碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
「……ああ。今日も偽りの音色は響く」
「
我らの願いは正しく進み続けるだけ」
男は言った。
少なくとも、声は男であるはずの影だった。
人とは思えぬ影。
双頭の、木切れの人形でしかない人型。
髪はなく、貌もなく、辛うじて人の形を保つ輪郭だけが彼の人間性を担保する。
その貌かたちは古めかしく曖昧で。
けれど、放たれる声だけは明瞭だった。
その声に含まれる響きは表現者の怜悧と熱情。
告げる声は、無機質に観測する涼やかさを持って。
告げる声は、心魂を捧げた芸術への情熱を伴って。
朽ち果てた木石に似つかぬ感情を含んで、響く。響く。
狭間の領域、ゲマトリアが有する空間の最奥。
余人の知ることなき静謐なる知識の間。
ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へと滑り込むのだという。
遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、彼らの属す組織が有する知識の余技で造られた部屋。
暗がりの研究室。
祭壇とも呼べるか。
キヴォトスの民の多くは神を知らない。
名を失い、忘れ去られ、祈るべき神々は既に死に絶えているが故に。
しかし、此処は神を讃える祭壇だった。
異邦の最果てに位置する世界、神在りし西享と同じくして。
神。天使。神性を讃える場所。
その様は壮麗なる宗教絵画にも似て。
その中央に立つ男が自称せしめる名の通りに、世界のすべては芸術に通ずると嘯いて。
「アーキタイプと呼ばれる概念がある」
「感情にはその原初たる《根源の感情》があり、あらゆる感情はそれを複製する形で表される」
「喜びも、悲しみも、怒りも。
私が抱く狂おしいまでの渇望も。
すべては根源の感情のレプリカに過ぎないのだと」
軋むように、擦れるように、声は響く。
それは確かに人の声であって、けれど決してその通りではない。
決して、決して。
まったき人間の唇から漏れるものではない。
「感情がそうであるならば、信仰とて同じこと」
「そう結論付けた我々は、トリニティの地下に封印された太古の教義に目を向けた」
「それは受肉した教義。天と同様に地にさえ結実する意思の証明」
「最も新しき幻想にして、偽りたる人造の天使なるもの」
「これを前にしては、ギー先生。
背後の《奇械》無き身では、貴方が持つ簒奪の力さえ通じはしない」
大仰に。物々しく。
すべては芝居に過ぎないとでも言うかのように。木切れの男は腕を振り上げて。
「さあ。皆さまどうか喝采を」
「故に私はこう叫ぶだろう」
「───
♰♰♰♰♰♰♰
───星空の下。
───ゲヘナ中央区、新記念講堂にて。
夜の暗がりの中、ゲヘナ自治区の大部分には静寂が充ちている。
眠りを知らぬ不夜の都市は喧噪に満ち溢れているはずだが、しかし今夜は違った。
豪奢と荘厳を体現した白亜の講堂には、多くの人が集まっていて。
星瞬く夜の冷気もここには及ばない。
自治区を挙げて開かれる、威信を賭けた熱の宴によって。
際限なく明るく、華やかで、熱く。
「……」
けれど決して眩いとは感じなかった。
ここに太陽はなかった。
夜の陽だまりであると、例えば万魔殿の議長は言うだろうけれど。
「不可解……いや、不相応か。僕は如何にもこの場に不釣り合いだ」
ため息混じりに呟かれた声は、きっと誰にも届かなかっただろう。
豪華なシャンデリアが吊られたホール。ペーパーバックにでも出てきそうな、まさしく王侯貴族の邸宅とも見紛う華美に過ぎた様相は、自分という人間を場から浮き上がらせている。
僕"たち"、とは言わない。
自分という人間は間違いなく不釣り合いに違いないけれど。
傍らに立つ少女は、そうではない。
「どうかした、先生?」
「何でもないよ、アツコ」
秤アツコ。
周囲の人間が身に着けている華美なドレスを纏うでもなく、いつものように立つ少女。
黒い仮面を付け、白いフードを被る彼女は、しかし場の空気から浮き上がることはなく。
王侯貴族であるかのように、尊き立場の人間であるかのように。
