碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
『このピアノなら自由に使っていいと言われた』
『私は将来、ゲヘナで……いや、キヴォトスで一番のピアニストになりたい』
『その夢を叶えるために、これから毎日、欠かさず練習を続ける』
『いつの日か夢が叶うことを願って、記録を残していこう』
(以下、日々の練習内容と改善点が一日単位で書き連ねられている)
『中々実力が伸びない。才能がないのかな……』
(冊子が二冊目へ移る)
『今日も大会で賞を取れなかった……』
(空白が多く、日付が飛んで安定しない)
『今日を最後に、ピアノから離れようと思う』
『自分にできること、やりたいこと……ただ、それが一致しなかっただけの話』
『私は何者にもなれなかったけど……』
『ピアノを愛した気持ちは嘘じゃない』
『いつか、この日誌と共に私の作った楽譜を見つけてくれる人が現れることを祈って』
『文責、夜永カノン』
(以降絶筆)
♰♰♰♰♰♰♰
「先生、あれは何?」
「花火の準備場だね。明日の本祭で打ち上げるみたいだ」
「じゃあ、あれは?」
「都市広報の広告ビジョン。映っているのは……万魔殿の議長か」
「それじゃ、あっちは……」
「屋台通りだ。ああして簡易的な出店を出して、一夜限りの商売をするんだよ」
「ね、ね、私もあっち行ってみたい」
巨大庭園とも見紛う広大な緑の園。
ゲヘナ学園中央に位置する校庭は円形状に整備された石造りの森だ。
天然樹木を無数に植えた、上流階級の庭園をそのまま巨大化したような造り。
大きな噴水も見えて、そこでは活発なゲヘナの生徒が水に濡れて遊んでいる。
自然と人工物が融和した迷路は夜に映えて、常ならきっと気品すら感じられる光景だっただろう。
しかし、そこは今、多くの賑わいを見せていた。
数えきれないほどの出店が軒を連ね、客を招き入れる声が飛び交い、人工灯が夜闇を照らす。
万魔殿主宰のパーティの前夜祭。
通信越しのヒマリは、まるで百鬼夜行のよう、と零していた。
「なんだか変わったところだね、先生」
「そうかな……いや、そうかもしれないな」
祭りの概念は王候連合にもあった。
ここまで度外れた規模のものは珍しかったし、霧と排煙が立ち込める環境は食物の売買には適さないから出店というのは殆ど見なかったけれど。ギーとしても祭りに行った経験くらいは、ある。
その経験に照らし合わせてみれば、確かに変わっていると言えなくもない。
電脳ソフト、電脳機器。
大型端末、情報書庫。
家電、家具、室内装飾。
服飾、美容品。
骨董、美術品。
銃火器、爆薬、刃物類。
食材、料理、お土産品。
等々───それはもう、数限りなく。
商品だけでなく研鑽された技術も売られている。高級志向の店舗もちらほら見えた。
商店はおろか居住区としての機能すら失われているとされるゲヘナ自治区。
となれば、かつてのインガノック上層のように限られた富裕層のみが興ずるハリボテの祭典と思っていたのだが、しかし。
活気があった。
人の姿があった。
そして何より、笑顔があった。
多くの人が行き交い、燈明の暖かな光が瞬く様は幻想的でさえあって。
なるほど確かに、万魔殿の長が威信を懸けたと言われても納得できるものがあった。
「でも、ちょっと人に酔いそう……かな?」
「……驚いたな。君にもそういったことがあるのか」
「む、ねえそれどういう意味?」
どうもこうも、そのままの意味だった。
決して馬鹿にして言ったのではないのだが、やはりどうしても意外ではあった。
ミレニアムでの一件が終わりシャーレに戻った日のことを思い出す。執務室へ戻ろうとしたギーの目に飛び込んできたのは、散々に荒らされたシャーレの姿だった。調理室からレクリエーションルームまでが散らかり、椅子や机が倒されている凄惨ぶり。目が泳いでいるラブたちに聞いてみれば、連日夜通しでタコパなるものを開いて騒いでいたとか何とか。
当然、そのメンバーの中にはアツコもいた。
シャーレに来た当初はひとりを好んでいた彼女だったが、いつの間にか大勢で騒ぐのも好きになったのだろうと。
だからこうした、文字通りのお祭り騒ぎも得意分野なのではと思っていたのだけど。
「そういう単純なものじゃないんだよ」
そういうことらしい。
「やっぱり先生はダメダメだね。女の子の気持ちってものが全然わかってないんだもん」
「……」
全く以てその通りなので何も言い返せない。
思春期の少女は元より、そもそも人の心などまるで分からないのが、このギーという男だ。
そのことを思えば、今までアツコには窮屈な思いをさせていたのではないかと不安にもなる。
の、だけど。
「まあ、それは別にいいのです」
隣を歩くアツコは、笑顔の気配を湛えて。
「先生がそういう人なのは昔っからだし、私はそんな先生のことが好きなわけで。
だから、うん。先生がどれだけダメダメでも、私だけは一緒にいてあげるね」
「……そうか」
「というわけで、一緒に見て回ろ?
