碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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3.5-2

 

 

 夜が更けていく。

 時が流れていく。

 空の色さえ変わってしまったこの世界であっても、時の流れだけは同じだった。

 

「……もうこんな時間か」

 

 壁に立てかけられた振り子時計から、午前零時を知らせる音が鳴り響く。

 腹の底まで伝わる重低音は耳に心地良い。ギーは脱力し、背もたれに寄り掛かった。

 

「キリも良いし、今日はここまでとしようか」

「ん……」

 

 アツコは睡魔に負けそうになっている声で答えた。

 覚束ない様子の彼女の手元にあるのは、広げられたノートや参考書の数々。

 アツコがシャーレに来てからずっと続けている、マンツーマンの勉強会だ。

 とはいえ、見ての通り設問より眠気と戦っているような様子だったものだから、ここ一時間くらいは指導というより他愛もない雑談を続けていたようなものだったが。

 

「もう遅い時間だ。アツコ、部屋に戻るといい」

「んー……」

 

 続く返答もまた覚束ない。

 もうすでに半分夢の世界へ旅立っているようだった。

 そんなアツコの口から飛び出るのは、明らかに呂律の回っていない声。

 

「まだ寝たくない」

「……そうは言われてもだね」

 

 僅かに下を向いた姿勢のアツコはどう見ても眠くて仕方ないといった様子であるし。

 そもそも、ギーとしてもこれ以上教えることはあまり無いのだ。

 

 アツコはとても頭が良かった。教えたことをスポンジのように吸い取り、同じ間違いを二度することはなかった。

 最初の一か月で初等教育を満了し、続く一か月で中等教育を完璧に終わらせてみせた。

 ちゃんとした教育者による本格的な指導ではない、ギーの拙い授業だけでだ。

 だからこれ以上となると、ギーの手には余るというのが正直なところだ。

 彼女ほどの才覚なら、然るべき環境で能力を伸ばしてほしいという思いもある。

 

 当初提示されたシャーレへの受け入れ期間もそろそろ終わる。

 その後彼女が元の自治区へ戻るにせよ、他の場所へ行くことを望むにせよ。自分の長所や才能を活かしてほしいと思うし、彼女が望むならそのための助力も惜しみなく行いたいと考えている。

 だから、ギーができるのはそのための土台作りに留まる。

 アツコは今までよく頑張った、そう胸を張って断言できるからこそ。

 こうも根を詰めることもないと、そう思うのだけど。

 

「……まだ、起きてる」

 

 こういうことを言われてしまうと、どうしたらいいものかと困ってしまう。

 

 以前はこうではなかった。

 アツコは傍目から見ても奔放な子で、他人の迷惑にならない範囲で好きに行動する子だった。

 口数は少なく一見して大人しく見えるけれど。遠慮はないし物怖じもしなかった。

 だからこんな風に眠くなれば、さっさと自室に戻っていたはずなのだ。少なくとも、今までは。

 

 いつからだろう。

 アツコは、明日が来ることを怖がるようになった。

 

 秤アツコ。その顔は黒い仮面に覆われて、表情も何も見えない彼女。

 正体定かではないラベンダー色の髪の少女。

 最初にシャーレを訪れた、先生と呼ばれる自分にとっては恐らく唯一の「生徒」と呼べる子。

 

 この子は───

 百日という猶予が一つ減るたびに、悲し気に顔を伏せる。

 

 どうして、と問うことはない。

 その行いに意味はない。

 そして、今夜もそうだった。

 

「アツコ」

「……なに?」

「大丈夫だ。僕はどこにも行かない」

 

 その言葉自体が、見当違いの思い上がりに過ぎないのであれば、どれほど良かったか。

 けれどアツコは、仮面越しにも分かるくらい、花の咲くような気配を湛えて。

 

「うん。分かってる」

 

 小さく言って。

 嬉しげに、寂しげに、見えない表情で微笑んでみせるのだ。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「おきてー。起きてくださーい。センセー。朝ですよー」

 

 ガンガンガンガンとフライパンを叩く音が聞こえる。

 元来眠りの浅いギーは「ガン」の辺りで既に起きていたのだが、知ってか知らずかむしろ楽しげな様子で音は続いていった。

 

「……アリス。いくら僕らの他に誰もいないからといって、それは少し行儀が悪い」

「起きてるじゃないですか」

 

 にへら、とアリスが笑う。初めて出会った時を鑑みれば、随分と人間臭くなったものだった。

 ギーたちがいるのはゲヘナの校舎や学生寮から離れた戸建ての邸宅だ。大使館として利用されている物件の一つらしく、ゲヘナの自治領にはこうした外部向けとして予算のかかった施設が多く存在するらしい。当初はもっと巨大な、それこそ見上げるほどの豪奢な建物に案内されたのだが、流石にそれは断った。今でさえ持て余しているのが現状なのだから、あの時の判断は正しかったと思う。

