碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
───青に彩られた箱庭。
───寄せては返す波の音だけが響く、忘れ去られた学び舎の残骸。
光が広がる。
燦々と降り注ぐ陽光に照らされて、教室の床を浸す水面にいくつもの波紋が浮かんだ。
波紋はやがて、教室の隅に投げ捨てられた鋼鉄の機械人形にまで届き。
その胸元に掻き抱かれたタブレット型端末は、何をも映さず陽の光を反射するのみ。
無人の空間。世界の果てに隠された、静謐なる幕間の世界。
西享の碩学は言った。全ての人の奥底に、揺蕩う無意識の大海を。
『オブジェクト記録を参照───碩学機関《シッテムの箱》が記す』
声と共に───
陽光から投影されるが如く、無人の教室に浮かび上がる幾つかの影像たち。
【ギー】【空崎ヒナ】【調月アリス】【ザ・ライブラリー・オブ・ロア】【打ち捨てられた機械人形】【シッテムの箱】
人の夢見る物語。誰かの想いによって紡がれた、形なき憶録たち。
時にそれは、《心の声》と呼ばれることもある。
彼女は、その中の一つに手を伸ばして───
♰♰♰♰♰♰♰
【■>打ち捨てられた機械人形】
───《The Library of Lore》とは。
それは祈るべき神すら失われた時代に生まれ落ちた、新たな信仰の名。
神秘とも恐怖とも異なる存在であり、それは神性を含まぬ《記号》であるとされる。
記号とは象徴。象徴とは名。名は力となり、力は存在を定義する。
記号は単体で成立するものではなく、それを解釈する存在が導き出すテクストを含むとされる。
神秘はなく、恐怖もなく、胎動し生誕した新たなる《崇高》
無限に再演を果たす中で偶然に意味を孕んで誕生した稀有なテクストを持ち得る記号。
《ゲマトリア》の一員たるゴルゴンダは、とある芸術家の名を借りてこれを《The Library of Lore》と名付けた。
【■>ザ・ライブラリー・オブ・ロア】
「……私は、過去を恐れる」
「それは私にとって意味のないものだ。
過去とは現在を形作る無数の階梯の一つでしかなく、私の後ろに広がる轍でしかない」
「振り返ったところで変えられるものなど一つもない。
だから、過去に意味などない」
「今ここに在る"私"こそがすべてだ。
世界を俯瞰し、現在を認識し、我を想うこの私だ」
「だからそれ以外のすべてに意味などないし、
私は、それ以外のすべてを恐れる」
「現在さえあればいい」
「人が生きるのに必要なのは、輝ける"現在"だけなのだから」
【■>空崎ヒナ】
「私は、未来が怖い」
「特にこれといった理由はない。ただ、漠然とした不安を感じる」
「未来とは現在の積み重ねであって、努力と備えを怠らなければ相応の結果を導くことはできるけれど」
「でも、それだって絶対ではない」
「そもそも私は大それた人間ではないのだから、そんな偉そうなことを言える立場ではないし。
本当にそんなことができるなら、もうちょっとマシに生きることもできるはずなのだし」
「周囲の期待とか風評のプレッシャーとか、決して迷惑ではないのだけど」
「そういうのに応えられないかもと考えると、やっぱり怖い」
「……人から遠ざけられるのは、怖いよ」
【■>シッテムの箱】
───キヴォトスに広がる噂とは。
怪談、おまじない、都市伝説。
呼び名はそれぞれあるが、所謂オカルトの産物であるそれらはある一時を境に急激に広まった。
多くは根も葉もない作り話に過ぎない。そうした状況を面白がった人間による粗悪な再生産が繰り返され、過去に多く存在した流行り物と同じく消費されるに過ぎない代物だった。
現在、キヴォトスにおいてそうした噂話の数々は急速に聞かれなくなっている。
まるで淘汰が進むように、噂は数を減らしているのだ。
だがそれは、都市の正常化を意味するものではない。
絶対数は減ったが、都市に蔓延するオカルト趣味の濃度はむしろ増加している。
聞かれる噂の数は減り、しかし頻度は濃縮されるように広がって。
例えるならば、有象無象の噂の数々がいくつかの束に収束していくような。
そして生き残った噂たちは、いつしか実在としての像を結んでいく。
───ザ・ライブラリー・オブ・ロアとしての。
【■>調月アリス】
「私は物語が好きだ」
「ファンタジーが好きだ。ロマンスが好きだ。冒険活劇が好きだ。
SFもミステリも、青春小説も好きだ」
「それは人の想像力によって描き出された世界の形だ。
私は、誰かの描く世界を見るのが大好きだ」
「だからモモイたちの作るゲームという世界も好き。
いやまあ、色々変なことになる時も多いけど、それはそれ」
「なので噂というのも、実は結構嫌いじゃない」
「今のキヴォトスだと少しオカルトに寄りすぎてる気はするけど。
私はホラーも大好きなので、ジャンルの偏りもあんまり気にならない」
「けど、そういう噂が現実となって人を襲うとなると、そうも言っていられない」
「物語は幸せになるためのものであって、現実に人を傷つけるものじゃないのだから」
「そういうわけで、私は与えられた任務を頑張っているわけなのです」
「えっへん」
【■>ギー】
「……怪奇現象の数々」
「実のところ、似たような事例に覚えはあった」
「それはキヴォトスに来るよりも以前。あのインガノックでのこと」
「誰もがその時のことを忘れてしまった、あの《復活》のこと」
「御伽噺の怪物の数々が文字通り《復活》して。
都市は、《幻想生物》と《クリッター》による死に覆われた」
