碧空のキヴォトス-What a beautiful archive-   作:ユーラシアン

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 確かに、それを予期する声はあったように思う。

 

 異常発達したキヴォトスの電子機関文明は都市全土を叡智の光で以て照らし出して、あらゆる幻想、あらゆる空想を夜の暗がりへと追いやった。人と人とを繋ぎ世界そのものを覆う巨大な情報伝達システムの構築。敵対的生成ネットワークの人工知能アルゴリズムを筆頭とした、人の手を離れて完全独立した知性の創造。内燃機関を発展させた人類はやがて母なる地を離れ、いずれは星の海にさえ手をかけてしまうのだと。

 誰もが信じ、確信していた。それは決して夢物語ではなく、近い未来にいずれ必ず実現すると。

 それは神ならぬ人が成し遂げた奇跡。造物主たる神の思惑さえ超越した進化と歴史。

 だから、人ならぬ被造物が人を超えてしまう奇跡もまた、世界には存在し得るのだろう。

 

 その日、彼らはミレニアム自治区の情報統合機関室にいた。

 文明華やかなるキヴォトスにおいても抜きん出た科学技術を有するミレニアムは、常態として多くのシステムエンジニア、プログラマー、データサイエンティストを抱える強壮な情報化社会の縮図とも言うべき学園だった。中でも更に基幹運営を担う者たちは選りすぐりの優秀な人材ばかりである。少なからぬ自負と誇り、そして都市インフラを支える責任感を彼らは持っていた。

 その全ては唐突に砕かれた。

 

 先触れは無数のアラートだった。

 耳をつんざく警報と共に赤色灯が視界を真っ赤に染め上げた。

 原因不明のアラート、怒号と困惑の声の只中に。

 

「窓に」

 

 叫ぶ声が聞こえた。

 オペレーター画面を注視していたミレニアム生は、何かを映す画面を必死に指さして。

 何かを叫び続けていた。

 

「窓に。ああ、窓に!」

 

 そして、全員が"それ"を見た。

 映し出されるもの。

 明確な意思を以て名乗られるもの。

 ミレニアムの特殊回線を使った閉鎖空間にさえ侵入を果たす、電子の怪物。

 音にならない聖なる十の言葉。

 ───《DECAGRAMMATON》なるもの。

 

「神さま」

 

 ぽつりと、誰かが、呟いていた。

 明哲なりしミレニアム、鬼を横道で謀り神をも獲り籠めんとする叡智の徒が、まさか神なる虚構を幻視するなどと!

 それでも彼らは、確かに超常的な概念を意識した。そうしてしまうのに十分な光景だった。

 

「チク・タク……」

 

 呆然と、自然と。

 そう口にしていたのは一体誰だったのだろう。

 

 ───ミレニアム通信ユニット《ハブ》の陥落。

 

 ───地中から延ばされる機械の触手。

 

 ───視界を覆う光、光、光。

 

 ───広域の電波障害、警報、次々降ろされる隔壁、逃げ惑う人の群れ。

 

 ───悲鳴。懇願。嗚咽。

 

 ───チク・タク。チク・タク。

 

 ───誰かがどこかで嗤う声。

 

 ───耳に届く警句と福音。

 

 ───刻印された神聖文字。

 

 ───巨大な穴だけ残して消えた、ハブの跡地。

 

 ───神秘(Mystery)恐怖(Terror)知性(Logos)激情(Pathos)

 

 その時から現在に至るまでの詳細な記録は残されていない。

 ミレニアム自治区を襲った15時間26分38秒にも渡る大規模停電において、侵入ログも何もかもが削除された後には、ただ物理的な破壊の痕跡だけが刻み込まれているのみであった。

 

「喝采せよ」

 

 誰かが言った。

 讃えることなど、何ひとつ、あるはずないのに。

 

 

 

 

 

   ♰♰♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

『以上の事実を以て私たちの方針は決定されました。

 神ならぬ身で神の法則性を再演し、以て神と成す誇大妄想狂の自律分析型AI……

 尋常ならざる事態、まさに特異現象への対処に私は乗り出しました。

 そう、このミレニアムに咲く一輪の花、世に稀なる天才ハッカーである私が』

 