 

「おはようございます。まずは顔を洗って……と言いたいところですが」

 

 アリスはちょいちょいとギーの首から下を指差すようなジェスチャーをする。

 何ごとか、と思い視線を下げてみれば、そこには。

 

「……どうしてここにいるんだ」

 

 アツコがいた。

 ソファに腰かけたまま眠っていたギーの横に、まるで丸まった猫のようにすっぽりとアツコが収まっていた。肩というか二の腕あたりに頭を預け、フライパンの騒音に呻き声を上げながらもぞもぞと動いている。

 昨晩は確かにアツコを自室へ送ったはずだ。だがこうして傍にいる。いつの間に?

 そうこうしているうちにアツコは眠りから覚めたのか、ぼやけたような口調で。

 

「……フライパンが喋ってる」

「誰がフライパンですか」

 

 と言って、アリスは冷えた鉄の底をアツコの首にひっつけた。

 

「ひゃー」

 

 一発で目が覚めたようである。

 

「それじゃあ改めて、顔を洗って歯を磨いてください。簡単な朝食ならもう出来ているので」

 

 そう言ってアリスはあっさりと出ていった。ギーもその言葉に倣う……はずだったのだが、アツコはソファにぽかんと座り、心ここにあらずといった様子でしばらく動く気配もなかった。彼女を無理やりどかすこともできず、どうすれば良いかと勘案していると。

 

「……二度寝したら酷いですからね」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 

 

 アツコとアリスは妙に仲が良かった。

 顔を合わせたのは昨日が初めてのはずだが、初対面の相手に対する余所余所しさは全くなく、ギーが少し目を離した隙に十年来の友人のように一緒になって遊んでいた。

 

 アリスが夜半に自室に帰るまでの数時間。ギーは同室にいながら蚊帳の外に追い遣られていた。

 その様子は、以前アビドスに行った時に見た、アツコとシロコを思い起こさせるものだった。

 

「それなら先生も話の輪に混ざればいいじゃないですか」

 

 というのはアリスの言。全く以てその通りだが、生憎と会話の種はまるで持っていなかった。

 

「先生はそもそも人と話そうとしないからそういうことになるんですよ。コミュニケーション障害ではなく、怠惰なんです」

「いいもんね。先生が私達と仲良ししないなら、アリスと仲良しするだけだもん」

「ねー?」

「ねー?」

 

 まあ、仲良きことは良いことである。

 二人揃うと大体こういった具合で、感性の衰えた大人は文字通り大人しく仲間外れに甘んじるのだった。

 

 

 

「そういうわけで、今のところは暇な時間が多いね」

「はあ……」

 

 やや呆れた様子で、ギーの対面に座る赤髪の少女は小さく呟いた。

 

「別にそちらの事情は構いませんが、確かに私にとっては好都合……いえ、全然都合良くはありませんね。むしろ面倒です」

 

 その少女、棗イロハと名乗った万魔殿のメンバーであるところの彼女は、本当に心の底から面倒臭いといった様子でデカデカとため息を吐いた。

 昨日の会談では全体の調整と真面目な進行を一手に担っていた彼女だが、色々と気苦労が多いようである。

 

「それで、今日はわざわざどういった用向けだったかな」

「ええまあ、万魔殿からの任務と言いますか。脅迫でも懐柔でも人質でも、何なら誘惑でもいいから、どうにかして先生を味方につけろと言われて来ました」

「……それは面と向かって言っていいものなのだろうか」

「そこを気にしますか。面倒臭い人ですね」

 

 面倒臭いらしい。

 

「そういった手練手管に意味はないな、と思っただけですよ。物や金銭やハニートラップで釣られる人なら話は早かったんでしょうが、どうもそういう人では無さそうですし。私としても、外面だけ良い顔をして相手を騙すようなトリニティの常套手段は好きではありませんので」

「……そうか」

 

 トリニティ云々については、あくまで個人の見解ということで聞き流すことにした。

 

「というわけで、いかがでしょう?

