碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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陽ひらく彼女たちの小夜曲
3.5-1 今日は快晴


 

 

 

 ───私は音を奏でる。今日も。

 

 ───それだけが、彼との繋がりのすべて。一緒にいる時間の中で、ひとつだけ。

 

 奏でる音だけが繋いでくれる。

 私と、私の名さえ知らない彼のことを。

 

 だから。

 私は音を奏でる。古びたグランドピアノの硬い鍵盤を、私は弾く。

 

 奏でる音は滑らかに。流れる旋律は澄んだ水の流れのように。

 そうあるようにと、私は努める。美しくあってほしいと。

 

 少しでも綺麗なように。

 少しでも上手なように。

 

 そうあってほしいと思うけれど。指は上手く動いてくれない。

 奏でる音は滑らかさを失う。流れる旋律は濁った水の澱みのように。

 私の指は、私の意思から離れていく。

 

 どうしてと問うことはない。そんなことは分かり切っているから。

 すべては私の不徳のせい。上手くできないのは誰のせいでもない、私のせい。

 そんなことは知っているけれど。でも、やっぱりやりきれない。

 

 彼は、呆れた顔をしているだろうか。

 失望しているのだろうか。

 聞くに堪えないと、耳を塞いでしまっているだろうか。

 

 彼はそんな人ではないと、それもやっぱり知っているけれど。

 大丈夫かな。大丈夫でいてね。

 私、きっと上手にやってみせるから。

 

 名を呼び合うことはない。

 言葉を交わすこともない。

 心を通わせることもない。

 

 それでも、奏でるこの音だけは、私と彼を繋いでくれる。

 だから、私は音を奏でる。今日も。

 

 いつか終わると分かっている、関係性とも呼べはしない繋がりを胸に。

 

 私は、この音を紡ぎ続ける。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「キキキキッ! 歓迎する、シャーレの先生よ! よくぞ来てくれた!

 いや、皆まで言わずとも好い。この私から連絡を貰った先生はずっと悩んでいたに違いない。

 もっと準備をしておくべきだったか、隠された真意があるのではないか。

 遂にこの日がやってきてしまったのか、と!

 組織のトップとは慎重に慎重を期さねばならぬもの。このマコト様はよく分かっているとも。

 それだけ今日の話し合いがもたらす影響は、衝撃的かつ劇的なのだからなぁ!」

「マコト先輩~イブキおんぶして欲しいな~」

「ああ、分かった。イブキ、ちょっと待ってくれ」

「……それで、話の続きはどうなったんですか?」

「はいは~い! 先輩の提案に対する返事を聞こうって流れになってますよー!」

「うむ、それでは本題だ。以前より私から送っていた提案に対する返答を……」

「いえ、マコト先輩。多分マコト先輩が好き勝手喋ってるせいで先生が困惑してるっぽいんですが……」

「困惑? 何をバカなことを。見ろ、あの鋭き眼光を。あれがただ困惑しているだけとでも」

「はあ……申し訳ありません先生」

「よいしょ……んっしょ……」

「上に立つ者として、当然他者の気持ちを慮ることもできるとも!

 故に礼儀と慣習に則り、改めて提案させていただこう。

 先生よ、このマコト様と手を組む気はないか!」

「わあ、シャーレとの連携! 先生とタッグを組む!

 いいですね、それ! 最高です!」

「クキキ! 万魔殿の強大な力については今更説明するまでもなかろう。

 我々が手を組めば、前人未踏のキヴォトス制覇とて夢ではない!」

「よいしょ~っと!

 マコト先輩! イブキ、しっかり登り切ったよー!」

「お~、よしよし偉いぞー!」

「わー! 話の最中にマコト先輩の背中を登り切ったイブキちゃん!