 資料を探す。

 棚上に乱雑に置かれた紙束を取り出し、机の上に並べる。同時に舞い上がる大量の埃が、この書類の放置されてきた時間を表しているようだった。

 

『元来、特異現象捜査部とは真っ当な部活ではありません。

 科学的に解明し難い現象の追跡・調査など、まず真っ当な思考の下で運用されるような組織理念でないことは先生も知るところでしょうが、そこは秘密主義のビッグシスター。ドブ川のように濁った人格に相応しいヘドロが如き思考回路は、私はおろか常人の理解の外にあると言っていいでしょう』

 

 資料探しは思った以上に難航していた。

 目録はなく種類も時期もバラバラな書類が雑多に積み重ねられた有様は、まさに混沌と言っていい様相である。何万何十万とある紙の山を、文字通り一枚ずつ手作業で選り分けていくのは時短のしようがない地道な作業だった。

 

『対する私は、言うなれば万年雪の結晶……人も通わぬ霊峰に降り積もる混じり気のない白雪を押し固めれば、珪砂から生み出される水晶の如く、この病弱天才美少女ハッカーたる私となるのかもしれません』

 

 新しい書類は上に積まれているだろう、という見通しは甘かったらしい。なにせ積み場だけで十を超えることをギーは確認していた。

 これは本格的に人手が必要かもしれないな、と考えて。

 

『ところで、先生は何を探しているのですか?』

「アビドス生徒会による資金繰りの記録」

 

 映像通信の向こう側で、少女の表情が呆れの形に変化するのが分かった。

 

『……見るからに余計な作業をしているのでまさかとは思いましたが。

 先生は本当に対策委員会に協力するつもりなのですね』

「嘘は言わないさ。出来得る限りにおいてだが」

 

 ギーの返答も予想できていたと言いたげに、少女───明星ヒマリはこれ見よがしのため息を吐いた。

 

 明星ヒマリ。

 彼女の名を知る者は多い。

 その業績と実績は、多くのタブロイド紙や学術誌で幅広く伝えられている。

 

 数多の才媛が集うミレニアムにあって、《全知》の学位を戴いた彼女。

 キヴォトス全土の不可思議、いずれは千年難題さえも解き明かすと言われる彼女。

 碩学ならぬ身で"天才"と呼ばれる彼女。

 この世における叡智の体現を担うに足るところであろう彼女は、しかし稀代の聡明さとは裏腹の表情を浮かべていた。

 端的に言えば、拗ねていた。

 

「……何か不満だったかな?」

『不満などと。いいえ、そんなことはありませんとも。

 先生がその手の頼み事を断れない純朴な方であることはとうに把握しています。

 ええ、そうでなければシャーレの顧問など引き受けるはずもありませんから』

 

 自分の置かれた立場は、ヒマリにはそのように見えているらしい。

 

『ですが線引きは明確に行わなければなりません。

 つまり───どこまで協力するのか』

「君は合理主義者だが、こういった事情には理解ある方だと思っていた」

『私はビッグシスターとは違い浪漫を解する人間ですが、夢と誇大妄想の区別は付けます』

「彼女たちの目標は妄想に等しいものであると?」

『残念ながら』

 

 ヒマリの言葉にはある種の冷ややかさがあった。

 実験結果の数値を眺めるような、透徹した思考。

 

『廃校対策委員会の目的はアビドス自治区の復興ですが、そもそもの前提として"何を以て復興と定義するか"を決めなければなりません。その観点において、彼女たちの抱える問題は借金に留まりません。人口の流出、インフラの老朽化、違法滞在者の増加と治安の悪化、急速な砂漠化の進行、定期的に吹き荒れる砂嵐。九億に及ぶ借金返済はゴールではなく、むしろスタートラインに等しい』

「……」

『彼女たちは自らを対策委員会と名付けていますが、これは最早対策ではなく事業です。

 何万という人間が一丸となって取り組み、何十年という時間をかけて行われる一大事業。

 かつて隆盛を極めたアビドス生徒会でも不可能だったことを、まさか数人の生徒だけで行うと?』

 