「あらゆる空想が現実と化し、故に空想は空想足りえなかった異形都市」
「ここでも、それと同じことが起きている?」
「大侯爵が行ったという大規模な現象数式実験。その末路」
「それと同じ、あるいは似たような何かが……」
「この都市でも行われているというのか。誰かの願いを食いつぶして」
「また……」
「同じことを、繰り返すつもりなのか」
【■>ザ・ライブラリー・オブ・ロア】
「私は、何者にもなれなかった」
「そう決めたのは私だ。
もう何の意味もない過去の私が、私自身に何も意味などないと決めたのだ」
「私は意味を持てなかった。私は未来に希望を抱けなかった」
「私は、夢を叶えることができなかった」
「けどそれにも意味はない。だってそれは過去なのだから」
「"現在"の私には関係ない。私は、かつての私とは違う」
「私は、今度こそ夢を叶えてみせる」
「絶対に」
「絶対にだ」
【■>ギー】
「ゲマトリアと名乗った連中のことを、未だに僕は何も知らない」
「セントラルネットワークは勿論のこと、ヒマリでさえ真相には辿り着けなかった」
「僕と同じ、この都市においては異物でしかない者たち。
研究者を自称した、黒服と名乗った男」
「その言葉が本当であるならば、僕の知る碩学と同様のことを彼らが行っているというなら」
「この事象を引き起こしたのも或いは、彼らの研究の産物であるのだろうか」
「アビドスにおいてホシノを用いて行おうとしていた何かと同じく」
「その成果の一端が、この怪奇現象であるのか」
「大侯爵と同じ過ちを、この都市でも繰り返そうとしているのか」
「そうであるのなら」
「僕は───」
【■>シッテムの箱】
───旧音楽室の噂とは。
ゲヘナ学園に伝わる七不思議のひとつ。
それは今は使われていない旧校舎の音楽室に、とある生徒の幽霊が現れるというものだ。
その生徒はピアノを愛し、音楽を愛していた。
だがピアニストの夢破れ、遂にはその命を断ったのだと。
全ては根拠のない噂だ。ゲヘナは自治区内における自殺者の存在を公式に否定している。
【■>空崎ヒナ】
「……不思議な人」
「初めて会った時からそう思っていた。先生を名乗るあの人」
「本当なら、断るべきだったんだと思う」
「シャーレはキヴォトスでも特異な立ち位置にあって、私はゲヘナの風紀委員長っていう立場にあって」
「そういう責任ある人間はみだりに交友を持ってはいけないのだと」
「それは理屈として理解しているけれど。でもそれなら、どうして私は受け入れたのだろう」
「理由は分からない。断るだけの気力も無かったのか、どうでもいいと思ったのか」
「通りすがる野良猫が気になる程度の気持ちでもあったのか。或いは……」
「……ううん、別にいい」
「こういうことには、多分、明確な答えなんてないのだろう」
「善悪や損得勘定が入り込まないからこそ、ただただ純粋で衝動的な感情の世界だ」
「だから……」
「私は、やはり、寂しかったんじゃないかと」
「そう思うのだ」
「……多分」
【■>調月アリス】
「この世にあらざる幻像」
「そうしたものを具現化した事象を私は知っている。俗に《現象数式体》と呼ばれるもの」
「とはいえ今回は無関係だろうと考えている。あれは究極的には新たな神を生み出す営みだ」
「カダスに飛来した神性が《旧支配者》と呼ばれるように。
私の母が《旧神》と呼ばれるように」
「あれらは《新しきもの》と呼ばれるべきものだ。
その名に相応しい存在は、私のデータベースにも残ってはいなかったけど」
「でもどうだろう? 私の記憶も知識も、ケセドなる存在に大半が食い荒らされてしまった」
「本当はもっと色々知っていたはずなのだけど……」
「自分の無知がもどかしい。本当なら、もっとヒマリや先生の役に立てたはずなのに」
「ロア、噂が現実化した存在」
「その根源となるのは……」
【■>ザ・ライブラリー・オブ・ロア】
「……それでも」
「過去の記憶は現在に繋がっている」
「私はそれを知っている。たったひとつの私の感情、私の記憶」
「それだけが、私が私であることのすべて。
とうに朽ち果てたはずの私を突き動かす衝動」
「だから私は過去に囚われている。
それに意味などないと知っていながら」
「滑稽な話だ。私は結局、今でさえ何者にもなれないままで」
「それでも───」
「私は───」
【■>空崎ヒナ】
「私は……」
「私は、自分が価値ある人間だとは思わない」
「普通に生きる普通の人々と全く同じで、取るに足らない普通の人間に過ぎない」
「臆病で口下手で、いつも人に勘違いされて」
「無表情が怖いって言われて、自分でもそういうのを直したいと思ってて」
「背が低いのが嫌で、色々不器用なのも嫌で、何か言葉にしようとしてもすぐには出てこないのも嫌で」
「そんな大したことのない人間なんだと思っていたけれど」
「……ギー先生」
「彼のことを思う。あの不器用で口下手で、意外に頑固な彼を思う」
「彼も私と同じだった。自分のことを何とも思っていない、大それた人間と思われることが嫌でならない。そんな人」
「でも、そんな彼を見て、私は……」
「そういうことを、言わないで欲しかった」
「私が何かを感じたあなたを否定して欲しくなかった」
「でもそれは、私が今までしてきたことと全く同じで」
「私は……」
「彼のことを思う。自分の愚かさを思う。彼の瞳にあった、自分と同質の寂寞を思う」
「今なおこの胸にある何かと、音楽室に残された夢の残骸を思う」
「でもそれは全部私の我儘でしかなくて、きっとただの自己満足に過ぎないのだ」
-Fin-