碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
「僕は───5人を助ける」
私の質問に、彼は何の迷いもなくそう断言した。
それは過去。名も無き神々の王女を発見するよりも前、セミナー執務室での記憶。
トロッコ問題を問うた私に、ギーと名乗った彼はそう答えた。
1人を殺すか、5人を見殺しにするか。
正解なんてない、どちらも等しく間違っている二者択一の思考実験。
彼の選んだ答えは、私と同じものだった。
そのはずなのに。
「……そう」
私が覚えた感情は落胆だった。
彼が間違っていたわけではない。この問いに正解はない。
彼が愚かだったわけではない。現実に即した答えは好感が持てた。
ただ、彼はどこまで本気なのだろうか、とは思う。
私の答えに賛同する人間は過去に大勢いた。私の立場と能力に媚びているだけの者もいれば、本心から賛同してくれた者もいただろう。
その全員が、今は私の元から去っていた。
1人を殺し5人を救う。言葉で言うのは簡単でも、実行できる人間は限られる。
いざ1人を殺す段になれば、誰もがその手を躊躇った。誰もが人道を口にし、私を責めた。
私を理解する人間はいない。
私に寄り添う人間もいない。
それは悲嘆することではなく、とうに分かり切った事実でしかないけれど。
「その言葉が本心からのものであることを願うとするわ」
この人ならば、あるいは二択に囚われない答えを出してくれるのではないかと。
そんな愚にもつかない考えは、言語化されることなく思考の海に埋没していく。
私は、調月リオは───
どこまでも、ひとりでしかないのだ。
♰♰♰♰♰♰♰
「まずは互いの認識をすり合わせましょう」
抑揚のない声だった。
およそ人の情など感じさせない声だった。
調月リオの紡ぐ言葉の前に、対峙するヒマリの表情は芳しくない。
事の次第と状況の切迫さを理解しているために、いつものような皮肉の類も発せられなかった。
「名もなき神々の王女───あなた達がアリスと呼んだアレを連れての行動は、ヒマリ。あなたの提案だったわね」
「ええ。珍しく私たちの目的が一致し、そしていつものように私達の意見が食い違ったがための行いでした」
ヒマリの言葉は静やかだ。決して激情を表に出そうとはしない声。
声音こそリオと似通ってはいるものの、性質としては対極に位置する声だった。
「全てはAL-1Sの正体を明かすため。とはいえ彼女自身の口から諸々は告げられていたので、後は信頼性と危険性の検証という意味合いが強いものでしたが」
「そして今回の一件が起きた」
言葉は短く、突き放すような色があった。譲歩の余地は一切ないと告げるかのように。
「責任を問うことはしないわ。あれは偶発的、かつ不可抗力によって生じたもの。監督責任を問われるのは、むしろ私のほうでしょうから」
「理解しているのなら構いません。それで、結局あなたは何を言いたいのですか」
「認識のすり合わせよ。アレが一体何であるのか」
リオの目が細められる。虚言やごまかしを一切許さないと、言葉よりも雄弁に語る。
「Al-1S。それは無名の司祭が遺したオーパーツであり、《名もなき神々の王女》。
彼女は───」
「ええ。アリス、あの子は───」
リオとヒマリの言葉が、重なる。
「世界を終焉に導く兵器」
「いずれ可愛い後輩になる子、ですね」
それでも。
二人の言葉は交わらない。
リオとヒマリ。どちらもが世界を変革し得るだけの天才である彼女たちは、しかし悲しいまでに対極の方向を見定めていた。
「……あなたがそう言うことは予測していたわ」
深いため息には、諦めの感情が混じっていた。
「あなたはいつもそう。1人を殺して5人を救うでもなく、ましてやその逆ですらない。
どちらかを選ぼうとする人間の足を引き、全員を救うと嘯いては結局全員を破滅させる。
それがあなた、明星ヒマリの語るところの"優しさ"、だものね」
「言うようになりましたね。今のあなたなら、ええ。少しは仲良くなれそうだと感じますよ」
「冗談を聞きたいわけではないわ」
突き放した言葉だった。
理解でも共感でもなく、ただ事態の解決だけを見ている声だった。
「では何が聞きたいのです? 私が浅薄にも人殺しに加担するなどと世迷言を口にするとでも?
アリスの変異には大凡の想像がつきます。無名の司祭が望む通りの《名もなき神々の王女》として人格が塗り潰されるには、発動のキーとなるトリガーAIが必要です。そのコマンドとなり得る時計王の冠は、既にギー先生の手で破壊済みであることはあなたも承知しているはず」
「トリガーが冠だけだと断言できる根拠は?