 ヒマリは笑わなかった。彼女は他人の努力を決して嘲笑うことはない。たとえそれが徒労に等しいことであっても。

 

『先生。シャーレの顧問であるとか、大人としての責任云々はこの際無視して構いません。

 その上で聞きます。あなたは、どこまで、彼女たちに付き合うつもりですか?』

「……そうだな。強いて言うならば」

 

 そしてギーは、遊びの混ざらない真剣な顔つきで。

 

「彼女たちが全てを諦めるまでだ」

 

 

 

 

 

 

「ちょっと、なんでみんながここにいるのよ!?」

 

 太陽が真上に位置する昼時のこと。

 アビドス自治区郊外の一角、柴関ラーメンの店内に頓狂な声が木霊した。

 

「いやぁ、セリカちゃんのバイト先と言ったらやっぱここしかないじゃない?

 アツコちゃんの案内ついでに、どうせなら行ってみようかーって」

「ほ、ホシノ先輩かっ……!! ううっ……!」

 

 屈託なく笑う一行を前に気恥ずかしげな表情で言い淀むセリカは、先程までの制服姿とは違い、白の和帽子と前掛けを身に着け伝票を片手に持った服装をしていた。

 個人経営店「柴関ラーメン」のアルバイト、それが今のセリカの身分である。

 このバイトのことを隠していたわけでも恥ずかしく思っていたわけでもないのだが、それでも知り合いに大挙して仕事場にやってこられると、どうにも形容しがたい感情が沸き上がるのだった。

 

「大丈夫、ちゃんと似合ってるよ」

「あうぅ、そういうフォローはいらないかも……

 でもありがとね、アツコちゃん」

 

 恥ずかしいやら驚いたやらちょっとした不満やら色々な感情が混ざり合った表情で、それでも相手を気遣った返答ができるのは生来の生真面目さと善性故のことか。

 これがホシノやノノミが揶揄い半分で言ったことなら顔を真っ赤にして食ってかかったかもしれないが、何しろ相手は全く邪気の見えないアツコなのだから始末に負えない。似合ってる、という言葉も本心からの誉め言葉だろう。なんだか毒気が抜かれる気分であった。

 

「アビドスの生徒さん、と新顔の子もいるな。セリカちゃん、おしゃべりも良いが注文を受けてくれな」

「あ、うう……はい、大将。それでは、広い席にご案内します……こちらへどうぞ……」

 

 若干顔を引き攣らせつつ、それでも接客精神が勝ったセリカが五人を案内する。

 ホシノ、アヤネ、シロコ、ノノミと座り、最後にアツコが残って。

 

「はい、アツコちゃんはこっちへ! 私の隣、空いてますよー」

「……ん、私の隣も空いてる」

「うん……?」

 

 言葉を受け、アツコはシロコとその向かい側の席とで視線を漂わせると、ややあってシロコの隣にちょこんと着席した。

 

「ふむ……」

「あらら、フラれちゃいました」

「狭すぎ! シロコ先輩、そんなにくっついてたらアツコちゃん窮屈でしょ! もっとこっち寄って!」

 

 なんだかんだあって。

 全員それぞれが好みのラーメンを注文して幾ばくか。各々の注文品に箸を付けると、自然と会話に花を咲かせることになった。

 

「いやぁ、良い食べっぷりだったねぇアツコちゃん」

 

 などと、テーブルにぐったり寝そべってホシノが言う。

 

「そうかな?」

「そだよ~。アツコちゃんお姫様みたいに細いからさ、おじさんちょっと心配だったんだよねぇ」

「あはは……食事の時もガスマスク着用なのは驚きましたけどね……」

 

 口元の開閉ギミックと周囲に汚れひとつ付けずラーメンを完食してみせたアツコに、やや困惑の混じった表情を向けるアヤネ。

 ちなみにアツコが注文したのはチャーシュー麺大盛りである。

 

「でもさ、アツコちゃんが良い子でホント良かったよ。だって先生と一緒に来たんだもん、おじさん最初は連邦生徒会の手先だとばっかり思っちゃった」

「ホシノ先輩、そんなこと考えてたんですか……」

「私は新手のヘルメット団かなって」

「シロコ先輩!?」

 