私、お祭りなんて生まれて初めてなんだ。すごく楽しみ」
生まれて初めて。
その言葉に思うところはあったけれど。
ともあれ、アツコの言葉に否はなかった。
せっかくの祭りなのだ。自分はともかく、アツコの思い出作りには協力したい。
気を取り直し、隣のアツコの手を取る。
「でも、残念だな。アリスがこっち来れないなんて」
「本来はミレニアムの業務で来ているからね。進展があったという話だったが」
その進展について、詳しい内容がアリスから語られることはなかった。
ギーはアリスに同伴しているが、元々は別の用務でこの地を訪れている。
助けが必要なら都度手を貸すつもりなのだが、このように遠回しに断られてはギーから踏み込む理由もなかった。
銃撃戦などの戦闘になればギーの出る幕などないということもあるが、エージェントとしてのアリスの見識を信用しているが故のことでもあった。
彼女が自分を遠ざけるのなら、その判断はきっと正しい。
そう信じるからこそ、救援の要請が来るまでは静観するつもりだった。
「たくさんお土産を買ってあげなきゃ。お面とかどうかな? アリス、そういうの結構好きだから」
「君が言うならそうなのだろうね」
同年代の交流は得難いものだ。このように、ギーの知らないアリスの趣向もすんなり出てくる。
一歩を踏み出す。
暗がりの道から、明るい表通りへ足を向ける。
と───
「おや、ユースティティアとは。これは異なものを連れている」
誰かの声。
誰だ、と思った。聞き覚えはない。少女の声。
背後から掛けられた言葉に振り返る。
振り返るまで、そこに誰かがいるとは分からなかった。
───感じ取れる気配がなかった。
「だが悪くない。君たちを見ていると何やら和む。嫌いではないよ」
少女、だった。
顔立ちは美しい、はずだ。そう感じる。けれど、分からない。
具体的な相貌が、認識の中で像を結ばない。
夜闇に光る黄金色の双眸だけが、嫌に印象的だった。
「何かな」
「特には。つい郷愁に駆られてしまってね」
「……前に会ったかな」
「いいや、此処が初対面だとも。だが私は君たちを知っている。
君たちも私のことを聞き及んでいるのではないかな。調月アリスから」
そう言って肩を竦める少女に、しかしやはり見覚えも聞き覚えもない。
すると、隣のアツコが口を開く。
「……ゲーム開発部?」
「ご名答。ここまで言えば流石に分かってしまうか。
君の言う通り、私は調月アリスの友人であり、君たちに対する傍観者でもある」
要領を得ない。
煙に巻くような言葉。素性こそ分かったが、しかし引っかかるものがある。
ミレニアム所属の彼女がここにいるのはいい。ゲヘナの祭典は外部にも開かれている。ただ単に治安が悪いから殆ど人が来ないというだけだ。
だからそこは問題ない。だが、しかし。
「ああ、すまない。邪魔するつもりではなかったんだ。アリスのことでね、忠告しておこうかと」
「……アリス?」
「彼女はもう戻らないよ。ロアとミネシスの天使に接触したから」
何を言っている。
まるで特異現象捜査部の諸々を知っているかのような口ぶり。
そして彼女は何と言った。ロア、ミネシス?
