碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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エピローグ:大嫌い

 

 

 

 

『拝啓、ギー先生へ。

 

 空が、とても青いです。

 先生は今、何をなさっているのでしょうか。私と同じ空を見ていられるのでしょうか。

 この手紙を読んでくださっているということは、きっと私は上手くやれたのだと思います。

 土壇場で足踏みしてしまったり、引き留められたり、情に絆されてしまったり。そういうこともなく初志を貫徹できたということなのでしょう。

 あなたは私を止めてくれましたか?

 私の心に気付いてはくれましたか?

 それとも、ただ、見送ってくれただけですか?

 いいえ、どれでもいいんです。

 私が私の意思で行うこと。それが一番大切で、あなたはそれを分かってくれたのだと信じます。

 思えば、先生には迷惑をかけっぱなしでしたね。

 一緒に遊園地に行った後のことを覚えていますか?

 私のせいでぎくしゃくした空気になった時、みんなは私のことを心配してくれました。

 それはとても嬉しかったのですが、逆に先生にはあらぬ疑いをかけてしまったかもしれません。

 どうか皆を悪く思わないでください。みんなとても良い子たちで、全ては私の不徳なのです。

 だから先生にも、どうか自分を責めないで欲しいんです。

 そんなことを言える権利は、本当はもう私にはありませんが。

 ありがとう。ごめんなさい。

 シャーレに来て、ここの皆と一緒に過ごして。とても楽しい毎日でした。

 まるで普通の子供のように、遊んだり笑い合えていた時間。

 まるで普通の生徒のように、先生と過ごしていた時間。

 先生はちっとも優しくなくて。多分最初から私のことを疑ってたんだろうなって思います。

 それでもみんなと過ごした日々は楽しかった。

 自分が決して許されない罪人であることを、その時だけは忘れることができた。

 ずっと目を背けていたんです。私は、こんなにも長い間。

 私はずっと、優しいみんなを騙していました。

 たくさんくれた暖かさに、不実を返すことしかできなかった大馬鹿者です。

 ごめんなさい。

 せっかく普通の人間として扱ってくれたのに。希望を見つけられなくてごめんなさい。

 罪を犯した過去を隠して、普通の人間みたいに振る舞ってしまって、ごめんなさい。

 そしてそんな過去を清算するために、もっとひどい罪を犯してしまうことが、ごめんなさい。

 わがままだった私の最後のわがままを、皆を裏切った私の最後の裏切りを、許してください。

 いいえ。いいえ。

 許してくれなくていい。みんなには私を酷い人間だと、黙っていなくなった恩知らずな人間だと、そう思ってほしい。酷いことをした恥知らずな人間として、もうどうでもいい奴だと綺麗さっぱり忘れ去ってほしい。

 どうかあなたにも、私を許さないでいてほしい。

 どうしようもないこんな私を、救いようのない愚かな私を、どうかそのままにずっと嫌いでいてほしい。

 例え一時とはいえ、私を受け入れてくれてありがとう。

 シャーレで過ごした二週間は、私の人生で一番幸せな二週間でした。

 

 私は、私の為すべきことをやり遂げます。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「チャンネルをご覧のみなさん、こんにちは! クロノス報道部の風巻マイです!」

 

 ───クロノスジャーナリズムスクール報道部。

 ───第7共用スタジオ。

 

 ON AIRの電光文字が掲げられたスタジオには、今日も姦しい声が響く。

 マイクに向かって声を張り上げるのは、眼鏡をかけた快活な少女だった。

 キヴォトスにおける報道を一手に担う学園自治区。それがクロノスだ。

 学生によって自治運営されるキヴォトスにおいて、インフラや小売りに並び報道各種も学生によって運営される。クロノスとはその一角を担う学園であり、その中心にて活動する彼女もまた、将来的には放送伝達職を志す若きアナウンサー志望でもあった。

 

「連邦生徒会長が失踪してから早二か月。生じた混乱と窮状は解決されるどころか、防衛室長である不知火カヤ氏までもが原因不明の失踪を遂げたことは記憶に新しいことでしょう。この件の続報についてはメインコーナーで詳しくお伝えしたいと思います」

 

 風巻マイを名乗る彼女の声は抑揚が強い。

 聞き手の印象に残る訓練された話し方だが、同時に先入観や偏った印象まで植え付けかねない話し方。本来公正な情報伝達を旨とする報道においては一長一短だが、彼女の場合はより需要に特化されたものだ。