一切の違和感さえ覚えさせぬままに立っていた。そうするのが自然であるかのように。
アツコは上目遣いの角度でギーを見上げて。
「緊張は……してないんだ。残念、せっかくリードできるチャンスだと思ってたのに」
「大学時代にね、少しばかり経験があるんだよ」
十年前の上層大学時代に社交知識を教わったことがあった。数こそ少ないが、同期には貴族の子弟もいた。彼らに付き添って酔狂な青年貴族の社交界に顔を出したことも何度か。まさかここに来てまでそんな経験が役立つとは思っていなかったが。
と、アツコのほうを見遣れば、彼女は少しだけ驚いたような様子で。
「……先生、大学出てたんだ」
「まあね」
今まで言ってなかったことだ。わざわざ言う必要もないと、ずっと忘れていたこと。
聞かせても面白いことなど一つもないだろうと思っていたこと。
そうとも限らないと、そう教えてくれたのは音楽室の彼女だった。
だから、これはちょっとした気まぐれだった。
少しばかり自分の身の上に触れてもいいだろう、と。
所詮は取るに足らない雑談の話題のひとつ。興味が無ければ流して終わるだけのものだから。
と。
「ね、ね。それもっと聞いてみたい」
「……別に構わないが、大して面白くもないよ」
「いいの。私が聞きたいんだから」
見えない目を輝かせるように、妙にトーンの上がった声でアツコは言う。
ギーとしては少し想定外だった。まさかここまで食いついてくるとは。
「だって先生のことはひとつでも多く知っておきたいんだもの」
当然とでも言うかのような、アツコの言葉。
それに何の意味があるかは分からないが、別に止めるようなことでもなかった。少しばかり逡巡して、ギーは答える。
「ただ、今は時間も押している。ここじゃ落ち着いて話しもできないから、また今度だね」
「んー……まあ、そうだよね。楽しみにしてる」
「良い子だ」
万魔殿が開いたパーティの開演時間がもうそこまで迫っていた。パーティ自体は立食形式のシンプルなものだったが、挨拶や祝辞、そして演奏などの公演が行われるという。ギーもまた来賓席への招待がされていたが、あくまでパーティへの出席のみとして辞退することに決めていた。公的な場に立ちたくないのもあったが、シャーレが持つ政治的な立ち位置を考えれば避けるのが賢明と判断したからだ。
周囲の喧噪は大きくなり、囁き声も多くなる。周囲の生徒たちの話し声が否応なく聞こえた。
「そういえばあの話って聞いた?」
「あ、もしかして大きい広告出してた奴?」
「私も聞いたよ! 今回のパーティの目玉だよね!」
「風紀委員長のオープニングピアノ演奏!」
「ヒナ委員長の演奏が聴けるなんて楽しみだよね~」
「でも万魔殿と風紀委員って仲悪くなかった? よくOK出したよね」
「私も聞いただけなんだけど、議長が海のように広い心で招待したんだって」
「関係改善ってやつ?」
様々な声が届く。
今回のパーティに当たっての諸々は、どうやら面白おかしく真偽不明の噂話として消費されているようだった。あの議長が一般生徒にそこまで慕われているとも思えない以上、ある程度はプロパガンダも入っているのだろうが。
「……はぁ。気が滅入ります」
と。
聞き覚えのない声がしたかと思えば、するりとギーの隣に入り込む人影がひとつ。
「訓練や万魔殿の横暴に振り回されてる間に、そんな偏向報道をしているとは。
あのタヌキは一度こうと思ったなら、他人の言うことなんか聞きませんからね」
見覚えのない少女だった。
恐らくはリオと同年代の、発育の良い少女。ドレス姿であり、青みがかった髪が印象的だった。
彼女は憤りを滲ませた溜息を吐きながら、心底からうんざりしたようにこちらを見て。
「正直、あなたが万魔殿に協力していることに文句の一つも言いたいところではありますが」
「……君は」
「初めまして、ですね。天雨アコと言います。ゲヘナの風紀委員に所属している者です」
そう言ってニッコリと笑う彼女は、どう見ても目だけは笑っていなかった。
形ばかりの笑み。仕方ないからそうしているといった表情。
「一度お会いしたいと考えていたんですよ。私たちとしてもシャーレは無視できない存在ですからね。それが公式の場ではなくこんな場所というのは遺憾ですが」