 今日も可愛さ100万ボルトだね! 元宮チアキ、万魔殿の書記として絶対に記録を───」

 

 

 

 

 

 

「……疲れた」

 

 魂の抜けたような声と共に、ギーはソファに腰を落とした。

 睡眠欲や食欲を失くしたこの身なれど、疲労感はある。融通の利かない役立たずの体。

 ゲヘナ学園の生徒会である万魔殿に呼ばれ、その用件を伺っていたのがつい先ほどのこと。

 一体何事かと赴いてみれば、まず関係ない彼女らの歓談に巻き込まれ、要領を得ない四方山話に付き合わされること一時間。議長の羽沼マコトは帝王学めいた自身の哲学を滔々と語り始め、丹花イブキなる少女の取り止めのない遊戯は時と場所を選ばず、書記の元宮チアキはその全てを笑いながら手当たり次第に記録し、京極サツキと名乗った少女はあろうことかギーへの催眠術を敢行しようとしていた。

 以前アリスが話していた終わらないお茶会(マッドティーパーティ)を髣髴とさせたひと時である。

 

「それで、結局何だったの?」

「万魔殿主宰のパーティに参加してほしい、ということらしいよ」

 

 きょとんした様子のアツコに答える。

 善意ではなく政治的な都合だろうけど、というのは言葉にしないでおいた。

 

 ここゲヘナ学園はキヴォトスでも最大の勢力を誇る巨大自治区だ。

 自由と混沌を校風とし、生徒自身の自主性を尊ぶ。そう書けば立派だが、実体としては完全な放任主義と言わざるを得ない。破天荒に型破り、自治区の大半は崩壊したスラムと化し、本校舎でもスラム街でも暴行や恐喝は日常茶飯事。学級崩壊など当たり前で、もはや教育機関としての機能は喪失しているのが現状である。その校風のせいか良くも悪くも多岐に渡る活動を行う生徒が多く、中には正式な認可を受けていない違法なサークルがいくつもあり、連邦生徒会からテロリストとしてブラックリストに入れられた部活も存在するとか。本来それらを取り締まるべき万魔殿すらその場の思い付きで政治を行っており、そもそも在籍生徒による投票率は3%を切るなど最早自浄作用すら失われている。

 そんなゲヘナが何故曲りなりにも自治区としての体裁を保てているかというと、偏に風紀委員による治安維持の賜物だろう。他にも一部ではあるが真面目な生徒も存在しており、そういった生徒は荒廃した第一校舎を離れ、第二校舎に寄り集まって勉強をしているらしい。

 

 あまり言いたくはないが、正直褒められる点が見当たらない自治区である。

 当初ここへ赴くと言った時、アツコが極端に嫌がり威嚇さえしてきたことを思い出す。

 はしたないと窘めたが、確かに人によってはそれくらい拒否感が出るのも仕方ないと思える場所ではあった。

 

 そんなアツコだが、今も落ち着かない様子だった。しきりに視線を泳がせ、周囲を警戒している。治安の悪さ故に不意の銃撃に備えて、というわけでもないらしい。

 慣れない環境に身構える小動物のようだと、揶揄するわけではないがそう思ってしまった。

 

「……アツコ。それほどゲヘナが合わないなら今からでも帰りの足を用意するが」

「や」

 

 ひし、と腕にしがみついてくる。

 「いや」という感情を全身で表現する彼女は、手を離そうとはしない。

 どうしたものかと考えれば、アツコはまるで心外とでも言うかのように。

 

「ひとりで帰りたくなんてない。先生がいるなら私もここにいる」

「……アツコ」

「またミレニアムの時みたいにずっといなくなっちゃうんでしょ。先生は嘘つきだもん」

 

 それを持ち出されると、ギーとしては何も言えなかった。

 現在、シャーレにはギーとアツコ以外誰もいない。ラブたちヘルメット団の面々はアビドスに転校し、今のシャーレはもぬけの殻だ。未成年のアツコをあそこにひとり残すのはギーとしても不本意ではあるが、ゲヘナほど治安が悪くアツコ自身も嫌がっているならと考えていたのだが。アツコは嫌悪感を押してでも「一緒に行く」と聞かなかったのだ。

 知らぬうちに寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。シャーレに来た当初は、むしろひとりの時間を好んでいたように見えたのだけど。

 時が経てば心境のひとつも変わるということか。

 元より、アツコは仲間内で過ごすのが好きなタイプだったのかもしれない。

 

「でも私は心が広いので、一緒にシャーレに帰ろうなんて言わないのです。

 とてもとっても仕方ないから、ここで一緒にいてあげます。嬉しい?」

「……」

 

