碧空のキヴォトス-What a beautiful archive- 作:ユーラシアン
1-1
───ああ。
───視界の端であの人が泣いている。
いつもは見ないようにしている。
その光景は、苦い記憶だけを思い起こさせるから。
過去の記憶。
今も鮮やかに、はっきりと思い出せる。
笑っていたあの人。太陽のような。
いつもは目を逸らしていたのに。
今日は、また、思い出してしまった。後悔と共に。
あれは、そう。一年前。
もう二度と戻れない日々の記憶。
過ぎ行く一切に彩られた、暖かな。
記憶。
向けられた笑顔と好意。
記憶。
この毎日が永遠に続くのだと思っていた。
離さなければ、ずっと一緒にいられるのだと。
記憶。
手放してしまったぬくもり。
記憶。
暖かな夢の日々が終わってしまった、あの時。
「───ホシノちゃん」
「私は、あなたを……」
───声が聞こえる。
答えられない。
応えられない。
言葉は出ず、伸ばした手も届きはしない。
きっとあの時、私は間違えてしまったのだ。
差し伸べられた手を振り払い、拒絶の言葉を吐きながら、あなたの想いを否定して。
ただ、私のことを案じてくれたあなたに。
ただ、誰かのために頑張っていたあなたに。
思ってもいないことを、言いたくもない言葉を、投げかけてしまった。
……一年。
気付けば、一年が経っていた。あなたがいなくなって。
あなたという夢を失ってから。一年。
♰♰♰♰♰♰♰
───光差す青空の下。
───砂漠都市、アビドス自治区の端にある廃墟区画。
空。澄み渡る青の色。
まだ、夜の静けさが薄く残る早朝の時間。
ただ一本だけ残るアビドス中央線の構内から降りた都市の一角。
昇り始めた太陽に夜は拭い取られ、陽に照らされて廃墟の影が伸びている。
誰の気配もない。
けれど、そこに2人。瓦礫を乗り越えながら現れた影がある。
男と少女だった。
未だ青年にも見える、白い外套を羽織った男と、黒いマスクをつけた奇妙な少女。
照りつける陽の下で、二人は揃って並び歩きながら。
「アツコ、体調に変わりはないだろうか」
「ん……」
表情少なく問いかけるギーに。
アツコもまた、言葉少なく返答する。
砂漠地帯において気温の変動は著しいものがある。
植生の少なさと日夜を問わない晴天の多さから、夜間は極端に冷え込む代わり、日中には人の居住に適さないほどの高温になる。今この時も、キヴォトスに存在する四季に照らし合わせれば初春の季節だというのに、既に気温は30度を超えていた。普通の人間ならば多く発汗し動作が鈍る温度だ。
肉体の代謝のほとんどを失っているギーは汗をかくということをしないが、それは排熱ができないということでもある。道行く彼は表面上は涼しい顔をしているが、今も微弱に起動している現象数式により体内の熱を逃がさなければ、とっくの昔に倒れていることだろう。
対して、アツコは本当に涼しい顔をしている。マスクによって表情は見えないけれど。
数式の目を通して見ても、確かに彼女の体温は一定の数値を保ったままだ。この茹るような日差しの中で、アツコだけは夜の冷ややかさを保っているのだった。これが銃弾に対する異様な防御力と同じくキヴォトスの住民に共通するものなのか、それとも彼女が身に着けた黒い仮面の防護機能に因るものなのかは知らないが。
二人は歩く。てくてくと、交わす言葉少なく。
彼らに助力を求めた者たちがいる、とある学園を目指して。
◆
彼らがいるのは閑静な郊外の一角だ。だった、と言ったほうが正しいか。
並び立つ民家の多くは倒壊し、半ば以上が砂に埋もれてしまっている。
住民の去った街を指してゴーストタウンと形容することもあるが、これはそんな言葉で言い表せる域を超えていた。なにせ、街としての機能と外観が完全に失われている。区画と建築物の荒廃ぶりだけに着目するならば、かつてギーのいたインガノック下層どころか最下層の地獄と良い勝負かもしれない。
───アビドス高等学校。
キヴォトスに数千ある自治区の一つ。広大な自治領と多くの市民を擁し、繁栄の限りを謳歌したとされる巨大都市。アビドスという名は、キヴォトスにおいて畏敬と畏怖を込めて呼ばれる尊称でもあった。
