碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
───雨が降り注ぐ。
どれだけ降ろうとも変わらなかった。かつて見たのと同じ色の空。
窓ガラスから外の景色を覗けば、夜明けには少し早い街並みは青く薄暗い闇に包まれている。雨粒が窓に当たり、軽く息を吸うくらいの時間を置いて真下に流れていく。この雨が彼女の記憶を呼び起こすのだろうか。
黒猫。もう触れられない温もり。
単調な音の連なりは意識を内側に向かわせる。自分以外に誰もいない室内は雨音だけを反響させて、感情の伴わない記憶だけを過去から呼び覚ます。
あの時も雨が降っていた。黒猫と呼ばれた彼女の手を取れなかった、役立たずのこの腕。
あの光景を、失ったものを、僕は忘れない。忘れるものか。幾星霜を経ようとも、決して。
「……」
過去の話だ。全てはもう終わってしまった。
かつてアティという名だった彼女は、全く違う顔と名で解放された都市を生きているだろう。
栓無きことだ。いくら考えても、今更。
言葉もなくPCの電源を落とす。処理すべき案件は片付いていた。この都市に訪れるまで触れたこともなかった電子端末の扱いにも慣れたものだった。かつて噂に聞いたウォレス・システムとやらも、もしかするとこういった技術体系にあるのかもしれない。
所在ない時間こそが郷愁を呼び起こすのだろうか。雨音と秒針の音だけが小さく響く室内は寒々しさを伴って、体温の失った体に堪えるようだった。
ギーは部屋を歩く。ドアに向かって、ゆっくりと。
扉の前に立ち、ノブに手をかけ、そして。
「……どうして君がここにいる?」
「あはは……たった今チャイムを鳴らすつもりだったのですが」
そこにいたのは、濡れそぼった髪から水滴を垂らす少女の姿。
「こんばんは……おはようございます?
ともかくFOX EATSです。昨日ぶりですね。お会いできて嬉しいです、先生」
ニコと名乗った彼女は、昨日と全く同じ微笑みを湛えてそこに立っているのだった。
◆
「いやーすみません、突然雨に降られちゃったもので、どうしようかと」
「気にしなくていい」
バスタオルで全身の水気を拭き取って、ニコは困ったように笑っていた。
猫虎にも似た動物の耳は力なく伏せ、彼女の感情に連動するようにして小刻みに動いている。
「このまま雨の中に放り出すのも忍びないからね。仮眠室は自由に使うといい。
着替えやシャワー室も、あるにはあるが」
「あー、いえ、流石にそこまでお世話になるわけには……」
などと言いながら。
ギーとしてはさっさと仮眠室なりに行くのだろうと思っていたが、しかしニコはソファに座ったまま動こうとはしない。何故かじーっとギーのほうを見ている。
居心地が悪い、と言うほどでもないのだが。
言葉なく見られていると、どうにも面映ゆい気持ちになってしまう。
「……先生は」
「うん?」
「聞いたりしないんですか? どうしてこんな時間に出歩いているんだ、とか」
「自覚があるなら控えるように」
現在時刻は午前4時40分。確かに学生が出歩くような時間ではない。
ギーはため息を一つ。ニコは何故だかそれを面白そうに見つめていて。
「まあ、シャーレに来るのは自由だけどね。ここ最近は治安も悪い、暗くなってからの外出は控えたほうがいい」
「心配してくれるんですか?」
「一般論だよ」
ニコの言葉には揶揄うような気配があった。最近だとヒマリがよくしてくるタイプの質問だ。
「分かってますよ。とはいえ、今回はちゃんと目的あってのことです。
先生、食事はちゃんと済ませましたか?」
「……倒れない程度には摂っているよ」
「嘘ばっかり」
にこにこと笑いながら、けれど軽く注意するような声音で。
「昨日も言いましたが、食事は体の資本なんです。これを疎かにしては何事も行き届きません。
兵糧を軽視するのは愚策中の愚策ですよ」