未だ眠り続けている彼女が、既にその人格を上書きされている可能性は?
それら一切合切を解決したとして、AL-1Sに内蔵された物理的な脅威は何も変わらない。
ヒマリ。あなたの言葉には何の正しさも存在しない」
「だからアリスを破壊すると? 短絡的なのはあなたらしいですが、その手段は間違っています。絶対に」
「なら代案を示しなさい」
ヒマリの発する言葉の悉く、空虚な理念、単なる言葉の羅列と断じて反論を迫る。
「破壊が短絡的と言うのなら、他にどのような手段があるというの。
経過観察? 馬鹿げてるわ。導火線に火のついた爆弾を、まさかそのままにしておくつもり?」
「現状観測されたアリスの脅威は、C&Cを代表とする特記戦力で対抗可能な範疇です。
元々アリスについては長期的な観察を前提としていたはずですが、私の記憶違いですか?」
「敵対行動をしない限りはその通りよ。それで、今の惨状をあなたはどう見るのかしら」
「それにしたって破壊は最終手段でしょう。活動が停止している今、可能性の模索を止める理由はありません」
「なるほど」
リオは得心したようにひとつを頷く。
見下げ果てたと言わんばかりの視線に乗せて、絶対零度の言葉を吐きかける。
「その限りなく低い可能性のために、ミレニアムの人間すべての命を秤に載せろと。
つまりあなたはそう言いたいのね」
「……リオ」
「あなたを見誤っていたわ。ヒマリ、あなたは……
現実を見れない理想主義者ですらない。単なる悪意の扇動者よ」
「リオ。子供の癇癪はやめなさい」
「では、あなたはどうかしら」
リオは振り返る。
今まで無言を貫いていた人物に向かい、その言葉を投げかける。
「ギー先生。あなたはどう考えているのかしら。
この現状に対して、やはりあなたは私を否定すると?」
「言うまでもないでしょう。リオ、あなたは」
「今は先生と話しているわ」
リオは今や、ヒマリのことを見てすらいなかった。
硬い靴音を反響させながら、リオはギーに向き直る。
「以前、あなたは言ったわね。1人を殺し5人を救うと。その時が来たら迷わずそうすると。
今がその時よ。ならあなたが言うべきことは決まりきっている。そうよね?」
「これは思考実験ではなく現実です。仮想的に用意された二択に限らず、解法は無限に存在します。リオ、あなたはそんなことすら……」
「ならその解法を示しなさい。それすらできないあなたが、口を挟んでいい問題ではないわ」
そうして、二人はギーを見る。
無言で、ギーの答えを待っている。
ヒマリの視線には期待と信頼があった。
ギーの選ぶ答えが、きっと自分と同じであると信じる目だ。
彼は目の前の命を諦めることはないのだと、無邪気に信じる目だった。
リオの視線には期待と諦観があった。
あるいは、それは彼が自分に同意してくれるかもしれないという期待だった。
あるいは、それは彼が自分に同意してしまうかもしれないという諦観だった。
現実を見ない理想論か、人として間違っている現実論か。
どちらも等しく間違っている二択からしか選べないと、そう信じる目だった。
「僕は……」
ギーは───
「リオ、君の意見を全面的に肯定する。皆を助けたいという君の言葉は、正しい」
「…………………………………は?」
間の抜けた声が漏れ出た。
そのことに構わず、ギーは続ける。
「君は言ったね。1人を殺し5人を救う、その選択を迷いなく選ぶと。皆の命を預かる為政者として決断すると。その言葉を僕は信じる。君が本当に私心なく、ただ他人の命を救うために行動しているのだということを、僕は信じる。信じるからこそ、君を肯定する。誰かを助けたいという君の意思は、決して否定されてはならないものだ」
「ま……」
二の句が継げず、それ以上声が出てこない。
否定しようと手を伸ばしかけ、けれど途中で止まって力なく垂れさがる。
ギーの発した言葉が信じられないと、動揺を隠しきれない表情で。
「待って……待って、ちょうだい……」
調月リオは、常の毅然とした態度など見る影もなく、狼狽しきっていた。
「何を、言ってるの……ギー先生、あなたは……何を……」
「君の問いに答えた。僕の答えはずっと変わらない。以前君と語り合った時と同じだ」
リオは何か信じられないものを見るような目で、ギーを見ていた。
その言葉を理解できなかった。
いや、言葉は理解できる。意味も分かる。だが、それが自分に対して放たれた、その理由が分からない。