かつての話だ。今はそうではない。
栄華を極めたはずの大都市は、今、廃墟でしかない。
ある時期を境に頻発し始めた大規模な砂嵐、多くの時間と資金をつぎ込んだ緑化計画の失敗。膨らみ続ける借金で自治区の経営は破綻し、最後の頼みの綱であった大企業《セイント・ネフティス》もまた多くの傘下企業と共にアビドスを去った。もはやアビドスに未来なしと見限った住民や生徒の多くも去り、人口流出に歯止めが効かなくなった自治区の本校には、今や片手の指で足りる程度の在籍生徒を残すばかりである。
たった数人の学校。
そんなアビドス高等学校から届いたのが救援要請の手紙だった。曰く「校舎が土着の犯罪集団に狙われている、物資の支援を求むる」と。未だ発足して日が浅く何の実績もないシャーレに嘆願するほどに、彼らは追い詰められているのか。
手紙が届いたのが一週間前。シャーレの権限により空路での弾薬・食糧等の支援を実施したのが六日前。要請が紙の手紙というアナログな手段だったこと、連邦生徒会のデータベースに記載されていたアビドス生徒会のデータアドレスには返答がなかったことから申請受理の書類と共に空輸を依頼する運びとなった。連邦生徒会嘱託の空運業者からの通信連絡により、これらの支援活動は五日前の段階で完全に満了したことが確認されている。
その後、アビドス自治区からの連絡はない。
話はこれで終わりのはずだった。だが、そうもいかなくなった。
一身上の都合でしかないが、それがためにギーたちは、アビドス高等学校の本校を目指し歩みを進めているのだった。
「先生、その学校にはいつ着くの?」
「そろそろだよ。そう遠くはないはずだ」
冷たい手───体温を失ったギーの右手。
ギーの手を借りながら、アツコは廃墟の道を歩いている。
かつてキヴォトスで最大勢力を誇った都市の名残は伊達ではなかった。一度はぐれてしまえば、都市の中で遭難してしまうと思えてしまうほどに。まだ夜も暗いうちにシャーレを出て、都市の中心に坐す中央線から降りて幾ばくか。シッテムの箱に表示された地図上ではそろそろ本校が見えてくるはずだったが、果たして。
と。
「……ああ、ようやく見えてきたね」
遠目に映る校舎の姿を認め、ギーが呟く。
そこから更に十分ほど進めば、全てが砂に埋もれた都市の中にあっては意外なほどに美観を保った校舎が見えて。校門の前に立つ少女がひとり。
眼鏡をかけた少女。理知の光が垣間見える、利発そうな子。
彼女はギーたちの姿を見ると、訝し気な表情を浮かべて。
「あの、どちらの方でしょうか。今日は来客の予定はなかったはずですが」
「事前連絡もなく申し訳ない。僕は……」
ギーは懐からあらかじめ用意しておいた職員証を呈示し。
「連邦捜査部《シャーレ》の顧問をしている、ギーという者だ。
この学園の生徒会長と話がしたいんだが」
シャーレ、という単語を耳にした途端、不信の表情だった少女の顔は見る見る変化し。
「連邦捜査部、シャーレ……
ああ、その節はどうもありがとうございました!」
「その様子だと、支援物資は滞りなく受領できたようだね」
「はい、食糧も弾薬も底を突く寸前でしたが、あれでどうにか態勢を立て直すことができました。
そのおかげで暴力組織を撃退することもできて……」
そこで少女は、はっとしたような様子で。
「申し訳ありません、まだ名乗ってもいませんでしたね。
私は奥空アヤネといいます。ギー先生……と」
「……秤アツコ。よろしくね、アヤネ」
「はい、よろしくお願いしますね、アツコちゃん」
アヤネと名乗った少女は、素顔を隠したアツコに対しても物怖じすることなく、真っすぐ笑顔を浮かべて握手を交わしていた。アツコも悪い気はしなかったのか、握られた手をぶんぶんと揺られるがままにしている。
その後、アヤネの案内でギーたちは校内へと足を踏み入れることになった。
案内された教室の中には既に数人の少女たちが揃っていて、皆一様に警戒の色を浮かべたが、アヤネの説明を受けるとすぐにそれも霧散した。
そして。
「うへぇ、誰かと思えばシャーレの先生だったんだぁ~。よろしくー」
「ちょっと、ホシノ先輩! しっかり挨拶してよね!