 全面的にという形でなくとも、協業やサポートという形でも構いません。

 もちろん十分な報酬はお約束します。

 マコト先輩に曰く、『キヴォトスを征服した暁にはその半分をくれてやろう』とのことですが」

「シャーレへの依頼という形でなら、都度検討させてもらおう」

「取り付く島もないですねぇ」

 

 言葉とは裏腹に嬉しそうな声だった。

 イロハはぐいっと伸びをすると、そのままソファにごろんと横たわり、それきり動かなくなった。

 

「……」

「……」

「……」

「……あ、私は適当にサボってるだけなので悪しからず」

「……そうか」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……特にすることがありませんね」

 

 そういうことらしい。

 

「ひまー。暇ですよぅ。やることが何もありません。

 いつもなら本でも持ってくるんですけど、今回は突然すぎてその用意もできませんでした」

「……帰ればいいのでは?」

「こんなに早く帰ったらサボったってバレるじゃないですか」

「どこかその辺で時間を潰せばいいんじゃないか?」

「知ってる人とバッタリ会ったら気まずいんですよ。

 というか先生、仮にも先生を名乗るなら子供の愚痴と暇つぶしくらい付き合ってください」

 

 そういうものなのだろうか。

 シャーレに規定されている「先生」なる役職は通常の教職とは成り立ちを大きく異としており、ギーとしても未だに実態を掴めていないところではあるが。いや、別にそういったことを言っているわけではないと分かってはいるものの。

 

「というわけで、何か適当に駄弁りましょう。先生は何か聞きたいことでもありますか? 今なら出血大サービスで何でも答えてあげますよ」

「そう、だな」

 

 その言葉に甘えることにした。

 非合法の情報屋など望むべくもない以上、こうした情報は足で稼ぐより他にない。

 

「なら、ここ最近ゲヘナで噂になっていることはないだろうか。

 奇妙な事件やオカルト、真偽不明の都市伝説といった類のものだ」

「事件、ですか……」

 

 イロハは少しだけ考え込むようにして。

 

「ざっくりとしすぎててどうにも。というか、ゲヘナじゃ事件なんてありふれてますからね。

 マコト先輩もその辺の取り締まりには全く興味がないので。私達より風紀委員に聞いたほうが良いのでは?」

「そうか」

「ただまあ、確かに最近は少し毛色が違ってきてはいますね。ゲヘナというよりはキヴォトス全体が、ですけど」

 

 そう言うと、イロハは教鞭でも執るかのように人差し指を立てて。

 

「先生も知っての通り、ゲヘナは碌な学校じゃありません」

「……ノーコメントで」

「お優しいですねぇ。まあともかく。

 うちにはテロリスト紛いの部活も結構ありまして。

 うちで暴れる分には風紀委員に取り締まられる程度で済みますが、余所でおいたをした場合にはその自治区の治安維持組織やヴァルキューレの厄介になることも多々あります。あるのですが」

 

 中々に物騒な話をしていながら、今日の天気でも語っているかのような顔で、イロハは続ける。

 

「最近はどうも、別のものに鎮圧されるケースが増えてきているらしいんですよ。しかも事情を聞いてみれば、それを行ったのは正体不明の、しかも個人である場合がほとんど。自慢にもなりませんがうちの生徒は腕っぷしだけは無駄に強いですからね。そんな芸当ができるのは、キヴォトスでも限られてくるはずなんです」

 

 つまり、とイロハは口の端を笑みの形に吊り上げて。

 

「"ヒーロー"が出没するようになったんですよ。厳密にはヴィジランテと呼ぶべきでしょうが。

 うちだけでなく、各地の不良生徒や悪徳企業なんかが被害に遭っているようで」

「ヒーロー?」

「ええ。一部の目立つ人なんかはその特徴や自称から二つ名なんかも付いてるみたいですよ?

 私が知ってる限りだと……白い男、カイテンジャー、覆面水着団、ファウスト、フラッシュ、キャスパリーグ、山海仮面、トリニティの走る閃光弾、ゾロ、慈愛の怪盗、などなど。他にも色々いるみたいですけどね」

「随分と詳しいな、まるでギークか何かだ」

「イブキがそういうの大好きなんですよねぇ……」

 

 ギーは記憶の中にある、昨日見た金髪の少女を思い出す。

 あの天真爛漫な様子を見れば、なるほど確かに。納得できるものがあった。

 ……挙げられた名前の中に、いくつか聞き覚えのあるものがあったことは考えないでおく。

 

「そういうわけで、ここ最近の事件や噂と言えばそういった騒がしさが大半を占めます。

 あとは……ありきたりな、どこかで聞いたことのある七不思議くらいしかありませんよ。

 段数が増える階段であるとか、開かずの実験室であるとか」

 

 あとは。

 

「旧音楽室の首つり幽霊とか。まあその程度です」

 

 

 

 

 

 

 空崎ヒナは夜が好きだった。

 皆が眠りにつき、全てが静まり返る、「おやすみ」の時間だからだ。

 太陽が燦燦と輝く日中も好きではある。しかし旺盛な命の輝きの裏には、同じだけの「終わり」が待ち受けている。それは死といった大仰なものに限らず、出会いがあれば必ず別れもあるという当たり前のことに過ぎない。いずれ必ず訪れる「終わり」を思う時、ヒナは例えようもなく寂しくなってしまう。