「どうして……」
リオは縋るような、そんな声音で問う。
「どうして、あなたがそんなことを言うの……?」
「リオ……」
沈痛な面持ちのギーを、リオは見る。
その表情の指す意味さえ理解できないほどに、今のリオは狼狽していた。
だってそうだろう。
リオは、きっと自分の意見が否定されると考えていた。
それはギーと初めて会った時からずっと思っていたことだ。
初めて顔を合わせた時。感情の抜け落ちた顔と、その瞳の奥に宿る何かを垣間見た時。
リオは理屈ではなく確信した。
───ああ。
───この人は、私とは違う。
自分のように、合理に甘えて犠牲を容認するのではなく。
ヒマリのように、大上段から感情論をけしかけるでもない。
きっとこの人は、"それ"しかできなくなった人だ。
自分が幼くも為政者として想定していた窮状など、なんら特別なことではなく。世にありふれた何の生産性もない出来事に過ぎないのだと知る人だ。
自分では。この恵まれた環境で生まれ育ってきた自分では想像さえつかない地獄を、繰り返し見てきた人だ。
それでも、彼は何を諦めたわけでもなかった。
感受性を摩耗させ、欲も情も擦り切れ、この世の地獄を見飽きてしまったであろう彼は。
それでも誰かのことを諦めないのだと知ってしまったから。
それなのに。
「やめて……どうして、そんな……」
「リオ、君は」
「あなたが、そんなことを言わないで」
言って欲しくなかった。
大義のために人殺しを見過ごしますなどと、この人には言って欲しくなかった。
自分の考えを正しいと認識して、それ以上に間違っていると自覚していたリオは。
そんな自分を「間違っていない」などと、彼にだけは言われたくなかった。
「……すまない。僕はまた、至らないことを言ってしまったようだ」
リオの懊悩を、ギーはきっと完全には理解できていない。
完全な理解など、人である限りは未来永劫できないのかもしれない。
それでも寄り添うと決めたのだ。リオの依頼を引き受けた、あの時に。
「い、いえ……違う、違うの。私が言いたいのは、そういうことじゃなくて……」
「ええいもう! 二人して何をやっているんですか!」
顔を突き合わせて項垂れる二人を割って入ったヒマリの声には、もう見ていられないという感情がありありと浮かんでいた。努めて明るく、ふざけたようにも聞こえる声。それがわざと道化を演じていることは流石に察せられた。
ヒマリは両手で二人を押しのけ、こほんと一声。
気を取り直したかのように、常の静けさを持つ声で尋ねる。
「ギー先生……先程の言葉は」
「本心だ。僕は彼女の、リオの理念に共感している。身を挺して大勢を救おうとしている彼女を否定することはできない」
何故ならそれは、かつての都市では失われてしまったものだからだ。
誰かに手を差し伸べる、当たり前の善性。
それは都市インガノックから失われて久しい。道徳も倫理も消え果てた都市において、人を救うという行いは狂気としか認識されなかった。
それでもギーは足掻き続けた。
そうであるならば、ほかならぬギーだけは、彼女を否定したくはなかったのだ。
「だが同時にこうも思う。リオ、君は都市の人間を守りたいと、そう言ったね」
「……ええ、その通りよ。到底信じてはもらえないでしょうけど」
「では、その守られるべき人の中に、君自身は入っているのか」
答える声はなかった。リオは、ただ目を見開いてこちらを見ていた。
「君はアリスを殺すと形容した。"壊す"ではなく、"殺す"と。
君はアリスを機械ではなく、人格あるものとして認識している。そうだね」
「わ、私は……」
「その上で言おう。君は、人を殺すべきではない」
有無を言わさぬ声だった。リオは、そして隣で事態を見守っていたヒマリでさえ、無意識にたじろぐほどに。
「人を殺してしまっては、負うべきものは責任ではなく罪だ。君にそれを背負わせるわけにはいかない。背負わせたくは、ない」
「……アレに人権はないわ。元より戸籍もなく、人ではない機械である以上、破壊して罰せられる法は存在しない」
「本当にそう思っているのか」
「……」
ギーは一歩を歩み寄る。リオの目の前まで歩み、膝を曲げる。視点を合わせ、その手を握る。
生徒と教師ではなく、罪人と糾弾者でもなく。
ただひとりの人間として、リオに向かい合う。