 和気藹々と盛り上がりながら、更に話は流れて。

 

「でさ。アツコちゃんから見たら、先生ってどんな人なのかな?」

「先生?」

「そ。ちなみにおじさんとしては、まあ悪くはないかな~」

「右に同じです☆」

「ん……私は嫌いじゃない」

「えっと、私は良い人だと思いますよ?」

「みんな甘いのね」

 

 仕事にひと段落ついたのか、額の汗を拭いながらセリカが5人席に寄ってくる。

 ふん、と何処か拗ねたような口調で。

 

「私は認めないわよ、あんな奴。だって見るからに胡散臭いじゃない」

「せ、セリカちゃん、そこまで言うことは……」

「アヤネちゃんは優しいから騙されるのよ!

 だって考えてよ。あんな無表情で、青白くて、愛想も取り付く島もない奴なんて、明らかにフツーの人じゃないでしょ」

 

 うわーヘンケンだー、というホシノの声も無視してセリカは続ける。

 

「そもそも大人だって言うけど、年だって私たちとそんな離れてないんじゃない?

 あんな若くてシャーレの先生なんて、やっぱり胡散臭いわ」

「ま、確かに若くは見えるよねー」

 

 セリカの言う通り、ギーと名乗った先生の年の頃は、見た感じでは20かそこらといった具合である。一企業の重鎮やベテランどころか中間管理職さえ下回り、新人社員とどっこいといったところだ。

 そんな若造が超法規的特権を与えられた特記存在? と言われたら、確かに違和感を覚えなくもないが。

 

「とまぁこんな感じでセリカちゃんがプリプリしてるからさ~。やっぱりここは一番付き合いが長いアツコちゃんに聞くのが一番かなーって」

「だぁれがプリプリしてるですってー!」

「ん、ステイ。セリカステイ」

「……」

 

 そうして五人分の視線を受けて、アツコはややあって口を開き。

 

「……よく、分かんない」

「分からない?」

「うん」

 

 ちょっと困ったような口調。

 

「ただ……」

「ただ?」

「先生の隣は、呼吸が楽」

「なにそれ?」

 

 結局よく分からなかった。

 秤アツコ、それは独特な感性を持つ少女。そういえばどことなくシロコちゃんに似てるな、とホシノは思う。ちょうど隣り合って座ってると猶更に、言葉少なくちょっと小首を傾げたりするところとか特に。

 

「ねえホシノ、私からも聞いていい?」

「んー? どうぞどうぞ何でも聞いてー」

「どうしてあなた達は、復興をあきらめなかったの?」

 

 しん、と場が静まり返った。

 コップの中で、溶けた氷がからん、と軽い音を立てた。

 

「……どうしてかなー」

 

 十秒か、二十秒か。

 それくらいの時間を置いて、最初に口火を切ったのはホシノだった。

 いつも通りのだらけた姿勢で、けれどどこか真剣な様子で、彼女は言う。

 

「きっと色々理由はあるよ。アビドスが好きとか、何となく嫌だーとか、なんか悔しいとかさ。

 でもそういうのを突き詰めると、結局は楽しかったからじゃないかなぁ」

「楽しい?」

「うん、みんなでいることが」

 

 アツコが皆を見渡すと、彼女たちは肯定するように頷いていた。

 

「……そうですね。対策委員会のみんなと一緒にいるのは楽しい、そう思います」

「はい、みんな大好きです☆」

「以下同文。私は先輩たちに付いていくだけ」

「な、なによみんなして恥ずかしいこと言っちゃって!」

 

 口々に言うことは違えど、浮かべる表情は皆同じだった。

 笑顔。

 心から対策委員会という居場所を愛しているという、そんな表情。

 

「だからさ、物凄い借金とか復興がどうたらって結構変わったことやってるのはそうなんだけど。

 私たちはきっと、そんな特別でも何でもないと思うんだよね。そこらへんにいる普通の女の子って奴さ」

「……うん、そっか」

「そうそう。アツコちゃんもムズカシイことは抜きにして、色々気楽に楽しんじゃおうよ。

 乙女よ、青春を謳歌せよ。いや~若いって良いよねぇ」

「ホシノ先輩、私たちと大して年違わないじゃない……」

 

 それは些細な、ありふれたお喋りの風景。

 少しだけ。ほんの少しだけ、距離の縮まった一幕のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ところで、みんなお金は大丈夫なの?

