碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
───過去の記憶。そして、未来への希望。
それは私にとって何の意味も為さないものだ。こうして在る"現在"が私のすべて。
喜びと悲しみは今だけのもの。夢と挫折も今だけのもの。
存在しないものに執着することはない。すべて、すべて、意味などないのだから。
私は現在に存在している。
私は過去に裏切られている。
私は未来に見捨てられている。
何の意味もない。ただそう在るだけだ。
そしてそれこそが、この私の全てでもある。
だから───
耳に届くこの旋律も、"現在"の私にはきっと意味のないものだ。
奏でられる旋律は謳う。「冴えない日々が訪れても、未知なる未来を信じて」と。
そうして零れ落ちていったものを人は"過去"と呼ぶのだと、その歌の主は知らない。
無邪気に未来を想う歌を、私は聞く。
けれどそれは悔恨ですらなく、きっと闇にあるべき怪談の末路でしかない。
♰♰♰♰♰♰♰
特別なことをするわけではなかった。
私はピアノを弾いて、彼はそれを眺めている。ただそれだけ。
最初の日はそれで終わって、次の日から少し話すようになった。
近くにある古い自販機でコーヒーを一つずつ買って、隣り合って話をする。
誰もいない崩れかけの旧校舎で、コーヒーが空になるまで。
私は自分の話をしなかった。話せるだけの内容はなかったし、上手く口も回らないからだ。
だから話は自然と彼のほうに傾いてくる。とはいえ彼もあまり話は上手くないらしい。語り口調は淡泊で、時々考え込むように黙りこくる時もあって。少し親近感が湧いた。
ほとんどは他愛のない話だった。彼はやはりシャーレの先生で、DUに本拠地を置いていて、今まではアビドスとミレニアムに関わったことがあって、担当する生徒は少なくて、未だに距離感が掴めない───みたいな話。いつしか話は彼の生い立ちに転ぶ。
最初は私の疑問だった。だって最初に見た時は、先生というよりはお医者様に見えたから。
「面白い話ではないよ」
言って彼は少し苦い顔をするけれど、どうしてか私は知りたいと思った。
そんな次第で、私は彼の半生を知った。断片的な、途切れ途切れの情報。
「こんなことを話すのは、ここに来てから初めてだな」
なんて、決まりが悪そうな彼に、私は「そう?」と問いかける。
「あなたの生徒さんに話していたわけじゃないのね」
「そうする必要がないからね。聞いて面白い話でもないだろう、こんなことは」
そうだろうか。
医学生から研修医になったという彼は、素直に立派だと思うのだけど。
「これは単なる好奇心に過ぎないのだけど……どうしてお医者様ではなく教師に?」
「…………どうしてかな」
長い沈黙だった。
聞いてはならない過去というよりは、彼自身も困惑しているような口ぶりで。
失礼だけど、少しだけ吹き出してしまった。
「……そんな顔もできるんだな、君は」
「ああいえ、ごめんなさい。馬鹿にするつもりではなかったの。ただちょっとおかしくって」
「まあ、自分でもおかしなことを言っている自覚はある。
今でも思っているよ。どうして自分がこんなところに、って」
それは不満ではなく卑下の言葉だった。
自分は相応しくない、もっと適任がいるはずだ。そういう思考から出た言葉だ。
私自身、とても覚えのある考えだ。
今までも、そして今も。ずっと頭の隅で考え続けていることだった。
「ねえ、先生」
だから、少しだけ踏み込んでみたくなった。
私は問う。何気ない口調で、できるだけなんてことない風を装って。
「先生はそういう役割のことを、疎ましく思ってる?」
「そうでもない」
返答は素っ気なかった。
「どうして自分が、とは思うけどね。けれど向こうにも何か都合があったんだろう。
そのことについて話を聞きたいとは思うが、生憎連邦生徒会長は行方不明だ」
そう語る彼の声には、本当に何の感情も乗っていなかった。
心が広いとか、逆に薄情とか、そういうことではなく。
彼は「怒る」とか「うんざりする」といった心のやり場さえもらえなかったのかもしれない。
「だから今は"先生"なんて呼ばれている。流れでしかないが、一度引き受けたからには相応の責任があるのだから、投げ出すわけにはいかない」
