碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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3.5-7 明日もきっと晴れ

 

 

 明星ヒマリは激怒した。

 必ず、かの心無い先生をぎゃふんと言わせなければならぬと決意した。

 

「自意識過剰だと思うけどなぁ」

 

 エイミには乙女心が分からぬ。浪漫を理解せず無粋な言葉ばかりを吐き続けてきた。

 普段は特に気にもしないが、今のヒマリはそういう揶揄には人一倍敏感であった。

 

「いいえエイミ、これは私個人の意識などという矮小な問題に留まりません」

 

 ヒマリは車椅子のひじ掛けをすんと叩き、それを以て抗議の合図としていた。

 

「先生は私に極秘調査を依頼していたのですよ? 他の誰ならぬ、この超絶美少女病弱天才ハッカーである私に、です! それをあのように通話を切り、書面による簡素な説明だけで取り下げるなどと……私の知性とプライドに対する挑戦以外の何物でもありません!」

「そうやってすぐ話を飛躍させるあたりが分かりやすく自意識過剰なんだと思うよ」

 

 頬を膨らませヒートアップするヒマリに、エイミはどこまでも平坦な口調だった。

 背をもたれ飲料のストローに口をつける所作には、一切の緊張感がない。

 

「実際今まで何の成果もなかったのも事実だし、部長も色々仕事立て込んでるし。

 先生だって部長に無理させたくないから敢えてそういうこと言ったんじゃないかな」

「エイミ、それはただの言い訳に過ぎません。確かに私にも至らぬ面はあったでしょう、この全知たる私の頭脳に頼り切りになる己の無力さを恥じ入らせたこともあったでしょう。しかし先生には自覚が足りないのです。この天才病弱美少女ハッカーを前にしては何人も後塵を拝する以外になく、それ故に私に頼り切りとなるのは何も恥ずかしいことではないという事実を!」

 

 ひとまずの落としどころを作ろうとしたエイミに、返ってきたのは凄まじい妄言だった。

 ああこれは長くなるなと察し、エイミは無言で席を立つ。

 

「エイミ、どこへ行こうというのですかエイミ。まだ私の切実なる訴えは終わってないのですよ」

「アイス……冷蔵庫に抹茶味のが残ってた気がするから」

「それならさっき私が食べました。あとで補充をお願いしますね」

「……私、先生より部長のほうがずっと酷いと思うの」

「自覚無き怠惰への罰です。ですがまあ、どうしてもと言うなら仕方ありません。これはあくまで私個人の問題、であれば私自身が決着をつけるべきことでしょう」

 

 分かってるなら最初からそうしろよ、というエイミの表情は顧みられることはなかった。

 

 閑話休題。

 

「では本題です」

 

 ヒマリは手許のコンソールを操作し、卓上のロックを解除。厳重な封の中から物品が現れる。

 

 ガラス片、だった。

 結晶化したガラス片。これを見た者はまずそれを想起するだろう。

 人の手が入っていない自然そのままの結晶構造。光を反射しプリズムのように輝く様は、天然の水晶にも見える。

 けれどそうではない。

 この物質は、既存の如何なる組成とも合致しない。

 何より特筆すべき特異な点は、これがロアの消滅ポイントに出現しているということだった。

 

「既知のアプローチは全て同一の結果に終わりました。すなわち、"成果なし"です。

 分からないことだけが分かった、という意味ではアリスを検査した時と全く同じですね」

「アリス、結局今でもよく分かってないもんね。

 でも、"じゃあアリスと同じ名もなき神々関連?"って考えるのも安直だし」

「その通りです。事実として、両者は明確に別個の存在だと私は推測しています」

 

 人差し指を立て、ヒマリは講釈するように続ける。

 

「名もなき神々に纏わる諸々は明確な技術体系の元に成立しています。いかに荒唐無稽に見えようとも、あれらは無名の司祭たちによる智慧の結晶です。ですがこれはそうではない。技術加工などされていない、自然発生したそのままの姿をしていながら、ただそれだけで既存の常識を超越する存在。現状、人の認識が影響を及ぼすロアとの相関性すら定かではありません」

 

 いわばジャンルの違いなのだ。

 名もなき神々の技術をサイエンスフィクションとするなら、ロアは都市伝説系ホラー。

 どちらも常識を逸脱した存在でありながら、その方向性は真逆である。

 