あ、私は黒見セリカよ。アヤネちゃんと同じ一年ね」
「ん、砂狼シロコ。よろしく」
「あはは~みんな元気ですねー」
閑話休題。
かくして生活感のある教室内で少女らと向かい合うことになったギーたちであったが、アビドスの生徒たちは概ね歓迎ムードといった様子だった。既に支援自体は行われていること、そしてアヤネの言によれば学校を襲う急場も凌げていることが大きいのだろう。
「それで、先生は私たち対策委員会に用事があるということでしたが……」
「対策委員会?」
「あ、それはですね。このアビドスを再興するために有志が集った部活のことです」
「うんうん! 全校生徒で構成される、校内唯一の部活なのです!
全校生徒と言っても、私たち五人だけなんですけどね」
その言葉を受けて、ギーは少しだけ黙考し。
「つまり、その対策委員会が生徒会を代理しているような状況か」
「そういうことですね。ちなみに委員長が……」
と、アヤネは机に突っ伏して寝そべっている薄桃色の髪の少女に目を向けて。
「この小鳥遊ホシノ先輩になります。ほら、先輩しゃんとして」
「ふわぁ、そんな急かさないでよー。ゆとりが大事なんだからさ~」
無理やり持ち上げられた小動物のような所作で、少女───小鳥遊ホシノはジタバタと呻いた。
「まあ、ホシノ先輩の言うことも分かると言えば分かるけどね」
「ん、ここ数日はカタカタヘルメット団の襲撃もなくなった」
「やっぱり私たちで本拠地を襲撃したのが効いたんでしょうか。
先生の支援あっての作戦でしたね」
和気藹々とした雰囲気が彼女たちからは醸し出されている。
ここだけを見るならば、平和な世に生きる子供たちの微笑ましい情景だった。
しかしそうではない。彼女たちは厳しい現実を目の前にしている。
アビドス廃校対策委員会。
この放棄されてしまった、多くの人間が未来がないと見限った都市を、再興しようとする者達。
あまりにも険しく、過酷な目標を掲げた少女たちだった。
「ところで先生、今日は何の用?
もしかしてちゃんと物資が届いたかの確認だったー?」
「だったらそれは大丈夫よ。おかげで不良連中をとっちめられたし後数か月は持つもの!
ありがとう先生! この恩は一生忘れないわ!」
「確かにそれも用件の一つだ。けど本題は別にあってね」
ギーは、そこで息をひとつ。
そうして、彼の言う"本題"を切り出した。
「今日は、君たちと取引をしに来た」
───空気が、変わった。
和気藹々とした暖かな空気が、一瞬で凍り付いた。
親愛と歓迎の雰囲気から一変し、ギーに不信と警戒の視線が突き刺さった。
「……なによ、アンタも結局"大人"ってこと?」
絞り出すような声は、黒見セリカと名乗った少女から発せられたものだった。
つい先ほどまではこの恩を忘れないと笑顔で言ってくれていた少女は、今は隠しきれない嫌悪と憤りの色を滲ませて。
「大人と取引なんてするつもりはないわ。さっさと帰って!」
「……ん。セリカ、ちょっと落ち着いて」
「何よ先輩、止める気!?」
「シロコちゃんの言う通りだよ。先生は一度私たちを助けてくれた大人なんだからさ、話を聞くくらいはいいんじゃない?」
「けど、結局は部外者だし! 今まで大人たちが、この学校のこと気にかけてくれたことなんてあった!?」
一気に険悪になった空気に、ギーは言葉なく黙し、アツコはただ不思議そうに見つめるばかりであった。ややあって申し訳なさそうな、けれど少なからぬ警戒の色を滲ませた微妙な表情のアヤネがこちらへ向き合って。
「……すみません、こちらにも色々事情がありまして。良ければ私が話を聞きますので、どうか詳しい内容を説明してもらえないでしょうか」
「ああ、構わない」
そうしてギーは口を開き、"取引"の内容を語り始めた。
「端的に言えば、この学園に収蔵されているはずの情報を提示してもらいたい。
これは僕個人ではなくシャーレ、ひいては連邦生徒会からの正式な依頼と認識してもらって構わない」
「連邦生徒会の? いえ、そもそもこの学校に大それた情報なんてあるようには思えないのですが……それは一体どういう?」
