碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
───聞こえるか。空の果てより響く、この音が。
───聞こえるか。地の奥底にて呻く、この音が。
響き───
それは終焉を知らせる喇叭の音色だった。
原初の調べに近しい音だ。歓喜の響きだ。
時の終わりを告げる音だ。裁定の響きだ。
音───
響き。
呻き。
喇叭の音。
鳴り響くは、異形の喇叭。
呻き続ける、天使の喇叭。
この世ならざる音響をもたらす、黙示録の天使。
長らく、誰の目にも触れたことのない異形の喇叭。
赫き空に浮かぶ天の御使い。誰がこれを見るだろう。
何をも知らず、都市生活を謳歌する100万の学生たちか。
総てを嗤い、何事かを企む《結社》の魔人たちか。
それとも、視界の端で語り掛ける空色の少女か。
あるいは、既に都市を去ってしまった《彼》であるのか。
「───祝福せよ」
どれも違う。
己が狂気を叫ぶ女は、既に、《ゲマトリア》の名を失っている。
ド・マリニーの時計を気取り。
世界の果てのフルートを気取り。
拡大変容を成し、黄金螺旋の彼方を目指すその瞳は、狂気の色を見せて。
「我が生贄の稀血を以て。クロイツ式《回路》の起動を開始する」
数式領域展開。
数式領域構築。
数式領域顕現。
数式領域の拡大を開始。
都市テクスチャへの固着を開始。
《黄金》の資格を提示せよ。
お前の願いは果たされる。
「我が願いは螺旋の踏破。
我が想いは色彩の凌駕。
今や都市の命運は我が手の中にあればこそ。
現在時刻を記録せよ。私の願いは果たされる」
時間だ。
時が、来てしまった。
それは、月より響く時計の音ではなく。
それは、異界より来たる嚮導者でもなく。
チク・タク。
音は、静かに告げる。
チク・タク。
全ては我が糧と嗤いながら。
チク・タク。
終わりの足音。
終わりの喇叭。
己が箱庭の運命を玩弄しながら。
そして。
百日に及ぶ黄金の日々に、ひとつの終わりがやってくる。
♰♰♰♰♰♰♰
夢───
夢のような日々だった。
すべて、夢ならよかったのに。
すべて、夢だと思いたかった。
すべて、夢では、なかったけど。
◆
月のない夜だった。
漆黒だけが広がる街には、張り詰めた氷のような静寂が満ちて。
静かな夜だった。
誰の気配もない。喧噪もない。
眠らぬ都市の只中にあって、見ている世界の全てに自分たちしかいないようにさえ思えて。
ゆっくりと歩く。足取りは軽い。眠気も疲れもなかった。日中の暖かさとは裏腹の冷たさが残る空気が季節の移ろいを感じさせる。肌に触れる冷気の中に仄かに見える僅かな暖かさ。
私がシャーレにやってきてから、もうそんなに経ったのだと。
そう感じさせる。いつもは努めて考えてこなかったこと。今はもう、否応なく考えなければならないこと。
「誰もいないね」
小さく言って、歩を進めて。
返事を期待しているわけではなかった。
何の意味もない。単なる音の羅列だった。
「どうかな。なんだかロマンチックな感じがしない?