 わざとらしい、悪戯っぽい声音。

 頭の固いギーでも、これがアツコなりの冗談であることは理解できる。

 分かった上で、答える。

 

「ああ、助かるよ。正直ありがたい」

「……先生?」

「今の僕にとって、きみが一番大切だからね。シャーレにひとりでいさせたくはないし、何より頼りにしている。きみがいてくれて良かったよ、本当に」

「……そっかぁ」

 

 冗談めかした言葉。だが内容は本心だった。

 嘘はつかない。少なくとも、彼女に対しては。

 

「しょうがないなぁ。先生は世話の焼ける人だから、うん。

 そこまで言われたら、私も応えてあげないわけにはいきません」

 

 表情を見せることなく、しかし何よりも雄弁に。

 アツコは密着した腕に頭を埋めるようにして。

 

「約束だよ、ずっと一緒にいてあげるからね、先生」

「……ああ、感謝するよ」

 

 上機嫌な声。

 仮面で見えないその顔が、今は笑っているのだろうと、確信できる声音だった。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「随分と優しいんですね、先生」

 

 正午、大通り沿いのカフェテラス。

 明るい陽射しの中で向かい合わせに座る彼女は、どこか揶揄うような表情の中にほんの少しの不満を混ぜた声でそう言った。

 

「あんな直截的に好意を口にする先生なんて初めて見ました。あれくらい気の利いた言い回しができるなら、私にもしてくれたっていいんじゃないですか?」

「ああ……」

 

 何を言われているのか一瞬分からなかったが、ようやく得心した。

 どうやらアツコに対する物言いを言っていたらしい。あの部屋には自分とアツコしかいなかったはずだが、という疑問が一瞬だけ浮かび、すぐに無意味だと悟る。他の者ならともかく、眼前の彼女には障害にすらならないだろう。だがそうした逸脱性の発揮は、あくまで盗み聞きを成した方法論に関してのみだ。言葉の受け取り方には些か誤謬が混ざっている、そうした文章理解はまだまだ未熟であるらしい。

 

「好感を抱いているという話なら、もちろん君にも、君の知る多くの人々に対しても同じように抱いているよ。アツコと何も変わらないし、そういった言葉は君にもいくらか掛けてきたと思うんだが」

「そういうことじゃ……いえ、もういいです」

 

 ため息と共にそう言って、彼女は揶揄いの表情に混じる不満を少しだけ強めた。

 ストローに口をつけそっぽを向いた横顔は、およそ二週間ぶりの再会でも変わりなかった。

 

 調月アリスという名の少女は、変わらずギーの目の前に在ってくれている。

 

「けれど、それなら一緒の部屋に来ても構わなかったのだけどね。

 アツコも君のことを知りたがっていたし、できれば仲良くしてくれると嬉しい」

「それはもちろん、言われるまでもなく。友達は多ければ多いほど楽しいものですから、目指せ百人の心意気です」

 

 でも、と彼女はやはり不満げな様子で。

 

「肝心のアツコさんをどうして連れてきてないんですか?

 改めて挨拶を、って思ってたんですけど」

「調査の場に連れてくるわけにもいかないだろう。彼女はあくまでシャーレで預かっている一般生徒だ、こちらの事情に関わらせるわけにはいかない」

 

 安全面からも責任問題としても、言うまでもないことだった。

 そのはずなのだが、当のアリスはびっくりしたような、それでいて呆れたような顔で。

 

「……何か間違ったことをしてしまっただろうか」

「いえ、特には。

 でも"あれだけのことを言っておいて"とか、"せめて言葉は尽くしたのかなー"とは思います」

「……シャーレの仕事に出るとは言っておいたんだが」

「それ、ぶっきらぼう過ぎてなんだか冷たいですよ」

 

 そう言われては返す言葉は何もない。

 そういえば、と思う。かつてのインガノックでも、時折キーアに苦言を呈されていた覚えがあった。主にアティに対する態度であるとか、気遣いであるとかについて。ぶっきらぼうな言葉では心は伝わらないのだと、やけに真剣な様子で諭されることが多かった。

 ……アティは大人で、キーアは子供で。ついでに言えば自分も大人で。傍から見れば言う側と言われる側は逆なのではないかと思えてしまうが。

 そういうこと、なのだろうか。結局アティに対する態度を変えることはできなかった。もっと早く言うべきだった言葉は、最期まで届くことはなかった。

 