「いずれにせよ、手掛かりの解析すら覚束ない以上、これ以降は推測の域を出ません。

 いえ、推測にすら届かない……妄想か、物語の執筆に等しい状況でしょう」

 

 なにせ既存のアプローチが何一つ意味を為さない。無名の技術とは違い、法則性すら見当たらないのだ。

 人の科学とは確定した知識を石のように敷き詰め、暗闇の荒野を舗装していくような作業だ。1+1は2になる、恐らくこれは正しい。では2+1は多分3になるのだろう。では3と2を足せば……というように。こういった細かな結果を確定させ、知識とし、それを以て次の問題を確定させていく。それを無数に繰り返すことで今日の科学は確立されている。

 然るにロアは、あまりに"遠い"。人が敷いた科学知識という石畳からかけ離れて過ぎている。

 1+1が何になるかも分からないのに、いきなりリーマン予想を問われているようなものだ。

 

「万物には必ず原因があるという前提の元、その原因を探っていくのが科学の基本。

 とはいえ、今回ばかりは定石を捨て、物語の文脈で語ったほうがいいのかもしれませんね」

 

 つまるところ、お手上げということだ。

 ロアの反応を追い現場での事態鎮静化は間に合っているが、根本的な解明と解決には至らない。対症療法しか手のない鼬ごっこが続いているのが現状だ。

 

「幸いなことにゲヘナで活性化したロアも鎮圧には成功したようですし。これの解析は先生に頼んでみましょうか」

「まあそれ以外にやれることないよね。でもさ部長」

 

 エイミは何やら非難がましく目を細めて。

 

「そこまで分かってて、先生への態度はさっきのアレ?」

「それとこれとは話が別です。確かに私と先生は良きビジネスパートナーであり、良き隣人であり、良き理解者でもあるでしょう。しかし! それと! これとは! 話が! 別! なのです!」

「こぶし効かせなくていいから」

 

 あー、とエイミは面倒くさそうに。

 

「つまり部長は、自分は頼み事するのに先生からの頼まれ事が無くなったのがなんか嫌。もっと自分を頼ってほしいと」

「ええ、その通りですが何か?」

「そこで照れずに開き直れるのは部長の良いところだと思うよ」

 

 明らかに皮肉だったが、自信満々に頷くヒマリは全く気にしていなさそうだった。

 

「まあいいや。そこらへんは部長の好きにするといいんじゃないかな。

 それじゃ私はへそくりアイスでも食べるから、また後でね」

「エイミ、そんなものどこに隠していたのですかエイミ」

 

 何はともあれ。

 

 ヒマリは機器に囲まれる部室にひとり取り残される形となった。

 ひとりだから会話することもない。音も声もない。出す必要がない。ついでに言えばやることもなかった。

 自然、視線は正体不明のガラス片へと落ちる。目下の観察対象、ロアの残骸とさえ思える何か。

 一見すれば何の変哲もない。ガラス、あるいは鏡の破片のような代物。

 しかし───この異様な印象は、どういうことだろうか。

 指で表面に触れた感触は、冷たい。氷のように触れた部分の熱を奪う単純な冷たさではない、指先ではなく背筋から底冷えするような不気味さを伴う冷たさ。

 まるで死体のような、と。

 血の気が失われた肌に触れたような、悪夢的な嫌悪感がある。

 

「……」

 

 じっと、眺める。

 内部は光を歪曲し、その向こうに見えるはずの部室の光景を歪ませていた。

 確かにそこにあるはずなのに、何故だか別の場所のように見える不可思議。

 

 

 

 そして気付く。

 違う、この光景は部室ではない。

 

 

 

 今度こそ完全に音がなくなるような感覚に襲われた。

 自分の呼吸の音だけが、何より大きく耳に響いていた。

 

 ガラス片の向こう側に見える光景は、明らかに別の場所を映していた。

 それが何処なのかは分からない。暗く、黒く、輪郭さえあやふやなまま。

 

 どうして今まで気付かなかったのか。

 どうして今になってそれを認識できたのか。

 

 ふいごのように、自分の胸が上下する。

 心臓のあたりに、胸を圧迫する感覚。

 常ならば未知への好奇心に胸を躍らせるのに、どうしてか不安だけが脳を鷲掴みにする。

 