 すなわち、より刺激的でセンセーショナルな話題で聞き手を釣る、ゴシップのやり口。

 良し悪しはともかくとして、彼女はそれに自覚的だった。

 話題を喧伝し、それを伝達する自分も喧伝する。

 マスメディアを志す者としては、ある種勤勉なやり方とも言える。

 

「現在、キヴォトスを取り巻く情勢は混迷を極めています。しかし同時に、そうした情勢だからこそ花開く、まことしやかに語られる文化もまた存在するのです。『風巻マイの時事分析チャンネル』では、今回そうしたゴシップニュースをお届けしたいと思います」

 

 もったいつけて一拍置き、マイは聞き手の感情を煽る声音で宣言する。

 

「すなわち、キヴォトスにおける都市伝説について、です!」

 

 明るい声音とは裏腹の単語だった。単なる娯楽として捉えているであろう声。

 

「曰く、とある潰れたアミューズメントパークでは夜な夜な動く人形がいる。

 曰く、辺境の砂漠都市で空を覆う巨大な影を見た。

 曰く、カイザーグループの不自然な落雷事故は人為的なものである。

 曰く、救いを求める人の背中に鋼鉄の神さまが舞い降りる。

 他にも、他にも。こうしたオカルトは得てして暗い世相に流行るものですが、火のないところに煙は立たないというもの。本日はこれらの噂について分かりやすく解説してくださる専門家をお招きし、お話を伺ってみたいと思います。では、ワイルドハント芸術学院オカルト研究会の皆さま───」

 

 

「……それでは崇高と幻想、そして《盟約》についての話を始めようか」

 

 

 がたん、とマイが椅子から転げ落ちそうなほど仰け反った。

 心臓が飛び上がり、演技ではない驚愕の表情に冷や汗が伝う様が見える。突如目の前から声が聞こえたかと思うと、マイの隣にはひとりの少女がいつの間にか座っていたからだ。

 

 美しい少女。

 見た者はそう口を揃えるだろう。にも拘らず、その具体的な容貌は像として結びつかない。

 精緻な写真の中で、彼女だけモザイクがかかったような違和感。

 その中に光る、黄金色の双眸だけが嫌に印象的だった。

 

「え、えっと……本日お呼びした白尾エリさん……です、か?」

「いいや。残念ながら、私は彼女の代役に過ぎない。だが安心したまえよ。私は君たちが言うところの専門家……と自称するには些か不相応だが、それなりの見識は有している」

 

 少女は笑った。

 彼女の薄い唇は両端に引き攣れ、嘲笑うかのように歪んでいた。

 ひどく、いや酷く、楽しそうな笑みだった。

 

 笑み。人間的な所作。

 まるで自分は人間だと誇示するかのような。

 そのありふれた所作が、マイの目には歪なオブジェのように見えた。

 

「君たちは、『超常現象』と呼ばれるものを信じるかね?」

「え?」

 

 唐突な質問だった。

 質問自体も唐突だったが、内容もまた唐突だった。

 超常現象、通常あり得ない現象を信じるか、とは。

 まさにそれを聞くために呼び立てたのに何を言っているのだ、と。

 

「えと……信じてみたくはある、って感じでしょうか。そちらの方が面白いので」

「なるほど、実に好ましい回答だ。君は自らの人生を幸福に彩る才覚があるらしい」

 

 くつくつと笑う少女に、マイは理解できないといった顔を向ける。話が脱線しているというか、煙に巻かれている気分だった。

 

「その、そういった雑談も興味深いものではありますが、今回はキヴォトスで囁かれる噂話について伺えたらと」

「宜しい。では《崇高》の話へ移るとしよう」

 

 少女はマイクスタンドが置かれたテーブルの上に肘をつき、顎を乗せた。

 

「崇高、ですか?」

「そう、崇高だ。神秘でも恐怖でもない、第三の形でそれに至った存在だ。

 残念ながら《盟約》の話には移れない。私が君たちにそれを伝えたのは遥か以前となるが、その事実を記憶している者は数えるほどしか残ってはいないだろう」

 

 少女の言葉には迂遠な台詞回しが多かった。

 端から他人に理解させるつもりがないのだろう。マイは最早気にすることもなく、この奇妙な対話を続けることを決めた。

 

「えっと……では質問です。細かいところはともかく、結局のところこういった噂話に信憑性はあるのでしょうか。あるいはそうした噂になる何かしらの背景があるのか。そうしたところを詳しく解説してもらえたら……」

「噂の発端と真偽など些末事だろう。何せ人は、点の模様が三つあるだけで人の顔と誤認してしまう生物だ。見間違いに聞き間違い、或いは豊かな想像力を駆使した勘違い。人伝に繰り返される度に尾鰭は肥大し、いつしか一つの巨大な物語となっていく。だがそれは虚構であっても非実在ではない。大衆に語られ無限に拡散と再演を流転するクリーピーパスタは、それだけである種の実在性を有してしまうものなのだよ」

 

 荒唐無稽な話だ。

 つまり、それっぽい噂話はそれだけで本物になってしまうと?