まるで世界が私たちだけになったみたい」
「……随分と詩的な喩えができるようになったようで何よりだよ」
「先生のおかげだね」
皮肉とも呆れともつかない返答に、しかし気を悪くなんてしない。
そう思ったのは事実だし。
そう考えるようになれたのが先生のおかげなのも事実だからだ。
「うん、本当に先生のおかげ。色んなことを教えてくれて、色んなものを見せてくれた」
「……」
「本当にたくさんのことがあったよね。あ、ほら。見て」
ギーの袖を引っ張って、アツコは向こうを指差す。
閑静な都市の中にあって、ひっそりと佇む市民公園。
街灯の光に照らされて、やはり今は誰もいない緑の園。
深夜特有の静謐に包まれた無人の公演。それを眺めながら。
「大きな騒ぎが起きて、ニコが突撃しちゃったんだよね。あの時、本当にビックリしたな」
「……そんなこともあったね。無事で良かった」
「ホントにね。ニコ、普段はあんなにしっかりしてるのに。要らない心配かけちゃダメなんだよ」
そう言いながらギーのほうを見遣る。彼はバツが悪そうにしていた。
「ニコ、今はどこにいるんだろうね」
「……」
「また会いたいな。また、会いたかったな」
呟くように絞り出されたその言葉は、夜闇に溶けるようにして消えた。
その言葉に含まれる真意など、誰に伝えるつもりもなかった。
「ラブたちも元気にしてるかな。アビドスで頑張ってるって、モモトークで色々喋ってるけど」
「そうか……そういうアプリもあったんだな」
「うん。先生はいつも通りだらしないよって写真つきで送ってるよ」
「……そうか」
隠し撮りした先生の私生活はグループで共有している。これ、実は結構人気だったりするのだ。
決してバカにしたりとかじゃないのだけど。なんだかんだ共通の話題だし、ラブみたいに心配している子もたくさんいるし、単純に先生に好意を持っている子も珍しくない。ちなみにグループチャットはもちろん対策委員会の面々も入っていて、彼女たちからの感想なりリクエストもあったりする。
とまあ、それはともかくとして。
「みんなあっちでも頑張ってるって。先生とも色々話したいことがあるから顔を出せって。
というか直接話したいからモモトーク始めて欲しいって言ってるよ」
「……善処するよ」
「それ、前にも何回か言ってるよね」
彼はいつもそうだ。
必要以上に関わることを避けている。相談されれば話は聞くけど、深いところに踏み込むことは絶対にしない。
それは誰に対しても同じことで、それはみんなとっくの昔に気付いていた。
でもさ。
一緒に暮らしてる、なんて言ったら語弊があるかもだけど。実際私とはそうしてるわけで。
そんな私にも似たような対応というのは、正直どうかと思ってしまう。
最初はまあ、私も壁を作っていたな、とは思うけど。
結局今の今まで変わらないままなんて。先生はオトメゴコロを何だと思っているのだろう。
と。難癖と分かっていてもそんな文句を言いたくなる時が、たまにある。
これもやっぱり乙女心というやつなのだろうか。
「友達もたくさんできたな。
ユウカにシロコ、ラブ、アリス、ニコ。他にいっぱい。みんな優しくて、明るくて……
こっちに来る前は、そんなふうになるなんて思いもしなかった」
「……」
「あ。先生、今"こいつ友達いなかったんだな"って思ったでしょ」
「いや、そんなことはないよ」
「嘘つきー。でも私だってあっちに友達はいたんだから。見くびってもらっては困ります」
「君を見くびったことは一度もないさ」
少しだけからかってやろうと思った言葉に、しかし真っすぐ返されてしまって。
ちょっと驚いて、声が途切れて。でも意識せず、くすくすと笑い出す。
笑い声は徐々に大きくなって。足もなんだか軽くなって。ステップを踏んだりなんかして。
胸の中で、冷たい塊が、音を立てて割れたように思えた。
「……最後の夜だね」
そんな言葉が、口を突いて出た。
「本当に、色んなことがあったなぁ」
目を閉じるだけでも、様々な情景が浮かんでは消えていく。
砂漠の街に尚も諦めぬ人たちがいた。
学び舎で共に過ごした日々があった。
飄々とした、掴みどころのない不思議な彼女がいた。
新しい友人と共に、宿敵と教わったはずの都市で見た祭りがあった。
そして。
そして、何より。
「先生と会えるのも、これで最後なんだね」
あなたがいた。
アリウスを出て、最初に出会った人。
あなたがいたから、私はここまで頑張ってこれた。
「……最後というわけでもないだろう。会おうと思えば、また」
「ううん、最後なの。今が最後。もうお別れ」
彼の声を遮って、私は言葉を続ける。
どうして、とは言わない。
その必要はなかった。言っても何の意味もないことだ。
私が外で過ごせる時間は最初から決まっていて。
私が迎える末路だって、最初から決められていた。
私は───
「もう帰るの。私は、私の生まれたところに還る。どうしたってそれは変えられない」
これから、秤アツコは死ぬ。
その現実は、最初から分かりきっていたこと。
「……アツコ」
「だからね、もういいの。私はこのまま行くから、見送りありがとね」
