碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
4-1 誰もが生まれ、死んでいく
お前は《ロイヤルブラッド》だと誰かが言った。
それが、物心がついて最初に聞いた言葉だった。
アリウス自治区中央区、
幼い少女は世の理を知るより先に押し付けられた単語の羅列を、無言で受け入れた。
自分が役割を得た、という事実にさしたる感情はなく。
自分の役割が、姫という名の生贄に過ぎぬ事実にさえ心は動かず。
私は殺されるために生まれたんだな、と。
そう思っただけだった。
幼い頃の思い出はない。
覚えていないのではない。記憶はある、経験もある。無いのは思い出だけだ。
かつての自治区統治者の血筋としてのみ期待されていた彼女には、人としての運用は想定されていなかった。
外界と隔離された環境での生活は、来る日も来る日も同じことの繰り返しだった。
自治区の最奥に隔離された自室で毎日決まった時間に目を覚まし、決められた通りに食事をして祭儀場へ向かう。部屋にはマス目状のタイルが敷き詰められ、それだけは豪奢な椅子が備え付けられていた。あとは簡素なベッドと、窓ひとつない部屋。それが、秤アツコという少女に与えられた全てだった。
祭儀場では大人たちが何かをして、アツコには理解できない何事かを延々と繰り返し口にしていた。
数時間、時には丸一日以上にも及ぶ説法だか祝詞だかは苦痛や不快感を伴うこともあったが、それよりも何よりも、ただ座って話にもならない雑音を聞くだけの時間が、退屈で仕方なかった。
そんな日々の唯一の楽しみは、三日に一度の戦闘訓練だった。訓練が行われる演習場はアツコが住まう隔離施設とは別の場所にあって、その日になると厳重に武装した大人たちが迎えに来た。言われるままに戦闘用の服に着替え、小柄な体躯に不釣り合いな銃火器を手に、窓を目隠しされた護送車に揺られ、辿り着くのはそればかりは立派な建物。無言で促され車を降り、完全武装の教官たちに囲まれ、複雑に曲がりくねった通路を抜けて演習場へ向かう。
その途中、時間にしてほんの十秒ほど。
演習場へ繋がる渡り廊下の窓から「空」を見上げるのが、少女のたった一つの楽しみだった。
アリウスの空はいつも暗い。
空は常に分厚い灰色雲に覆われて、その向こうにあるという太陽を見たことは一度もなかった。
暗い空。
飛ぶ鳥さえ何処にもいない。その時のアツコは、鳥という単語すら知らなかった。
世界はどこまでも暗く、灰色で、重く圧し掛かる檻でしかなかった。
見上げる空にすら、逃げ場所はなかった。
世界とはそういうものなのだと。
誰に諭されるまでもなく、少女は何となしに悟っていた。
それから彼女を置く支配者は何度も替わり、しかし少女の扱いは一度も変わることはなかった。
大切に、大切に、人形のように飾られ、囚われる日々。
いつの日か、生贄となるその時まで。
秤アツコは、大切に囚われ続ける。
その全てを少女は正しく認識していた。
十分に理解した上で、受け入れていた。
澱んだ空も。
花の咲かぬ地面も。
息苦しい世界も。
自分自身の生すらも。
すべて。そう、すべて。
あらゆることに意味などないと、それだけは教えられていたから。
♰♰♰♰♰♰♰
「わっ」
自動開閉する扉を抜けてすぐ、それを見たアツコは一番手前の花壇へしゃがみ込む。
土がむき出しの地面に手を伸ばし、百日草の小さな薄桃色の花弁を指先でつつく。
「あ、こっちも咲いてる……」
しゃがみ込んだまま隣の花壇へ移り、マリーゴールドの黄色い花弁に顔を寄せる。
夢を見るような声音で、良い匂い、と呟き、周囲に咲き誇る色とりどりの花を見渡して。
「そっか。もうそんな季節なんだ」
春が終わり、夏が顔を見せ始めた今日この頃。
初夏の花々が咲き始めたのを見て、自分がシャーレにやってきてそれだけの日にちが過ぎたことを、アツコは言葉なく実感した。
◆
どこか白々しい陽光が差し込む教室には、一切の喧噪はなく、カーテンを揺らすそよ風と陽射しに伴って伸びる色濃い影だけがその存在を主張していた。
少し前まで、この教室にはざわついた空気が充満していた。そこかしこで話の輪が生まれ、起床してきたヘルメット団の面々が自分の机に鞄を置いてその輪に新たに加わり、あるいは真面目に授業の準備をし、あるいは終わらせていない宿題を写させてもらおうと奔走し、あるいはひとり自分の世界を作る。