仕事に遅刻するわけにはいかない、とでも言うように、彼は語る。
私は返事をせず、手元のコーヒーを口に含んだ。苦みが口に広がる。
自分のことについて話す時、彼はどこまでもフラットだった。
夢や希望を語るわけではない。逆に境遇や来歴を呪うわけでもない。
どこまでもひたすらに「そういうもの」として扱っていた。彼は自身について、プラスもマイナスも抱かない。ただ無感情だった。
過去の負債を穴埋めしてゼロに戻すため、最低限の基準を自身に強いている。
そんな彼の横顔を見るとき、私はまるでぽっかり空いた大きな穴を覗いている気分になる。
「そら、面白い話ではなかっただろう?」
そう投げかけられる言葉だけは、妙に自信ありげで。
そんな彼がおかしくって、やっぱり私は少しだけ笑ってしまった。
「ごめんなさい。二度目ね、これで」
「構わないさ。笑ってくれるならその方が気楽だ」
「ええ、ちょっと気持ちが軽くなったのかもしれないわ。寂しさが紛れたのかも」
私は自分が決して孤独ではないことを自覚している。
教室でも委員会でも、相応に話す相手はいる。笑い合うこともある。
それでも、多分、在り方の問題として。
どうしようもなく寂しくなる時が、ふとある。
だから知らず軽くなった心で、私は言う。
「あなたもそうならいいな」
言われて彼はきょとんとして。
意味が分かってないというよりは、どうして自分がそれを言われたのか分からないのだろう。
「……そんなに寂しそうに見えたかな、僕は」
「ええ。気付いてなかった?」
こんなところまでやってきて、こんな私に声をかけて。
そういうあなたの顔こそ、ひどく寂しそうだったから。
彼の瞳に映る私も、同じだったのだろう。
不思議そうにする彼に、私はほんの僅かに微笑んでみせる。
三度目の笑顔だった。
◆
「本当は、ピアノは得意じゃないの」
物憂げに瞳を伏せ、彼女はそんなことを言った。
卑下の響きはなかった。当たり前のことを口にしただけの、平坦な口調だった。
「音楽は苦手。歌も苦手。
昔から上手にはできないし、他人に聞かせるなんて以ての外。
だから本当は、今度のパーティにも出るつもりはなかったの」
けれどそうはならなかった。
「マコトに言われたから、っていうのもあるのだけど。
本当の理由はこっち」
言って、彼女はピアノのスタンドに置かれた冊子を指差す。
見る限り相当に年季が入っていることが伺える。数年やそこらでは利かない、とても長い時間を経た楽譜だった。
「それは?」
「この音楽室で見つけたものよ。昔のゲヘナに通っていた人が残した、自作の楽譜」
そう言って、彼女は譜面をなぞるように鍵盤を叩く。
ひとつ、またひとつと単音を奏でる。滑らかな所作。
もはや書かれた音符さえ読み取れないほどに掠れた譜面を、出来る限り再現するように。
「私はこの人を知らない。署名はあるけれど、どこの誰かさえ。
でも分かることもあるの。それは、この人がどれだけピアノを好きだったのか」
まるで見てきたかのように彼女は語る。
彼女はそういう人間だった。この決して長くはない交流の中で、ギーは既に彼女の人となりの一端を理解していた。
彼女は、他人のために心を砕く人間だ。
あまりにも感受性の高い子だった。傍から見ていて不安になるほどに。
「先生。先生は夢ってどういうものか分かる?」
その問いに、ギーは首を横に振ることで答えた。
教科書的な答えを返すことはできるだろう。一般的に好ましい形の返答も同じこと。
けれど、自分にはそうしたものを語ることはできないと思った。
もはや自分には無縁のものだった。過去も現在も、そして未来も。
「そう。やっぱり似た者同士ね、私たち」
彼女は微笑みながら的外れなことを言う。
似ているものか。他人のために心を痛めることのできる君になど、決して。
「私ね、夢がないの」
そう言う彼女はやはり平坦な面持ちで、マイナスの感情は伺えなかった。
「いつだったかな、大人の人に聞かれたことがあるの。"将来の夢は何?"って。
分からないって言うと、すごく残念そうな顔をして。
なりたいものはないの? 好きなことは? やってて楽しいことはない?