これから、秤アツコは死ぬ。
それは変えることのできない現実。
「そうだ。私が育てた花、一輪挿しにしてみたの。良ければ飾って欲しいな。
本当はたくさんの花束をドライフラワーにしてみたかったんだけど。
いつまでもそのままに、なんて。高望みが過ぎるよね」
これから、秤アツコは死ぬ。
それは先生と出会ったその日から決まっていた、宣言通りのラストシーン。
「だから」
さよなら、
と、言おうとして。
「アツコ」
手を、握られていた。
「……」
決して強い力ではない。
振り払おうと思えば、簡単に突き飛ばせる程度。
でも、彼の手は私をしっかりと掴んでいて。
そこから、動くことができない。
「……先生。痛いよ」
「……」
「らしくないよ先生。いつもならさ、"ああそっかー"みたいな感じでスルーするでしょ。私のやることなんか興味ないみたいな顔してさ。そうやって見送ってくれるって、思ったんだけどなぁ……」
いつもそうだ。
彼は笑わない。怒らない。悲しまない。機嫌が悪い時もなければ、良い時もない。
ずっと凪いでいる。私たちが何をしようと。
彼はいつもそうだ。
だから、今もそうあって欲しかったのに。
「きっと僕は、君の言葉の多くを理解できていないのだろう」
手を掴む彼の顔を、私は見る。
そこにはやっぱり、何の表情もなかった。
笑うでもなく、怒るでもなく、縋るでもなく。
ただ、ただ、透徹した無感の表情しか、そこにはなくて。
代わりに決意があった。
それが何を意味するのか分からない。いや、分かっている。彼がどうしてそれを浮かべるのか。私はきっとわかっているのに。
でも、分かりたくはなかった。
信じたくもなかった。
彼はきっと、私を慮って、助けようとしてくれているんだろう、なんて。
そんな都合の良いことを、自分勝手に期待したくなんかなくて。
でも。
「それでも僕は君に聞きたい。君は、その選択に納得しているのか」
「……」
「生まれ故郷に帰るという君は、これが最後だと言った。
その意図するところを僕は知らない。だが、しかし。
やり残したことは、ないのか」
「……」
「これを最後にして、君に後悔はないのか」
「ないよ」
即答だった。
それ以外に言えることなど何もなかった。
努めて何でもないように。
仮面の下で笑顔を作りながら、言う。
「だから、別にいいの。もうすぐ日付が変わって、最後の日になって。変に後悔しても嫌だから、ここでお別れ。それでいいんだよ、きっと」
言葉が纏まらない。自分が何を言いたいのか、分からない。
だから、後に続く言葉を探す。
これで本当に最後だから。さよならの代わりに残す言葉を探す。
けれど、何も見つからない。
自分が何を言いたいのか、分からない。
───ごめんなさい。
違う。
───ありがとう。
違う。
───バイバイ。
……全然違う。
こんな大事な時なのに、これっぽっちも働いてくれない自分の頭が嫌になる。
言わなきゃいけないことがあるはずなのに、それが何なのか分からない。
「アツコ」
先生が言う。
言葉が続かず、押し黙ってしまった私に代わって。
彼は、やっぱり表情のない顔で。
「君が本心からそれでいいと言うのなら、僕から言うべきことは何もない。
やり残したことがないのであれば、むしろ喜ぶべきことなのだろう。
ここでシャーレを発つというのであれば、僕にはそれを止める権利もない。
百日の受け入れ期間を終えて、僕は君を送り出そう」
けれど。
「それでも僕はこう問おう。
君は、それで、いいのか」
答えるべきことは決まっていた。
いいよと笑って、それで終わりにするべきだった。
だから、私はそうする。
努めて笑顔を浮かべて、何でもない風にして。
大丈夫だよ、と口を開いて。
「……いやだ」
罅割れる音がした。
「いや、だ……」
仮面が罅割れるようにして、ひとしずくの熱い何かがこぼれた。
枯れ果てたと思っていたそれが、頬を伝った。
「わたし、は……」
罅割れが広がるのを恐れるようにして、両手で顔を覆った。
でも仮面は割れてなんかいなくて。何もかも元のままで。
なら、割れているのは。
「私は……」
言葉を呼び水として、涙が流れる。
決して割れない仮面の下で、罅割れたようにして雫がこぼれる。
もう、何も、取り繕えない。
「私は……戻りたくない……!」
叫んだ。
恥も外聞もなく、取り繕うことさえせずに叫ぶ。
立場も使命も投げ捨てて、単なる15歳の秤アツコが叫んだ。
「戻りたくない……やだ、死にたくないよぉ……!」
涙を流すごとに建前は崩れていく。
奥歯は震え、恐怖の箍が外れた。全ての涙が流れた。
「やだよぉ……私、死にたくない……生きていたい……みんなと一緒にいたい、サッちゃんとミサキとヒヨリと、ユウカとラブとアリスと、今日も明日もずっと、ずっと一緒にいたいよ……!」
とうに朽ち果てたはずのものが、心の奥底から滲み出るようだった。
生きていたいという欲望。誰もが持つ、しかし自分には過ぎたものだと諦めていたはずのもの。
「だって私、何もできてない! 楽しいことも嬉しいことも、まだ全然できてない……!