「埋め合わせは考えておくよ。アツコとは顔を合わせる機会も多いから、多分何とかなるだろう」

「私に似たようなことを言った先生は、結局どうしたんでしたっけ?」

「すまなかったよ、本当に……」

 

 自分の不甲斐なさは自覚しているけれど、それを延々指摘されるのはつらいものがあった。

 

 

 

 

 

 

 それはヒマリからの映像通話から始まった。

 

 一日置きほどの間隔で行われる他愛もない雑談や近況報告ではない、特異現象捜査部としての調査依頼。これまではデカグラマトンなる神を僭称する超高度AIに関するものが主であり、アリスとの出会いもこれら調査依頼に由来するものだったことは記憶に新しい。

 しかし、その日の依頼内容は趣を異としていた。

 

「こちらでもまだ確証の持てない、不確かな情報でしかないのですが」

 

 ヒマリにしては珍しい、歯切れの悪い口調だった。

 自分の立つ地面に絶対の確信を持つように闊歩する彼女は、いつだとて自信と自負に満ち溢れている。口調に関しても他者を気遣う時を除けば断定的なことが多い。

 

 そのヒマリが、まさか所在なく言い淀むなどと。

 

「構わない。懸念があるなら徹底的にその芽を摘むのが最善だろう。例えどれほど些細なことであってもだ」

「……ええ、その通りですね。ではお言葉に甘えさせてもらいます。

 先生も知っての通り、私達は今までデカグラマトンとその預言者を追ってきました。

 彼らはその特異な成り立ち故に、通常のAIではあり得ない情報の変位を有しています。

 だからこそ、その反応を解析し追跡することも可能でした。ですが、しかし」

 

 予定外のことが起こった。そういう口調だった。

 

「既存の預言者とは全く別の反応が突如として検知されました。

 それも一つではありません。三桁にも迫る反応が、キヴォトスの各所で発生したのです。

 当然放置する我々ではありません。特異現象捜査部とは、デカグラマトンにのみかまける組織ではありませんので」

「……異なる反応とは、具体的にどのような?」

「預言者のそれは高度AIとして大きな情報の変位が確認できます。ギー先生の扱う《現象数式》と同じく、物理法則の改竄に伴う空間の歪みのようなものです。ですが今回のものは違いました。あれらは……何というのでしょう、例えるなら影のようなものでした。空間の歪みのように分かりやすく、周囲への影響も大きなものではありません。まるでブラウン管に焼き付く残像、ゴーストイメージのような些細な反応だったのです」

 

 ともあれ、と一区切り。

 

「まずはミレニアム近郊、閉鎖されたアミューズメントパークの反応を探査することにしました。エイミにアリス、そしてリオ肝入りのC&C所属部員の計三名によるスリーマンセル。情報操作による現場隔離も含め、夜間に行ったその探索において、我々は正体不明の異常実体に遭遇したのです」

「実体?」

「端的に特徴を言えば、自立活動する巨大な人形といったところでしょうか。もちろんドローンやオートマタといった類のものではありません。テーマパークのマスコット人形が、そのまま歩き出したに等しい異常存在でした。彼らは敵対行動を取ったため、三名による迎撃により撃破したのですが……」

 

 ヒマリの言葉は煮え切らないものだった。

 何もかも分からないものを、どう説明したらいいかと思案するような声。

 

「残骸は大量のカラスに集られ、そのまま運び去られました。ドローンによる追跡も振り切られ、その所在は不明なままです。ええそう、カラスです。野生の、何の変哲もないはずの小動物。この現象との因果関係も未だ解明できていません」

 

 既知の理屈も法則も通じない、文字通りの特異現象。

 理解不能の超常性を有する、デカグラマトンに続く怪異。

 

「まずはサンプルの収集と事態の鎮静化が急務ということで、私達はそれぞれ単独で事に当たっています。とにかく手が足りないので、ユウカには無理を言ってリオをお説教部屋から解放してもらいました。なにせ自治区間干渉に当たらない箇所の調査ポイントだけでも50を超えますので」