ひとしきり聞かれて、ひとしきり分からないって答えて。最後には口を噤んで。
なんだか、すごく怖かった」
でもね、と続ける。
「そんな私でも、誰かの夢を一緒に見てあげることはできる。
代わりに叶えてあげる、なんて大それたことは言えないけど。
残されたものを繋いであげるくらいのことは、できると思うの」
言って、彼女は気恥ずかし気に。
「……なんて、恥ずかしいことを言ってしまったわね。子供じゃあるまいし。
ごめんなさい、忘れてちょうだい。こんなこと言われても困ってしまうわよね」
「いや」
返答はそれで充分だった。
恥ずかしいと否定した彼女の言葉を、しかしギーはそうは思わない。
腹の底にあるものを懸命に言語化しようとしてくれたことに、ギーは価値があると考える。
「それでも君は、楽譜を残した誰かの思いを繋ぐことを選んだのだろう。
ならそれは決して間違いでも、恥ずかしいことでもない。
演奏という形で表現しようというなら、猶更に」
「……そう、かな」
自己満足ではあるのだろう。
とうの昔にゲヘナを卒業したであろうその人物に、直接報いることはできない。
曲を形にしたとて、その裏にある真実を知るのは彼女と自分しかいない。
けれど。
「きっと、いいや絶対、無意味ではない」
知らず断言してしまったことが自分でも不思議だった。
意地か偽善か。それとも。
自分でも気づかなかったけれど。
彼女の言う夢を、信じてみたかったのかもしれない。
♰♰♰♰♰♰♰
地上十数フィートをアイカメラが浮遊している。
やたら前衛的なデザインのそれは、ミレニアムで開発された最新鋭のドローン撮影機だ。大本の開発は小鈎ハレという人物が担ったらしいそれを、愚姉であるリオが改修したものであるらしい。何故愚姉と言ったかというと、機能美溢れる元型をわざわざアホみたいなデザインに改悪したからだ。ともあれ性能のほうは折り紙付きで、何とこれ一台でX線撮影からサーモグラフ、テラヘルツによる大容量データのデータセンター間通信、AIによる自動データ解析に行動ナビゲート、超高精度3D立体成型までこなせる一品であるとか。
特異現象捜査部の部員として独り立ちする自分に、リオが贈ってくれたものだった。
それ自体は嬉しかったし、妙にほくほく顔のリオや何か言いたげなヒマリなど、そこでもひと悶着はあったがそれはともかくとして。
「収穫なしですか」
数日をかけ、分からないことだけ分かった。
アリスは特大のため息を吐いた。流石にこれは堪える。
「反応は確かにあるんですけどね……どういうことなんでしょう?」
この旧校舎は調べ尽くしたはずだ。全ての廊下と全ての部屋、中庭、屋上、外周に校庭にプール。何なら地下の反応まで探査した。にもかかわらず収穫なし。泣きたくなってくる。
腕を組み、小首を傾げ、外を見遣る。今いる校舎裏は鬱蒼と生い茂る草木に埋め尽くされていて空さえ見え辛い。この手入れが全くされていない雑木林の中に当たりがあるのでは、と考えもしたがそっちには一切反応しないのでどうしようもない。
「あと考えられるのは……」
でも。
実は一個だけ、まだ調べていない場所がある。
ギーと、見知らぬ少女がいた旧音楽室だ。一般の人間はできるだけ関わらせないようにという方針と、何か用事があるならできるだけそちらを優先させたいという配慮によって最後まで後回しにしていたのだ。
音楽室というと、確かに怪談っぽさはある。
予習ということでヒマリたちと一緒に見た怪談映画シリーズでは理科室が一番怖かったが、確かに音楽室も色々いた。ピアノを弾く女の子の霊はともかく、目が動く有名音楽家の絵画なんかはむしろギャグみたいで面白かったから考えから外れてはいたのだけど。
「うーん、そろそろ潮時ですかね」
ギーと一緒にいた少女のことを考えながら口にする。
あの子には悪いけれど、本格的な調査のために一時立ち退きを要求するべきか。
気まずさと申し訳なさと、若干の残念さがある。
「あの演奏、遠巻きにしか聞いてませんが。結構好きだったんですけどね」
「うん、いい音色だよね。私も嫌いじゃないよ」
反応は迅速だった。
「うん」と聞こえた瞬間には身を翻し、瞬時に距離を確保しつつ照準を完了させていた。
不審者の類ではあり得ない。如何に《偽神》としての権能を封じたとはいえ、自分に気配を気取らせずここまで接近できる存在が尋常なるものであるはずがない。
ぴったりと額に銃口を向けられ、件の人物は困惑のためか、「嫌いじゃないよ」の辺りでは語気が弱弱しく掠れたものになっていた。
「えっと、あー……」
「何者ですか、答えてください」
「そういうタイプ? や、そんなつもりじゃなかったんだけどなー……」
困ったように笑うその少女を前に、しかしアリスは一切気を緩めることはなかった。
視界の中央に捉え、確かに実像としてそこに立つ少女。
だが、それだけなのだ。
少女は、視覚以外の一切に映ってはいない。
サーモグラフも。
X線も。
動体検知も。
両目以外の全ては、そこには何もいないという事実を突きつけている。
明らかに人ではない彼女は、人としか思えない表情のまま。
「その、なんていうか。銃を下ろしては……くれないよねー」
実に弱気な声だった。