碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
今日も、街は陽の光に照らされている。
守月スズミがシャーレへとやってきたのは、既に日も高くなりつつある午前10時の頃だった。
シャーレのあるDU自治区は、スズミの所属するトリニティ自治区にほど近い。学校の近くにある最寄り駅を使うまでもなく、ゆっくり歩いて30分もすれば目当ての建物が見えてくるくらいだ。
連邦捜査部S.C.H.A.L.E
円十字とヘイローのエンブレムを象る厳めしい建物。ここ数か月で急造されたとは思えない規模の設備を備えたその場所は、所属や学籍を問わず不特定の人間の協力を仰ぐことも、他自治区への無制限の武力介入も許された、あらゆる法律による規制を免れる超法規的特権を有する機関とされている。
当然そうであることを示すものは何もなく、あまり人の出入りもなく持て余しているのだろう最新の設備の数々が並んだロビーが、ガラス張りの入り口から垣間見える。
休日であるのに制服姿のままやってきたスズミは、そんなロビーへ足を踏み入れる。
「……お邪魔します」
誰も聞いていないのにそう口にするのは、彼女なりの礼儀のようなものだった。
シャーレには誰でも自由に出入りできる。生体情報の認証は愚か、生徒証の提示すら必要ない。
以前もそうだった。今からちょうど一か月半ほど前のこと。
キヴォトスへ来訪したという彼が、目の前で倒れたその翌日のこと。
あの日のことを覚えている。
明らかな致死量の血液をぶちまけて倒れた彼。騒然となるレセプションルーム。悲鳴、怒号。緊急で発せられたアラームと、部屋に雪崩れ込んできた医療従事者と思しき人たち。
そして。
固まって、何もできなかった自分。
その時のことを覚えている。
思考が鈍磨し、時間が引き延ばされたように思えた、あの瞬間。
床に広がる鮮血も、飛び交う人の声も、何もかもが遠いもののように感じられた。
自分にも何かできることがあると思い、連邦生徒会への直談判へと踏み切って。
でも、あの時の自分には何もできはしなかった。
直後に現れた不良生徒達のシャーレ襲撃も、結局は《転校生》たる彼が解決してくれた。
その時思い知った。
少なからず正義を志していた自分は、あの時。何もできない無力な人間などではなく、
できることがあるのに何もしなかっただけの、無責任な人間なのだと。
「……」
あれからそれなりの時間が経った。
入口付近にあった落雷のような焦げ跡も、すっかり目立たなくなっていた。
この一か月と少しで、シャーレはアビドス自治区の財政難解決の一助を担ったと聞く。
自分は、どうだろうか。
守月スズミは、何かできただろうか。
意外なほどに綺麗に清掃された廊下を、スズミは歩く。
一番奥にはエレベーターホールがあり、そこは執務室の目の前へ直行している。
そこまで入るのは初めてだった。
エレベーターの機械的な案内音を聞き流し、開く扉に向かって足を踏み出す。
差し込む陽射しに少しだけ目を細めて、目的だったその場所へ視線を向けて。
そして。
「ね、ねえ! これもう沸騰してるわよ!? まだ切り終わってないんだけど……!?」
「ちょっと落ち着きなさいよ! そんな急かされてもやれないものはやれ……うぎゃー!?」
「……えっと」
なんだろう、これは。
◆
胸に手を当てて、じっくりと今の状況について考えてみた。
とはいえ両手は荷物で塞がっているから、あくまで物の例えだ。
たくさんの人がいる。
これはびっくりした。先生はこう言っては何だが、あまり社交的な人には見えなかったから。実はこっそり親近感を覚えていたのは内緒だ。ともあれ、こんなにたくさんの人に囲まれているとは少し予想外だった。
騒がしい。
併設されているキッチンでは二人がてきぱきと、いやあたふたと動き回っていて。それを見守る位置にもう一人。そして、そんな三人を遠巻きに十何人かの女の子たちがやいのやいのと騒いでいる。みんなヘルメットを被っていたり、中には黒い仮面で顔が見えない子までいた。
耳を澄ましてみると「たいちょー」とか「ユウカに負けんなー」とか言ってるのが聞こえる。
話から類推するに、勝負事か、あるいはそれに近いことをしているのだろう。
その二人には見覚えがある。
一人は確か早瀬ユウカさんだ。個人的な面識こそないものの、連邦生徒会へ赴いた時に一緒にいたはずだ。ミレニアムのセミナー所属の人間だから、結構有名だったりもする。
