碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
熱に浮かされていたような思考が、急速に冷めていくのを感じた。
降りしきる雨の中、コンクリートを打つ水音だけが、嫌にはっきりと耳朶に響いていた。
背筋を駆け下る冷たい感触は、きっと滴る雨垂れによるものだけではあるまい。
突きつけられる銃口の暗さ、剣呑な気配がはっきりと背面から伝わってくる。
「貴方は誰?」
「……」
「どうして私を尾けてきたの?」
「……」
「答えて」
繰り返される声に、ギーは相手を刺激しないよう、慎重に言葉を選んで。
「……僕には君に対する敵意はない」
「答えになってない」
「君を尾けていたのは僕じゃない。僕たち以外の第三者がいる。
今すぐこの場を離れたほうがいい」
銃口が揺れる微かな金属音。
数舜の逡巡の後、背後の少女は言う。
「それが本当だとして」
彼女は一度言葉を詰まらせ、続ける。
「伝える理由はなに? 貴方には何のメリットもないはず」
「明確な理由はない。強いて言うなら、君の安全を考慮してだ。
最初の質問に答えていなかったね。僕は連邦生徒会所属の嘱託職員のようなものだ。
僕には所属を問わず、生徒の身の安全を確保する義務がある」
言葉を続けながら、ギーは頭の中で思考を巡らせる。
問答無用とならなかったのは僥倖だった。会話の余地がある以上、こちらの要望を通すことは不可能ではない。
「……」
数舜の沈黙。そして。
「分かった。ただしこのままの状態で移動する。絶対に振り向かないで」
「ああ、それで構わない」
肝要なのはこの少女の安全の確保だ。この場を速やかに離脱できればそれで良い。
ギーの懸念が杞憂であれば尚のこと良い。離れた後で拘束されたとて、不利益を被るのが自分だけならば構わない。
撃たれたならば。
それは、その時考えれば良い。
そう思っていた。
だが。
突然、ばん、と音がした。
すぐ近くだった。
見ればギーたちのすぐ横、入り組んだ路地の隙間から何かが倒れるようにして落ちていた。
金属質な黒の外装、機械的なフォルム。それが一体何なのかは一目でわかった。
その人型は、長大な銃器を携えた人型の機械は、捻じれた針金のような四肢をぎくしゃくと動かしながら立ち上がり、頭部に当たる部分をこちらに向けた。
『
『食ワセロ』
腹の底に落ちる重い声が響き、無機質なモノアイが真っすぐにギーたちを射抜いた。
背筋を走る、冷たい悪寒。
「───伏せろッ」
機関兵が放つ熱のない殺意に肌が粟立つより先に背後の少女に覆い被さるように地面に倒れて───寸前までギーたちがいた空間を大量の銃弾が貫いていった。
金切りめいた破裂音が耳をつんざき、衝撃波めいた風圧が髪を洗う。
信じられないほどの物量を掃射して、機関兵は元から不安定な重心が射撃の反動で更によろめいたのか再び後方にどうと倒れ込む。
逃げなければ。
そう思うより早く体が動き、少女の手を掴んで引きずるように駆け出した。
未だ体勢を戻し切れていない機関兵を視界の端に捉えながら、すぐ近くの曲がり角に文字通り転がり込む。その後を追い、一瞬遅れて地面に突き刺さる銃弾が足跡のように小さな穴を穿った。
何が起きた?
