碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
早瀬ユウカの思考に迷いはない。
朝のメニューを迷うということはなかった。焼いたベーコンにスクランブルエッグ、トーストにサラダ、そしてコーヒー。奇を衒うことのない、王道のモーニングメニューだ。ベーコンも卵も昨日のうちに買い置きしておいた分がまだ冷蔵庫にあるはずだし、野菜はここに来る途中にミレニアムの朝市で新鮮なものを買ってある。そしてコーヒー、これは外せない。何せ先生の好物であるのだから、半ば自分の我儘でこうしている以上はご褒美として付け加えてもバチは当たらないだろう。
早瀬ユウカの行動に無駄はない。
リニアから降りて時間を確認。完璧に予定通りだ。シャーレのオフィスはDUの外殻地区にあるが、セントラルステーションからさほど距離は離れていない。これならばシャーレに着いてから業務開始までに余裕を持って準備を終えることができるだろう。
早瀬ユウカの心に逸りはない。
なにせここ一週間ほどずっと繰り返してきたことなのだ。今更緊張するとか気恥ずかしいとか、そんな感情を抱くはずもない。完璧に仕上げられるかなとか、美味しいと言ってもらえるかしらとか、今日こそ完食させてやるとか色々考えて頭がぐるぐるしてはいたが、そんなことだって慣れたものだ。だって毎日こうしているのだから。うん、間違いない。
朝の冷ややかな空気の中で、DU特有の超高層ビルディング群の麓を少女は歩く。通勤通学で大混雑する様相を呈する時間帯には未だ早く、すんなりと大通りを抜けてやがて目当ての建物が見えると、無意識にかユウカの表情は緩み小さな笑みが浮かんだ。
心は軽く、けれど足取りは毅然と。エントランスを抜け、教室や図書館といった設備の並んだ廊下を進み、程なく見慣れた扉の前へ。ユウカは一度立ち止まり、ふぅ、と深呼吸。そして意を決したように扉に指をかけ、うるさくならない程度に勢いよく開け放って。
「先生、ちょっとお時間いただきます!」
そうして、今日もシャーレの朝が始まるのだった。
♰♰♰♰♰♰♰
話は一週間ほど前に遡る。
「先生! これは一体どういうことですか!」
シャーレのオフィスに突如として大声が響いた。
そこに居合わせたのは都合三人。響いた声にやや困惑の表情を浮かべるギーと、我関せずといった様子で机に向かうアツコと、シャーレの支出管理表を片手に眉を吊り上げる少女だった。
少女───早瀬ユウカはギーの座る机に手をつき、ぐいと顔を寄せる。先程の声は彼女が上げたものだった。大声、しかし怒号の響きはない。あるのは驚きと心配、あとは呆れのような感情か。信じられないものを見た、といった風情のユウカはギーと顔を付き合わせて。
「先生、これは一体、どういう、ことですか」
繰り返し念を押すようなユウカの言葉。
彼女の口元が少し引き攣っているように見えるのは気のせいではあるまい。
その異様な剣幕に、ギーは少したじろぎながら。
「……すまない、書類に何か不備でもあっただろうか」
「いえ、そこは問題ないです。書式も計算もしっかりしてあってとても読みやすく……って、そうじゃありません!」
ころころと表情の変わる子だった。
未だ叱責の理由を分からないでいるギーに、ユウカは手に持った書類を突き付けて。
「先生がシャーレに赴任してからの支出を見させてもらいました。
あまりにも───無駄がなさすぎます!」
「……それは、良いことでは?」
「清貧は美徳かもしれませんが過ぎれば毒です! 特に食費!」
だん、と机に書類が置かれる。これでも叩きつけはしないあたり、彼女の性格が伺えた。
「なんですかこの少なさは! ダイエット中でもこんな無茶なカロリー制限なんてしませんよ!