そしてもう一人は、確か……
「河駒風ラブさん?」
「驚いたな、君たちは知り合いだったのか」
「……っと、先生?」
横合いからの声に目を向ければ、そこには見知った男の姿。
ギーと呼ばれた彼が、やや疲れたような面持ちで立っていた。
「久しぶりだね。その後、変わりはないかな」
「はい、おかげ様で……それにしても先生、これは一体?」
「ああ……」
答える声には覇気がない。目は若干遠くを見ていた。
「彼女たちは元ヘルメット団……傭兵の子たちでね。近くシャーレから離れることになったんだ」
「はあ」
「それでユウカが……今レンジを爆発させた黒髪の子だけど、皆の生活能力を心配してくれてね」
「この様子を見る限り、ユウカさんのほうが心配なのですが……」
「ああ。それでラブが反発してしまって。そこまではいつものじゃれ合いだったんだけど」
凄まじい音と共にレンジが弾け、中からもうもうと黒煙が上がっている。結構な事故に見えるが、周囲はゲラゲラと笑っていた。大ウケである。
「ニコという子がね、なら教えがてら勝負でもしてみようかと提案してしまって。それでこの通りというわけだ」
「なるほど……」
正直よく分からないが大体分かった。
ギーの指さす先を見れば、そこには周りと一緒になって笑う薄桃色の髪の少女。自分たちと比較して少し大人びた、恐らく三年生だろうか。大きな狐耳をピコピコと動かして、仕方ないなと言った風に笑っている。
「それで、今日は何か用だったかな」
「いいえ、そういうことではないのですが……」
「センセー、誰か来……って、ゲェ!?」
先生に話しかけようと振り返った子が、自分に気付いて小さく悲鳴を上げる。すると周囲の他の子たちも次々と自分の存在に気付いたようで。
「うわあ! トリニティの走る閃光弾!」
「妖怪懐メロ女!?」
「魔法少女マジカルデストロイヤー!」
「い、今更何しに来やがったんだ!? やっぱお礼参りか!?」
「ゆ、許してぇ! 隊長の弱点は全部言うからぁ!」
「た、隊長は握力が弱くて瓶のフタを開けられないんだ!」
「あと、二段ベッドの上だと怖くて眠れないんだ!」
「ちょっと!? 何言ってんのアンタたち!?」
わーわーと。
先程までとは違った騒がしさに包まれて、ギーは驚いたような目でこちらを見る。
「君たちの間に何があったんだ……?」
「えっと、その、以前遊園地で少し」
正義実現委員会の要請で違法取引が行われるという遊園地に行った際、ラブたちとかち合ってしまったことがあったのだ。聞けば彼女たちも指名手配犯の捕縛アルバイトに応募したとのことで、ちょうどトリニティとゲヘナの境に近い政治的に難しい場所だったこともあり、協力して犯人を捕らえたという経緯がある。
大規模不良集団として有名なヘルメット団ということもあり、当初は警戒して応対したのが不興を買ってしまったのだろう。事件が終わって互いに労おうとしたのだが、どうにも怖がられてしまったのを思い出す。
やはり出会いがしらに閃光弾を撃ち込んだのは駄目だったか。
「あはは……なんだか色々バタバタしちゃったね」
なんて苦笑いしながら、ニコと呼ばれた少女が場を取り成す。
後ろではギーが涙目のユウカに近づき、一緒になって片付けをしていた。
「もう一回って空気でもないし、お茶の時間にしよっか。そこのあなたも一緒にどう?」
そういうことになった。
♰♰♰♰♰♰♰
「へえ、じゃあ昔は正義実現委員会にいたんだ?」
「はい、恥ずかしながら……」
暫くして、シャーレの一角は和やかな空気に包まれていた。
ギーの目の前にはおはぎと緑茶。ニコが人数分用意したものだ。
生徒たちは先程までの喧噪も忘れ、各々思い思いに過ごしている。そんな中で、ニコとスズミは隣り合って話をしていた。
「トリニティの自警団は私も知ってるよ。非公認なのに凄く活躍してるんだって」
「い、いえ、そこまで言われるほどでは……」
「恥ずかしがらないの! 団長さんが団員さんの活躍を否定しちゃ悲しいでしょ?」
「わ、私は団長では……」
二人の会話は弾んでいる……のだろうか。何故だかスズミは恐縮しっぱなしである。
以前話した時の印象と比較すると、少し意外なほどだった。
紅潮したスズミは、伏せがちな目をこちらに向けてくる。助けを求める目だった。仕方なしにギーも会話に参加する。
「正義実現委員会にいたというのは僕も初耳だな。何か理由でも?」
「あ、いえ、特に問題があったわけではないのですが……その、私自身がですね」
「ふむふむ?」