考える暇もなかった。機関兵の目的も、放った言葉の意味も、全身を走る痛みさえギーは忘れた。
手を繋いだ少女をこの窮状から逃がすこと。ただそれだけしか頭になかった。
もんどりうつように駆け回る。とにかく射線上に入らないことだけを考え、直線状の道を進むことを避け曲がり角が見えたら後先を考えずに飛び込んだ。背後では断続的に響く発砲音、振り向いてそれを確認する気は起きない。走って、走って、息が切れてもかまうことなく、手足が千切れそうな感覚を無視して走っては身を翻し、とにかく機関兵との距離を離そうとして。
「──────!」
いつの間にか行き着くところまで来てしまったらしい。狭い路地を潜り抜けて、荒れる息に顔を上げればそこにはだだっ広い開けた道が続いていた。隠れる場所も遮蔽物もなく、人の姿もない。ただ前に進むことしかできない。元来た道を戻ることはできなかった。すぐ後ろからは硬質の重たい足音と発砲音が迫っている。
逃げられない───そんな言葉がギーの脳裏に浮かぶ。
ギーには何もできない。
現象数式は置換と解析に特化して戦闘には使えず、鋼の彼はもう何処にもいない。
その右手は、伸ばしたところで何もできない。
そのはずだった。
「───もういいよ」
声は後ろからではなく、隣から聞こえてきた。
何を、と思う暇もない。
いつの間にか振りほどかれていた手、ギーはとんと横に突き飛ばされる。
ギーは少女の言葉を、そして行動を理解できず、ただ倒れ行く視界の中でスローモーションのように少女を見つめた。
そして、ギーは見た。
ギーを突き飛ばした姿勢のまま、無数の銃弾に貫かれる少女の姿を。
「君、は……」
何が起きたのか分からなかった。
どうして、と思った。
視界の中、二重映しのように幻視される過去。血に染まったかつての光景。
また、目の前で誰かが死ぬのか。
この手はまた届かなかったのか。
絶望がギーの脳裏を過ぎり───しかしそうはならなかった。
「っ!」
少女の動きは淀みなかった。路地の向こうから現れた機関兵に向かい、懐から何かを取り出して投擲。流れるように短機関銃を片手に構え掃射すると、機関兵の眼前に投げ込まれた投擲物ごとを巻き込んで貫き、激しい爆発を引き起こした。
爆風と振動に揺れながら、ここでようやく少女の投げたものが手榴弾であったことにギーが気付いた時には、既に彼らの周辺を覆うように濃い黒煙が猛烈な勢いで広がっていた。見遣れば地面の各所で発煙筒が激しく回転し、煙幕をまき散らしているのが見えた。それは少女が短機関銃を構えると同時に並行して投擲したものであり、素人のギーには動作の起こりすら認識できない熟達した動きの産物であった。
果たして機関兵は爆発の余波によろめき、次いで発生した黒煙によって一瞬標的を見失う。内蔵されたモノアイが稼働し、視界を光学から熱源探知に変更───するより先に、黒煙を突き破って横合いから少女の体が飛び出す。四足獣めいた極端な前傾姿勢により一瞬で数メートルを接近した少女は機関兵の死角より襲来し、タックルの要領で機関兵の軸足を刈り取り、後方へ引き倒した。等身大の金属塊が地面へ衝突する重たい音が響き、機関兵が慌てたように体勢を立て直そうとしたその眼前には、既に黒い銃口が突き付けられていた。
凄まじいまでの炸裂音とマズルフラッシュが周囲を埋め尽くした。
もはや銃声ではなく油に水をぶちまけたような音を立てて、何百もの銃弾が機関兵の体を蹂躙した。あれだけ屈強で鈍重に見えた機械の体は激流に呑まれた人形のように荒れ狂い、半狂乱の踊りのように千々に乱れた。
どう、と機関兵の手が力を失い地に落ちる。最後の空薬莢が地面を跳ねる小気味よい軽い音が白けたように響き、それきり辺りはしんと静まり返るのだった。
耳が痛くなるような、静寂。
周囲は未だ黒煙に満ちて、けれど無意識に数式の目を起動していたギーには全てが見えていた。
まず第一に、少女の体には傷一つない。無数の銃弾に穿たれたはずの彼女は、けれど驚くべきことに表皮だけで全ての銃弾を跳ね返してみせたのだ。少女の纏う服には貫通痕こそ残っているものの、その下の肌には一つの傷も一滴の血も付いていない。にわかには信じがたい光景、けれどこれが疑う余地のない現実。
「うん、終わり」
全てが片付いた口調で少女が銃を下げる。
小脇に仕舞うと、彼女はギーを振り返り。
「大丈夫だった? 怪我、ない?」
そう言ってこちらへ足を踏み出したのを、ギーは見た。
見えていた。数式の目は物体を解析するがために、少女の状態も、黒煙の中の攻防も、倒れ伏した機関兵のことも、全てが見えていた。
そう、全てが見えていたから。
叫んだ。
「───駄目だ! 今すぐそこを離れろ!」
え、と少女が口にするよりも遥かに早く、背後から黒い何かが爆発的な速度で膨張した。