「僕は別に野営をしているわけじゃないんだが……」
「先生の場合は度が過ぎてるんですよ」
そう言われてしまうと返す言葉もない。
どれだけ無茶をすれば倒れるかの目安はこの十年で身を以て学んでいるから平気だ、などと言ったらどうなるかなど火を見るよりも明らかだ。余計な一言を言わないでおくだけの賢明さを、ギーは捨ててはいなかった。
「どうせそんなことだろうと思ったので、私の出番というわけです。
昨日は配達ミスでしたが、今回はしっかり受け取ってもらいますよ」
ニコ。FOX EATSなる配達のアルバイトをしているのだという彼女。
彼女と会ったのは昨日のことだった。シャーレ宛ての注文を持ってきたと言う彼女に、しかしそんな注文をした記憶のないギーとしては受け取るわけにもいかず。今更持ち帰っても仕方ないと宣う彼女に、それならばと新規で代金を支払って買い取ったのは記憶に新しい。注文品の稲荷寿司はアツコとラブの夕食となった。
『FOX EATSは出来立てがモットーなので。間違えてしまった配達先にはまた新しく作って持っていきます』
そう言って去っていった彼女の姿は颯爽としていて。
健全な労働に励む若者の力強さを垣間見た、そんな気がした。
と、それはいいのだけれど。
「すまない、昨日も言ったが僕は食べられそうになくてね」
「それも言ってくるだろうなと思いまして。はい、緑茶です」
ニコは独特なカップ(どうやら湯呑と呼ぶらしい)を置くと、水筒から中身を注いでいた。
湯呑の中は緑色の液体で満たされ、湯気が立ち上る。
「もしかしたら先生のお口には合わないかもしれませんが……その時は言ってくださいね」
「いや、ありがたくいただこう」
そう言って、ギーは躊躇なく口をつける。温度は人肌より少し温かいくらいで飲むのに支障はなかった。口の中に苦みのある味が広がり、しかし薬草の類を煎じた水薬とは違って奥行きのあるまろやかさのような旨味も確かに感じられた。
暖かい。
雨寒に冷え込んだ体に沁み渡っていくような心地だった。
「……どうです?」
「ああ、美味しいよ。世辞ではなく本当に。初めて味わうものだったが……」
「百鬼夜行とかでよく飲まれているんです。先生はコーヒーをよく飲まれるそうですが、カフェインの摂りすぎが心配だったので」
お口に合ったようで良かったと笑うニコ。けれど自分がコーヒーを常飲していることは、彼女に言っただろうか。棚に置かれた安物のコーヒーパックを見てそう思っただけかもしれないけれど。
「ありがとう。ただ……」
「はい?」
「君は今回、このためだけに来たのか? 僕にこれを届けるために?」
「そうだったらいいなとか思っちゃいます?」
「いや、仮にそうだとしたら軽率な行動を咎めるが」
「情緒もへったくれもない人ですねぇ」
機嫌を損ねた様子もなく、ニコはやはり笑いながら。
「心配なさらずとも、バイト帰りにたまたま寄っただけですよ。この部屋の電気がまだ点いてるように見えたので、まさかと思って来てみれば……という奴です」
「この時間までバイトを?」
「この時間だから、ですよ。飲食店なんてどこも開いてませんし、フード配達って結構需要があるんです」
ギーが何かを言う前に、ニコは先んじるようにして。
「治安がどうこうというのもご心配には及びません。私結構強いんですよ。SRTはご存知ですか?」
「……一応、名前だけは」
SRT特殊学園の名はキヴォトスにおいては特別な意味を持つ。
ヴァルキューレ警察学校を初めとしたキヴォトス内における法執行機関の最高学府。連邦生徒会長自ら創設したこの学園は、所属する生徒たちの練度の高さは勿論として、あらゆる自治区への介入を可能とする特権的な権限まで持ち合わせる正に特殊部隊と言うべきエリート校だ。従来のヴァルキューレでは各自治区の自治権を理由に活動が阻害される場面が多い中、SRTは少数精鋭ながらも特筆した活躍を見せたとされる。けれど。