「《ビナー》」
ギーの答えはごく短いもの。
その単語に反応した者は、少なくともギーの目にはひとりもいなかったように見えた。
「この名称に聞き覚えはないだろうか」
「ビナー……いいえ、聞いたこともありません。先輩たちはどうでしょう?」
「んー……私も知らない、と思う」
「全然知らないですね」
と、反応は芳しくない。気にすることなくギーは続ける。
「およそ数十年に渡ってアビドス砂漠で目撃例のある巨影のことだ。
それに関する資料を歴代のアビドス生徒会が纏めていると聞いていたのだが」
「それは……すみません、やっぱり私たちに覚えはないです。
資料室なら手つかずで残っているのですが」
「今使ってるのも別館だからね~。本校舎は埋まっちゃったし。
引っ越しの時に色々紛失したから残ってるか怪しいかも」
「構わない。良ければ、その資料室を調べさせてもらいたいんだが」
「それは良いんだけどさ」
脱力した様子のホシノは、けれど視線だけは鋭く。
「連邦生徒会はそれを知って、どうする気なの?」
「どうもしない。少なくともアビドス自治区に対しては、如何なる内政干渉も行うつもりはない。
ただ……」
そこでギーは一度言葉を切って、ややあって続ける。
「この案件に関しては未だ不明瞭な部分も多いが、下手をすればキヴォトス全域を巻き込みかねない未曾有の危機に発展する危険性もある。それを未然に防ぐため……なんて大層なことではないが、少なくとも調査段階での依頼だよ」
「そっかぁ」
ギーの言葉に納得……したかはともかく、ホシノはそれで引き下がった。
代わりに「それでさ」と言葉を続けて。
「取引ってことは、ちゃんと報酬はあるわけだよね?」
「ああ。依頼金として十億円を用意してある」
その言葉に一瞬、対策委員会のメンバーが色めき立つのが肌で分かった。
とくに一年、セリカとアヤネの反応が顕著だった。二人は期待に目を見開いて、けれどすぐさまそれを隠すように表情を無にする。
「わお、随分と太っ腹だね先生。けどその資料とやらが見つからないことにはどうしようもないよ?」
「もちろん、シャーレとしてもこの自治区の抱える問題を見て見ぬふりはできない。資料の有無に関わらず、僕も他の改善策を探ってみようと思う。微力ではあるが」
「えっ、もしかしてここに残ってくれるんですか?」
アヤネの疑問にギーはただ頷いて答える。次いで、鞄の中から書類を取り出して。
「ついてはこれが契約書になる。サインするかどうかは、君たちに委ねるが」
「……うん、確かに連邦生徒会の正式書類だね。信用していいんじゃないかな~」
ホシノの言葉に、一同はほっとした様子を見せた。企業連の商談ではなく連邦生徒会とシャーレという公的機関の申し出であることが確認されたことが大きいようである。
「ま、これはひとまず置いといて……アヤネちゃん、先生を資料室に案内してあげなよ」
「え。ホシノ先輩、いいんですか?」
「いいっていいって。減るもんじゃないし、どうせ私たちには無用の長物だったしねー」
「ありがとう。あとは……」
ギーは隣に座り、ここでの話を聞いているのかいないのかといった風情だったアツコを見て。
「良ければ、アツコにこの学校を見させてやってはくれないだろうか」
「ん、任された。行こうセリカ」
「ちょ、私も!? いや、アツコちゃんなら別にいいけど……」
と、話はとんとん拍子に進み、ギーとアツコは二手に別れることになった。
対策委員会室を出る際、やはり脱力した様子のホシノは二人に向かってひらひらと手を振り。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
そうして、音もなく扉が閉まった。
◆
「嘘ですね」
「そうだね~」
ギーとアツコに声が漏れ聞こえることがないと確認した後。
後輩に向ける笑顔のまま、ノノミとホシノはそう断言した。
「ノノミちゃんはどのへんで気付いた?」
「私が最初に怪しいと思ったのは……」
これがシャーレの独断専行ではなく連邦生徒会の依頼であるというのが、まず疑わしかった。