「となると、僕への依頼内容は」

「ええ、お察しの通り他の自治区から発せられている反応の調査となります」

 

 予想はできたことだった。場合によっては戦闘行為に発展する恐れがある以上、他自治区の調査に関してはシャーレの権限を使うのが一番収まりがいい。

 

「とはいえ、先生にはそこまで深入りしてもらうつもりはありません。あくまでそこに何があるのか、或いは"何もない"ことの確認といったところです。あとは……そうですね、アリスの研修代わりといったところでしょうか。単独での作戦行動は未経験ですので」

「そうか、彼女がいてくれるなら僕も助かる。それで、調査の場所は?」

 

 ヒマリはいつもの調子を取り戻したのか、不敵に口の端を吊り上げて。

 

「ゲヘナ学園です。特異現象捜査部の長として正式に依頼します。ギー先生、どうか私達にご協力をお願いします」

 

 

 

 

 

 

 その依頼はちょうど万魔殿からの呼び出しを受けていたギーにとっても渡りに船だった。

 万魔殿にはあらかじめシャーレの人員としてアツコとアリスの両名を連れていく連絡をつけ、アリスとは直前の駅で合流。そのままゲヘナ自治区へ来たという経緯がある。

 話は驚くほどスムーズに運んだ。シャーレありきとはいえ部外者を入れることに、万魔殿の面々は全く抵抗がないようだった。他者に寛容であるというよりは、そもそも他者に興味がないといった様子ではあったが。

 

「ともあれ、仕事の時間です」

 

 ギーとアリスが連れ立って歩くこと小一時間。件の場所は自治区の外れにぽつんとあった。

 古びた木造の旧校舎。鬱蒼とした雑木林が辺りを取り囲む、昼間でも薄暗い場所だった。

 

「郊外から外れた場所なのは不幸中の幸いだったかな。しかし、本当にここから反応が?」

「はい。というのもヒマリに曰く、今回の件は相当に特殊なようでして。

 先生はロアというものを知っていますか?」

 

 首を横に振る。アリスは気を悪くした様子もなく、それならと続ける。

 

「都市伝説や民間説話、民俗学的な伝承全般のことですね。

 人々の間で噂として広がっていく、根拠も出所も分からない胡乱な話。

 友達の友達から聞いた、なんて常套句から始まる真偽不明の空想の産物です」

「それと今回の件にどんな関係が?」

「普通ならまともに取り合うものではないでしょうが、"実際に遭遇した"という人が増えているらしいんです。それも目撃談だけでなく、実害まで及んでいるとか」

 

 言葉を受けて、ギーは少しだけ考え込み。

 

「こう言ってはなんだが、君の言うそれも"友達の友達から"という文脈構造そのままのようにも聞こえる」

「そこは否定しません。実際、特異現象捜査部の調べでも被害者との相関性は確認されていませんので。それでもロアとの遭遇を主張する生徒には、真相を確かめる暇もなく失語症に陥ったり行方不明になる事案が確認されています。こちらは間違いありません」

「……」

「現実には存在しない異界へ続く列車。

 真夜中に流れる、聞くだけで呪われるラジオ。

 特定の手順を踏むと存在しない階に行き着くエレベーター。

 元を辿れば、スランピアで私達が遭遇した自律人形も"廃遊園地の生きた人形"というロアのひとつでした」

 

 つまり、とアリスは指を立てて。

 

「こうした旧校舎は、そういった噂話の温床となりやすいんですよ。

 古く寂れた、今はもう誰もいない学び舎の残骸。そこに何か不気味さを憶える人間は少なくない……とヒマリが言っていました」

「そして実際に反応が出ている、と」

 

 ギーはひとつ息を吐き、目の前の建造物へ向き直った。

 

「そうであれば、調べないわけにはいかないか」

「そういうことです。では行きましょうか、先生」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 

 

 内部は外観以上に経年が激しく、擦り切れた廃物のようにその威容を湛えていた。

 

 人の気配はなかった。等間隔に並んだ教室にはボロボロの机と椅子が乱雑に放置され、一昔前の啓発ポスターが貼られている様はまるでここだけが過去に取り残されているかのよう。一歩を踏み出すごとに昼なお暗い通路に足音が反響し、外の喧噪から文字通り切り取られた世界であるようにさえ思えた。