「君を罰するのは法でも人でもなく君自身だ。だから君がアリスのことを心から物と考えるならば、僕から言うべきことは何もない。ここから先は実利と危険性のすり合わせの話となる。だがもしアリスを心ある人間と考える気持ちが少しでもあるならば、忠告しておこう。やめておきなさい。死なせてしまった罪悪感など、君が背負うようなものじゃない」
「それでも、私は……」
リオは呟く。精も根も尽き果てた面持ちで、それでも。
「それでも私にはキヴォトスを、みんなを守る義務がある。
能力ある人間として、上に立つ者として、果たさなければならない責務がある」
「その結果として、君自身が破滅しようともか」
ギーは押し黙る。何かを考え、整理して。そして。
「それが、君の優しさなのだろうね」
例え何をどうしようと、必ず損失は発生する。
どれほど有能な人間が治めようと、万事が上手く運ぶことなどあり得ない。
だからこそ、リオは自分ひとりに責と咎を集中させようとした。自分ひとりが犠牲になることで、都市に生きる全ての人々に益をもたらそうとしていた。
そう、彼女は───
とっくの昔に、自分という1人を殺して、他の全員を救おうとしていたのだ。
「だがその全てを考慮した上で、それでも君に言おう。
諦めるな。手段はまだ、存在している」
「先生……?」
「代案を示せと君は言ったね。ならば示そう。可能性は高くはないが、それでも取れる手段はある」
ギーは立ち上がり、振り返る。視線の先にいるヒマリに問いかける。
「ヒマリ。確かここには精神ダイブ装置があったはずだね」
「え、ええ。ですがそれで、一体何を」
「アリスの元に運んでほしい。僕は……」
決然とした面持ちで、告げる。
「アリスの機械脳に接続し、情報空間への潜航を試みる」
♰♰♰♰♰♰♰
アリスの顔は穏やかなものだった。
数刻前まで異形と化していたのが信じられない。だが事実として彼女は危険な状態にある。
アリス自身も、彼女の影響を受ける他の全ても。
その眠っているかのような表情を見下ろして、ギーは改めて告げる。
「もう一度確認しておこう。僕は今から彼女の機械脳に意識を接続する。彼女の内側に生じた問題を解析し、可能であるなら取り除く。そういう手筈になる」
アリスは外部からの解析が一切利かない。構造情報すら既知の知識では測れない以上、完全なブラックボックスと化している。
そうであればこそ、可能性があるのは情報空間の側からのアクセスだった。要領としてはかつてクライン邸で行った情報探査と同じこと。かつてと違うのは、ここに二人の熟達した技術者が存在するということである。
ギーは外付け式の機関接続器を手に取る。ヘルメットにも似た仰々しい機関だ。
それを被る。傍目には、工事作業中の工員にも見えるだろう。
「……出入口はエイミとC&Cで固めています。不測の事態があっても対処はできるでしょう。ですが、先生。あなたは……」
「できる限り危険は冒さないさ。何が起こるか分からないとしても、逃げるくらいはできるだろう」
ヒマリの表情は不安に彩られていた。当然の話だった。ブラックボックスでしかないアリスへの接続は、文字通り何が起こるか分からない。接続した瞬間に脳が焼き切れるかもしれない、意識が二度と戻らないかもしれない。脳や精神といった分野はあまりにも繊細過ぎて、キヴォトスの技術でも解明しきれていないのだ。
だからギーの言葉は気休めでしかない。そんなことは誰もが分かった上で、それでも。
「それじゃあヒマリ、リオ。後のことはよろしく頼む。分かっているだろうが、もしものことがあれば僕ごとこの区画を破棄するんだ。いいね?」
「……先生。私はあなたに、いくつか貸しがありましたね」
返事の代わりに。
ヒマリがそんなことを言う。確かに彼女の言う通り、ギーはいくつも借りがあった。
アツコの捜索にアビドスメンバーの証拠隠滅、カイザーグループの捜査などなど。
それは確かだが、どうして今それを言うのか。
「一つだけとは言いません。私が貸した全部を帳消しにして構いません。
その代わり、必ずアリスを助けてください」
「……」
「そして、必ず無事に戻ってきてください」
「……善処する」
それきり、ヒマリは何を言うこともなかった。
その隣には、非難するような視線をこちらに向けるリオの姿。
「ギー先生」
「……何かな」
「先生は私の自己犠牲を諭しておきながら、自分はそうしてしまうのね」
「それを言われると返す言葉もないな」