ギーの語った諸々の事情。数十年前から目撃されてる正体不明の影、それがもたらす「かもしれない」未曾有の危機。なるほど確かに、それだけを聞けばキヴォトスを管理する連邦生徒会の、特に防衛室あたりが対処すべき問題にも聞こえるが。
「今の連邦生徒会にそんなことしてる余裕はないでしょう」
連邦生徒会長が失踪し、その追跡に持てるリソースの大半を注ぎ込んでいるのが連邦生徒会の現状だ。サンクトゥムタワーへのアクセス権限も失い行政管理すらままならず、その機能が復帰したのがつい最近ともなれば、内部のゴタゴタは相当なものになるだろう。
「SRTの問題もここまで聞こえてくるしね。未曾有の危機って、本来そういうことに当たらせる直属の特殊部隊すらまともに運用できてない有様で、外部の問題にまで首突っ込めるわけないし」
キヴォトスの法執行機関における最高学府、連邦生徒会長直属の特殊部隊運用を目的としたSRT特殊学園は、責任の所在が不明になったというそれだけの理由であっさりと閉鎖されることと相成ってしまった。それだけならまだしも閉校に反対する在籍生徒による公共財占有や逮捕への抵抗、無差別の銃乱射など前代未聞の騒ぎがクロノスによって報道され、その醜態はキヴォトスの多くが知るところとなっている。
「それから……」
元来腰の重たい連邦生徒会が、数十年も放置していた真偽不明の噂に目をつけ、更に財政難にも拘らず十億という大金をポンと出す。これもおかしい。
本来なら防衛室あたりの人員が来て正式に依頼すべき状況でぽっと出の新設組織がたった一人で来た理由は?
噂がどうの未曾有の危機がどうの、そもそも説明が不明瞭すぎて筋道が立っていない。ビナーとやらが脅威として、ならそうと判断した根拠は? 現地のアビドスでさえ何十年も噂でしかない存在を明確な仮想敵としている理由は? 現状は何も説明されていないも同然である。
更に付け加えるならば。
「ホシノ先輩……」
「うん、今も見られてるね」
今この瞬間も。
何者かがこちらを監視し、付け狙っている気配がある。
今のところ敵意や害意は感じないが……多分アヤネとセリカは気付いていないだろう。シロコは感覚的に察知して部屋を出る際にアイコンタクトしてきたが、ホシノたちを信用してこちらに任せた形となった。カタカタヘルメット団のような不良生徒ではないだろうが、恐らくギーたちの来訪に起因するものではあるだろう。
「さて、これらを踏まえてノノミちゃんはどうする?」
ノノミは少しだけ考える素振りを見せて。
「とりあえず、騙されたフリをします」
「どうして?」
「現状こちらに不利益はありません。渡された契約書にも不審な点は見当たりませんし、キヴォトスにおける契約は絶対である以上、外部から来たという先生もそれに縛られます。彼の真意がどうあれ、連邦生徒会名義の依頼としてなら他の自治区の介入を招くこともありませんし、その依頼の達成という形ならアビドス自治区が独力で借金返済を成し遂げたという方便も立ちます」
アビドスに課された最大の苦難であるところの九億にものぼる借金問題は、仮にそれを弁済できる方法があったとしても手段を選ぶ必要があった。大前提として、他の自治区による支援はお断りである。そうしてしまった場合、アビドスは自力で助かったのではなく「誰かに助けてもらった」という立場になってしまう。廃校寸前で力のない現在のアビドスでは、そうした相手からのアクションをコントロールする術がない。そうなれば後は無制限の内政干渉を受けるお飾りの自治区が完成となってしまうわけだ。
その点、ギーの申し出は好都合だった。連邦生徒会の、更にどこの自治区にも所属しないシャーレからの、融資ではなく依頼。これの報酬として十億を手に入れたとしても、アビドス自治区はあくまでシャーレと対等の立場を保つことができる。
ビナーの資料など現在のアビドスにとってはどうでも良く、そこに含まれる真意はともかくとして、借金問題に関して何ら不都合は存在しない。
というノノミの言葉を聞いて、ホシノは笑いながら。
「うん、合格」
「ありがとうございます☆」