先生、確かお医者さんから栄養指導を受けていませんでしたか!?」
「それは……まあ……」
事実である。シャーレに赴任したその日、連邦生徒会室で倒れたギーは極度の栄養失調を指摘され医師にきつく言い含められていた。他の人間ならともかく、まさにその瞬間を目撃したユウカに隠し通すことはできないだろう。
「ちなみに先生、昨日は何を食べましたか?」
「コーヒーと栄養補助ゼリーを……」
「今朝は?」
「……何も」
「…………はぁ~~~~~~っ」
長い、長い溜息である。
あまりの惨状に最初の怒りもどこへやら、ユウカは毒気を抜かれたようにギーを見る。
「先生がお忙しいのは分かります。けど食生活を疎かにしては元も子もありませんよ。
またあの時みたいに倒れたいんですか?」
ぐうの音も出なかった。
ユウカの言葉は何もかもが正しかった。というか、ギーの行いがあまりにも無精すぎた。
「全く、こんなことならアツコちゃんからも何か言って……って、あれ?」
ユウカは横合いのアツコに向き直り、そこで何かに気付いたようにはっとする。
そう、これはギー個人の家計簿ではなくシャーレの支出管理表に書かれた数字であり。
つまり、ギーとアツコの2人分の食費なのだ。
「……ね、ねえアツコちゃん。アツコちゃんは普段何食べてるの?」
「え?」
呼ばれ、アツコは振り返る。黒い仮面により表情は伺えないが、突然のことにきょとんとしているだろうことは察せられた。
「何って、これ……」
がさごそと懐から取り出したものを見て、ユウカは今度こそ表情を凍り付かせた。
アツコが差し出したのは、食べ物でも何でもなく、サプリ栄養剤の箱であった。
「これ、凄く便利なんだ。一錠飲むだけで元気爆発、って書いてある通り」
「…………」
「僕がいくら言っても聞かなくてね。ユウカ、君からも言ってやってくれないか。成長期の子供がこんな食生活ではあまりにも」
「2人とも! そこに!! 直りなさい!!!」
直ることになった。
ギーとアツコは仲良く正座し、そんな2人に向かってユウカの説教は滾々と続くのであった。
「PFCバランスをご存じですか? 知らないなら今ここで完璧に覚えてください。
タンパク質、脂質、炭水化物の頭文字を取った言葉です。健康な体を維持するには食生活を根本的に改めなければなりません。極端な話体に良い食べ物なんてものはありません、あるのは体に良い食事です。どの栄養素でどれくらいのカロリーを取るのか。人体もまた様々な物質で成り立っている以上、健康も計算によって算出し、決して栄養失調などなることなく……」
「極論……」
「はいそこ静かにっ」
ぼそっと呟くアツコに厳しい叱責が飛ぶ。
そうして呆れ果てたようにもう一度大きくため息を吐き、全く仕方ないといった風情で。
「ギー先生。先生がいらしたあの日、倒れた先生を見て私たちがどういう気持ちだったか分かりますか?」
「……すまない。その件については本当に」
「そういうことを言ってるんじゃないです」
ギーの謝罪をぴしゃりと遮り、ユウカは続ける。
「私たちがどうこうとか、他の人がどうこうという前に、まずはご自身の体を労わってください。
本当に最低限の、大人として果たすべき責務です。そして私からのお願いです」
「言われちゃったね、先生」
「言っておくけどあなたもだからねアツコちゃん」
言ってユウカはぐぬぬと悩むそぶりを見せて。
「けど先生がお忙しいのは確かだし、アツコちゃんに無理強いするのも駄目だし……
やっぱりここは私が……」
意を決して───
ううん、既に意は決してある。
あとは口にするだけだった。
「先生。よろしければ、私が色々手伝いましょうか。
家事には自信があります。料理もまた計算と組み立てである以上、私にできない道理はありません」
「それは……」
「どうでしょうか?」
ギーは少しだけ返答に窮し、数瞬の時間を要してから。
「……助かる。お願いしてもいいかな、ユウカ」
そういうことになった。
◆
それが今から一週間前の話。
今現在、食堂に移動したギーたちの目の前に広がるのは、テーブルに並ぶ3人分の朝食だった。
焼いたベーコンにスクランブルエッグ、程よく焦げ目のついたトーストにハリのあるサラダ。
ギーの前にはカップに注がれたコーヒーがあった。アツコの分はコーヒーではなく、代わりに牛乳の注がれたカップがある。苦くて嫌、というのがアツコの言だった。最初聞いた時には、まあその通りだろうな、と苦笑したものだった。何しろ自分は砂糖もミルクも常備していなかったのだから、無糖のコーヒーなど子供にとっては不味いばかりの代物だろう。かく言う自分も、コーヒーの味も苦みも分かっているわけではないのだが。