 だが、これを見逃すわけにはいかない。

 ようやく掴んだ手掛かりなのだ。是非もない。

 ありもしない唾を呑み込み、空気がごろりと喉を通って胃に落ちた。

 

 エイミを呼ぶという選択肢は、何故かその時には頭に存在しなかった。

 もっとよく観察しようと、ヒマリは向こう側を凝視する。

 その瞬間───

 

 

 

 突如、部室の全ての照明が落ちた。

 そして、ぬう、と背後から白い手が伸びて、ヒマリの目を覆った。

 

 

 

「──────!」

 

 悲鳴にもならなかった。

 その水死体のような感触に、一瞬にして全身に寒気が広がった。

 

 手を払いのける反射の行動すらできなかった。

 全身が、文字通りに固まっていた。

 

 誰だ。

 エイミではない。体温の高い彼女の手は、こんなに冷たいはずがない。

 手で覆われて視界は黒一色に染まり、周囲の様子も分からない。

 ただ、気配だけが背後にあった。

 けれど、決して、人の気配ではなかった。

 

 温度がない。

 輪郭がない。

 

 人にあるはずの血潮が、人にあるはずの形が、それにはなかった。

 人ではない何かが、背後に立っている。

 すぐ後ろに、手だけが人のかたちをした何かが立っている。

 

 理性は今すぐ動けと叫ぶ。だが動けない。体は硬直したままだ。

 手を払い、後ろを振り向けと叫ぶ。だが声すら出ない。

 目を覆った白い手は、ただ冷たく微動だにしない。

 

 ……その時、ふと、背後の気配が嗤った。

 

 

 

「……ああ、こういう時は『だーれだ』と問いかけるのが礼儀だったかな」

 

 

 

 耳元で、笑みを含んだ暗鬱な声が囁いた。

 瞬間、不定形の気配は人の形に収束した。

 目元の手が解かれる。

 車椅子に座るヒマリを覆うようにして立つ、ひとりの少女。

 照明の落ちた薄暗がりに光る、黄金色の双眸。

 ヒマリの正面に回った彼女は、見たこともない貌と姿をして。

 いや、分からない。その姿が明確な像として結びつかない。

 ただ、ただ、美しい少女という記号(テクスト)としてのみ認識される。

 

「あなたは……」

 

 辛うじて声を絞り出す。喉が、この数瞬ですっかり水気を失っていた。

 枯れ果てた喉で、それでも口にすべきことを口にする。

 

「あなたは、誰ですか」

「酷いじゃないか先輩。愛すべき後輩の名を忘れてしまうだなんて」

 

 薄暗闇の部室の只中。

 竦んだように動けないヒマリの眼前で、彼女は引き攣ったように嗤いながら手元を弄んでいた。

 手元。あのガラス片を掴みながら。

 いつの間に彼女の手に移ったのだろう。気配も動きも感じられなかった。

 

「ミレニアムにあなたのような生徒がいたとは記憶していません。戯言も大概になさい」

「確かに君と直接顔を合わせたことはなかったがね。しかし心外だ。君が特に可愛がっている後輩たちの一員として、私も確かに在籍しているのだが」

 

 くつくつと嗤う。暗鬱な響きの中に、どこか揶揄うような気配があった。

 ヒマリの視線は、彼女の手元へと吸い寄せられる。いつの間にか奪われたガラス片。

 それを見て、彼女は囁く。

 

「やめておきたまえ」

 

 彼女の囁きが耳に流れる。

 まるで粘性の泥が耳朶に入り、頭蓋の内へ潜り込んでいくような心地に、ヒマリは慄いた。

 声が、大気の震えでしかないそれが、粘質の質量を持って耳朶を叩く。

 その異様な感覚に、生理的な嫌悪感が沸き上がる。

 

「な、にを……」

「警告しよう。これを覗くのは、決して君のためにはならない」

 

 彼女が何を言っているのか。

 分からない。だが、ここから起こり得ることは想像できる。

 唯一にして最大の手がかりが、持ち去られようとしていた。

 それだけは阻まねばならない。体は動かず、心は恐怖に支配されようと、決して。

 

「……何のつもりですか」

 

 ヒマリに唯一残されたもの。その舌を使って反抗する。

 