 

「ええと……それは例えば、都市伝説を面白がった人が模倣犯みたいになることもある、みたいな話ですか? 農家の方が自分でミステリーサークルを作ってしまうとかそういう」

「無論そういうのもあるだろうがね。今話しているのは些か趣を異とする。

 言っただろう、《崇高》だと。

 君たちという神秘が《学園都市》のテクスチャにより生徒と規定されているように。

 数多の空想もまた、無限に繰り返される噂話によって"そのように"規定されてしまう。

 私はこれを、ライブラリー・オブ・ロアと呼称している」

 

 マイは訝し気に少女を見る。彼女の言葉が単なる妄想なのか、表情から伺うことはできない。

 

「信用できないといった顔だね」

 

 気分を害した様子もなく、事もなげに答える。

 

「信じる必要はないとも。喜捨、信仰といった類を私は必要としていない。それを求めるのは、人々の認識と信心によって形を成す近現代の霊性のみだ。私は紛うことなき人であり、対価を要求する霊能者や占い師の類でもない」

「はあ……あの、つまり結局のところ真偽は不明であると?」

「その質問については一言で断言できる」

 

 彼女は笑みを深めて。

 

「ある」

 

 端的にそう言った。

 

「では何故、公然と噂されるそれら怪異の数々は、得てして多くの人間の目には触れず真偽不明の噂話に留まってしまうのか。例えば高等数学の数式は、その意味を理解できない人間にとっては単なる記号の羅列に過ぎないね? だがその意味を理解できる者にとっては、同じ景色を目にしながらもそこに"彼ら"を見出すことができる。或いは、そうした特異な数式を変異大脳に刻み込む術式を我が友は編み出したのだが、それは別の話となるか」

「それが、俗に言う霊感であるとか、そういうものであると?」

 

 きな臭い話になってきた。

 マイとしては、都市伝説の文化的・社会学的な側面から解説してもらうか、或いは様々な都市伝説を面白おかしく紹介してもらう算段だったのだが。どうにもスピリチュアルな、何か宗教臭い話になりつつあった。

 

「先にも言ったが、私を信じる必要はない」

 

 マイの考えを見透かしてか、安心させるような声音で彼女は言う。

 

「そもそも私の話に意味などない。ここで何を語ろうが、例えばゲマトリアを名乗る彼らの実験は止まらないだろう。聖十文字の自己反証は繰り返され、色彩は都市を観測し、花鳥風月を嗜む彼女たちは黄昏を紡ぐ。そして我が大敵を標榜する彼は変わらず雷電を身に纏う。既に自らの物語を終えた現在簒奪者はそれ故に都市唯一の《先生》として囚われ、学園都市の生贄となるだろう。私がここへ来たのは彼らの物語に興味を持ったからであり、私という数式を理解し認識できる一部の者へ言葉を伝えるためだ」

 

 少女は告げる。

 

 

 

「君たちには、全てが許されている」

 

 

 

 端的な、けれど余人には意図の掴めない言葉。

 

「あとはそうだね、図らずも迷惑をかけてしまった償いと言ったところだろうか。先日カイザーの者たちが呼び出そうとした神格の欠片はとても拙かった。形だけの屍肉に過ぎぬとも、あれは在るだけで世界のテクスチャを剥がしかねない。目にした者の精神は壊れ、形を失い《恐怖(テラー)》へと反転するだろう。我が大敵たる彼が食い止めてはくれたが、如何せん《恐怖麻痺(サプレス)》のみでは間に合うまい」

 

 少女はぴんと指を立てる。何の異常もない、単なるそれだけの動作。

 そうであるはずなのに。鈴のなるような音が聞こえたような気がして。

 

「故に私の《式》を用いる。例えこの報道映像を目にすることがなくとも、私の言葉がキヴォトス全土に伝えられたという事実があれば良い。そのようにできている。古き友ホーエンハイムの真似事に過ぎんがね」

「……」

 

 マイは既に言葉を失っていた。

 話はとうに議題から外れ、彼女が何を言っているのかさえ判然としない。

 それを知ってか、彼女は口の端を笑みの形に歪めて、言う。

 