行きたい場所もやりたいこともたくさんあって……みんなと一緒に、先生と一緒に、私は……!
私は、16歳になりかった……! それなのに、どうして……!」
私は何を言ってるんだろう、と思う。
そんなこと言いたかったわけじゃないのに。
泣いて縋って嫌がっても、目の前の現実はどうにもならない。
祈りは届かない。
奇跡は起きない。
神さまなんてどこにもいない。
そんなこと、銃のリロードを覚えるより前に嫌というほど知っているはずなのに。
「分かった」
けれど。
そんな、私たちにとってあまりにも当たり前な世の理さえ、この人はまるで知らないとでも言うように超然としているから。
肩に置かれた手に一瞬だけビクッとして、しかしすぐ震えは収まっていく。
彼の表情は変わらない。その無感も、決意も。
「大丈夫だ、こちらから打てる手はいくつかある。
詳細は君から話を聞いた後になるだろうが……何、幸いなことに今の僕はシャーレの顧問だ。
職権は乱用するためにある。使えるものは全て使っていこう」
「……それ、先生が言っていいこと?」
「今は君の保護者だ。なら優先すべきことは決まり切っている」
真顔でそう言い切る彼に、私は少しだけ、本当に少しだけ気が緩んだ心地になった。
そうだ。彼はいつもこうだ。
先生は笑わない、怒らない、悲しまない。私たちが何をしようとお構いなしで。
それでも、私たちのことを一番に考えてくれる。
やっぱりそれも、とっくの昔に分かりきっていたことで。
そんなことさえ、私は思考の埒外に置いてしまっていたのだろうか。
「まずは気を落ち着かせる時間と……ゆっくり話せる場所かな。
アツコ、君さえ良ければシャーレへ戻るが、それでいいだろうか」
「……うん、分かった。ごめんね先生、いきなり訳わかんないこと言って」
「構わないさ。君の───」
続きの言葉は、聞こえなかった。
何の音も、予兆もなかった。
ただ、軽い衝撃だけがあった。
先生の体が僅かに揺れて、水がぶち撒かれた音がした。
なんだろう、と思って見上げれば、先生の白いシャツは何故か真っ黒に染まっていて。
違う、そうじゃない、私はこれを見たことがある、暗い中で黒く見えているだけで、これは、
「───」
咽る声と共に先生が何かを吐いて。
よく見れば、胸に空いた穴から向こう側の景色が覗いていて。
何が起きたか分からなくて。
どうしてこんなことになったか分からなくて。
倒れてきた先生の体は軽くて、何も入っていないみたいで、命さえもそこにないような気がして。
「……あ、」
瞳孔が広がる。
脈拍が弱まる。
重なった体の温度が、どんどん冷たくなっていく。
私は、
「あ、ああ、ぁ、ああああああああぁぁぁ!?」
喉が裂けるほどに、絶叫が漏れ出る。
伸ばした手は何処にも届かず、血に濡れそぼった彼の背中に回るだけで。
祈りに意味はなく、奇跡は起こらず。
ただ、喇叭を持つ影が舞い降りるばかりだった。