強張った気配が解け、二人は常のように弛緩した空気を纏う。
「というわけで、シロコちゃん達には気取られないようにしなきゃだね。
こんな汚い話聞かせたくないし、喜んでるとこに水差したくないもの」
ホシノの言葉には軽薄さとは裏腹の敵愾心があった。
不義への憤り、詭弁への蔑み、偽善への嫌悪。
責任を果たそうとさえしなかった大人への、無条件の不信がそこにはある。
ホシノの表情は変わらない。
けれども、確かに、激情たるものはそこに湛えられているのだった。
♰♰♰♰♰♰♰
「お待たせしました。ここが資料室になります」
案内された一室は、見るも無残に崩れた様相を呈していた。
支柱部分の崩壊と地面の陥没、更には外部から入り込んだ砂の堆積によるものだろう。数十年を放置された廃墟でさえこうはならないだろうと言うほどの有様。小鳥遊ホシノが無用の長物と言っていたのも頷けるものがあった。
───ここから資料を探し出すのか。
文字通り気が遠くなる心地であった。それが役目であり、投げ出すつもりはないとはいえ、これほどとは。
「ありがとう。ここからは僕ひとりで大丈夫だ」
とはいえ泣き言を言っても始まらない。
アヤネを見送り、扉を閉めて時が過ぎるのを待つ。1分、2分、やがて何の音もなくなり、人の気配も完全に消えたことを確認すると、ギーはため息を吐くような口調で。
「……早速、勘付かれたようだ」
『あらあら、それは』
───声が。
ギー以外に誰もいない資料室に、もう一つ声が木霊する。
それは驚いているような、からかっているような、或いは事の次第を面白がっているかのような声音で。老成した情調と好奇心に満ちた幼気を備えた少女の声。
ギーの持つシッテムの箱から響く。
それは、音声通信によるリアルタイムの声。
『先生はお世辞にも腹芸は得手でないにせよ、それは。
随分と勘が鋭いというか、疑り深いというか』
「あまり悪く言うものじゃない。猜疑が強くなるのはこの境遇では当然のことだ。それに」
ギーは少なからぬ自己嫌悪を表情に滲ませて。
「非は明らかに僕の側にある。彼女たちは被害者だ。今までも、これからも」
『過剰に卑下することもないと思いますよ、先生。
私たちは正しいことを……彼女たちのためになることをしているのですから』
それは理解できる。客観的に見て、ギーたちは対策委員会にとって正しい、というよりは只管に都合良く動いている。
彼女たちが感じ取った違和感は真実だ。ビナー捜索の依頼は連邦生徒会によるものではない。
だがこれを明らかにした場合、中間にシャーレを挟んだとしても尚、対策委員会にとっては不都合な結果となるだろう。あらゆる自治区に中立なシャーレや連邦生徒会ではなく「他の自治区」の全面的な協力によって廃校の危機を脱したとなれば、自治区間におけるアビドスのパワーバランスは間違いなく崩壊する。それでは借金を返し終えたとしても彼女らが望む平穏を得ることはできない。
あらゆる感情を度外視して正否だけを問うならば、ギーの行動は正しい。
それは間違いなかった。けれど。
「正しさを免罪符に説明責任を放棄し、積むべき信頼を損なっているのも事実だ。
小鳥遊ホシノ……彼女には悪いことをした。せめて交わした契約を全うしたくはあるが」
ホシノが一瞬だけ向けた、隠しきれない猜疑の目を思い出す。
ヘテロクロミア。青色の左目と、猫のような黄金色の右目。
かつて異形都市にいた、今はもうどこにもいない、黒猫と同じ瞳。
───黄金瞳が湛える、射抜くような視線。
『とはいえ心配はいらないでしょう。この状況下において瑕疵を指摘し契約を反故にするのは愚策であることは、少し考えれば誰でも理解できることです。私たちの話の矛盾に気付ける知性を持つなら尚のこと、そうでしょう?』
「誰もが君のように強く在れるわけじゃないのは、君自身がよく知っているはずだ」
そうしてギーは画面越しの向こうに言葉を投げかける。
「そうだろう、ヒマリ」
『……フフ』
ビナーの、ひいてはデカグラマトンなる存在の調査依頼を託した張本人は、ただ愉快気に笑うばかりであった。