「えっと、集団生活に馴染めなかったというか……」
「あー、そういうことあるよね。うちでもたまに似たような子いたなぁ」
ミユちゃん元気かなー、などとニコは感慨に耽っている。
ギーとしては、そんなスズミの言には少なからず驚きがあった。
ギーの知るスズミは、凛然とした、強い意思を持つ少女だ。
周囲の在り方に惑わされず、己の信じた道を行く強さを持つ少女だと。
そんなギーの気配を感じ取ってか、ニコは悪戯っぽい目を向けて。
「先生、何か驚いてます?」
「いや……ただ、少し意外だなと思ってね。スズミにそういった一面があるとは」
「あー、偏見だー。スズミちゃんだって女の子なんですよ? 繊細な乙女心、ちゃんと分かってくださいね?」
「そう言われると弱いな……」
「そ、そういうことでは……でも先生も買い被り過ぎです。私は未熟もいいところで……」
スズミはチラとニコを見て。
「ニコさんのようにはとても……これほどの強さには到底及びません」
「おー、分かっちゃいますか」
言われ、ニコはどこか嬉しそうな表情で。
「まあ伊達に鍛えてはいませんから。でもスズミちゃんも相当だよ。もちろんお世辞でも何でもなくね。SRTがまだあったら推薦したいくらい」
「……その、確かSRT特殊学園は」
「うん、もう無くなっちゃった。だからあくまで例えばの話ね」
ニコはあっけらかんと笑う。努めて気にしてないと言うように。
「ま、今の生活も嫌いじゃないよ。バイトには精が出るし、こうやって遊びにも来れるしね。以前なら訓練漬けで、遊びになんて行ってる暇はなかったなぁ」
言葉とは裏腹に、そういった過去を疎んでいるわけではないようだった。
かつてを語るニコの顔は、懐かしさと同時に郷愁のような喜びを垣間見せて。
それは取り繕うのが上手い彼女の、偽りない本心のようにも見えた。
「ニコさんは、その……SRTのことが好きだったんですか?」
「……まあ、ね。好きでもなかったら続かないよってくらい厳しいところだったから、それなりの愛着はあるよ」
一瞬覗かせた感情も、次の瞬間には煙に巻くように消え去っていた。
まるで「仕方なかったことだよ」とでも言うように。
「その点で言えば、やっぱりスズミちゃんのほうが凄いなって私は思うな。正義実現委員会をやめて、それでも自警団として活動してるわけなんだから。見習いたいなって思っちゃうくらい」
「そ、そんな……」
「はい、謙遜はキャンセル!」
ニコは悪戯っぽく肩を揺らす。スズミはあわあわと表情を動かしていて、それすら楽しそうにニコは笑顔で見つめていた。
「本当にそう思うよ。まあ私達にはヴァルキューレっていう受け皿があったんだけどさ。
そういう後ろ盾もないのに自分の信じた正義を追求するのは……うん、とても凄いと思う」
「ニコさん?」
「ね、スズミちゃん。スズミちゃんはどうしてそうするの?」
笑顔だった。
ニコはいつも笑っていて、それは今も変わらない。
笑顔。
けれど、いつもとは何かが違う笑み。
真剣さと、何か切実なものを感じさせる。そのような印象を、ギーは抱いた。
「わざわざ正義実現委員会に入るくらい志が高くて。けどそこにいることをあなたは拒絶して。
それでも、あなたは変わらず活動を続けた。ひとりになっても」
じっと見つめる。
周囲がいやに静かに感じられるほどの圧が、視線に宿る。
「スズミちゃん。あなたにとって、正義って何?」
それを受けて。
スズミもまた、表情を落ち着かせる。
謙遜と自己評価の間で感情を揺らがせ、いっぱいっぱいになっていた面影など感じさせず。
断言する。
「誰かがやらなければならないこと、です」
「それは、どういう?」
「えっと、私も具体的に言語化できているわけではないのですが……例えば、"正義の反対はまた別の正義"なんて言葉があるじゃないですか」
子供のためにパンを盗んだ父親がいたとする。それを逮捕する警察官がいたとする。
父親と警察官、そのどちらにも一定の正当性があり、各々の信じる正義がある。だが時にそうした個々人の抱える実情は衝突し得るし、故に誰かにとっての正義はまた別の誰かにとっての正義と反対になってしまうのだと。
そういう言葉遊びだ。所謂、不寛容のパラドクスにも近しい概念である。
「その言葉の是非を私は論じません。けれど、そんな言葉が出てくるほどに、正義という考えは曖昧で、色んな意味や解釈が出てきます。時には、正義感で動く人間が一番危ないなんて言われたりすることだって」