「SRTは廃校になったと聞いているが」
「はい、その通りです」
連邦生徒会長の一存によって創設されたSRTは、連邦生徒会長の失踪に伴って廃校となった。
元々が連邦生徒会長自身が持つ権限による自治区への無制限の介入権を持つ学園であるために、その責任を取れる人間がいなくなったからというのが理由だ。一見すれば納得できる反面、それならシャーレの権限はどうなるんだとか、事実上のNo2である統括室行政官に権限が委譲されるのではないかとか、様々疑問は浮かぶものの。
どうあれギーには何の手だしもできない問題だった。そもそも廃校自体はギーがキヴォトスに訪れるよりも前に決定していたと聞く。
「察するに、君はSRT所属の人間だったということか」
「ええ、まあ。そういうことですね」
姿勢よく湯呑を持ち、日向のように笑う少女。
その正体がキヴォトスでも屈指の実力を持つ元SRTの生徒であるとは、とても見えなかった。
「SRTは4~5人の小隊規模で編成されてまして。私はFOX小隊というところで副隊長をやっていました。災厄の狐を捕まえたこともあるんですよ、知ってました?」
「……いや、すまないが」
というより、災厄の狐なる人物のことも初耳だった。
ギーの言葉を受けて、ニコは少しだけ寂しそうに。
「いえ、それが当然ですよね。まあともかく、SRTは解体されてしまいましたが、大半の生徒はそのままヴァルキューレに移籍する形で活動を継続しているわけです」
「君はそうではないと?」
「……まあ、分かっちゃいますよね」
ニコはやはり寂しそうに、力なく笑う。
「ヴァルキューレが嫌いというわけではないんです。自治区に介入もできない遅刻魔なんて揶揄されてますけど、彼女たちも懸命に頑張ってるのは分かります。同門としてそこを疑っているわけではないんです。ただ……」
「ただ?」
「……いえ、何でもないです。気にしないでください。
まあそういうことで、私はこうしてアルバイトに精を出しているというわけなのでした」
ニコは取り繕うように笑った。先ほど一瞬だけ覗かせた寂しさも無力感も、霧に巻くように消え去っていた。
彼女は取り繕うのが上手かった。少なくとも、ギーの目にはそう映った。
「ですので本当に心配はいらないですよ? 何人かかってこようが大抵は返り討ちです」
「君が強いということは疑わないが、そもそも危ない真似はよしなさい。夜更かしもだ」
和やかな時間が流れていく。雨は未だ降り止まない。夜明けの陽が昇るにはまだ早い。
ニコはおもむろに立ち上がり、静かに湯呑と水筒を片付けながら。
「それでは、お言葉に甘えて仮眠室を使わせていただきますね」
「ああ、ゆっくり休むといい。シャーレの設備はいつでも空いているから、利用時間を気にすることもない」
「……ありがとうございます、先生」
言葉を残して、ニコは扉の向こうへと消えていく。あくまで軽い足取り。他意は感じさせない。
ギーは再びひとりになった。音の消えた執務室で、彼は一つ息を吐き。
「……それで、君は何の用だ。ミリア」
「おや、用が無ければ来てはいけませんか?」
───姿が。
一瞬前まで誰もいなかったはずの場所。そこに、瞬きほどの時を要して人の姿が現れる。
錯視か奇術であるかのように。そして実際、その認識は正しいのだろう。
あらゆる芸術の故郷にして還る場所とも称されるワイルドハント芸術学園に在って、治安維持を担う法執行官にも等しい立場の彼女。
およそ人ならざる美貌を湛え、しかして世に遍く美の体現たるを追求する彼女。
あらゆる白を現しながら、悪徳たる黒の遂行を責務と捉える彼女。
彼女の来歴をギーは知らない。ミレニアムにあってアリスに襲われていた少女であるとだけ。
深く追求するつもりもない。誰かを傷つける事さえなければそれでいいと、ギーは思考している。