「ここまで私事に付き合ってくれた礼だ。最後にひとつ、真理を授けて終わるとしよう。

 見えぬものを探したいのなら、肝要なのは目を離さぬことだ。真実とは、目を離した隙にその者から遠ざかっていくものなのだからね」

 

 言葉と共に、少女の手が伸びる。

 白磁の手は真っすぐに、マイを指さす。

 

「目を離すと……見たまえ。こういう事になる」

 

 言うと、彼女はマイに向けた手を動かし、彼方を指さした。

 その方向には、コントロールルーム。

 ボリュームや照明、カメラの切り替えを担当するスタッフが大張りのガラス越しにこちらを見ている。

 ただ、それだけだった。

 何もない。

 

「……何も」

 

 言いながら視線を戻して。

 絶句した。

 何も、いなかったのだ。

 ただの一瞬目を離した隙に、彼女は、その姿を消していた。

 足音も、動く気配もなかった。

 少女が座っていたはずの場所。そこには始めから誰もいなかったような、空気も動かぬ静寂が広がるばかりであった。

 

「……マイさん、マイさん」

 

 茫洋と視線を向けて、そこには慌てたような様子のスタッフ。

 

「何してるんですかマイさん、もう本番始まっちゃいますよ!」

「…………………………………えっと」

 

 遠くなっていた意識が戻ってくる。

 ああ、そうだ。自分は今から、受け持ち番組である時事分析チャンネルの収録があるのだ。

 ゲストも呼んである。自分に限ってあるわけはないが、とちる訳にはいかない。

 カウントダウンに合わせ、マイは気を取り直して。

 

「───チャンネルをご覧のみなさん、こんにちは! クロノス報道部の風巻マイです!

 本日は昨今のブームに合わせ、まことしやかに囁かれる都市伝説について特集したいと思います! ゲストにはワイルドハント芸術学院から───」

 

 

 

 

 

 

 街並みの喧噪に紛れて。

 少女は歩いていた。すれ違う人々、降り注ぐ陽の光。ゆっくりと歩む少女は笑っていた。

 

 少女は微笑んでいた。

 少女は歓喜していた。

 一体何に。ああ、かつて自らが《盟約》を伝えた都市の姿にか。

 

 ただの少女であるかのように佇んで。

 気配は在り、息遣いも在る黄金の瞳の少女。

 見る者が見れば、容易に分かっただろう。

 少女は、およそ人ならざるものだ。

 肌の下には血潮を感じる。人だ。

 息遣いには肉体を感じる。人だ。

 よもや、夢幻や幻影の類ではないはずのもの。

 だが、正しく人ではない。

 見た目通りのものでは。

 

 彼女は懐から携帯端末を取り出す。鳴り響く呼び出し音。

 出てみれば、そこから漏れるは聞き慣れた明るい声。

 

「……ああ、モモイか。うん、できるだけすぐに戻ろう。

 なに? またふらっと出歩いて? ふふ、すまないね。これが数少ない趣味なんだ。

 好きなんだよ、色んな風景を見るのが。ああ分かっているとも。

 次の新作を作るのだろう? エキスポには間に合わせたいからね、もちろん───」

 

 そうして彼女は人混みの中へ消えていく。

 

 ひとを喰らう影である少女は消えていく。

 異境で神と讃えられる少女は消えていく。

 まるで、はじめからいなかったように。

 

 消えていく。

 やがて、残るは人々の営みのみ。

 

 ああ、それと。

 黒猫が一匹だけ、足元にいただろうか。

 

 それだけ。

 ただ、それだけのことだった。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「じゃ、そろそろ時間だから」

 

 その日は予定通りにやってきた。

 新幹線の開かれた出入口を背に、ラブは努めて軽い調子で言ってのけた。

 いつも通りの口調に、いつも通りの表情。

 ロングスカートのセーラー服に、トレードマークの黒いヘルメット。

 彼女はやはりいつも通りの調子で、向かい合った二人に笑いかける。

 

「なーにセンチメンタルになってんのよ。またいつでも会えるでしょ?」

「……」

 

 笑いかけられて、しかしアツコに言葉はない。

 いつでも会える。今生の別れではない。

 その言葉に誤りはない。しかし。

 ラブは、目の前の少女が百日を終えるとどうなるかを知らない。

 

「あっちに着いたら連絡するわ。というか、このまま一緒に乗ってかない? アビドスで指名手配犯の追跡バイトとかするのもいいんじゃない?」

「うん、する」

「即答か」

 

 本気で付いていこうとするアツコの腕をギーが引く。すると、アツコはギーのことも引っ張って新幹線に引きずり込もうとしていた。

 ラブはやはり笑いながら。

 