天使とは。
何を、意味している?
「忠告とはここからだ。君は空崎ヒナ……ああ、名は知らないのだったね。旧音楽室の少女が持っていた冊子を見ただろう。そこに記された署名もだ。調べてやりなさい。きっとそれが重要なファクターとなる」
「……君は一体何を言っている」
「理解できない? いいや、そんなことはあるまい。君の生来の優秀さは知っている。
何かが掛け違っていれば、君は我が《結社》において万能王さえ屠る最強へと至っていた。
君は単に私を信用できないだけだろう。だがそれでいい。
信頼も同調も私は必要としない。これも一時の戯れのようなものなのだから」
その時。
すぐには、気付くことができなかった。
「何か用向きがあればいつでも尋ねてきたまえ。ゲーム開発部の扉は万人に開かれている。
では、良き青空を」
今も繋いだままの、アツコの手。
少しだけ。
震えて───
♰♰♰♰♰♰♰
『いえ、アリスから火急の要件は伺っていませんが』
通話口から発せられた声は、その言葉通りに安穏としたものだった。
大通りに面した小洒落たカフェの一角、テーブルを挟んだ対面にギーとアツコは座っていた。
店内は落ち着いた雰囲気で、流れる音楽は控えめでありながら通りの喧噪を遠いものにしている。テーブルの上には二人分のコーヒーがあって、アツコはそれを啜るや「……苦い」と小さく呟いていた。
「最低でも何かの手がかりを入手したと考えて動いたほうがいい。ヒマリ、そちらからアリスに繋げることはできるだろうか」
『そんなことは先生の側から……ああ、リオが用意したものだと有事の際には受信を拒絶できる仕様でしたね』
これだから個人主義者は、と小声の愚痴が漏れ聞こえる。
『とはいえ心配は不要と思いますよ。アリスの反応と動向はこちらでもリアルタイムで拾っています。今はゲヘナの外縁区を移動していますね。どうしてもと言うなら回線を開きますが』
「すまない、そうしてくれると助かる」
無事ならそれでいいのだが、万が一ということもある。
数秒の沈黙の後、チャンネルが切り替わるような感覚。そして。
『……ギー先生?』
「……アリスか。すまない、そちらの様子が気になってね」
常と変わらない声だった。
傷ついているわけでも、まして消息不明になっているでもない。
懸念点が一つ解消されたことに、表情が和らぐのが自覚できた。
『えっと、すみません。こちらも立て込んでまして。でも心配はいりませんよ。
この通りすっごく元気なので! そちらも変わりありませんか?』
「ああ。少なくとも明日の本祭までにトラブルは無さそうかな。邪魔して悪かったね」
更に二言三言ほどを交わし、通話が途切れる。数瞬を置いて回線がヒマリの側へ切り替わった。
『それで、先生が何が気がかりなのですか?』
「……敵わないな。やはり察せられるか」
『そうでもなければ先生はこんなことしないでしょう。少なくとも、進展があったという最初の連絡の時点で動いていたはず。それで、一体何が?』
「ミレニアムに登録されているゲーム開発部のプロフィールを送ってほしい」
通話の向こうの気配は、明らかに困惑しているようだった。構わず続ける。
「それと、【夜永カノン】という人物について探ってほしい。恐らくはゲヘナの卒業生だ。
こちらに関しては僕ではなくアリスに送ってもらいたい。彼女にこそ必要な情報だ。多分」
『何やらはっきりしませんが……まあ構いません。先生にも何か考えがあるのでしょうし。
……アリスの分のプロフィールも送りますか?』
「どちらでも……いや、お願いしたい」
『分かりました。大したものでもありませんし、すぐ送れますよ』
言うが早いか、受信を知らせる機械音が鳴る。本当に速い仕事だった。
画面を切り替え情報を確認する。ミレニアムのデータベースに登録されている顔写真と学籍情報が、簡素に並べられていた。
【花岡ユズ】
【才羽モモイ】
【才羽ミドリ】
【調月アリス】
以上四名。
ゲーム開発部に在籍している都合四名のプロフィールが、そこには表示されていた。
「……これで全員?」
『ええ……何か問題でも?』
「ヒマリ、以前ユウカとショッピングモールで会った時のことを覚えているか」
『ええ、まあ。ゲーム開発部の課題が終わってないから探しに来た、と言っていましたね』
そうだ。ユウカは定例の課題を終わらせていないゲーム開発部を心配して追いかけていた。
だがその前にヒマリは疑問を提示していたはずだ。あの部活には部員の数が足りていないと。
当時は無所属だったアリスを除き三人しか在籍していない部活。それに対し、ユウカは何と答えていた?