代わりに庇護することもない。彼女が自身の意志に基づいて行動するならば、その在り方を否定も肯定もしないに留めるのみだ。
ギーは彼女に振り返る。不信こそないものの、懸念にも似た感情を滲ませた瞳で見遣る。
「それは構わないが、しかし。君はその手の人間ではないだろう」
特に強い目的意識を持った人間とは、得てしてそういった性質を持つ。
あらゆる行動に理由があり、全てが何かに繋がっている。そういう類の人間だ。
ギーはミリアをそのように認識している。リオほど徹底してはいないが、その類の人間でなければワイルドハントなる芸術の魔都において寮監の地位に昇り詰めることは不可能であると。
「あら心外。まだ先生に信頼されないなんて、私とても傷つきましたわ」
「それが本心なら謝るが、とてもそうには見えない」
「否定はしないのですね。酷い人」
言葉とは裏腹に、表情はとても愉快気である。愉快犯的、とは敢えて評さないこととした。
「冗談はさておき、今回は忠告をと思いまして」
「忠告?」
「はい。あのニコという人物について」
「彼女に不審な点はないように思えるが」
「それこそ冗談でしょう。疑り深い先生が、まさか頭から信用するなどと」
「……」
ギーはただ無言で返した。ミリアは微笑むのみ。
「それで本題なのですが、あのニコと名乗る彼女。あまり信用しないほうがよろしいかと」
「……何故?」
「SRTやヴァルキューレにあまり良い噂がないことは、先生も承知の上でしょう?」
事実だ。SRT解体に反対した元SRT生徒が公園を占拠し、警備局へ発砲を繰り返したという事件は記憶に新しい。SRTへの移動拒否はおろか離反まで行い、公共財を占拠し、あろうことか無差別に近い発砲を以て抗議とした事件は、皮肉にも責任という手綱を失ったSRTの孕む危険性を立証するに至ってしまった。
下手人である四人の少女は矯正局に収監され、騒動は収まったものの。SRTの名の許に行われた蛮行と醜聞は未だ消えることなく噂されている。
「それだけならば良かったのですがね。ヴァルキューレ公安局にもきな臭い噂があるのですよ」
「公安局に?」
「はい、あれの直属が連邦生徒会の防衛室であることはご存知でしょうか」
頷く。ギーはまだ防衛室長に会ったことはないが、そのような組織形態であることは知っている。
「公安局は現在、DUにおける半ば強硬的な立ち退き政策を実行に移しています。まあ諸事情あって、"いました"と過去形にしたほうが適当ではあるのですが。それが防衛室の圧力によるものだという噂がありまして」
「話が見えてこないな」
「まあまあ。その防衛室なのですが、どうもヴァルキューレに移籍しなかった元SRT生を抱き込んでいる動きもありまして。更にはカイザーグループとの繋がりまで浮かんでくる始末。先生はこれをどう考えますか?」
「さてね」
政治的な話はギーには無縁だった。考えても仕方ないし、自分はそのような場には関わることはないとも考えている。実際、政治的手腕が云々など自分には縁のない話なのだから、関わるだけ双方が不幸になるだけだ。誤解を恐れず言えば、勝手にやっていればいいとさえ。
「だが君の言いたいことは理解できた。ニコがそういった汚職に関わっているかもしれないと、そういうことか」
「下世話ではありますが、ええ。真実はどうあれ、前もって知っておく必要はあるかと」
「とりあえず、ありがとうと言っておこう。けれど」
ギーは努めて表情には出さず、答える。
「噂で人となりを決めつけることはしたくないからね。ニコがどういう人間なのかは、僕自身が見聞きして判断しよう」
「……ええ。それでいいと思いますよ」
その言葉を最後に。
目を離したギーが再び視線を戻した時には、既に、ミリアの姿はどこにもなかった。
今度こそひとりになった執務室で、ギーは本気のため息を吐く。
どうにも、面倒なことになりつつあるようだった。