「煙に巻くような物言いはやめなさい。こちらには説明を要求する権利があるはずです」

「なるほど、確かに君の言う通りだ。それに冷静だね。その鋼の理性は、全知と称される頭脳と同等に尊ばれるべきものだろう」

 

 白々しい言葉。

 ヒマリは答える。

 

「そんなことはどうでもよろしい」

 

 押し殺したような声。対する彼女は得心したように頷く。

 

「何のつもりか、と君は問うたね。

 どういうつもりもない。単にこれは、君という自我を害するものだからだよ」

「何を、言って……」

「事実だ。"あれ"にとっては認識されることが呼び水となる。深淵を覗く者は、などと使い古された言い回しだがね。これに関しては字義通りなのだから始末に負えない」

 

 彼女は手元のそれを、多面結晶体を指先で弄ぶ。その内奥の漆黒を嘲笑うかのように。

 その表面を撫でると、映っていた暗黒が霜を拭うかのように消え去った。

 多面体は歪曲した周辺を映すばかりで、あの黒色はどこにもない。

 

「私は君という個我の喪失を望まない。その頭脳、その精神は碩学と比して尚優秀だ。

 何より、そう。モモイたちがよく世話になっているからね。友の恩人は労わるべきだろう」

「モモイ……?」

 

 何故その名前がここで出てくるのか、皆目見当がつかなかった。

 だが彼女はそんなヒマリを気にすることはなく。

 

「あなたは……何者、ですか」

「さてね」

 

 曖昧に、暗鬱に嗤う。

 

「私を超人と呼ぶ者もいる。あるいは、私を三重のヘルメスと呼ぶ者もいる。

 東方の三賢者、あるいは天体より降りし光輝と呼ぶ者もいる。

 盲目白痴の蛆虫、無垢なる白色の女王の御子と呼ぶ者もいる。

 どれもが正解であり間違いだ。今ここにいる私は神秘によって定義づけられた生徒でしかない。

 ならばこそ、君に名乗るならこれを置いて他にないだろう」

 

 嘲るように、憐れむように、彼女は告げる。

 

「私の名は悠園ライア。この悠久の園において、ただひとり虚飾を口にする者。故にどうか、少女よ。我が言葉に惑わされてくれるな。あらゆる物語は君たち人間自身の意志によって進められなければならない。君たちは、あくまで君たちの足で結末まで歩み続けるがいい。"彼"の物語はまだ残っていて、物語とは資格のある者によって紡がれるべきなのだから───」

 

 少女は謳うように、そう語った。

 そして言葉の終わりと共に、ヒマリの意識は黒い靄の中へ呑まれていった。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 

 

◆

 

 

 

「ただいま部長……って、どうしたの?」

「ん……うーん? おやエイミ、もう戻ったのですか」

「そりゃまあ、アイス取ってくるだけだし1分もかからないよ。はいこれ、部長の分」

「流石、気が利きますね。近頃は夏が近づいて気温も高く……

 ……そうですね。エイミ、この際先生も巻き込んで長期休みにバカンスなどどうでしょう?」

「今日はもう早く寝たほうがいいと思うな」

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「ここで一旦お別れになりますね」

 

 都市間鉄道のホームにて、黒髪の少女は事もなげにそう言った。

 送別はひとりだけだ。この数日で仲良くなった、黒い仮面の少女。

 アツコと名乗った少女。彼女もまた、特に気負うこともなく言葉を返す。

 

「ごめんね。先生ってば見送りにも来なくて」

「ああ、それはいいんです。来なくていいと言ったのは私ですから」

 

 そう? とアツコ。

 実際、別に大したことではなかった。

 転校に係る学区の移動ではないし、今生の別れでもない。単に予定が食い違っただけだ。

 

「そういうわけで、先生にはよろしく言っておいてください。

 ミレニアムはいつでもウェルカムなので、アツコも気が向いたら来てくださいね」

「うん。そのうち行くって先生も言ってた」

 

 そして二人は少しの間、取り止めのない会話をした。

 話題は些細なことばかりで、例えばここでの生活がどうのとか、アリスが所属する部活の話であるとか、日常で起こったちょっとした笑い話であるとか。そういうのだ。

 やがて時間がやってくる。

 電車の到着を知らせるチャイムが鳴ると、アリスは「もうですか」という顔をして。

 

「それではまた……ああ、いえ」

 

