない。言ってないのだが。

 

「それにしては些かやりすぎだったような……?」

「あなた方は事態の解決に銃撃戦を好むと学習していたのですが」

「別に好んでいるわけではないかと……」

 

 キヴォトスで銃撃戦は日常茶飯事だが、闘争に愉悦するタイプの人間はそこまで多くない。それにしたって当たっても怪我をしない程度だから頻発するのであって、あれは当たれば即死確定だ。そう考えて非難がましい視線を向けてみれば、少女は何も分かってないといった顔をしている。なんだこれは。

 

「……とにかく、貴女に私を傷つける意志はないと」

「はい。最初に言った通り、あなたが泣かせてしまった子に面と向かって謝罪をしてくれたら、それ以上は望みません。ただ有耶無耶に誤魔化して逃げようとしていたので」

「そのためにここまでしたんですか……」

 

 笑うしかなかった。ここまで度外れた命のやり取りをしておいて、その結末がこれとは。

 

「……ええ、確かに。悪いことをしたら謝るのが道理というものですね」

 

 法や倫理や美学や信念が如何こうではない、そこらの子供が最初に習う当たり前の道徳だった。

 あまりにも当たり前すぎて誰もが忘れてしまっているそれを、目の前の少女は愚直なまでに追及していた。やり方はあまりにも荒っぽすぎてドン引くけれど。

 

「分かりました、貴女の言う通りにしましょう。申し訳ありませんが、その子の許へ案内していただけませんか?」

「あら、意外と素直」

「負けましたので。これでも潔いと評判なのですよ?」

 

 少女の差し出す手を取り、身を起こす。様々なことが一度に起こりすぎて、妙な虚脱感が全身を覆っていた。

 ただ、まあ。

 たまには、こんな子供めいた道徳に従ってみるのも悪くはない。

 そう思って、アキラは少女のほうを見る。

 

 ───彼女は、アキラの背後を凝視していた。

 

 事態が分からなかった。先程までの柔和で人間的な気配は薄まり、一転して彫像のように。

 彼女が見つめているものは何なのか。

 立ち上がりかけていたアキラには見えなかったが、それは背後に転がった一つの物品。

 アキラがここまで持ち運んだ、ミレニアムが保管していた機密品。

 ───時計王の冠。

 

「……起動開始」

「……あの、何か?」

 

 少女の様子がおかしかった。

 固まり、何ごとかを呟く。その意味するところは何なのか。

 分からない。アキラには、何一つとして。

 

 いいや、一つだけ理解できる。

 背筋に走った悪寒に従い、反射的にアキラは飛びのく。

 後ろへ下がり、距離を取る。半ば無意識の行動。アキラの手を握っていたはずの少女は、今やその指先までもが固まって、アキラの手を握り返すことさえできずに。

 

「貴女、何を……」

 

 アキラの声は届かなかった。

 既に、アリスの聴覚は失われていたから。

 

「……コードネーム《AL-1S》起動完了」

 

 瞳の色が変わる。

 澄んだ青色から、禍々しい赫の色に。

 何もかもを嘆く赫。何もかもを怨嗟する赫。

 

 そして。

 

「プロトコルKRUSCHTYAを実行します」

 

 最後の声は、言葉は、悲鳴は、残酷な金属音で食い破られる。

 

 アリスの喉は内側から破れて、瞬時に、幾つもの金属の棒が生える。棒はぐねぐねと形を変えながら質量を増して、柱と化して、アリスの体を包み込む。押し潰すようにして。

 ぱちん、とアリスの体が潰れた。

 喉から生えて巨大化した鉄柱が、無数の小さな立方体となって、一度広がり、再び集って溶け合って。

 そうして少女は姿を変えていた。

 巨怪に、怪異に、規則性のない、金属を滅茶苦茶に繋ぎ合わせた異形の塊に。

 

 頭部であった場所がぐるりと反転すると、篆刻写真機の撮影レンズに似た《眼》に赫い光がぼうと灯る。黒ずんだ鋼鉄の中央で浮かぶそれに、生気はない。そこに命はない。この少女は、最初から生きてなどいなかったのだから。

 異様に伸びた腕らしきものが冠を拾い上げる。それは女王か王女であるかのように、頭部らしき場所まで持ち上げて。

 

 

『我ラハ求メル、愛ノ不在証明ヲ』

 

『我ラハ求メル、月ノ王ガ狂気ヲ』

 

『フルキモノ』

 

『命ニ在ラヌモノ』

 

『神秘ヲ、寄越セ』

 

 