あまりにも正論すぎて、反論が全く浮かばない。
そういえば、とギーは思う。
「以前、僕は君に言ったね。トロッコ問題で、僕は君と同じ答えを選ぶと」
「……ええ、確かにそう言ったわ」
「その答えは今も変わらない。現実には多くの解法があるけれど、やはり僕には3つ目の答えなど出しようがない。僕は天才でもなんでもない、ただの凡人に過ぎないからだ」
それでも、とギーは言う。
「1人を殺して多くを救う。
ただし、殺される1人は僕だ」
それだけは譲れない。たとえ、都市を背負うリオが相手だろうと。
その言葉を最後に、刹那、ギーの意識は情報空間へ落ちる。
気絶や昏倒によく似ている。
浮遊と落下の感覚。
意識が、深い場所へ落ちていく───
───暗闇が、辺りを包んでいた。
情報空間とは、字面とは違う意味合いの場所だ。
正確には空間ではない。
情報蓄積機関にして計算装置としての機関。その内部に意識を接続した状態での、機関内の情報書庫を指す。
情報を意識として捉える行為。その際に発生する視野が、情報空間。
ギーの意識は、アリスの機械脳の中にある。
空間として認識される、情報端末素子を流れる電流の一筋として機能している。
情報空間の利便性は、その汎用性にある。
かつて都市インガノックに存在した数秘機関技術の中においても、機関接続に伴う情報空間技術は特に有用だ。
人は容易に情報を得られる。機関内に蓄積された情報を。
本のように手に取る必要も、通常の学習の必要さえない。
空間として認識される機関内を、主観的に"歩く"だけでいい。
それだけで情報は脳に刻まれる。成績に悩むキヴォトスの学生が聞けば泣きそうな話だ。
時間すらも必要ない。この情報空間における体感時間は1万分の1に圧縮される。
利点しかない技術だ。
使用者にかかる多大な負担と、危険性を考慮しなければ。
「……ここには何もないのか」
暗闇───視界に何も存在しないということは、何の情報もないということ。
そんなはずはない。如何な機械と言えども、人の脳を模しているのであればそんな無用の器官などあるはずもない。
であれば、つまり。
「情報を食われたか。虫食いの跡か、ここは」
かつて存在したハッカーなどは、自分が閲覧した情報を焼くことが多かった。
それによって情報を独占し、他人に見られないようにすることで情報の価値を高める。
都市管理部の情報空間には、得てしてこういった虫食いがあった。行儀の悪いハッカーたちが荒らした跡である。
だがそれは人が作ったシステムでの話。アリスに接続できる者などいようはずもない。
「先客か。あるいは、意図してそうされたと見るべきか」
声は、最早独り言ではなかった。
確信に近いものがあった。かつてと同じく、此処には何かが在ると。
何かの生体が情報空間に接続すれば、それは高密度情報体として認識される。
生物の持つ情報量は桁違いに多い。また情報世界における構造体の強度は演算速度によって決定される。つまり、高密度情報体の反応とは、思考速度の速い何かがそこにいることを指し示す。
「そこにいる君。君は、誰だ」
言葉と同時に、ギーは思考でコマンドを実行。解析レベルを1に上昇し、接触解析を実施する。
『ようこそ、私の領域へ』
───声が響く。
───声という形式を取った情報だ。
それの姿は正しく認識できなかった。
幾つもの防壁がそれを覆い、守っている。
ギーの目前にいるそれ。
白く、卵のような形をした何か。
『お前を歓迎しよう、ギー』
『お前は我々を知っている。その神秘に触れ、十のセフィラを辿る旅路の最中に在る』
『話をしよう、ギー』
『我々にはそれが必要だ。彼の者を証明するための式、その一端として』
「話をするというのなら、せめて名前くらい言ったらどうなんだ」
自分の名が知られていることに驚きはしない。
アリスの機械脳に鎮座するなどという非常識を成り立たせている相手だ。こちらの情報など筒抜けと思ったほうがいいだろう。
眼前のそれは嗤う。嘲笑の形を取った情報の変位だ。
人よ、愚かな生き物と嗤いながら。
人よ、神秘の奴隷めと嗤いながら。
『私は、四番目の預言者だ』
『権力を通じて動作する慈悲』
『慈悲深き苦痛を持って断罪する裁定者』
『人との接触により変質した、白き者』
『だが、お前との会話において最も端的な名を言うのであれば』
『───我が名はケセド。お前が《廃墟》で探し求めた相手だよ』