 歩き出そうとして、振り返る。

 何ごとかと思うアツコに、アリスはそっと顔を近づけて。

 

「うん、やっぱりそう」

「? どうしたの?」

「これは言おうか迷っていたんですが、少し嫌な予感がするので言っておきますね。

 そのマスクは私と同じ技術が使われているわけですが」

 

 アリスの言葉に、アツコは首を傾げた。

 アリスが人ではない機械の類である事実を、アツコは知らない。

 

「先生も誰も突っ込まないので私もそれに倣っていたのですが。やっぱり見過ごせません。

 アツコはどうにも薄幸そうですし、念のためこれを渡しておきます」

「……えっと、カード?」

「マテリアルカードです。いえ、私が勝手にそう呼んでるだけですが」

 

 手のひらに収まるくらいの硬質なカード。クレジットの類かと思ったが、そうではないらしい。

 淡い青色が特徴的で、少し綺麗だなと思った。

 

「まあお守りみたいなものです。あって邪魔にはならないでしょうし、ポケットにでも仕舞っててもらえたら」

「そっか。うん、じゃあ貰っておくね」

 

 そういうことになった。

 アリスは開かれた乗車扉へ歩を進め、後ろ手に振り向いて。

 

「ではまた、いつか」

「うん。もう一度会いに行くね」

「おかしなことを言いますね。また何度でも会えますよ」

 

 その言葉に、アツコは曖昧に言葉を濁すだけで答えた。彼女がシャーレを離れた後にどうなるか、アリスは知らない。

 

 アリスは快活に笑う。その未来が不動であると疑いもせず。

 アツコは曖昧に笑う。誰にも伝わらない、仮面の向こう側に本心を隠したまま。

 

 やがてホームドアが閉まり、ゆっくりと列車が動き出すと、あれだけ近くにいたはずのアリスの姿はあっという間に見えなくなり、列車すらも米粒より小さく彼方へ走り去っていった。

 アツコはそれを見つめていた。

 ずっとずっと、見つめていた。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「あら?」

「……」

 

 ばったりと鉢合わせた。

 ゲヘナの校舎を歩くギーに、曲がり角から歩いてきたその少女は少しばかり驚いた声を上げて。

 

「珍しいですね。と言いますか、まだここに何か用向きでも?」

「君は……確か議事堂で会ったね」

 

 まだ記憶に新しい顔だった。

 あのパーティの夜、天雨アコと名乗った少女は、両手にいっぱいの書類を抱えていた。

 

「覚えてくださっているようで何よりです。尤も、あのような暴挙に及んだ理由を説明してはくれないようですが」

「……すまない。不義理で出過ぎたことをした自覚はある」

「全く以てその通りですよ。それに委員長とも既に顔見知りのようで羨……いえ、どのような関係性なのか詮索はしませんが、それはともかく」

 

 アコは呆れたような、或いは疲れたような口調で呟く。

 

「最初は委員長のメンタルに影響あったらどうしてくれましょうか、なんて考えていましたけどね。結果的にはつつがなく成功に終わったのでこれ以上は何も言いません。ええ、100%結果論ではありますが」

「すまなかったよ、本当に」

「まあ相応の理由があったであろうことは察します。慌てふためく万魔殿の議長も見れましたし、そこだけは胸のすく思いですね」

 

 と、二人並び歩きながら会話を交わす。

 この辺りでアコも察したのか、もしやという視線を寄越しながら。

 

「……もしかして、風紀委員に用があるのですか?」

「ああ。ここを発つ前に改めて挨拶を、と思ってね」

「向かう先が同じでまさか、とは思いましたが。律儀なものですね、委員長のことを思えばありがたいことですけど」

 

 と、アコの抱える書類の山から、はらりと何かが舞い落ちた。

 手のひら大のそれは公的書類にしては小さく、便箋のように見える。

 アコを制して手を伸ばしたギーは、拾い上げたそれを見遣る。やはり一通の書簡だった。

 

「これは……誰かの手紙か」

「ああ、恐らく委員長へのファンレターです。委員長は元々学区内でも人気のある方なのですが、あの演奏会以降頻繁に届くようになりまして。中継もされた影響か、最近は郊外やゲヘナ外からも送られてくるんですよ」

 

