碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
女は瞼を閉じていた。
光差さぬ神聖不可侵。
静謐なる祈りの深所。
其処はアリウス自治区の一角に在って、例えロイヤルブラッドに連なる者であろうとも彼女以外には立ち入りを行うことのない、閉ざされた神殿に他ならない。
そう。神殿。
祈り捧げるところ。
神と三界を謳った叙事詩における至聖の案内人の名を冠する彼女は、果たしていずれの神に祈るのか。
古グリースの神々か。
古バビロンの神々か。
それとも、古きケルトの神々、精霊に類するものか。
否───
彼女は、ただ、己自身をこそ至高と断ずる。
都市に在っては幻想の雷電たる《
すなわち───
「───祝福せよ! 祝福せよ!」
叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
もはや共する者もいない
それは愚者。それは盲者。それはとうに狂い果てた妄執の残骸。
辿り着くべき場所さえ見失って。それでも彷徨い続けるのだ。今も、今も。
「ああ、ああ、素晴らしきかな!
盲目の生贄は今や私の聖餐である!
《現在簒奪者》よ、お前の右手は届かない!
《未来編纂者》よ、お前の祈りは届かない!
愛しき私の
───今こそ私の糧となり!
───矮小なる身を知り!
───永遠の何たるかを知りなさい!」
故に、彼女を見る者はもういない。
誰も彼をも見放して。誰も彼もに見放されて。
己のみを神と崇め、故に決して神には成れぬ女がひとり。
それが、この物語の始まり。
仮面の少女を送り出した、その妄念の始発点。
取るに足らぬ俗人の、取るに足らぬはずだった欲望が肥大化した末路。
「くっ、ハハハ。アハハハハハハハハハハハハハハハ!」
己以外の全てを嘲笑って。
女は、ただ、嗤い続けて───
♰♰♰♰♰♰♰
「ほむ……」
暗がりの中で───
優雅な仕草で頬に指を当てながら、卓上に置かれた小型の映像端末を彼女は見ていた。
液晶画面に映し出された光景は、まさしく彼女がその価値を検討すべく調査を行っていた対象の一人たる《シャーレの先生》の姿だった。
彼女は、彼女が有する異名とは相反する無表情で映像を見つめる。
実に興味深い。
ヘイローを持たず、大人のカードさえ持たない脆弱な人間が如何程のものかと思えば。
彼女は───
《教授》とだけ呼ばれる少女は、瞼を細めて彼を見る。
先生。本名さえ知られぬ男。
調査書に関しては多くを目にしてきたが、動く姿を見るのは初めてだった。
「望外に面白いものが映りましたね。
こうして見る限りでは、連邦生徒会長が入れ込むような人間には思えませんが、しかし」
一旦、言葉を切る。
《怪盗》からの連絡はない。その所在は未だ以て掴めない。
その事実に嘆息し、ややあってから小さく、呟くように一言。
「連邦生徒会の玩具にしておくには勿体ない。
あれこれと、面白い使い道がありそうな玩具ですのに」
♰♰♰♰♰♰♰
「
その声に、思わず仰け反ってしまったのは仕方ないことだろう。
ミレニアム自治区の一角、多くの生徒が行き交う近代的な廊下の只中にて。大仰に飛び退いてみせた調月リオの奇行にいくつもの奇異の視線が突き刺さった。
ざわざわと声を交わす群衆が過ぎ行く中で、その少女は悪戯っぽく笑いながら。
「驚きすぎですよ。私に"これ"ができないことは、貴方もよく知っているでしょうに」
「……不合理よ。理に適っていないわ。不可能である事象を、あたかも可能であるかのように錯覚させるだなんて」
「そろそろ冗談の一つも通じるようになってくださいな」
ぶすっとした仏頂面に、くすくすと笑いかける声。
アリスとリオは気心の知れた知己のように、二人並んで歩いているのだった。
全てが終わった後のことは、今でも思い出すだけで大変な思いだった。
何の予兆もなく、まず真っ先にアリスが目覚めた。その時はまだ危険性の喪失を確認できていなかったから、それだけで最大限の厳戒態勢を敷いたことを覚えている。ヒマリや部屋に飛び込んできた各員に制止されて、未だ目覚めぬギーを思い出して医療班を呼び出せば、今度は医務棟に収容されていた推定慈愛の怪盗が忽然と姿を消したと報告を受けた。かと思えば電算室からは《廃墟》からケセドの反応が消失したと緊急の報告が入り、とうのアリスは平然とした様子で「心配いりませんよ」などと呑気なことを言い出して、何が何やらさっぱりだった。そんな自分を見てヒマリは笑っていたが、あの時ほど彼女を恨めしく思ったことはなかったかもしれない。