私は元々そういったざわつきとは無縁だったけど、決して嫌いではなかった。ニコやラブも含めて仲の良い子は結構いたし、時には何かの話で盛り上がりもした。苦手な相手はいなかったし、きっと楽しかったのだと思う。
「……」
けれど、それだけだ。
私と彼女たちの間には壁があった。
そう思っていたのは、多分、私だけだと思うけど。
ガラスのような、見えない壁があった。
顔を見ることはできる。声を聞くこともできる。でも、手を伸ばしても触れない。そんな壁。
それは現実には存在しなくて、私の心の中にだけあった境界線だ。
文字通り、住む世界が違うのだという、そういう認識。
誰が悪いわけではない。詰るつもりもない。
ただ、事実としてそういうものだったのだろう。
そんな益体もつかないことを考えながら、窓の外を見ようとして。
「───何を黄昏ているのかしら?」
「わぷっ」
その背に突然重みが圧し掛かった。
「どうしたのアツコちゃん、なんだか元気がないみたいだけど」
「……ユウカ」
後ろからぎゅっと抱きしめられ、圧迫感に思わず声が出てしまう。
その相手が誰かなど、見るまでもなく分かった。
「もしかして疲れが溜まってる? 確か先生の出張にも付いて行ってたものね。
駄目よアツコちゃん、疲労はしっかり抜かないと。睡眠不足は女の子の天敵なんだから」
「ユウカがそれ言う?」
本気でこちらを心配してくれるユウカに、敢えて茶化すような言葉を返す。
深刻には受け取ってくれないように、努めて言葉を選ぶ。
ユウカは私がシャーレに来た当初から顔を出してくれた人だ。
最初は先生の仕事がどうこうという話をしていたのだけど、なんと私たちの生活を手助けしてくれるようになったのだ。
外ではそういうおせっかいが普通なのかな? と思ったりもしたけど。でも色んな人を見た限り、多分ユウカが度を越してお人よしなだけだったんだなって思う。
それからユウカはちょくちょくここへ来てくれて、今ではすっかり常連さんだ。
口では小言が多いけど、ユウカはとても面倒見が良い。先生もユウカが相手だとたじたじになるみたい。
そんな彼女は、実は私のガーデニングを手伝ってくれたりもする。
アビドスやゲヘナに行った時、花壇の世話をしてくれたのは誰あろうユウカなのでした。
「私はちゃんとスケジュールを管理してるから大丈夫なの。
まあ今月は予算案の締め切りもあるし、各部の備品発注の突き合わせもあるけど……って、そんなこと言われてもアツコちゃん困っちゃうか」
取り止めのない言葉に、私は曖昧に笑って答える。
笑ったところで、マスクに遮られて私の表情なんて誰にも見えないのだけど。
「……な~んか隠してるなぁ」
「そんなことないと思うよ」
「間髪入れないあたりが逆に怪しいわね。さ、悪いことは言わないからきりきり吐きなさい」
「やーめーてー」
心配と好奇心が3:7くらいの割合をした目でずいずい来られ、ついでに脇腹をくすぐられて頓狂な声を出してしまう。
何の他愛もないじゃれ合い。
以前なら、こんなことができるなんて思いもしなかった。
こんなことで笑えるようになるなんて、想像さえできなかった。
「……ねえ、本当に大丈夫なの? 悩みがあるなら、私で良ければ聞くけど」
そして、ユウカはやけに鋭い。
おちゃらけた空気は鳴りを潜めて。ユウカは本当に心配そうな声で尋ねてくれる。
「んー、本当に大丈夫だよ? ユウカは私に悩みがあるように見える?」
「変に自虐してくるわねこの子……まあそれくらい言えるようなら心配はいらないか」
「ふふーん」
「偉ぶるんじゃありません」
これでいい。
私は図太くて、マイペースで、なんだかぼんやりまったり生きている。
そういうふうに思ってもらう。勘付かれても、もうどうしようもないのだから。
「……アツコちゃん、そろそろシャーレを離れるって話だったし。それでちょっと憂鬱になってるんじゃないかって思ってたのよね」
「別に、そんな大した話じゃないよ。自分の自治区に戻っても、またユウカみたいに遊びに来ればいいんだし」
嘘だ。アリウスに戻れば、もう二度とここへは来れない。
そう理解している。だが言わない。悟らせもしない。
百日間の自由。それを承知した上で、私はここに来たのだから。
今更それを翻しはしない。私は、たった百日の思い出を抱えて人生に幕を引く。
そうだと決めている。《マダム》のためではなく、私のためでもなく。
今もアリウスの廃墟にいる、友達のために。
「ちょっと、私は遊びに来てるわけじゃありません!