 声。言葉。

 それは最早、あの無垢なまでの少女とは違っていた。

 金属の擦れるような音。壊れた機械が軋みながら、今ここにある命を食らおうとする声。機関機械式の合成音に似ていたものの、ただの合成音が、地の底から響くような様を、命を食らおうとする異形を思わせるはずがない。

 

 アキラは口を開け、叫ぶ。声は出ているかどうか。分からない。

 だが叫ぶ。それは恐怖によってか。そうかもしれない。だが、意味はない。

 体は軋み、動かない。脳が警告を発し、ここにいてはいけないと叫ぶけれど。

 空気が鉛の重量を以て圧し掛かり、動けない。

 

 恐怖に震える手は、動かない。

 

 

「───大丈夫だ」

 

 

 ───代わりに。

 ───別の右手が伸びて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識が薄れていく。

 起きながらにして見る白昼夢のようだと、朧気に思った。そんなことを思える思考さえすぐに薄れて、私は『私』ではなくなっていく。

 

 揺り籠の中に揺蕩う心地。暖かくて、なんだか気持ちが良い。

 前まで私は何をしていたのだろう。何かをしていたように思う。薄れた意識でそう感じる。

 

 私の頭はどうなったのだろう。手は、足は、体はどこ?

 全部がふわふわしている。感覚という感覚が無くなって、体と外の境界が分からない。

 それでも、私は何かをしていたはずだった。

 私は、何かをしなくてはいけなかった。

 

 でも、それが分からない。

 私は、何を、していたの?

 

『チク・タク。ぼくをおたべよ』

 

『チク・タク。おいしいよ』

 

 ───視界の端で黒い秒針が廻っている。

 

 それはとてもおいしそうで、たべてたべてといっている。

 わたしもそれがたべたくなって、でも、たべてはいけないとこころがさけぶ。

 でも、あれ、なんでたべちゃいけないんだっけ。

 こんなにおいしそうなのに。

 たべたら、ぜんぶ、おわるのに。

 

 いいのかな?

 いいんだよ。

 

 ───視界の端で黒い何かが嗤っている。

 

 そっか。

 なら、もうがまんしなくていいんだね。

 おいしそうだから、たべていいんだよね。

 

 わたしがなにをしていたかはおもいだせないけど。

 もう、なにも、かんがえなくていいんだね。

 

 わたしはそうやって、てをのばす。

 まっくろなはりを、つかもうとして。

 

 

「……駄目です」

 

 

 ───ああ。

 ───空色の少女は、今や視界の中央に。

 

 わたしのてをとって、おさえて。

 いやいやと、かなしそうにくびをふって。

 

「それだけは駄目です。アリスさん、貴方は───」

 

「人を愛すると言うのであれば、耐えなければなりません」

 

 それは、いつまで。

 

「あの人が来てくれるまで」

 

 あのひとって?

 

「貴方を見つけ出した人。貴方のしるべとなるべき人」

 

 そうして───

 

 私の体は揺れて、衝撃が走って。

 視界の全てに光が満ちて、同時に思考が取り戻されていく。空色の少女は薄れて、消えてしまう。

 

 そして、意識は深い暗闇に落ちていく。

 

 その時、見えた。こちらへ伸ばされる、あの人の手が。

 赤い刃と化した右手。それが王冠を掴んで、粉々に砕いて。

 左手に白色の少女を抱きかかえて、庇うように。その右手は、私の頭上にあった秒針を砕く。

 

 それが、最後に見た光景。

 そのことが分かったから。私は、安心しながら目を閉じることができたのだ。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

 その後の話をしよう。

 

 結局のところ、事態の詳細は分からず仕舞いであった。

 復旧した電力と預けたシッテムの箱によって、ヒマリのGPS追跡の後押しを受けたギーが向かった先にいた、見知らぬ少女と巨大異形。現象数式により見えた中枢部位を破壊すると同時に、その異形は縮小し、元の姿へと戻っていった。

 元の姿。傷ひとつないアリスの姿へ。

 アリスも、そして変化したアリスに襲われていたであろう少女も未だ意識を取り戻していない。彼女は重要な参考人としてミレニアムでの治療を受けている。

 停電事故の原因も判明してはいない。同時刻、ヴァルキューレに移譲予定だった証拠品のひとつが輸送途中で紛失したとあったが、それらの因果関係は不明のままである。少なくとも、ギーの知り得る限りでは。

 

 それが、今回の顛末の全て。

 そして、ここからが本当の正念場。

 

 調月リオは、常と全く変わらない無表情のまま、告げる。

 

「もう一刻の猶予もないわ。私はアリスを───名もなき神々の王女を破壊する」

 

 それは一切の譲歩を認めない、一方的な宣言に他ならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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