「そうだったか。僕としてもそのうち挨拶には行きたいと考えてはいたところだ」
世辞や社交辞令ではなかった。ゲヘナで実質的な統治をしているのが事実上風紀委員であることも踏まえて、面通しは行っておきたかったのは本音である。ギーが赴任した日に血を見せてしまったひとりが風紀委員であることも聞き及んでいたから、その謝罪をしたいという意味もあった。
もちろんこの滞在期間で何度か足を運んだのだが、そのたびに委員長の不在や突発的な暴動の鎮圧で主要生徒が抜けていることを理由に正式な顔合わせはできなかったのだが。
先程耳に入った風紀委員長のピアノ演奏という言葉。
ゲーム開発部の彼女から聞いた、空崎ヒナという個人名。
常に不在状態だった風紀委員長。
それらは既に頭の中で繋がっている。我ながら間の悪いこともあったものだと辟易するが。
「それで、どうでしたか?」
「何がかな」
「万魔殿を直接相手にした感想は、です。
あの無茶苦茶な集団を相手にして、私たちの苦労の一端を理解していただけたら幸いです」
「さてね。単なる未成年であれば、あれくらい元気で個性的なほうが健全かもしれないとは思ったかな」
「物は良いようですね」
はぐらかされたことを不満に思っている視線を向けられたが、ギーとしてはこれ以上他に言えることはなかった。議長たちの政治家としての資質云々について言及しようとなれば、そもそも未成年に政治運営を担わせるキヴォトスの歪さにまで話が及んでしまう以上、そうした部分に手を出そうと考えていないギーでは口出しできる分野ではなくなってしまうからだ。
「それで、今日は挨拶代わりといったところかな」
「そうなりますね。あなたを見つけたのは偶然ですが、良い機会だったので」
そう言うと、アコは値踏みするように周囲を見渡す。
そこに配置された何かを、今一度確認するかのような視線の動き。
「この会場は風紀委員が警護しています。万魔殿が主催ということもあり、突発的な暴動が起こることはまずないでしょう。ゲヘナとはいえそこまでのお馬鹿はそういません」
「……一部にはいるということか」
「否定しきれないのが口惜しいですね。ここでは常識などチリ紙一枚の役にも立たないので」
でもまあ、とアコ。
「それでも守り切ってみせますよ。委員長の晴れ舞台ということもありますが、無関係の人を巻き込むのは風紀委員としてのプライドが許しませんので」
アコの見つめる先にはアツコの姿。二人が会話を始めて以降、手持無沙汰になって料理テーブルを物色していたようだった。アツコを見つめるアコの目は、ギーに対するものとは違い、本心からの暖かみがあった。
「それにそろそろ委員長もいらっしゃいますからね。これほど心強いものはありません。
まあ、そもそもこんな要請は最初から断っておけば良かったとは思いますが」
「演奏の件か」
「ええ、まあ。言うまでもありませんが、そんなものは本来委員長の仕事ではありません。
きっぱり断っておけば良いものを、ヒナ委員長は真面目すぎるんです」
その点については同意だった。彼女はあまりに真っすぐすぎる。
故に危うく、故に眩しかった。彼女は、光のある場所で生きていくべき人間だった。
「……ああ、時間ですね。ヒナ委員長がお出でです」
そうして、その時はやってくる。
際限なく明るく、華やかで、熱い表舞台。
それでもなお、ギーはそれを眩いとは感じなかった。
見せかけの豪奢に意味はなく、ここには決して太陽はないのだと。
けれど。
「─────────」
太陽は、あった。
♰♰♰♰♰♰♰
暗がりがあった。
静けさがあった。
何より、そこには停滞があった。
例えて言えば、そこは永く発掘されずにいた地下遺跡にも似て。
長い永い間に外気が入り込むことはなく、鬱屈と停滞の気配が重く煮詰まっているかのよう。
その名を覚えている人間はそういまい。
ゲヘナ旧コンサートホール。それが、この場所の名だ。
古びて打ち捨てられた、あとは朽ちるのを待つだけの場所だ。
ゲヘナにはそうした廃施設が数多く存在する。
雷帝時代の動乱を引き合いに出すまでもなく、多くを建てては放置することを繰り返してきた。
ここもそのひとつ。もう何十年前にもなる、当時の為政者たちが見栄だけで建てたもの。