スズミは所々つっかえそうになりながら、それでも何とか言葉を続ける。
「でも、それでも、多くの人にとって"良い"と思える世界の形は確かにあると思います。仮に実現は不可能であるのだとしても、それを目指して努力することをやめてはいけない。そうした努力の全てを、私は正義と呼ぶ……のだと、思います」
「だから、誰かがやらなきゃいけないこと?」
「はい。そして、私がやるべきと思ったことです」
スズミの言葉は揺らぎない。
他者の考えや言葉に揺れても、その説明がしどろもどろになっても。
その結論だけは絶対だと、そう信じる人間の言葉だった。
「ですので、所属や立場は関係なく、人は正義を行えるのだと思います。もちろん、然るべき組織にいたほうができることが多いとか、そういう事情は出てくるでしょうが」
「そっか。うん、そっかー……」
「ニコさん?」
ニコは何かを腑に落としたように、力なく、しかしどこか清々しげな苦笑を漏らした。
スズミは疑問に思って何かを問いかけようとして、けれど近づいてくる賑やかな気配に気付く。
「アンタたち、またなんか難しいこと言ってるのね」
「ラブさん……と、えっと」
「アツコだよ。よろしくね」
スズミの手を取ってアツコはぷらぷらと揺らしている。纏う黒い仮面に、スズミはどうも面食らっているようだった。
「けど、正義の反対は云々って奴、うちは嫌いよ。だってそれドヤ顔で言ってくる奴、大体は自分勝手な悪党だし」
「良い人は良い人、悪いのは悪いのだよねラブ」
「なんかアンタに言われると気が抜けるのよねぇ」
場が再び騒がしくなってくる。少女たちの他愛もない雑談が飛び交う。
その中で、ふと疑問に思ったことをギーは尋ねてみた。
「そういえば……スズミ、結局君はどうしてここに?」
「具体的な理由はなくて……その、先生の顔を見たかったといいますか」
「そうか」
そういうことになった。
♰♰♰♰♰♰♰
そして今日も、都市の時間は過ぎ行く。
辺りが暗くなり始めた頃合い、今日のところはお開きと相成った。
「先生、本当にすみませんでした……! 備品補充の請求書は私は責任持って処理させていただきます……!」
「いや、そこまで気にすることはないよ」
ユウカはずっと平身低頭のままで、どこか気恥ずかしさを堪えたような面持ちだった。
あれからユウカはヘルメット団の面々に揶揄われ、それに反発して追いかけ回して、というのを繰り返していたようだった。ギーとしてはそんなユウカの在り方は好ましかったし、シャーレで過ごす時間が少しでも彼女のストレスを和らげてくれるならと思っているのだが、本人としてはそうもいかないらしい。
謝りながらも飛んでくるヤジに顔を真っ赤にして反論し、また頭を下げてユウカは帰宅した。
そして。
「では、先生。私も失礼します」
「ああ。また好きな時においで」
ぺこりと姿勢よく頭を下げて、スズミはギーを見る。
その表情は、初めて会った時に比べてどこか柔らかなものになっていた。
「先生も、どうか身辺にはお気をつけて。以前の言葉を繰り返すわけではありませんが、また治安が悪くなっているようです。特にトリニティやゲヘナは、エデン条約のこともあっていつも以上にピリピリしているので」
スズミの言葉に、ギーは頷く。
ゲヘナとトリニティ、歴史的にも根深い敵対関係にあった両校が不可侵条約を結ぼうとしていることは、世情に疎い人間でも耳にしたことがあるであろうビッグニュースだ。文字通り歴史的な瞬間だが、当然ながら快く思わない人間も多い。その摩擦を受けての犯罪や暴動も発生しているのだとか。
スズミの忠告に感謝し、その背を見送る。
「いやぁ、みんな帰っちゃいましたね。寂しくなります」
「ああ。君はどうする?」
「お泊りの提案ですか? 駄目です、ちょっとドキドキしてきちゃいました」
「僕に冗談のユーモアを期待しているようなら応えられないよ」
などと。
シャーレ組もぞろぞろとロビーに入っていく中で、ギーの隣に立つニコは愉快気に笑っていた。
「もう、少しくらいは乗ってくれてもバチは当たりませんよ?」
「あいにくと、そういう話に縁がなくてね。残念ながら」
「……良かった。それならちょうどいいです」
ニコはゆっくりと歩き出す。一歩、二歩と前に出る。
「今のは冗談ですけど、でも今から言うのは冗談ではないので。ちゃんと答えてくださると嬉しいです」
そして。
くるっと振り返り、後ろ手に組んで紅潮した頬で笑いかけながら、ニコは言う。
「先生。明日、私に付き合ってはくれませんか?」