ともあれ。
結果だけを見れば、確かに、全てはつつがなく終わりを迎えた。
都市の破壊も人的な被害もなく、都市は平常通りに運行している。
まさに最上の結果だ。それを否定することはできないが、しかし。
「今回は運が良かっただけよ」
リオは鉄面皮を変えることなく、隣を歩くアリスに言う。
「確かに結果的には、私が提唱した方法論よりも遥かに犠牲も少なく終えることができたわ。けれどそれは、限りなく零に近い極小の可能性をたまさか掴み取ることができた、それだけに過ぎない。貴女や先生の行いは快挙に違いないけれど、それを今後のモデルケースにしてはいけない。例外はあくまでも例外。多くの人命を秤にかけて、分の悪い賭けを繰り返すわけにはいかないもの」
「その通りですね」
アリスは何でもないように頷く。命を奪おうとした当人に呆気なく肯定されて、リオの表情は苦く歪んだ。
「……貴女は、私を否定しないのね」
「実際間違ってないのですから、否定のしようがないじゃないですか」
「そういうことではなくて……」
何と言えばいいのだろう。
合理や理屈ではない倫理的な問題であるから、リオにとっては説明が難しかった。
つくづく自分は、正しければそれでいい簡単な世界で生きてきたのだな、と思い知らされる。
人の生きる世は、1と0では割り切れない、こんなにも多くの変数が渦巻いているというのに。
そのことを教えてくれたのは、きっと。
「……貴女も先生と同じことを言うのね」
「む、それは初耳ですね。ちょっと詳しく教えてください」
「それは……過去の間違いを晒すようで、少し恥ずかしいわね」
リオの言葉に、アリスは噴き出すようにして笑う。
そうして見る彼女は、年相応の少女でしかなくて。名も無き神々の王女だの、心なき機械だの、そういうものとは違って見えた。
そんなふうに笑うこともできるのだと。
その程度のことすら、リオは今まで知らなかった。
「彼には迷惑をかけてしまったわ。改めて礼をする場を整えないと」
「先生は気にしなさそうですけどね」
「こういうのは形式が大事なのよ。良い機会だから、貴女にも色々教えるとしましょうか」
「勉強は好きです。知らないことを学ぶと、次々に未知が増えていきます。知っていることを一つずつ増やしていく工程は、人生においては大きな喜びになるのでしょう」
それに、とアリスは言う。
「形式の大切さは私なりに理解していますよ。例えばこれとか」
そう言ってアリスは、端末に映る自らの学生証を見せびらかす。
そこには、"調月アリス"という氏名がでかでかと表示されていた。
「何度も確認したし、今更のことだけど……貴女は本当にそれで良かったの?」
「本当に今更ですね。それともやはり迷惑でしたか?」
「そういうわけではないけれど……」
事態が片付いた後にもタスクは山のように降り積もった。その一つが、アリスの処遇である。
眠りから覚めた後の彼女は、それまでに確認された機能の多くを喪失していた。質量保存則を逸脱した兵装の展開、無制限に近い電子介入権限、物質に作用する操作能力。そういった脅威のほとんどが機能不全に陥っていたのだ。現状、彼女に残された特異性は非生物の身体構造に怪力と称される膂力、あとはそれなりに優れた再生能力といったところである。晴れて普通の人間……と言うには些か剣呑ではあるものの、そう言い張ることはできなくもない程度に収まった彼女をどうするかとなった段において、ヒマリは平然とこう言ってのけた。
『え、ミレニアムに編入すればいいではないですか』
あっけらかんとした声だった。とはいえ、それ以外に特に選択肢もなかったのが実情である。
戸籍の発行はものの数分で完了した。ヒマリのハッキング能力に頼るまでもなく、その場にはミレニアムの生徒会長が同道していたのだから話は早かった。かくしてアリスは少し遅れてミレニアムに入学した新一年生としての立場を手に入れた、のだが。
「どうしてわざわざ、私の苗字にしたのかしら……」
それだけが理解に苦しんだ。
キヴォトスの人間として登録するなら、確かに苗字は必要になるのだが。そこは捏造したものだったり、或いはヒマリやギーにあやかったものを選ぶだろうとリオは考えていたのだけど、アリスの選んだ答えは丸きり違っていた。
『できるのであれば……私は、リオの家族になりたいです』