それは影だ。倒れた機械兵の体から、圧縮密閉されたガスが内側から破裂して漏れ出したような勢いで膨らみ、巨大化していく。
ぱん、と乾いた音が同時に鳴る。不定形に膨れ上がった黒影から、蟲のように幾つもの関節を持つ長い長い腕が何本も伸びて、まるで脚のように地に手を付いた音だった。
反応が遅れた少女を腕の一本が絡め取る。子供が人形を抱くように軽々と、少女の体は重力を無視して宙空へと引き上げられた。
取りこぼした短機関銃が地面に落ち、意外なほどに軽い落下音が鳴り響く。少女はくぐもった呻き声をあげて、体中に絡みつく無数の腕から逃れようと藻掻くものの、何の抵抗にもならなかった。
『我ラハ求メル、神ノ存在証明ヲ』
『我ラは求メル、十天ノ至リヲ』
『
『
『喰ワセロ』
口らしきものを形成した影が何事かを呟く。少女にはその意味は皆目分からず、ただ確信的な死の予感と、恐怖と、それと同等の諦観が胸を占めていた。
ああ、これで終わりなんだ。
思ったのは、ただそれだけ。
自分でもびっくりするくらい冷静で、確かに怖い気持ちもあるはずなのに、思考は嫌になるくらい淡泊で冷めていた。
何の意味もなかった生涯。《マダム》の言葉。残してきてしまった友人たち。一瞬のうちに脳裏を過ぎる走馬灯。
ふと、視界の端に動くものが見えた。こちらへ駆け寄り、何かをしようとしている。それがついさっきまで自分の手を引いて走っていた男だと気づくと、少女は呆れたような思いを抱いた。
何してるんだろ、あの人。
せっかく助かったんだから、逃げればいいのに。
ゆっくりと流れる視界の中、彼が何かを投げるのが見えた。
放物線を描いて近づいてくる、筒状の物体。
それが閃光弾であると気づいた時には、目に映る全てが真っ白に染まっていた。
何も見えなかった。
何も聞こえなかった。
視覚と聴覚に重大なダメージを負うより前にマスクの防護機能が作動し、一切の外的刺激をシャットアウトしたからだ。
けれど、マスクにより視界が暗転するその刹那。
彼が、こちらへ右手を伸ばしているのが見えて───
◆
気付けば、全ては終わっていた。
マスクの外界認識機能が再動した時には、既に影はどこにもなく、ガラクタのように転がる機関兵の残骸と、気を失って倒れた男の姿だけがあった。
先程までの喧噪が嘘であるかのように、周囲一帯はこもることなき雨の音だけが静かに響くばかりである。
「……」
少女は近くに落ちていた愛銃を拾うと、付いた汚れを払いのけて、所在無げに視線を漂わせた。
身じろぎ一つせず、倒れたままの男。
彼の元までとぼとぼと歩き寄って、どうしたものかと困り果てた。
「助けてくれた……の、かな」
思えば、彼はずっとそうしてくれていたのかもしれない。
銃を突き付けられながらも忠告して、私の手を引いて走って、自分だけ逃げればいいのにそうはしなかった。
私を助けてくれた人。
……正直、とても困ってしまう。
脇の下に手を差し入れて、上手く重心を利用しながら担ぎ上げる。
軽い。上背はかなりあるはずなのに、中身が入ってないんじゃないかと思うくらい、彼は軽かった。
少女はそのまま、半ば引きずるようにしてギーを連れて歩き出す。
そういえば、と考える。
あの怪物……怪物としか形容できない正体不明の何かもそうだけど。
もうひとつ不可解なことがあったのだ。それは今、自分が小脇に担いでいる彼のこと。
閃光弾が炸裂したあの瞬間。
視界が暗くなるまでの一瞬に見えた、こちらに向かって右手を伸ばす彼の姿。
その彼の右手が、
そんなことを、小雨が降る夜の中で、少女は思った。
♰♰♰♰♰♰♰
その後の話をしよう。
ギーが意識を取り戻した時、シャーレのエントランスに安置されたソファに寝そべっていた。
体に傷はなく、衣服の乱れもなかった。けれど、残数がひとつ減った閃光弾と、辛うじて起動の残滓が残る数式の目が、あの出来事は決して夢ではないことを物語っていた。
ギーは再び街に出て方々を歩き回ったものの、少女の姿も、彼らを襲った機関兵の残骸さえも見つけることはできなかった。先刻はどこをどう走ったのかさえ、記憶の彼方に置き去りになっていた。
翌日、ギーの持つ携帯端末に一通のメールが届いた。
それはシャーレへの正式な依頼文であり、シャーレとしては初めての仕事となる一件であった。
『シャーレで生徒をひとり預かってほしい』
そんな簡素な、差出人も書いてない依頼内容のメールと共に、ほどなく件の生徒であろう人物がシャーレを訪れた。彼女はフード付きの白い外套を羽織り、顔には黒く機械的な仮面を付けて表情は伺えず、抑揚のない控えめな声で。
「……私の名前は秤アツコ。よろしくね、先生」
少女は昨日見た姿のままに、驚くほど綺麗な所作で会釈するのだった。