「あの時、ユウカは部員数の問題は解決したと言っていた。ゲーム開発部には既に四人目が入っていると」
『そうですね、確かそう言っていました』
「その後、アリスが入部した」
『はい、その通りです』
「……今のゲーム開発部は、何人だ」
『? 五人になりますね?』
「今君が送ってくれたプロフィールは、ゲーム開発部全員であると?」
『はい。
何か問題でも? と言うヒマリの声には、狂気や錯乱の色はなかった。
ギーの言葉への困惑と、自分の言動の正しさへの確信だけがあった。
軽く痛み始めた頭から余計な思考を振り払い、言葉を続ける。
「……前々から君には《ゲマトリア》の調査を依頼していたが、それは取り下げさせてほしい」
『?
……?
…………???』
「ヒマリ?」
『?????????
えと、ギー先生、それはどういう……』
「恐らくこれ以上の調査に意味はない。そして君自身も危険に巻き込んでしまうだろう。
勿論今までの尽力には感謝しているし、君の実力に疑いはない。謝礼も振り込ませてもらう。
だがこれはもうそういう段階の話ではなくなって……」
『わた、私の助力が必要ないと……?』
「……ヒマリ?」
向こう側では言葉になりきらない声が震えて、何やら聞き取り辛い様子になっていた。
震える声だけが連続し、次いで沈黙が数秒続いたかと思えば。
『それは一体どういうことですか!?』
爆発した。
「……ヒマリ」
『じょ、冗談はお止めなさい! 先生でも言っていいことと悪いことがありますよ!? ほ、ほら、見てください! この私の繊細で儚い指先が、怒りとショックで震えてタップミスしたのが分かりますか!? ま、まさか、私では力不足だとでも!?『ヒマリに頼むのは荷が重かったかなぁ?』『やっぱりリオの方が頼れるよねー?』とか、そんな酷いことを考えたりしているのですか!? 言っておきますがこの病弱清楚系天才美少女ハッカーの手にかかればあんな下水女の作った最高峰のセキュリティでさえ単なるお散歩コース、取るに足らぬ些事でしかないのですよ!? その程度の依頼など朝飯前……いえ、私は病弱美少女なので朝食前の不摂生な活動は控えていますが、それはともかく! この、キヴォトスにおいて並ぶ者なき誰もが憧れる《全知》の学位を持つ眉目秀麗完璧美少女を捨てるというのですか!? 先生は私を頼りにしてくれていたのではないのですか!? 私のこの類稀なる頭脳と可憐なる美貌を求めてくれていたのではなかったのですかーっ!』
「……」
無言で通話を切り、画面をメール作成に切り替えて文面を打つ。
あくまで事務的に、しかしヒマリの能力を疑っているわけではないことを明記しつつ作成完了。
送信をタップし、端末をテーブルに置き、一言。
「……そのうち、またミレニアムに行かなければならないな」
「先生?」
黙々とコーヒーに挑戦していたアツコがきょとんとこちらを見ていた。
「ミレニアムってユウカとアリスがいるとこだよね。なら私も行きたいな」
「危険かもしれないから……いや」
その時は置いていくと言いかけて、考えを改める。
ゲーム開発部の一員を名乗った彼女は、いつでも尋ねてこいと言っていた。わざわざ自分たちの前に姿を現し、ヒントになる言葉を残し、来訪を歓迎すると。
であれば、彼女と直接対面する者以外には手を出すことはないと考えてもいいだろう。
こちらの素性を把握されている以上、シャーレにアツコひとりを残したところで危険から遠ざけたとは言い難い。ならば手許に身柄を置き、ある程度護衛をつけたほうが安全は確保できるかもしれない。全ては相手の出方次第ではあるが。