「なーんか最後までカッコがつかないわね。ま、あんまり大々的に見送ってもらうよりはそれっぽいけど」

「君たちは湿っぽいのは嫌いだろうと、そう思ったんだが」

「そうね。でも、嫌いじゃないわ。それだけ想ってもらってるってことだし」

 

 ひしとしがみ付くアツコを何とか引き剥がして、発車を知らせるベルに今度こそ乗り込む。

 扉が閉まるまでの数瞬。最後に、ギーはラブへ頷いて。

 

「いつでも帰ってくるといい。故郷、とは口が裂けても言えないが。

 君が、君たちがいた場所は、いつでも空けておこう」

「……うん」

 

 ラブはやはりいつもの調子で。

 けれど、その眦に少しだけ雫の気配を光らせて。

 

「突っかかっちゃってごめんね。それと、ありがとう。

 うちらは多分、ううん絶対、先生に会えて良かったよ」

 

 そう言って、くしゃくしゃになった顔で、ラブは笑う。

 

 

 

 

 

 

 別れが訪れようと、目の前の現実は変わらない。

 劇的な時間が終われば、人は見慣れた日常に埋没していく。

 シャーレ執務室。今までよりも遥かに静かになってしまった一室で、アツコは呟く。

 

「……なんか、落ち着かないね」

「……」

「ね、先生。そのうちアビドスに行こうね。いいでしょ?」

「ああ」

 

 ギーは俯いたまま、手元の手紙を読んでいた。

 可愛らしい桜色の便箋。そこに書かれた丸文字。

 丁寧な言葉遣いと、心の裡をそのまま書き出したような散文的な文章。

 

 手紙を読むギーの表情は、硬い。

 それを知らずか、アツコは言葉を続ける。

 

「ニコにも来て欲しいな。みんなを紹介したいし、絶対仲良くなれると思うから」

「……」

 

 無邪気な言葉だった。

 心からそれを信じていると言わんばかりの声。

 アツコは、例のニュースを知っている。

 防衛室長の失踪に隠れた、元SRT生の出頭の記事。

 だがそこに、吉野ニコの名前はなかった。

 七度ユキノと以下2名の隊員。計3名の名しか、記事には載っていなかった。

 

 それが何を意味するのかは分からない。

 だが推察することはできる。

 やるべきことを成し遂げるという、ニコの言葉。

 ミリアと、何よりニコ自身から語られた防衛室の癒着と汚職。

 ニコと同じ小隊が出頭していながら、そこに彼女の名だけがない事実。

 そして、渦中の人物たる防衛室長の失踪。

 

「……探さなければならないな」

 

 連邦生徒会長と同じくして。

 そう呟く。傍らのアツコは何のことか分からず小首を傾げて。

 

 すると、備え付けられたドアホンが鳴り、そこから聞き慣れた声がひとつ。

 

『先生? アツコちゃん? いらっしゃいますか?』

 

 ユウカの声だった。それに反応したアツコが、慣れた様子で受話器を取る。

 

「ユウカ? もしかしてすぐそこまで来てる?」

『あ、アツコちゃん。突然ごめんなさいね、たまたまDUに来る用事があって。

 お土産も持ってきたから、ちょっと入ってもいいかしら』

「もちろん、いつでも大歓迎」

 

 言うが早いか、アツコは玄関ホールへの道を小走りで駆けていく。

 それを微笑ましく見つめながら、ギーもまた腰を上げた。

 

 時間は変わらず流れていく。どんな変化が訪れようと、目の前の日々は続いていく。

 出会いがあれば別れもあり、しかし変わらず残るものもある。

 ギーが立ち上がり、テーブルに置かれた便箋。

 その末尾には、取り止めのない文章が綴られていた。

 

 

 

 

 

 

『───追伸。

 

 私は逃げ続ける狐でした。

 犯した罪から、向き合うべき現実から、ずっと目を背けてきました。

 多分やろうと思えば、ヴァルキューレや同じSRTの精鋭からも捕まることはないでしょう。

 でも、私は狐ではないので。

 捕まらず心まで石になってしまう前に、私は逃げるのをやめようと思います。

 だから……

 先生、最後にひとつだけお願いがあります。

 許してくれなくてもいい。もう二度と会えなくたって構わない。

 それさえ叶うなら、他に望むものはありません。

 だから先生、どうか───

 

 

 

 

 

 

 

 第三章 テウメッサの狐編エピローグ 

 

 

 『どうか私を忘れないで』 Fin

 

 

 

 

 

 

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