 

「誰もいない?」

「いえ、そうでもないみたいですよ」

 

 そう言ってアリスは一点を指す。壁や床に穿たれた無数の弾痕が見える。

 

「相当に新しいものです。擦過による熱が残っているところから、できて1時間も経ってないでしょう」

「そんなにか。いや、不良たちの溜まり場になっていると考えれば妥当か」

 

 そうなると、彼らはどこへ行ったのだろうか。

 銃撃戦はキヴォトスでは日常茶飯事ではあるものの。状況が状況であるためか穏やかではない想像が膨らんでいく。

 

「ゲヘナは行方不明者も多い自治区ですからね。戸籍管理がなっていないだけなのでしょうが」

「そうした環境も噂話の拡散には適している、ということか。そういったものは人の不安が呼び水となるだろうからね」

 

 それは例えば、異形都市と化したインガノックで語られた《奇械》や《街路の騎士》のように。

 真偽不明の噂話を好む人間の性質をギーは知っていた。それが希望であれ絶望であれ、不安に駆られた人間は語らずにはいられないのだ。

 

 貧しい者は縋りつく希望として。富める者は日々を満たす刺激として。

 己の知る常識の世界にはないものを、人は求める。その発露の形のひとつが噂話だった。

 

「だが、そうなるとここは日常的に人の出入りがあったことになる。不明な反応の潜伏先としては少しばかり不適に思えるが」

「あるいは、ここ数日で突如湧いて出たか、ですね。そもそも人の目に見える形で現れるかも分からないので、これ以上は推測に推測を重ねる他ありません」

 

 それはそうだ。

 まずはこの旧校舎の全容を把握し、細かく探査を重ねる必要があるだろう。

 地道な作業になる、ゲヘナの滞在期間中に終われば良いのだが。

 と、その時。

 

「……アリス、聞こえたか?」

「はい。これは……ピアノの音、ですね」

 

 耳に届くものがあった。

 自分たち以外に空気を震わせるものがない静寂の空間の中、微かに伝わる振動。

 不規則に響く、鍵盤の音。

 誰かが、演奏している?

 

「私が先行します。先生はできるだけ音を立てず、後ろへ」

「ああ」

 

 ゆっくりと、息を殺して二人は歩く。

 悟られぬように、気付かれぬように。

 進むごとに音は大きくなり、はっきりと聞こえるようになっていた。素人であるギーですら、その位置を容易に特定できるほどに。

 

 一階の奥、実習棟であっただろう箇所まで進むと、目的地は見えた。

 音楽室と銘打たれた、やはり古びたひとつの教室。

 

「……先生、ここは」

「僕が行く。仮にゲヘナの生徒だった場合、僕のほうが話は早い」

 

 アリスは正式に滞在の許可を得ているが、それでもゲヘナ生にとっては見知らぬ生徒でしかない。それはギーも同じだが、分かりやすい職員証を持っている分説得は容易だろう。

 立て付けの悪い扉に手をかけ、乱暴ではない程度に一気に開く。

 

 その部屋は天井の一部が崩落していて、差し込む陽射しが白く尾を引いていた。

 中央には巨大な樹木。長い時をかけて床を突き破ったのだろう。陽射しと合わせ、建造物の中にありながら神秘的な様相を呈していた。

 その根元には黒く大きなグランドピアノ。古びてはいるがよく手入れされていることが分かる。

 

 そして。

 

 

「───……」

 

 

 少女、だった。

 アリスと同年代だろうか、背丈の低い小柄な少女。足元まで伸びた白い長髪と、伏せられた長い睫毛。ハの字になった眉は憂いを帯びて、その年頃の少女には似つかわしくない老成した空気を感じさせた。けれど整った鼻梁や色づく唇には年相応の瑞々しさもあって、その体躯と合わせて正確な年頃が分からない。刻一刻と変わる僅かな表情の差で、彼女の印象がプリズムのように色合いを変える。

 

 彼女の唇が開き、ただ一言。

 

「……誰?」

 

 微かに驚いたようにこちらを見ながら、彼女は言う。

 名前すら知らない、それが彼女との最初の出会いだった。

 

 

 

 

 

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