 それは別れそのものへの哀しみではなくて、置いていかれる側の疎外感だった。

 空崎ヒナは住んでいる世界が違うのだと、人は言う。

 生物としての格が違う。実力が隔絶し過ぎている。アレが他者を見る目は同族に向けるものではない、と。

 そんなことはないのに。子供じみた勘違い、話せば分かる些細な行き違いに過ぎない。

 けれどヒナはその認識を正すことをしなかった。

 そうする暇がなかったし、する必要性も感じなかった。

 嫌われるのが自分だけなら、それはそれで構わなかった。

 だからこそ人の輪に加われない。巡る出会いと別れの円環に、自分だけは無縁の存在だった。ヒナはゲヘナにおける己の存在を、暴動や不正に対する抑止力、害獣に対する狩人として定義している。事実として在り方が違いすぎる者同士の関わりは、往々にして悲劇を招くものだ。

 だからヒナは、もちろんその要求を呑むつもりはなかった。いつもであるならば。

 

 

 

「……また会ったわね」

 

 そちらを見ることもないまま声を掛ける。並外れた五感と動体視力は、意識せずとも近づく彼の存在を早々に知覚していた。あの時出会った、彼。忘れもしない、茫洋と立ち尽くす表情のない彼。

 名前は、そう。

 

「すまないね。僕は───」

「シャーレの先生。そうよね?」

 

 驚く様子の彼に、しかし得意げな顔をするでもなかった。

 要職に就く者で、彼を知らない人間はいないだろう。それだけの話だった。

 

「ゲヘナにいるってことは、マコトにでも呼ばれたのかしら。

 もうすぐパーティも開かれるし、そういう政治的駆け引きが好きな彼女らしいわね。

 いずれにせよ」

 

 と、ここでヒナは初めて顔を彼のほうへと向けて。

 

「こんなところに来る用事はないと思うのだけど。

 お互い自分のすべきことに注力するのが最善だと、そうは思わない?」

 

 知らず突き放すような声音になっていることを、ヒナは自覚していた。

 自分はいつもこうだ。その意図に拘らず、自分が外に表象するものは全てが冷たく、刺々しい。

 それを厭う気持ちもあったが、今は都合が良かった。自分に関わらせるべきではない人間を遠ざける時、こうした自分の特性は役に立った。

 今までも、そして今も。

 

「なるほど」

 

 そのはずだったのに。

 彼はどこか神妙な顔をして、声もなく頷いたりもして。

 何を考えているのだろう。何のつもりなんだろう。

 

「確かに君の言う通りだ。察しの通り僕はシャーレの公務でこの自治区に来ているし、依頼としては君の言うパーティへの参加を要請されている。もちろんそれは十全に遂行しよう。だが開催まではまだ日がある」

「……」

「つまり、それまで僕は自由ということだ」

 

 正直言うと、何言ってるんだろうと思った。

 今更言うまでもなく、ゲヘナの治安は悪い。この旧校舎とて、自分が来るまでは不良生徒の溜まり場だった。銃撃戦など日常茶飯事、一般人であるなら護衛なしで出歩けるものでもない。ただの好奇心で来ているならば、そういう野次馬根性は木っ端微塵に砕けているはずだ。

 

 なのにどうして、そんなことを言うのだろう。

 彼は教室の小脇に立って、邪魔をするでも必要以上に関わろうとするでもなく。

 

「君の邪魔にはならない。本当に目障りであるならばすぐにでもこの場を去ろう。だからそれまではここにいることを許してほしい」

「……どうして?」

 

 それは拒絶ではなく、純粋な疑問だった。

 どうして、自分などに関わろうとするのか。その意味が分からない。

 そんな困惑を感じ取ったのだろう、彼は更に口を開いて。

 

「こちらにはこちらの事情がある。

 いや、特に理由はないのかもしれないな」

 

 見透かされているような気がする。

 ぶれない彼の瞳は、理由も分からない真摯さと、同じほどの切実さでこちらを見ている。

 

「強いて言うなら……演奏会には聴衆となる者が必要だろう?」

「……ええ、そうね」

 

 冗談めかした彼の言葉に、本気で同意したわけではない。

 彼がそうする理由など、やはり今でも分からない。

 

 けれど、やはり、私は。

 

「なら聞いてくれるかしら。つまらない、不格好な演奏だけれど」

 

 私は、ずっと、寂しかったのかもしれない。

 

 

 




ギー先生がヒナのとこに行ったのは、アリスの旧校舎調査の際に一般生徒(ヒナ)を遠ざけるためです。少なくとも対外的には。
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