ありふれた食卓の風景。鼻腔に漂ってくる食事の香り、どうだと言わんばかりのユウカの顔。
この一週間で見慣れてしまった光景だった。
「おはようございます先生。アツコちゃんもおはよう。
もう準備はできてますので、どうぞ食べてください」
「おはよう。ありがとう、ユウカ」
食べる、とは口にしない。ギーはできないことを口にはしない。
彼なりに努力はしているけれど。コーヒーと卵の炒め物を少し、それがぎりぎりの妥協点だった。脳内器官の発達と引き換えに食欲を失い、固形物をほとんど口にしない十年を過ごした結果、今のギーは普通の食事というものを極端に受け付けなくなっている。
それでも、少し前よりは遥かにマシだった。
使用期限の切れた栄養剤のアンプルを打ち込み、いよいよ餓死するかという瀬戸際になってようやく、アティに無理やり食べ物を突っ込まれて死だけは避けていた頃よりは、遥かに。
理由は分かる。キーアと、そしてユウカのおかげだった。
彼女たちが不甲斐ないギーにめげることなく心を砕いてくれたおかげで、人らしい食事を少しでもとれるようになっていた。それはギーも十分理解していた。
だからこそ、せっかく作ってくれた料理を残してしまうのは、ギーとしても心が痛かった。
ギーとしてはアツコの食生活を改善できればそれでよかったのだが、ユウカは頑として譲ることなく、ギーの分も作り続けていた。感謝している、しているのだが……彼女の好意に応えられない自分というものが、どうにも嫌になってくる。
「うーん、今日も快晴。動くにはもってこいの日ですね」
窓から差し込む陽光に、ユウカは僅かに目を細める。
確かに、と思う。この空は変わらない。ギーが訪れた時からずっと。
空の色は青色で、かつてキーアが望んだ通りに。
「ん……先生、ユウカ、食べないの?」
そんな2人をしり目に。
アツコはマイペースにパクパクと食いついていた。栄養補給の手軽さと味の軽視を説いていた一週間前の姿など微塵も見えない、成長期の食いしん坊の姿がそこにはある。
ちなみに、食事中である現在も彼女はマスクを脱いでいない。
そういう状況も想定されているのか、マスクの口部分は開閉式になっているらしく、外部から物を挿入できる丸口の機構が備え付けられているようだった。なので素顔はおろか、口元の肌色すら今もって見えない。流石に行儀が悪いとギーもユウカも窘めたのだが、これに関しては馬耳東風といった様子だった。外したくない理由があるのか、そもそも外せないのかは分からないが。
「いや、僕も頂くよ……アツコ、ベーコンとサラダ食べるかい?」
「うん、もらうね。けど野菜は苦手……」
「好き嫌いは良くない」
「先生の場合はそもそも食べてくれないのがよろしくないんですけどね」
仕方ないなぁ、と言わんばかりの表情でこちらを見つめるユウカ。その姿は手のかかる子供をかわいがる母親のようにも見えて、アツコと1歳違いの少女とは思えなかった。
その庇護の対象に、まさか自分も含まれてはいないだろうな、ともギーは思うが。
「すまない。けど美味しいと思う。君には本当に感謝している」
「うん、最初はあんなに手間取ってたのに、ユウカはすごい」
「え、いや、あれはその……し、仕方ないじゃないですか!」
あたふたと手を振り、誤魔化すようにユウカ。
アツコの言葉通り、確かに最初の一日目は凄いことになっていた。
何せ「料理は計算!」と張り切っていたユウカだったが、本当に緻密な計算のもとに実行しようとしていたのだ。物理・科学的な無数の変化を生じさせる工程、というのはまあ確かにその通りかもしれないが、「水温の違いで生じる密度の誤差が……」とか「レシピには三温糖と書かれているのに白砂糖しかありません!」とか「60度で2分ほどゆでるとあるのに50度なんですけど、これは一体何秒ゆでれば……!?」と非常に細かい心配事を繰り返してしまった結果、調理の完了までに3時間を要したのだった。ギーたちにしてみれば微笑ましい努力だったが、ユウカにとっては恥ずかしい失敗と受け取ってしまったらしく、あまり触れてほしくないようだった。
「と、ところで先生。今日の予定はどうなっていますか?」
「他の自治区に出かける予定はないかな。寄せられた嘆願書類と、連邦生徒会で持て余した事務処理、あとはシャーレ始動で残った処理作業をこなそうと思う」
「そうですか。目標と方向性の策定、とても良いと思います」
現実とは世知辛いもので、お役所の書類仕事というのはキリがないほどに積もっていく。