「そうだね。その時は一緒に行こうか」
「やった」
無邪気に喜ぶアツコを横目に、ギーは知れず嘆息する。
彼女が言っていた《結社》なる単語。それは黒服の言っていたものと同じだった。
それが何を示すのかは分からない。だがここに至って偶然の一言で片づけるわけにはいかない。
どうにもきな臭い話になりつつあるようだった。
♰♰♰♰♰♰♰
───最後の夜だった。
そのことを、空崎ヒナは強く自覚していた。
無人、無音の、夜の暗がりに在る廃墟と化した旧音楽室にて。
少女の裡には多くの感情が渦巻いている。それを音声として発したところで咎める者などここにはいないだろうが、しかし彼女は言葉にはしなかった。少女にとって、言葉とは重いものだった。例えば"言霊"のような古びた信仰の類を有しているわけではない。
ヒナにとって、言葉とは。
上手く手繰れぬものだった。
多くは誤解を生む代物だった。
本当に大切なものを、相手に伝えるためのものだった。
そうであればこそ、確実な言葉だけを少女は心掛ける。
「完璧に、仕上げなきゃ」
抑揚のない声だった。
傍から聞けば、何の感情も混ざっていないとさえ感じられる声。
人を人とも思わぬ、何の情けも温情も持ち合わせない。そう捉えることもできる。
或いは彼女の副官たる少女が聞けば、それは妥協を許さぬ完璧主義がもたらすものと認識しただろう。
誰より強く、正しく、完璧に。
そう求められ、その全てに応えてきたのが空崎ヒナという少女だった。
暗がりに在り、言葉もなく、寄る辺すら無きようにして立つ、この少女。
空崎ヒナは、実に───
「……」
足音もなくピアノに近寄り、鍵盤を指で弾く。
響く単音。虚空に消えていく、メロディになれなかった空気の震え。
余人はきっと分かるまい。
完璧にして絶対。何に心揺らぐことなく、完全という言葉を一身に体現せしめる彼女。
そうであるのだと多くの人間から思われてきた、この空崎ヒナという少女が。
怖がっている、などと。
分かる人間は、きっといない。
「……」
言葉はない。そうする必要がない。
少女はゆっくりと腰かけ、ここ数日で手慣れた所作で鍵盤を弾き始める。
───音を奏でる。今日も。
───それだけが、明日に懸ける自身のすべて。彼との関係に向き合う中で、ひとつだけ。
最初は、ただ失敗を恐れていた。
パーティの主役を担うに等しい役割。自身が苦手とする音楽という分野。
場違いなどと、そんなことは自分自身が一番よく理解していた。
それでも引き受けたのは、一体どうしてだっただろうか。
失敗は当然、怖い。笑われるのも、失望されるのも、人から遠ざけられるのも怖い。
当たり前だ。だって自分は、そういうものを恐れる普通の人間なんだから。
最初は本当にそれだけだったと思う。失敗したくないから練習する。これも当たり前の話。
でも、いつからだろう。
それだけじゃなくなった。
恐れる理由が、増えた。
それは、きっと───
「───誰?」
問いかけは端的に。
ヒナは暗闇の向こうへと声をかける。誰もいないはずの暗闇。
けれど、そこに人影はあって。
見たことのない姿。会ったことのない誰か。
そう年頃の変わらない少女が、そこには立っていて。
「怪しい者じゃない、って言っても説得力ないよね。はは」
困ったように笑いながら、けれど気配のない彼女。
一歩、一歩と近づいて。やがて差す光に照らされ、その顔が露わになる。
彼女は───
「一言お礼を言いに来たんだ。その曲を奏でてくれた、君に対して」