忘れ去られ、人の出入りなど年単位でなかったはずの場所。
その中央に、彼女の姿はあった。
「……」
何の変哲もない少女だった。
取り立てて目立つ要素はない。道ですれ違ったとて、振り返ることはない程度に整った少女。
幽鬼めいて不確かな気配の中に。
なぜか、ぎらつくほどの生気を感じさせる少女だった。
「……そろそろ、かな」
崩れて埃の溜まった座席から、彼女は立ち上がる。
定刻だった。彼女はそれを正常に認識している。
時間だ。
待ち望んだ時だ。彼女はそれを欲していた。
待ち焦がれた時だ。彼女はそれを手にすることはなかった。
全ては過去だ。望み、焦がれ、しかし叶わなかった夢を抱えて。
けれど、どうでもいい。過去は現在と関係ない。
すべて。そう、すべて。
輝ける"現在"を手に入れればいいだけの話なのだから。
と。
「───なんだ。もう行くんですか」
声が───
誰もいないはずの廃講堂に響く声。
負の感情はない。焦燥の響きもない。
無感であるように。ただ、ただ、怜悧に響く声。
振り向いた先にいる人影を、彼女は知っていた。
一度は顔を合わせた少女だった。
自身より二つも三つも幼く見える少女。だが彼女は幼気と無縁の表情をして。決意を湛えた顔。
何を、決意しているというのか。
「行く必要などありませんよ。あの舞台はあなたのためにあるわけじゃない」
「……驚いたな。どうしてここが分かったんだい?」
「あなたが何者であるかを辿れば話は簡単でした。
夜永カノン。三十年前のゲヘナ生にして、旧音楽室の首つり幽霊その人であるあなた」
言葉を受けて。
少女は笑う。それは喜悦の笑みではなく、もっと昏く、重く、水気を帯びた表情。
少女は、嗤った。
「当時のゲヘナでは芸術分野の支援が厚く、このホールも音楽の道を志す生徒への特待として設計された。ですが生徒会長の入れ替わりと同時に自治区の運営方針は変わり、用済みとなったここも放棄されることになった。そう記録されています」
「そうだね。尤も、私はその時のことを覚えてはいないけど」
「未練ですか」
返答はなかった。
それで構わないと、黒髪の少女は続ける。
「いずれにせよ、あなたの登る舞台はもうありません。
あれは未来ある若人たちが夢を描く場所です。あなただけは、入らせない」
「そんなことは誰にも決められてない。私は私の夢を掴むと決めているんだよ」
「空崎ヒナさんを殺してでも、ですか」
返答はない。
ただ、鬱屈に嗤う気配だけがあった。
「厳密には表現が違うのでしょうけどね。乗っ取り、同化、憑依。言葉としてはそんなとこでしょうか。いずれにしても人の自我を奪う行為を看過することはできません。それは精神的な殺人に等しい」
「人殺し呼ばわりなんてひどいなぁ。何の証拠があってそんなことを?」
「実例なんて掃いて捨てるほどにあります。残念ながら、ロアとはそういうものだと結論付けざるを得ないほどに」
山間にあっては夜間に人格を乗っ取られた事例。
夢の中の列車で精神を殺された事例。
寄せられた情報と実際に調査を重ねた結果判明した事実に枚挙の暇はなく、故に阻むことへの躊躇はない。
黒髪の少女は光を帯びつつあった。
輝ける昼光の黄金ではない。それは星々の光たる蒼白の輝き。
廃講堂には今や、夜空の暗雲さえ切り裂く無数の星光が貫いて降り注ぐばかり。少女の意思に呼応するかの如く、それは輝ける《光の剣(スーパーノヴァ)》となって少女の左手に集束する。此処にYieldの輝きはなく、凍て付く空を解く笑顔もなく、だからこそ少女が手にするはシリウスの剣か。
不可視の刃と形を成す非存在粒子が奔る。
停滞した暗闇を、光が裂く。
決して命を奪わず、傷つけず、しかし地上における万物一切を切り裂く電脳殺しの刃。
───蒼白の光が。
───少女の左手に集まって。
「彼女の夢を、あなたの夢を、歪められたロアの餌食にさせはしない。
哀絶なる者、今は遠き夜永カノン。
その妄念、愚念、あなたを突き動かす執着の残骸の悉くを今、ここで」
「へえ。今、ここで?」
少女は、決意に瞳を瞬かせて。
「───食い止める」
───左手を、前へ。
活動報告のほうに今までの話の補足設定等を纏めておきました。質問等あれば気軽にどうぞ