そうした作業はギーなどよりも適任が他にいそうに思えるのだが、仕事なのだから仕方ない。
あとは、そう。
このもくもくとトーストを口に運ぶアツコに、個人的な授業をするくらいか。
「ではここで元気をつけて、今日も一日がんばっていきましょう」
そう言って、ユウカもまた食事を口にする。
シャーレにおける一日の始まり、朝の一幕はこうして過ぎていくのだった。
♰♰♰♰♰♰♰
午後。
ミレニアム自治区へ戻るユウカを見送り、書類仕事もひと段落を迎えた頃。
オフィスから居住区の菜園へ立ち寄ったギーは、そこでうずくまるアツコを見つけた。
野外のテラスに設置された、小さな家庭菜園場。
料理に使う野菜や果物を育てる場所という触れ込みではあったが。
今現在では、そこはアツコの花壇として使われていた。
種を植えたばかりで、まだ何も芽吹いてはいないけれど。
秤アツコ。
不思議な少女だった。所属する自治区も、来歴も、彼女は何も語ろうとしない。
彼女をシャーレに託した依頼文もまた、差出人は不明のままだった。連邦生徒会のセントラルネットワークにも該当データはなし。ユウカの伝手を頼り、ヴェリタスなる集団に調査を依頼したギーだったが、数日経って帰ってきた結果は「収穫なし」。何も分からないということだけが分かった。
一応、逆探知のような追跡の結果トリニティ自治区を最後に痕跡が途切れているという話ではあったが。DUに隣接するトリニティで終わっているとなると、アツコがやってきた大まかな方向くらいしか見当がつかない。結局は何も分からないまま、ギーは彼女をシャーレに在籍させている。
「あ、先生……」
近づいてくるギーに気付いて、アツコは小さく声を上げる。
目線はずっと、花壇を向いたまま。
種の植えられた、まだ何も咲いていない、茶色い土の上に。
「芽、なかなか出てこないね」
「成長の早いものでも一週間はかかるらしいからね、ここには何の花を?」
「……分からない」
少し間があって、アツコは答える。
「ただの種。野放図に生えてる雑草。どれも名前があるのかもしれないけど、私は知らない」
卑下するでもなく、本当に何の感情の色もないまま、アツコは言う。
彼女は何も知らない。
ここ数日を共に過ごして、ギーが知った数少ないアツコに関することは、それだった。彼女は何も知らない。都市のことも、花のことも、言葉、数字、本、社会、音楽、料理、他にも他にも……彼女は本当に、このキヴォトスにおける世俗と全く関わってこなかったのではないかと思えるほどに、何も知らないのだった。
それは、キヴォトスの外からやってきたギーと同じように。
世界から放り出された子。
そんな印象を、ギーが抱いてしまうほどに。
「でもね、ここで地に根を下ろせたらいいなって……そう思ったんだ」
だが、それでも分かることがひとつ。
「……ああ、そうだね」
秤アツコ。
彼女はきっと、優しい子だ。
「ところで先生、何しに来たの? 私を探しに?」
「いや、大した用事ではないのだけど」
と、ギーは外套の内から何かを取り出す。
それは手のひらに収まるくらいの電子カードだった。何も銘打たれていない無地のカード。アツコは少し首を傾げて。
「これは?」
「君の所属を示す個人カードだ。遅くなってしまったけど」
現在、アツコの扱いは宙に浮いたようなものだった。元の所属も分からず、暫定的にシャーレに籍を置いている状態。だから所謂正式な所属というものが定められていない。
キヴォトスにおいて、それは戸籍がないも同然の有様だ。
「それを君に渡した携帯端末に読み込めば、君の所属はシャーレとなる。
あくまで在籍期間が終われば元の所属自治区に名義が戻る、暫定的なものだが」
「……ごめんなさい、でもこれは」
「今じゃなくてもいいさ」
え、とアツコ。
ギーは努めて笑みを浮かべながら。
「君が僕を信用した時、ここにいたいと思ってくれた時、認証してくれたらそれでいい。
何を強制することもない。全ては君が決めていい」
だからこれは君が持っていてほしい、と言葉を締めくくる。
アツコは知らずカードを握る指に力を込めて。
「……うん、ありがとう」
その時。
マスクに塞がれて顔は見えず、確かめる術はないのだけど。
アツコが笑ってくれた、そんなふうにギーは思った。
◆
アツコ。不思議な子。彼女は何も語ろうとはしない。
それでもいいと、ギーは思う。
彼女が何者であろうとも、その果てに何が待とうとも。
ひとりの生徒として、彼女を預かる大人として。
ギーはただ、彼女の行く末を見守り、導くだけなのだから。
これでプロローグは終わりです。次からはアビドス編に移ります