それもこれも、アツコちゃんと先生が揃いも揃って不摂生な生活を続けるから───!」
「わー、ユウカが怒ったー」
今にも湯気が噴き出しそうな顔になったユウカから逃れ、私は教室から駆け出す。
追いかけてくるユウカに、仮面の下で笑顔を浮かべながら。
この一幕も楽しい思い出として抱えるために、私は今を楽しむ。
遠からず訪れる、お別れの時間に後悔しないように。
♰♰♰♰♰♰♰
昼は過ぎ、やがて夕日も落ちて、夜が訪れる。シャーレには私と先生だけが残っている。
先生は口数が少ない。普段からそうだけど、あまり積極的に関わってこようとはしない。
そこだけを見ると、アリウスで私の周りにいた大人とあんまり変わらない気もする。彼らは私と目を合わせることはなかったし、会話だって必要最小限だった。私のことなんて、死ななければ後はどうでもいいって感じで。護衛や指導で彼らが傍にいる時、私は何故か呼吸が上手くできなくて、息が苦しくなったことを思い出す。地面も空も建物もくすんでいて、私はずっと灰色の檻に入れられていたのだと思う。
最近は、そういう記憶もなんだか遠く感じるようになった。
先生の傍は、息がしやすい。
「……あ、まだ起きてる」
もうすぐ日付が変わろうかという頃。
ふと覗いた執務室で、先生はずっとキーボードを叩いていた。
私はまだよく分からないけれど、シャーレというのはとにかく仕事が多いらしい。
在籍してる生徒は私だけだし、あんまり他の自治区に行くこともないのだけど。事務作業だけで物凄い量なんだとか。
その関係で連邦生徒会ってところから時折人が来ることがあるし、先生が出向くこともある。
だから日中は殆ど仕事にかかりきりで、なのに夜になってもこうだと流石に少し心配になる。
あと単純に構ってもらえないのも困る。今までは授業とかもあったけど、ラブたちがいなくなってからはその頻度もめっきり減った。まあ、二人でする個人授業はむしろ増えたから、そこはいいんだけどね。
「……アツコか」
「私以外誰もいないでしょ、先生?」
「たまにミリアが……いや、何でもない」
聞いたことのない名前だった。ふと首を傾げてしまうけれど、まあいいや。
「まだお仕事してるの? あんまり根を詰めすぎちゃダメだよ」
「もうすぐ終わるよ。君もそろそろ眠ったほうがいい」
「や」
「……」
「知ってるでしょ先生。私、明日までなんだよ」
何が、とは言わない。
言わずとも分かっているし、言ったところで意味などないから。
時計の針は11時を示している。あと1時間もしないうちに、明日になる。
その日が、私がここにいる最後の日だ。
そんなことは分かり切っていた。百日も前から。ここに来た、あの日から。
「だからね先生、今は」
「そうだな。ならこの作業はここで終わりにしよう」
あれ?
なんだろう。今日の先生、やけに物分かりが良い。
いつもならもっと融通が利かなかったり、変に正論ばかり言ってくるのに。
そう、先生はひどい人だ。妙に頑固で譲らないし、からかっても照れてさえくれない。
なのに、今日だけはこんなにあっさりと。
やっぱり、あれなのかな?
「先生。もしかして気を遣ってくれてる?」
「……あまりそういうことは言うものじゃない」
「そうかな?」
「そうだよ」
先生は、少しだけ苦みばしった顔をして。
「子供に『お前は大人だ』と言われるのは、少し堪える」
「気にしすぎだと思うけどな」
「ともかく。君こそ気を遣いすぎだ。
……いいかい。大人が何かを譲った時は、裏を勘繰るのではなく『ありがとう』と喜んでおくものだ。それが子供の正しい権利なのだからね」
そう言われて、納得できる部分はあったけど、でもね。
先生は知っているのだろうか。
「……子供だって、大人に『お前は子供だ』って言われるのは嫌なんだよ」
「アツコ?」
「知りません。ええ、もう知りませんとも」
なんてむくれてみたところで、話はちっとも進まない。
背けた顔をちらりと戻して、先生と向き合う。
先生がそんなに言うのだ。少しの我儘くらいは言ってもいいだろう。
「じゃあさ、ちょっと外歩こうよ。今から、ふたりっきりで」
そういうことになった。