 表面的な言葉は辟易とした様子だが、如何にも得意そうな声音でアコは言う。

 ギーにとっては初耳となる情報ばかりだが、どうしてかすんなりと納得できるものがあった。

 

「そうか。彼女は慕われているのか」

「当然です。確かに口下手なところはありますが、あの誠実な人格と働きは疑いようのないもの。少しでも委員長を知る者であれば、その清廉さを評価せずにはいられません。万魔殿のような一部の異常者を除けば、ですが」

 

 我が事以上に誇らしげにするアコを横目に、ギーは拾い上げた手紙の裏を見ていた。

 そこに書かれた差出人の名は、ギーの記憶にも新しいもので。

 

「あら、どうかっしましたか?」

「いや……」

 

 視線を切ると、ギーはその手紙をアコの持つ書類に挟む。

 万が一にも落ちないように。宛名の彼女に間違いなく届くように。

 

「僕が言うことでもないが、必ず届けて欲しい。彼女もきっと喜ぶ」

「? ええ、言われるまでもありません。こと委員長に関わることで、この私が抜かることはありませんとも」

 

 そうして二言三言と会話をしながら、二人は歩く。

 目的地まで然して時間はかからなかった。使い込まれた重厚な扉を前に、ギーはそのノブに手を掛けて。

 

「──────」

 

 手が止まった。言葉なく、立ち尽くす。

 

「……」

「……あの、入るなら早くしていただけませんか? こっちは手が塞がっているんですよ」

「ああ……」

 

 何故だろう、どうしてか気後れする気持ちがある。

 後ろめたさではない。自分も彼女もすべきことをやったまでだ。

 厭悪の感情ではない。彼女に抱く印象は真逆のものだ。

 心当たりはなかった。考えてもそれらしい理由は見当たらず。

 

 気は張り詰め、心臓の音だけが嫌にくっきりとして。

 呼吸は浅く、肉体の感覚から現実感がなくなっていく。

 これは。

 

(緊張、しているのか)

 

 そうとしか思えない。万が一にも失敗してはならないことに向き合うような、そんな感覚。

 今までの自分とは無縁だったはずのもの。

 それは何故かと自問すれば、きっと自棄にも近い思考が故なのだろうと思う。

 

 すべきことをすればいい。与えられた役割を全うすればいい。

 だから人との関わりにおいて、好かれようが嫌われようがどうでもいいのだと。

 捨て鉢にも近い心持ちは、だから対人関係において緊張を生むことはなかった。

 

 だとすれば、今は。

 

「……まさかね」

 

 深く呼吸をひとつ。それだけで心のつかえは取れた。

 感覚を取り戻した指先がノブを掴み、ゆっくりと回す。

 

 そして。

 オフィスチェアに座る彼女の姿を認め、"やはり"と感じ入る。

 

 不思議な気分だった。

 語り合いたいことも、伝えたいと考えていたことも沢山あったはずなのに、少しも言葉が出てこない。なのに心は満たされて、この一瞬だけで満足してしまいそうになる。

 

 向き合って、視線が交わされて、言葉もなく見つめ合うだけの時間が過ぎて。

 ただそれだけでも良かったけれど。新しく始めるためにゆっくりと言葉を選び出す。

 

「……こういう場合、初めましてと言うのが正しいのだろうか」

「どうなのかな。でも少なくとも、私はちゃんと挨拶したいって思ってたの」

 

 小さく笑って、柔らかな眼差しを向けて。

 思いを込めて名前を伝えたいのだと、他ならぬ彼女の瞳がそう語っていた。

 

「初めまして。ゲヘナ風紀委員長、空崎ヒナよ。

 疎まれることも多いけれど、人と人とを繋げるために精一杯頑張っているわ」

「丁寧にありがとう。僕は───」

 

 そして。

 言葉と共に差し伸べた手を、彼女は同じく握り返してくれた。

 互いの名を改めて知りながら、弾けたように屈託のない笑顔を浮かべて。

 

「──────」

 

 彼女の背の向こう側には、かつてと変わらない青空がある。

 風に流れる雲はやがて、ゲヘナ自治区の外縁部へ、そして更に多く人の住む居住区にまで進んでいくのだろう。

 あの場所で今も生きている、かつて夢を託した夜永カノンの見上げる地まで。きっと。

 

 

 




遅くなり申し訳ありません。
次話ではいい加減アリウス編に行きたいと思います。
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