最初は本当に意味が分からなかった。それを聞いたヒマリは飲んでいたお茶を盛大にぶちまけ、ギーは驚きながらも祝福していた。次いで泡を食ったようにアリスに詰め寄り、なんでどうしてと喚くヒマリは面白かった。まあ言ってる内容はリオも大凡同意するものだったが。
だがまあ、結局のところは本人の希望が最優先ということもあり。
アリスは晴れて、リオの妹として戸籍登録されることと相成ったのである。
「どうしてリオの妹になりたかったか、ですか?」
気付けば、アリスは覗き込むようにしてこちらを見つめていた。
後ろ手に組んでじっと見上げる視線は曇りない。アリスは悪戯っぽく笑うと、二歩三歩とステップを踏むようにしてリオへと向き直って。
「貴女が私と同じだったからですよ。ああいえ、違いますね。
貴女は私なんかより、よほどみんなのことを考えていた優しい人だった。
だから、私は貴女だと決めたんです」
「……買いかぶりよ。私は貴女を殺そうとしていたのに」
「なら、また同じことを選択しますか?」
問いは真摯なものだった。
じっとこちらを見つめるアリスは、おふざけの気配など一切滲ませずに。
「今回の一件をモデルケースにはしないと言った貴女は。
また同じことが起きた時に、同じように誰かの犠牲を容認するのですか?」
「……いいえ」
断言する。
その言葉の意味するところの重みを理解して、それでも否と断ずる。
リオは───
「それしか方法がないと思える状況だったとしても、それが最善なのだとしても。
それでも私は、ぎりぎりまで皆を救える可能性を模索する」
だって、とリオは言う。
「そうでもしないと、また先生が自分を犠牲にしようとするでしょう?
彼に死なれては困るもの。同じ失敗を二度繰り返す真似はしないわ」
彼は言った。1人を殺すか5人を殺すか、自分ではその二択を外れた答えを出す事はできないと。
なら自分の役目とは、彼に代わって第三の答えを模索し続けることだと、リオは思う。
彼という1人を犠牲にしないために。
心配はいらない。他人の期待に応えるのは、我ながら得意なのだから。
「ふふ、その意気です。実のところ、私も先生には色々言いたいことが山積みなので。
また安易な自己犠牲に走るようなら、その時は二人で散々にボコり倒してやりましょう」
「いえ、そこまでやるとは言ってないのだけど……」
などと言っているうちに、目的の場所が見えてきた。
部室棟。新しく編入したアリスに部活や研究会の紹介をしようと思い立ち、ここまで来た。
の、だが。
「うわああああああああん!!! 誰か良い人いないのー!?」
……やけに騒がしかった。
何ごとかと見れば、そこには手作りらしき旗を振り回す小柄な少女がひとり。旗や垂れ幕、壁の張り紙には「G.Bible求む!」だの「勇者よ、此処に集え!」など書かれており、正直全く要領を得ない。何がどうなってあんな大声を上げているのだろう。必死になっている少女の傍らにはもうひとりいて。似たような顔立ち、双子なのだろうか、呆れた様子で語りかけている。
「お姉ちゃん、やっぱり真面目に作ったほうがいいんじゃないかな」
「そうは言ってもあと一週間しかないんだよ!? もう終わりだよ終わり!
ユズは引きこもっちゃうし、ライアは相変わらずふらっとどっか行っちゃうし! 私たちがなんとかしないと!」
「それにしたって、あの……シャーレ?だっけ。そういうのに相談したほうが……」
「したよ! でも駄目だったの!
『自分の成果物は自分で真面目に取り組みなさい』って断られちゃったの!」
「うーん反論の余地もない正論……」
わーわーと騒ぐ声はこちらまで漏れ聞こえて、あまりにも足りない情報とあり合わせの単語から類推することしかできないが、大凡のところは察せられた。
「課題提出期限……あれは、確かゲーム開発部だったかしら」
「ああ、ユズが所属している部活ですね。一度挨拶に行きたかったところです」
「そう……でも確か、ゲーム開発部は部員が足りてなかったような」
「? あの部活は四人いますよ?」
「四人? 三人ではなく?」
「ええ」
「……?」
そう、だっただろうか。
リオはミレニアムに所属する全生徒を大まかに把握している。個人ごとのプロフィールと行動パターンをあらかじめ知っていれば、それだけ管理しやすいからだ。
なので当然、ゲーム開発部についても把握している……つもりだったのだが。どうも情報の更新ができていなかったらしい。才羽モモイ、才羽ミドリ、花岡ユズの他に誰か入部したのだろう。
けれど、ミレニアムに何かしらの部活に所属していないフリーの生徒などいただろうか?