 またノノミ先輩に奢ってもらうつもり?」

「? ううん。私、先生に昼食代貰ってきてるよ」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 

 

 資料整理に区切りをつけた時には、外は既に夕焼けの色に染まっていた。

 ギーは事前に伝えられていた、個室として割り振られた宿直室へ足を運ぶ。この近辺には既に宿泊施設はなく、アビドスの面々は校舎に隣接した学生寮に住んでいたことから、急遽使わないベッドや寝具を引っ張り出してくれたとのことだった。日を跨いだら改めて礼を言わなければ、と考えながら扉を開き。

 

「うん。おかえり、先生」

「アツコ、戻っていたのか」

 

 等間隔に並べられた机のひとつに腰かけて、開いた本に目を落とすアツコの姿があった。

 控えめな所作。蚕が桑の葉を齧るようにして、一ページ、一ページと静かに指先で紙をめくっている。

 タイトルを見れば、そこには。

 

「……誠実なるメイド・リザードマン?」

「うん、アヤネから借りたんだ」

「……面白いかい?」

「なかなか」

 

 タイトルから内容を想像することは難しかったが、楽しんでいるようなら何よりだ。

 

「それと、これ。お昼の領収書」

「ああ、ありがとう」

 

 と受け取り、一応中身を見てみる。「ひとり分多い……いや、そういうこともあるか」などと小さく呟き、それを横目にアツコは栞を挟んでぱたんと本を畳み、一言。

 

「それじゃ先生、今日もよろしく」

「ああ」

 

 そして始まるのは、ささやかなお勉強会である。

 アツコがシャーレにやってきて以来毎日行っている、日課のようなものだった。

 机の上に端末を置き、液晶ディスプレイの仄かな明かりに照らされる、そんな情景。

 

「……さて」

 

 彼女が問題文を読み終わったタイミングを見計らって、回答を促してみる。

 しかしアツコは困ったようにして。

 

「分かんない」

「……どのあたりが?」

「先生は意地悪だね。分からないところが分かんないよ」

 

 その言い回しに、内心なるほどと思いながら、ギーはメモ用紙を移動させて。

 

「ここで使うのはさっき教えた二つ目の公式だね。問題文を読み解けばどの値をどの箇所に当てはめればいいか分かる。例えばこの行だけど……」

「あ、分かった。もう大丈夫」

 

 さわりの部分だけまず解説しようとした途端、アツコは説明が終わるより前にすぐさま答えを導き出してみせた。

 彼女に勉強を教えるようになって分かったことだが、アツコはとても頭が良い。

 特に単純な計算問題に関しては、脳髄の一部を数秘機関に置き換えているんじゃないか? と疑いたくなるほどだった。にも拘らず、文章題や応用問題となると途端に躓いてしまう。そもそも問題を解き慣れていないのだ。

 

「これまでは誰から教えを?」

「? 教科書ならたくさんあったよ」

 

 そういうことではないのだが、ギーはそれ以上踏み込むことはしなかった。

 彼女の傍には、分からないことを聞ける誰かはいなかったのか。

 彼女の生育環境、所属していた自治区への疑念は未だに晴れることがない。

 

「……っと、すまない」

 

 勉強用の端末とは別に、シッテムの箱から着信音が鳴る。音声通信の音だ。

 ギーは早速通話に出ると、二言三言と言葉を交わす。

 

「やあ、こんばんは……早速か。うん……うん、分かった。明日そちらに伺ってもいいかな。ああ……問題ないようならひとりで構わない。他のメンバーはいつも通りに……ああ、よろしく頼む」

 

 通話を切り視線を戻すと、そこにはじっとこちらに視線を向けるアツコの顔。

 

「先生、誰と電話?」

「ちょっとね。なんでもないから大丈夫……というわけではないが」

 

 ギーはふと考え込むようにして。

 

「セリカには、あまり遅くならないように言い含めておくか」

「?」

 

 アビドス来訪の一日目の夜は、そのようにして更けていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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