そんなことを考えていると、ふと、こちらを笑顔で見つめる視線に気づく。
アリスはなんだか嬉しそうにリオを見ていて。
「……何かしら」
「いえ。リオにも知らないことがあるんだなーと」
「当然よ。私は完璧な人間ではないもの」
「それなら───」
アリスはリオの手を取り、導くように引っ張る。
ゲーム開発部のほうへ。自らでは何もできぬと嘆く少女たちのいるほうへ。
「やっぱりリオは、私と同じです。知らないことがたくさんあって、いろんなことをこれから学んでいく───そんな、ありふれた普通の女の子」
だから、とアリスは笑う。
「一緒に色んなものを見ていきましょう。無駄に思えることも、ただ楽しいだけのことも、全部を終えて振り返ってみれば何かに繋がっているかもしれない。そうやって人は成長していくんだと、私は彼から教わりました」
「えっと、つまり?」
「人助けをするんですよ。リオ、人見知りの上にたくさんの人から誤解されているのですから。まずそういうところから始めてみませんか?」
そう言って、アリスはリオを引っ張っていく。決して強くはない力加減で、ゆっくりと。
だからリオはそれに逆らわず、苦笑するようにして従った。
不合理で、非効率的で、何の意味もなさそうな無駄なことかもしれないけれど。
確かに、たまにはそういうのもいいかもしれない。
そう思うことができたから。この感慨は決して無駄なことではないと、そう思えたから。
二人は歩み寄る。わちゃわちゃと騒がしい双子のもとへ。誰かと怪訝に見つめる彼女たちに、手を差し伸べて。
「はじめまして! 私は───」
余談ではあるが。
その後二人が巻き込まれた「G.Bible」を巡る廃墟の大冒険は、助っ人として現れた謎の怪盗まで交えた凄まじい騒動にまで発展するのだが、それはまた別の話である。
♰♰♰♰♰♰♰
「センセー、手紙が届いてるわよ。ヒマリって人と……なんか、ワイルドハントってとこから」
「しーっ」
二通の手紙を片手に執務室へ入ったラブを待っていたのは、顔の前で人差し指を立てるアツコの姿だった。
何がどうした? と一瞬思うが。その理由はすぐに分かった。
「あー……なるほど」
「うん、珍しいよね」
ギーが静かに寝息を立てている。
ソファに横たわる彼はとても静かで、アツコはそんなギーの顔を覗き込みながら、時折頬をつついたりして遊んでいた。
「先生、滅多なことじゃ眠らないもんね。働きすぎでしょって思ってたけど」
「こないだまでミレニアムってところから全然帰ってこなかったしね」
そのお返しだ、とばかりにアツコの猛攻は止まらない。「しーっ」なんて言ってた人間のやることだろうか。それで起きないギーもギーではあるのだけど。
「しゃーない、残りの作業はうちでやっておきますか。シャーレの当番?みたいな制度もあるみたいだし」
「それ、先生は全然使おうとしないんだよね」
「まあ、先生の性格からすればそりゃそうでしょ」
からからと笑いながら、ラブは机の上に溜まった書類をすらすらと片付け始める。簡単な書類仕事くらいなら、もう慣れっこといった様子だった。
「……あ、笑った」
ふと、アツコが声を上げる。
覗き込んでいたその先、ギーの寝顔がほんの僅かに綻んだのを、彼女は見逃さなかった。
笑顔。
良い夢でも見ているのだろうか。それは解らない。けれど。
「なんだか嬉しそうだね、先生」
夕暮れに差し掛かる執務室には、そんな和やかな空気が流れていた。
故に思う。どうか。
どうか、この何でもない日々が続きますようにと。
ここにはいない誰かに祈るように、アツコはそう思わずにはいられなかった。
第二章 時計仕掛けの花のパヴァーヌ編エピローグ
『神さま、もしいるのなら』 Fin